太閤臨終 フランシスコ・パシオ師報告書

慶長3年(1598年)、国王(太閤様)は伏見城に滞在していた六月の終わりに赤痢を患い、良くあることですが、時ならず胃痛をうったえるようになり、当初は生命の危険など全く懸念されなかったのですが、八月五日に病状は悪化して生存は絶望となるに至りました。

だが太閤様は、この時に及んでも、まるで健康体であるかのように、不屈の剛毅と異常な賢明さで、従来、万事においてそうであったのですが、身辺のことを処理し始め、そして自分亡き後、六歳になる息子(秀頼)を王国の後継者として残す方法について考えを纏め上げました。

 

彼は、関東の大名で八カ国を領有し、日本中で最も有力、かつ戦においては極めて勇敢な武将であり、貴顕の生まれで民衆にも最も信頼されている家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えばできる人物であることに思いをいたし、この大名に非常な好意を示して自分と固い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれないようにしました。

即ち太閤様は、居並ぶ主だった諸侯の前で、家康を傍らに召して次のように語りましたー「予は死んでいくが、所詮死は避けられぬ事ゆえ、これを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは、まだ王国を統治できないない息子を残していくことだ。そこで長らく思いめぐらした挙句、息子自らが王国を支配するにふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて安全を期する」

 

「その任に当たるものは、けん制ともに最も抜群のものであらねばならぬが、予は貴殿を差し置いて他にいかなる適任者ありとは思われぬ。それゆえ、予は息子と共に、日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、必ずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。

その際、この盟約がいっそう鞏固なものとなり、かつ日本人が挙げていっそう慶賀してくれるよう、次のように取り計らいたー貴殿は、嗣子(しし:秀忠)により、ようやく二歳を数える孫娘(千姫:1597生)を得ておられるが、同女を予の息子と婚約させることによってともに縁を結ぼうではないか。かくて貴殿(家康)は一方の祖父・他方の父となり得よう」 

この言葉を聞いて家康は落涙を禁じえず、太閤様の死期が迫っているのに胸いっぱいになり、大いなる悲しみに閉ざされる一方、以上の言葉に示されているように、太閤様の自らに対する恩恵がどれ程深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思いめぐらしたからでした。

ですが、次のように言うものがいないわけでもありませんでした。ー「家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで非常に恐れていた太閤様もついに死ぬのだと思い、歓喜の涙を流したのだ。彼は、とりわけ、いとも久しく熱望していたように、今や国家を支配する権限を掌中に収めたのも同然となったことに落涙せざるを得なかったのだ」と。

 

「拙者は殿の先君信長様が亡くなられたころには三河の一国しか領しておりませんでした。しかるに殿が日本国を統治し始められて以後、更に三か国を加えられ、その後久しからずして、殿の無上の恩恵と厚遇によってその四か国は、現在のように関東八カ国の所領に変えて頂きました。

拙者に対する恩恵は以上にとどまらず、絶えずはなはだ多大の贈物を賜りました。殿は今後、拙者が生命をなげうってもご子息に対してあらゆる恭順方向を尽くすようにと、拙者ならびに拙者の子孫を解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。

 

拙者は当初、殿がご意向を示された折、拙者は粉骨砕身、もって皇子(秀頼)へ主権が安泰たる用、その後見人として励もうと決心しておりましたが、今や殿は、国王(秀頼)御身、ならびに国家の命運をも拙者の忠誠に委ねられ、また、かたじけなくも殿の御子息を拙者の息子(秀忠)の婿としてくださいます。 

 拙者にとり、これにすぐる恩恵はいまだかつなきところでございます。かくて拙者は大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりまず、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除きもって殿のご要望なり、ご用命を達成いたすでありましょうと。このように家康が答えると、太閤様の面前へ嫁(家康の孫娘)が連れてこられて結婚式が挙行されました。

太閤様はその後、四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に五番目の奉行として浅野(長政)弾正を加え、ついで太閤様は奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう配慮すべきこと、すべての大名や廷臣を現職に留め、自分楽譜下法律を何ら変革することなきようにと命じました。

そして太閤様は、領主たちの不和がとりわけ国家にとって不都合を生じ得るにかんがみて、彼らがそれぞれ息子や娘たちを婚姻関係で結ぶことによって、いっそう団結することを希望し、また何某の娘に養子をとらせ、同様に他の諸侯とも縁を組み、諸侯が大いにその婚姻を慶祝するようにしました。

 

太閤様は、これらすべての企てが功を奏するためには、大阪城の普請が完成し、かつ朝鮮・日本両国間に善かれ悪しかれ和平が締結されて全諸侯が朝鮮から帰国するまでは自分の死が長らく秘されるがよく、かくて自分の息子の将来はいいっそう安泰になるであろうと考えたのでした。

最後に太閤様は、自らの名を後世に伝えることを望み、まるでデウスのように崇められることを希望して、日本全土で通常行われるように遺体を焼却することなく、入念にしつらえた棺に収め、それを城内の遊園地に安置するようにと命じました。

 

こうしたことが進行していた折、ジョアン・ロドゥリーゲス師と数名のポルトガル人は、最近長崎に入港したポルトガル船の名をもって国王(太閤様)に贈り物を献上するために伏見を訪問しました。

1598年9月4日(慶長3年8月3日)に、伏見城で単身呼ばれたロドリゲスは、病床の秀吉を見舞い、翌日にも呼ばれ、秀吉はロドリゲスの訪問を喜び、最後になろうことを言い、ロドリゲスは死期の迫った秀吉にキリスト教の教義を説こうとするが、秀吉は答えず、話を変えた。

日本の奉行たちは太閤様が亡くなる慶長3年(1598)と 、伏見にいる工匠ならびに住民に対して、国王(太閤様)が存命であるか薨去されたか、病状がよいか悪いかについては、第一に口外せぬと誓うように、第二に、この点、正直に約束を履行せぬものは何びとも家の中に入れぬと誓うように命じた。

このような次第で、今に至るまで国内は至極平穏であり、大坂城で始まった普請は進捗しておりますし、諸大名に与えられた用地では、数か所の丘が平地に変えられており、朝鮮国へも、家康と奉行たちから二名の使者が派遣されました。

 

かくて前後七か年に渡って朝鮮の戦役には、ついに終止符が打たれることになったのですが、この戦役は、キリシタンたちの大いなる労苦と出費のうちに継続してきたのですが、キリシタンの諸侯にとっては、自領を安全に保持できるに至ったという有利な面もありました。

デウスは全き善なる方ですから、聖なる御名の栄光のためにかくも長く続いた迫害を終結せしめたまい、教会の名声を減じるどころか、信徒と未信徒を問わず一同のもとにおいて、一層増大するよう取りはかろうたのであります。

 

また、尊師におかれては、ミサ聖祭、ならびにデウスのもとでの祈祷によって、われわれをご援助くだされ、同時にここ日本では新たに働き手(宣教師)が著しく不足していることをご記憶くださるようお願い申し上げます。

最後に我々が洞察するところ、他の諸地方、ことに下地方(九州)では、すべて収穫する準備が整っていますので、「諸国ははや黄ばみて刈り入れ時になれり」と言えようかと存じ、それゆえわたしたちは聖なる主(デウス)を全く信頼しています。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢(辞世の句)

 

豊臣 秀吉(1537-1598)は、三英傑の一人で、なるべくしてなった天下人なのだ。

フロイスもまた、「優秀な武将で、戦闘に熟練していたが、気品にかけていた」と。

さらに、「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺し、抜け目なき策略家であった」

まさにぼろ糞で、「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長けていた」

 

山崎の戦い(1582:秀吉46歳)から天下人の道を歩み始めるってわけなんだけどね。

その躓きの一つに、バテレン追放令にもかかわらず、高山右近が棄教しなかったこと。

おそらく秀吉の中でも、子飼いではないが、とても(誰からも)愛された人物なのだ。

そして二つ目が1591年の、弟秀長死没(2月15日)と千利休の切腹(2月28日)かも。

 

というのも、秀吉は宗麟をもてなし「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」と述べている。

もちろん、千利休と秀長のことだが、この両輪がいっぺんに外されたら、家臣も混乱す。

しかしこれらのことは年齢的にも、55歳の余裕があったかもしれず、朝鮮出兵開始へ!

この文禄の役(1592年4月12日)が三番目の躓きとなるのも、大政所死没 (8月29日)

 

この臨終に、肥前名護屋に滞在中の秀吉(56歳)は間に合わず、卒倒したというのだ。

三回忌に、「なき人の形見の髪を手に触れて包むに余る涙悲しも」という句を残した。

秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず(1595:秀吉59歳)!

再度の朝鮮出兵開始(慶長の役:1597)がはじまるが、母なき後は秀頼しかなかった。

 

【追伸】

秀吉に関して言えば、大政所の死がよほどのショックだったに違いなく、1591年に情緒不安定に陥り、1592年には心神喪失し、93年に秀頼誕生がなければ、ただの介護老人になっていたことであろう。