フロイス『日本史3』

1551年にフランシスコ・ザビエルが都に至りながら空しく平戸に帰った後、都での布教のため比叡山に派遣されたのが司祭ガスパル・ヴィレラである。

日本人修道士ロレンソらは、公方様=将軍足利義輝から允許状を得ることに成功するが、法華宗など仏教勢力の抵抗にあい逆に都を追われてしまう。

 

1563年7月に来日したフロイスは、西彼杵(にしそのぎ)半島の横瀬浦において日本に第一歩を印す。

12月、(長崎県平戸市)に渡り、シャビエルの同行者であったフェルナンデスから日本語および風習・習慣などを学ぶ。

 

そして156411月、平戸を出発したフロイスは、翌年2月、京都に到着し、京畿の諸侯と親交するとともに、義輝を年初の挨拶に訪れる。

さらにその見聞は、三十三間堂・東福寺・金閣寺・東寺など巨大で豪華な建築で飾られた、都の魅力をも記されることになる。

 

さらに、堺の修道士アルメイダが実見した奈良の興福寺・東大寺の偉容に及び、また堺の日比屋了珪の娘、高山右近の父ダリオの信仰が感動的に語られる。

ところが6月、松永久秀、三好義継らの陰謀により、義輝が弑逆(永禄の変)され、京都を追われることになる。

第1章

1551年(天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、ザビエル(1505-1552)一行は念願の京に到着し、了珪の紹介で、小西隆佐(りゅうさ:?-1592:小西行長の父)の歓待を受けた。

全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願したがかなわず、京での滞在をあきらめたザビエルは山口を経て1551年3月、平戸に戻り、再度山口に赴き、大内義隆に再謁見(えっけん)。

第2章

1551年(11月15日)にザビエルはインド目指して出発し、コスメ・デ・トルレス(1510-1570)は日本布教の責任を託される。

トルレスは日本人ロレンソ了斎(1526-1592)などの協力者を得て地道な宣教を続け、そのロレンソ修道士にベルナベ(多武峰の高僧センヨウ)を伴わせ比叡山の大学へ派遣する。

第3章

ガスパル・ヴィレラ師(1525?-1572)は、平戸布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、1558年(永禄元年)、領主松浦隆信により退去を命じられ、一時府内(豊後国)に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け、京を目指し、1559年(永禄2年)、日本人ロレンソらと京都入りを果たした。

第4章

司祭(ヴィレラ)とその伴侶たち(ロレンツ・ダミアン)とともに、道中の案内役としてディオゴというひとりの日本人が旅をした。

かれはシナの島であるサンショアンでキリシタンになった人で、結婚しており、比叡山のふもとの坂本という地に住んでいた。

比叡山からの允許(いんきょ)はもらえなかったが、司祭は都に入り込もうとする計画でいたが、伴侶たちはそれを思いとどまらせた。

第5章

1559年(永禄2年)、ヴィレラは、日本人ロレンソらと京都入りを果たし、第1住居 ( 14日間 )1559年11月初め頃、 場所は不明だが、坂本の 尼僧の紹介で、知人の家の納屋で、 “ 自宅の裏の、きわめて小さく、非常に狭く、天井の低い、きたなく、古ぼけた 2階の藁や 古いがらくた等が置かれている  屋根裏部屋 ”

第2住居( 1か月 )1559年11月 ~ 12月に、 四条 ・ 新町通の、町外れで、きわめて下層の人たちが住んでいた 革棚(こうだな)町に移るも、山田という寡婦が持ち主の、倒れそうな 掘建小屋であり、「屋根は 藁で葺いてありましたが、雨が降ると、外と変わらないほど、内部も雨もりがし、周囲は壁ではなく、細い葦で囲われており、床は、地面に藁を敷いてあるだけ」 

第3住居( 1か月 )1559年12月 ~ 1560年1月には、六角通の 玉蔵町に移ったが、ある 異教徒の借家なるも、「少しは ましな 掘建小屋ではあったが、壁は、前住居と同じで、厳しい風や 寒さから身を守ってくれるものが 何もありません」 

第6章

第4住居( 3か月 )1560年 1月 ~ 4月ごろに移った四条烏丸 ( からすま ) 町の、酒屋の掘建小屋は、「屋根を通して、太陽や 月や 星が見えましたし、家の中に 雨や雪が降ることは、街路と大差がありませんでしたし、すぐ近くに、共同トイレがあって、その臭気は堪えられないほどでした」 とはいえ、苦労の末に将軍足利義輝(1536-1565)に謁見、砂時計を献上をし、さらに大友義鎮(よししげ:1530-1587:宗麟のこと)らの助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受けた。

第7章

かくて家主たちは、人から悪口を言われ、仏僧たちの圧迫に恐れをなし、さっそく司祭に、もうこれ以上家を貸してはおけぬから出て行ってほしいと通報した。

第8章

都における山田ショウ左衛門(高い身分の出で、日本の諸宗派に精通している、美濃の国

でも 稀有の人物)の改宗について語られる。 

第9章

第5住居( 1か月 )1560年 4月、場所不明だが、ヴィレラ師が一軒の家屋を借りた次第、並びに都のその家で彼の身に生じたこと。 

第6住居(1560年 6月 ~)は、下京の 四条坊門通の 姥柳町 ( うばやなぎちょう ) の、仏僧の持ち家に移り、ここに至って やっと、家らしい家が 与えられました。

ヴィレラ司祭は、早速、祭壇と 小さな聖堂を設けましたので、キリシタン達が、ミサのために集まり始め、又、洗礼が授けられていきました。

第10章

ヴィレラ師が、初めて都の市外から追放された次第なのだが、伊勢守は「公方様はそういうことは何もご承知でないし、伴天連を追放するよう命じられたこともない」

 

第11章

ヴィレラ師がふたたび公方様を訪れ、1561年8月~ 1562年9月までは、堺の町に逃れて、堺で宣教していくことになります。

司祭が都から18里隔たった境に来た時に、日比谷了慶はその来訪を非常に喜び、あとう限り歓待した。

 

第12章

ヴィレラ師は、都へ連れ戻されるに先立って、ロレンソ修道士を通じて伊勢守殿(伊勢貞孝:?-1562年10月)に次のように頼ませた。

「どうか公方様からわたしに4か月間の猶予をもらってほしい。わたしは都にとどまり、その間に自分の教えについて弁明し、仏僧たちの偽りの訴えに答えたい」

1562 年(永禄 5) 9 月、 ヴィレラ神父、堺より京都に戻る。京都近郊で布教にあたる。

第13章

1563年、結城忠正殿とその友人清原 枝賢(えだかた/しげかた)外記(1520-1590)殿は、ロレンソの話を聴いて納得し、キリシタンになることを希望して、ヴィレラ師から洗礼を受けることを望んだ。

 

第14章

司祭が奈良に赴き、結城殿・外記殿、および他の高貴な人々(高山友照など)に受洗した次第、これは畿内で最も古いキリシタン武将の誕生であり、並びに河内国飯盛城における73名の貴人の改宗について述べられる。

 

第15章

洗礼を受けた高山友照(ダルオ)の沢(奈良県榛原町)城にて妻(高山マリア)・子(高山右近:ジュスト)、および、大和国十市(とおいち)城の石橋殿を改宗させる。

 

第16章

1564夏、ロレンソ修道士を河内国飯盛城に派遣したのも、この頃都の統治は、公方・三好・松永霜台がしていたからで、一方、山口を支配していた毛利元就は、キリシタンを弾圧しており、公方様に一筆書いて貰ったが、毛利は弾圧をやめることがなかった。

 

第17章

フロイス師とアルメイダ修道士が、豊後から堺へ、さらに1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。

第18章

1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。

 

第19章

豪華な日本の所建築をヨーロッパと比較できないとしながらも、都の市外、およびその周辺にある見るべきものについて述べられるが、ヴィレラ師が都に到着したのは1559年(永禄2)末で、東寺の塔が落雷で焼失したのは、永禄6年4月2日(1563.4.23)の誤記がある。

 

第20章

都へ出発するまでに、堺の市外においてルイス・デ・アルメイダ修道士(1525?-1583)の身に生じたことだが、かれは、豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建て、これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所でもある。

 

第21章

アルメイダ修道士が、下に帰るに先立って、かの五機内のキリシタンを訪れたこと、並びに彼が同地で見聞したことについて(1565年書簡)

第22章

ルイス・デ・アルメイダ修道士が、さらに見たこと(東大寺)について、および、十市城・沢城など、都に帰るまでに彼の身に生じたこと。

高山ダリオ殿(右近の父)は大和の国でキリシタンになった時(1563)に、沢城内に美しく、また非常に立派に調えられた教会を設置した。

 

第23章

都において事態が進展した次第、および三好義継殿(長慶の養子)と奈良の松永霜台の嫡男久通が、公方(足利義輝)とその母堂(慶寿院)を殺害したが、寵愛を受けてい)小侍従局(こじじゅうのつぼね)の最後は見事であり、三好氏による主君殺害は、朝廷ばかりでなく、各大名や世間を憤慨させた(1565)。

 

第24章

この争闘の間、都の司祭らが遭遇した苦難、およびこの二人の暴君が彼らを殺害するように命じたが、結城山城殿からアドバイスを受け、さらに、その息子である左衛門尉のことが述べられる。 フロイスは、「結城左衛門尉なる武人は天下における最良のキリシタンの一人で、イエズス会のためにきわめて貢献するところがあり、この地方の全部のキリシタンの柱として、生前同様に、毒殺されて死ぬ時でさえ卓越したキリシタンとして逝去した」と伝えています。