フロイス『日本史4』
1568年、足利義昭を将軍に奉じて信長が上洛を果たすのだが、都を追われ(1565年)堺で布教を続けていたフロイスは5年ぶりに都に戻った。
その信長から、居住の自由と諸義務の免除を認める允許状を手に入れたフロイスは、伴天連の追放を主張する僧日乗を信長の面前で論破した(1569年)。
この頃からフロイスは、数々の報告書を海外に発送するようになり、同年夏、岐阜に信長を訪ねることになった。
バビロンの繁栄を思わせる岐阜の居城にまで信長を訪ねたフロイスは、その寵愛を得ることに成功したのである。
その信長を、好戦的で傲慢不遜と記す一方で、神と仏への礼拝ならびにあらゆる異教的占ト(ぼくせん)や、迷信的習慣を軽蔑し、善き理性と明晰な判断力を有すると評価している。
そして75年、将軍義昭を都から追放して「絶対的君主」の地位を獲得した信長の保護のもとで、都に「被昇天の聖母教会」が落成できるようになった。
《第25章》
三好 長逸(みよし ながやす:生没年不詳)は、戦国時代の武将で、三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称され、三好三人衆(長逸・三好宗渭 ・岩成友通)の1人で、その筆頭格であった。
永禄8年(1565年)7月、ガスパル・ヴィレラ(1525?-1572)やルイス・フロイス(1532-1597)が京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている。
《第26章》
日比屋了珪 (りょうけい:生没年不詳)戦国-織豊時代の豪商で、永禄4年(1561)宣教師ビレラをまねき,7年(1564)受洗し、洗礼名はディオゴで,了五とも書く。
その娘がモニカ(1549-1577)叔父の日比屋宗札から妻にのぞまれ、夫の入信を条件にとつぎ、1男1女をもうけたが、産褥(さんじょく)熱で天正5年死去するも、母をキリシタンに改宗させたーその経緯が書かれている。
《第27章》
1566年にヴィレラが九州へ布教に行ってからは、ルイスフロイスが京都地区の布教責任者となっている。
ところで、永禄9年(1566年)に入ると両者(松永久秀・三好三人衆)は交戦状態に突入したが、こうした戦乱の最中にも、外国人の保護を行っていたのは、三好長逸であった。
《第28章》
堕胎の風習、即ち、嬰児殺しのことが語られ、「この国の女性はいとも簡単に間引きを行う、方法は嬰児の喉にカカトを載せて窒息死させてしまうのだ」の記述がある。
《第29章》
篠原 長房(?-1573)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主。三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐して阿波において三好家中をまとめた。
永禄11年(1568年)2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主・三好義継の離反があったものの久秀との戦いを優勢に進めている。
この時期の長房は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどであったと、阿波・讃岐両国をよくまとめて長慶の死後退勢に向かう三好氏を支えたといえる。
《第30章》
結城 弥平次(1544-?)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン武士で、小西行長の家臣であり、肥後国愛藤寺(あいとうじ)城代。
河内国出身で、叔父に結城忠正がおり、叔父の影響でキリシタンに改宗した後は、京都の南蛮寺建設にも関わった。
《第31章》
三ケサンチョ(頼照)殿が、その三ヶの教会において、一司祭・一修道士、並びに数名のキリシタン兵士たちの前で都地方の改宗に関して行った説話のこと。
頼照は、永禄7年(1564年)に三好長慶が死ぬと三好義継に従った。永禄8年(1565年)京で実権を握った松永久秀によって伴天連追放令が出されると、京から脱出したヴィレラやフロイスを保護した。
同年に主君の三好義継から仏教への改宗を命じられたがこれを拒否し、一時期三箇を離れ堺に逃れている。
《第32章》
織田信長の素性、およびその性格・権勢・富、ならびに彼が到達した顕位と公方様の福井について。
1568年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。
信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。
しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められるが、同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。
《第33章》
信長がその統治の過程で行ったほかのことどもについてだが、永禄8年(1565年)足利義輝が松永久秀に滅ぼされたのち、永禄10年(1567年)5月19日に出家した竹内 季治(たけのうち すえはる、1518 - 1571)は、法名を真滴を号したが、織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された。
《第34章》
和田殿の好意により、堺に居ること既に5年(1565-1569)になったルイス・フロイス師を、都へ呼び戻すべく、信長が命じた次第だが、1569年(永禄十二年)4月8日は、織田信長がルイス・フロイスに京都居住を認めた日だという。
《第35章》 司祭が奉行和田殿の好意により、信長と公方様を再度訪問した次第だが、ここに允許状の内容を掲げている。
「伴天連が都に居住するについては、彼に自由を与え、他の塔國人が当国人が義務として行うべき為一切のことを免除す。わが了する諸国においては、その欲するところに 滞在することを許可し、これについて妨害を宇来ることをなからしむべし。もし不法に彼を苦しめるものあらば、これに対し断乎処罰すべし」(信長の允許状)
「伴天連が、その都の住所、または彼が居住するkとを欲するほかのいずれかの諸国、もしくは場所では、余はほかのものが追うている一切の義務、および兵士を宿営せしめる負担から彼を免除する。而して彼を苦しめんとする悪人あらば、そのなしたることに対し処罰されるべし」(公方様の御札)
《第36章》
司祭が信長、および彼の政庁の諸侯の前で日乗上人と称する仏僧と行った宗論についてだが、朝山日乗(生年不詳 - 1577)は、戦国時代の日蓮宗の僧であって、 天文年間末頃(1554~1555年)、「作州(美作国)朝山」のから京にのぼり、公家を通じて後奈良天皇の信任を得ていた。
《第37章》
日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言したが、これも却下されたのだが、そもそも安土宗論など他の宗論に敗北した僧侶が何らかの罰を受けるのに対し、日乗はこの後も信長に重用され続けており、この後も、朝廷に訴え出て、伴天連追放の綸旨を獲得しているのだ。
《第38章》
ルイス・フロイス師が、信長のもとで援助を求めるために美濃国に赴いた次第、並びに彼に示した寵愛についてだが、「彼が僅かに手で立ち去るように合図をするだけで、彼らはあたかも眼前に世界の破滅を見たかのように互いに重なり合って走り去るのであり、公方様がもっとも寵し、この都で非常な権勢を有する貴人らも信長の前では両手と顔を地につけるのであり、彼らの中に顔を上げる者は一人もいない」
《第39章》 司祭が岐阜から都に帰った次第、並びに引き続き和田殿と日乗の間に書簡が行き来するも、和田殿は日乗に宛て、信長の意向を尊重してキリシタン達に迫害を加えないように書状をしたため、日乗も返書を出し、和田殿がバテレンの肩を持つと非難した。
《第40章》 日乗がその憎悪を和田殿に転じた次第、並びに日常が死去した次第とあるが、1570年(元亀元年)12月1日のルイス・フロイス書簡では、日乗が訴えられたために信長が激怒して禁裏修理の役職を解任、閑職に追いやられたという記述がある。 なお、1578年4月8日(天正6年3月2日)のグネッキ・ソルディ・オルガンティノ書簡では日乗が死去したことが伝えられており、この頃没したと見られるも、『朝山家系図』では、日乗の没年月日を天正5年(1577年)9月15日としている。
《第41章》 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、並びにその不運な死についてだが、元亀2年(1571年)、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と軍勢を共にするが、摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死し、その死をフロイスは大変嘆いた。
《第42章》
高槻でさらに生じたことについて、並びに日本布教長フランシスコ・カブラル(1529-1609)師が1571年に都地方を訪れた次第だが、彼自身についていえば、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)に徹底的に批判され、解任された。
《第43章》
公方様と信長の葛藤、並びに上京焼失の際、教会に生じたことだが、元亀4年(天正元年、1573年)2月13日、義昭は朝倉義景や浅井長政、武田信玄に御内書を下し、遂に反信長の兵を挙げた。
4月2日、信長は柴田勝家らに命じ、下賀茂から嵯峨に至るまでの128ヶ所を焼き払わせたが、信長はこのとき、御所に和平交渉の使者を派遣するも、義昭は拒絶した。
4月3日夜から4日にかけて、信長はさらに上京の二条から北部を焼き払わせた(上京焼き討ち)、その結果、市民が避難するも、大井川で多数溺死した。
《第44章》
カブラル師が二回目に都を訪れた(1574)こと、並びに同地でさらに生じたことで、体調の良くなかったカブラルは、九郎右衛門(海賊)の住む川尻(広島県)に立ち寄ったが、ここで高熱を発して寝込んでしまい、唯一彼のことだけ、「彼は私に対して、どんな時も盗賊というよりも天使であった」と、「カブラル神父書簡」に記されている。
《第45章》
デウスの教えが、高槻で広まり始めた次第で、不況のことは非常にはかどり、異教徒たちに対する説教は続けられ、回収運動に火が付き始めたので、カブラル師はその地にとどまる司祭や修道士たち、およびジュスト右近殿の父ダリオに後事を切に託し、そこから堺に向かい、さらにその力豊後に向かって乗船した。
《第46章》
オルガンティノは1576年(天正4年)に、京都に三階建ての被昇天の聖母教会、いわゆる「南蛮寺」を完成させたが、娘や婦人が庭に出らぬ件については、窓の外に露台を設け、遠くしか見えないようにすることにした。 オルガンティノが指揮を取った教会堂の建設に当たっては、高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、寄進とイエズス会の出費をあわせた総工費は約3,000クルザードに達し、当時日本に建てられた教会堂でも最大級の規模のものとなった。