猫におんぶ

猫に、おんぶに抱っこされながら、♪今以上 それ以上 愛されるのに♪とばかり、渡り歩いている。

ドナルド・キーン】(1922-2019)

鬼怒鳴門氏はここで、日・英文学の共通性と差異を述べているのだが、先進文化の語彙はもちん、その文学的伝統を大量に取り入れることで、どちらの言語も格段に豊かになった。

英国にはフランス語であり、日本には中国語なのだが、英国はさておき、日本は文字のもたなった国であり、漢字が中国からもたらされたのだ。

 

そんな国にも歴史があり、言葉はあったであろうが、文字が伝わるまでには相当な年代が必要であった。

つまり、孤立した言語である日本語族は、『日本書紀』によれば第15代応神天皇(在位:270-310)まで待たねばならないのだ。

 

極端に言えば、日本語の語彙が世界に向けて発信できたのは、現代においてのみであり、島国の文化は変遷しつつも、現代的な表現での民族性は残しているように思われる。

たしかに、それぞれの時代における貿易において、文化価値は生じていたではあろうが、言語価値に関しては、肩を並べるべくもない。

 

ただ、鬼(キーン)氏が言うように、日本文学が“暗黒の時代”を経験しなかったことには一理あると思うが、中世ヨーロッパは別にして、イギリス文学にても大きな違いがあったのであろうか?

 

まさかその差異が、西洋になじみ深い叙事詩や物語詩は日本になく、、日記や紀行文、さらには西洋にはない『随筆』と言うジャンルがあるというのだが、『パンセ』や『エセー』とは意味が違うことを言っているのであろうか? 

ルイス・フロイス】(1532年 - 1597年)

ポルトガルのカトリック司祭で、イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見し、戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記した。

1548年、16歳でイエズス会に入会し、10月には当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。

同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会い、このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。

1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。

1563年、31歳で横瀬浦(当時大村領、大村家の貿易港、現在の長崎県西海市北部の港)に上陸し、大村純忠のもと、念願だった日本での布教活動を開始。

その後、純忠と後藤貴明の争いにより、横瀬浦が破壊されたので平戸に近い度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながら同僚のフェルナンデス修道士から難解な日本語および日本の風習を学んでいた。

1564年、トルレスの命により度島に向かったアルメイダ修道士から、フロイスは上洛の伝達を告げられ、平戸から京都に向かった。

1565年1月31日に京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。

しかし保護者と頼んだ将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、三好党らによって京都を追われ、摂津国・堺に避難した。

翌1566年にヴィレラが九州に行ってからは、京都地区の布教責任者となり、 1569年、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。

既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。

その著作において信長は、異教徒ながら終始好意的に描かれており、フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。 その後は九州において活躍していたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。

1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。

以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。