五畿内篇Ⅱ

第25章 ルイス・フロイス師が都から追放され、教会と家屋が異教徒に接収された次第

 

1565年7月30日月曜日の朝、都の主だった奉行三名の一人で異教徒の三好日向守長逸(ながやす)殿は、将来善良な人であり、教会の友人であったので、一人のキリシタンの家臣を通じてフロイス師の許に一書を届け、次のように言った。

自分は伴天連殿が都から放逐されることを阻止しょうと全力を尽くしたが、霜台弾正殿がその張本人なので功を奏さなかった。すでに内裏の詔勅が出され、伝えられていることであるから、伴天連殿は境に赴かれるべきである。余は道中、御身に何らの気概が加えられぬように、家臣を同行させたいと思う

 

「わたし(庄林コスメ)はキリシタンであり、御身らがなぜ市内に留まっておられるか、その理由を承知いたしております。そこでわたしは主君(三好殿)のお供をせずに、家臣を率い、伴天連様が行きたいと思われるところへお連れ申すでありましょう。それゆえわたしはあなた方に切にお願い申す。どうか教会にお出ましなさるな。もし伴天連様が誹謗され乱暴されて追い出されようものなら、それはわたしにとり恥辱というものでござる。どうか明日まで都に布告を出さないでいただきたい。まさにあなた方のおられるその火曜日に伴天連様は出発なさろうと準備しておられることだし、わたしがお連れすることだから」

正午を過ぎて三時になり、司祭は輿に乗り、都のキリシタンはみな彼に付き添ったが、そのうち数名は河内の国まで司祭とともに行くことが決まっていたが、他の者たちも鳥羽の川まで徒歩で進み、司祭はそこで船に乗り込んだ。

 

「我らはほかのことなら耐え忍びもするが、自分たちの師である伴天連様が何の理由もなく、しかも極めて不当なやり方で都から津芳されることには我慢がならない。したがって、彼らは差し当たって三好殿に対し、謙虚に再び都に戻れるよう尽力してくれるように懇願し、もしもその熱意がないようならば、我らは死ぬか、それとも彼らのもとを去って伴天連様とともに立ち去ろうと思う」

だが司祭はいろいろと説教を重ね、彼らがそうすることによって自らの霊魂を危険に陥らせることを反省させたので、彼らはいくらか気持ちを和らげられた。(20210826)

第26章 堺で(日比屋)ディオゴ了珪の娘モニカに生じたこと、および彼女の母が(娘)の死に先立って改宗した次第

 

ディオゴ了珪の娘モニカは、このころ、得を磨き続けており、ルイス・デ・アルメイダ修道士(第20章)の、彼女の模範的態度についての報告どおり、偉大な徳の香りとよい感化を人に及ぼしていた。

ところが、幼いころの婚約者に、奈良屋宗井(了珪の妻の実父)の息子宗札(22歳)がいたのだが異教徒でもあり、結婚することが叶わなくなり、彼はモニカを拉致したのであるが、了珪もまた、宗井を人質にし、娘が返されないうちは放免しないといい、堺の名士たちが両家に分かれて宗教戦争が起きたのである。

 

わたしははなはだ罪深く、そのために伴天連様方やご両親様、親戚の方々に、こんなにも多くの悲しく不快の念を起こさせ申すに至ったことに衷心から心を痛めております。ですが、我らの主なるデウス様がその恩とお扶けによってわたしに味方し給うことを確信なさるべきでございます。なぜならば、わたしはどんなにか大きい苦しみにあい、そして宗札様が幾度か、刀や短刀をわたしの喉元に突きつけましたが、わたしはデウス様への明らかな冒瀆であることをわかっていることを認めるよりは、むしろ死を選ぼうと堅く決心しているからでございます。それゆえわたしは、キリスト様の代理者であられる伴天連様方や、父上様がお勧めくださることの他は何もいたしませぬ

 

親族たちは互いに本件について討議し、彼女がやむなく宗札と結婚する以外は何らの解決策も見いだされなかった。

なぜならその若者は、もし人々が彼女を自分から無理やりに奪おうと思うのなら、まず彼女を殺し、次いで自らも死のうと決心していたからである。

 

宗札はキリシタンとなった後にモニカを妻として娶り、彼はそのよい性格と、デウスから授けられた恩寵によって、またモニカの勧めもあって、短期間に五畿内における最良のキリシタンの一人になるに至った。

かくて彼らは6・7年の間、はなはだ仲睦まじく過ごし、その間に一女一男が誕生したが、二度目の出産のときモニカは発病し、その死に先立って、家族でただ一人の異教徒であった母を、受洗させる段が記されている。(20210902)

第27章 堺における事態の進展、ならびに同地からもたらされた成果について

 

1566年、都のキリシタンたちは、自分たちの慰めとなる教会も司祭もいなかったので、降誕祭のために一屋を借り、そこで密かに集合し、説話を聞いてその夜を過ごしたが、彼らにそれを行ったのは、以前は仏僧であり、堺の一僧院の長老であったトマという教名のキリシタンで、その生活は規則正しく、まじめでもあった。

彼は日曜日ごとに使徒信経(クレド)の解説に関して説教をし、諸聖人の祝日や断食の日を告示し、彼らの質問に答えたり、子どもたちに洗礼を授けたり死者を葬ったりした。

 

戦いが日々盛んになったので、司祭たちは他の諸国へ福音伝道に赴くことができなかったが、常に人々は、堺の司祭の許へ訪れ、あるものは我らの主なるキリストの教えから裨益を得ようとし、またある者は論破し誹謗するためであったが、デウスの恩寵によって、反抗する人々は常に打ち負かされ、救霊を求めていた者たちは聖なる洗礼を受けるに至った。

堺の市(まち)の近くでは、二度合戦があり、司祭たちはそれがために大いなる不安と孤独に陥ったのは、両軍のいずれの側にも、同所で改宗したほとんどすべてのキリシタンの武士と兵士がいて、彼らのうち大勢が戦死することは避けがたく思われ、彼らのために聖なるミサが行われ、絶えず祈祷・断食・むち打ちの苦行をすることによって、ゼウスが彼らの上にご慈悲のまなざしを注ぎ、彼らを見捨て給うことなかれと懇願した。

 

1566年4月末日にガスパル・ヴィレラ師は堺から豊後に向かって出発し、一方フロイス師は来日してまだ日が浅く、日本語にもよく通じていなかったが、キリシタンたちがあまりにも督促するので彼らの告白を聞き始めた。

天下の4人の執政(松永久秀と三好三人衆)のうちの一人、三好日向長逸(ながやす:生没年不詳)は堺に居住しており、彼は約1時間半、大いに注意深く傾聴し、ついで、「霊魂の救いということは非常に重大な問題であるから、用務の間余暇が与えられれば、さらそれについて説教を承けたまろう」といった。

 

【追伸】

永禄8年(1565)7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている。

このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。(20210909)

第28章 堺でルイス・フロイス師がたずさわっていた(もろもろの)務め、ならびに同所で生じた他のことどもについて

 

日本では婦人の堕胎は極めて頻繁で、あるものは貧困のため、あるいは多くの娘を持つことを厭うため、もしくは婢(はしため)であるために、そうでもしなくては十分よく奉仕を続けられないから、あるいはその他の理由によってそれが行われている。

ある夜、年老い、善良であったそのキリシタンは、この情景に心動かされ、同情し、急いで司祭のところへ目撃したことを知らせに行った。

 

ある婦人たちは、出産後、、赤子の首に足をのせて窒息死せしめ、別の夫人たちは、ある所の薬草を飲み、それによって堕胎に導くのだが、堺の市は大きく、人口が稠密なので、朝方、海岸や濠に沿って歩いていくと、幾たびとなくそこに捨てられている赤子たちを見受けることがある。

なおいくばくかの人情味を示そうとするならば、彼女らは赤子たちを岸に置き、潮が満ちてその子らを完全に殺すようにするか、それとも濠に投げるか、そうすると犬が来てそれらを食べるのである。 

 

嬰児殺しはあらゆる時代を通じ、また「未開」と「文明」を問わず存在する現象であるが、「未開」の場合はその文化のなかで認められた行為であるのに対し、文明社会においては犯罪として扱われることが多い。

その理由は、(1)食糧不足、厳しい風土などの環境上の問題、(2)双生児の一方か両方を殺すことにみられる象徴的・認識的問題、(3)子供の形態異常や親の心身の不安定などの親か子に原因がある場合である》

 

聖体が納められた(聖木曜日)ちょうどっその時、サンチョ頼照は突然、差し出された一通の書状を受け取り、その中には前夜、河内の国主であり、同署に集まっていたキリシタンたちの主君である三好義継(1549-1573)が、謀叛のため排斥されたと記されていた。

サンチョ頼照は、「あなた方は、それらが明らかに皆を不安に陥れようとする悪魔の計略であることがよくお判りでないが、あなた方のいるところ(三箇城)は安全であり、水に囲まれ、戦は十五日以内にはまだ始まるはずはなく、帰りの道中のことなら、わたしが何の危険もなく、自分の家臣を伴わらせ、馬や舟を給して皆さんの家なり国へお届けすることをお約束する」と訓話し、人々を安心させたのである。(20210916) 

第29章 司祭を(都へ)連れ戻すことに関してよく1568年にさらに生じたことについて

 

1568年、三好三人衆以上に勢力を融資、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原長房(?-1573)で、阿波国においてぜったいてき執政で、彼の政庁にタケダ・イチダユウという名のキリシタンの貴人がおり、その人に説得されて、司祭を都に帰らせることについて三人衆に書き送ることがあった。

この阿波の殿は司祭のことを話すために、二度三好殿を訪れたが、これにつき異教徒たちは、彼が都の三人の執政たちの意志に反して司祭をいとも寵遇するのでするのでひどく驚嘆した。

 

その後、篠原殿はこのキリシタン貴人に自らの書状を携えて、天皇の顧問である都の公家たちの許に遣わし、伴天連が追放されたのは不当であるからであり、伴天連のために内裏にひと言執り成してはもらえないかと願った。

最高の公家の一人は篠原殿に答え、いかなることがあろうと伴天連のことを内裏の許でとりなしたりはしないのは、悪魔の教えであり、人肉を食べ、彼らが触れたものはたちまち枯れ、国が滅亡するからである。

 

これらの異議の各々について、キリシタン貴人はいとも懸命に答弁し、その公家をやり込め、赤面せしめたので、公家は何も彼に答えることができなかった。

当五畿内の最も高貴な人たちである二十五名ほどのキリシタン武士が尼崎の市(まち)に集合し、その際、三ケサンチョ殿は、篠原殿、並びに三人の執政たちの前で演説し、自分たちが彼らのために尽くしてきたことに対する報酬として、伴天連を都に帰らせること以外に何も望みはしないと語った。

【追伸】

永禄11年(1568年)2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主・三好義継の離反があったものの久秀との戦いを優勢に進めている。(20210923)

第30章 都地方の数名のキリシタンの所業と徳操について

 

 結城ジョルジ弥平次(1544-?)のことが語られており、「我らの主なるデウスは、ご恩寵により、奇跡的にわたしを救い給うた。わたしは元気であり、何ら傷ついてもいない。本状をしたためるのは、御身らはきっとどんなにか悲しんでいるであろうことが判るからである。二日後にわたしは三ケに赴くであろう」と書状が届いた。

その彼を救ったのが、敵のキリシタン武士三木判太夫で、その息子が、日本二十六聖人中の、殉教者の筆頭に挙げられる、パウロ三木(1564?-1597)である。

 

「伴天連様、わたしはキリシタンになってから5・6年ほどになりますが、その間、自分が異教徒であったときに、小売りによって儲けたことについて十分に良心を糾明してみました。そしてそれは許されぬ行為であり、デウスの教えに反することがわかりましたのであたしが今までに思い出した、まだ生存の方また故人の後継者にはすべてそれを打ち明け、彼らから高利により不当に得たと私に思われるものはみんなお返しいたしました」とキリシタン、清水リアンが言う。

ところが、誰であったかもわからぬ不明金などもあり、もし尊師にお差支えがないようでしたら、日本航海における貿易に投資為され、その利益と資本とが常に貧しい困窮者たちにあてがわれ分配されますならば、私はうれしく思いまと述べたが、教会建築に喜捨した。(1576年献堂式)

 

その教会が全部完成するに先立って、彼は重病に陥り、司祭が彼のところに赴くと、いつも彼は告白せずにおれなかった。

「もし人間が二度、もしくはたびたび死ぬものなら、人々は一度目の経験から、来世では何を行われているかを知り、準備もできましょうが、わたしは臨終の際に、いとも正義にして強大な審判者の前でなされねばならぬ弁明は、厳しく精密なものと伺っておりますので、十分その弁明の準備をし、良心を清らかにして、来世へもっていきたく思うのです」(20211001) 

第31章 三ゲサンチョ(頼照)殿が、その三ケの教会において、一司祭・一修道士、ならびに須名の高貴なキリシタン兵士たちの前で、都地方の改宗に関して行った説話のこと

 

三箇 頼照(さんが よりてる)は、戦国時代の武将で、三好長慶に仕え、飯盛山城の支城である三箇城(現・大阪府大東市三箇)の城主となった。

永禄5年(1562年)、飯盛城でロレンソ了斎の説教を聞いてキリシタンになった73人の武士の1人で、洗礼名はサンチョという。

 

その彼の、1571年降誕祭においての談話が一人称で掲げられているが、まず最初に、今までの伴天連の苦労が語られている。

その次に、伊留満ロレンソのことが語られ、彼を通じて語られた伴天連様の言葉は、わたし達の心の奥底迄しみとおるようにいたり、当地に来られた最初の方はガスパル・ヴィレラ師(1525?-1572)であったが、少量の水を頭にそそぐと、わたしたちは彼の教えを奉ずるキリシタンとなり、わたしたちはすべての罪を許されたのである。

 

そして最後の彼自身のことが述べられ、「わたしはまるで自分の一生を彼らに養育していただいたかのように彼らを深く愛し、デウス様のお言葉の力と効能は、さらに私たちの間にこれほどの影響を与えた福音の力は、なんと偉大なことでありましょうか?」

司祭は、サンチョが話したその題材、迫力、賢明さにいたく感動し、かつ満足して、自室に帰るやいなや、その話をインドにいる司祭や修道士たちに書き送り、彼らをして日本人の賢明さ、判断の良さ、また鋭い知性をより一層認めさせようと決心した。(20211007)

第32章 (織田)信長の素性、、およびその性格。権勢・富、ならびに彼が到達した顕位と公方方の復位について

 

ここでは信長(1534-1582)のことが語られ、天下を統治し始めた時には37歳くらいで、中くらいの背丈で華奢な体躯であり、ひげは少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。

彼の睡眠時間は短く早朝に起床していたが、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなく、彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。

 

彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかったが、いくつかのことでは人情と慈愛を示し、人の扱いについては極めて率直で自らの見解には尊大であり、日本のすべての王侯を軽蔑し、肩越しに話しかけ、人々は彼に絶対君主であるかのように服従した。

彼はよき知性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝・尊崇並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者で、形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いてのちは尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅僧の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰はないとみなした。

 

彼は自邸において極めて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、遷延(せんえん)することや、だらだらした前置きを嫌うも、ごく卑賎のものとも親しく話をした。

また、何人も武器を携えて彼の前にまかり出ることを許さなかったが、彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するにあたってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。(20211014)

信長は好戦的で傲慢不遜であったから、目的を果たすため病気を装って数日床につき、父の相続において、尾張の支配権を巡って争っていた同母弟:織田 信行を見まいに越させ、脈を診てもらうために左手を差し出し、それをとった時、大いなる迅速さを以て用意してあった短刀をつかみ、その場で直ちに殺した。

織田家を掌握した後、尾張国の絶対君主となり、隣国をも支配しようと欲していたので、彼は戦略を用い、敵方の印がついた旗を作らせ、挟撃せしめ、すべて何啼き美濃の国を獲得し、斎藤竜興は、都に逃れ、同所も安全でないとみて、日本のすべての追放人にとって避難所である境に赴いた。

 

殺された公方様(足利義輝)には、僧侶で、大和国奈良の好悪服地一乗院の長老である弟(覚慶)がおり、同じように殺されるかもしれぬことを案じ、同寺院から脱して甲賀の和田惟政の家に赴き、彼に日本の諸国主の許で事態を促進するように懇請したが、和田殿は信長の許に赴き、一任したのでああった。

公方(足利義昭)は彼の所に至り、両者はその準備をし、都に赴くために軍勢は近江国を通過する必要があり、その通過を拒もうとした六角殿は逃走し、この突然の決断と勇敢な行為は、山背・津國・河内・大和・丹波の諸国に追いなる驚嘆を呼び起こし、これらの諸国は、その勝利の容易さ、また彼が公方様を復位させるために示してきた権勢と豪華さを目撃して彼に降伏した。

 

信長は勇敢であり、驚嘆すべき軍将であり、十四か年に日本の約五十か国を征服し、死ぬ前には、すでに、全日本六十六か国の絶対君主になる間際で、越前・桃生・甲斐の国主、並びに公方様を殺害した両人、即ち河内国主三好殿と大和国主松永弾正ふしうぃ殺し、彼らからすべての国を奪い、大小の諸君候をその他の統治している地から放逐し締めだした。

まず彼は、都から四里離れたところに位置し、サンリにわたって展開しており、あらゆる神・仏・蔵書、装飾品を有する極めて多数の寺院があり、日本宗派の源泉で、おもな大学である比叡山を完全に焼却、破滅(1571)せしめた。(20211028)

第33章 信長がその統治の過程で行なったほかのことどもについて

 

司祭たちを都から追放し、内裏をしてそのための勅書を発せしめるように働きかけた、竹内季治(すえはる:1518-1571正三位)は、織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、1571年9月18日に近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された。

信長はまた、河内と和泉の国境において、槙尾(まきのお)寺院を蹂躙(1581年)し、放火させたが、そこには五百を超える大小の寺院があり、さらに数回にわたり、根来衆という僧侶たちの主だった寺院、および三千人以上の仏僧を数える高野の諸寺院を破壊し、これらすべてを処罰できぬものかと試みた。

 

美濃の国の岐阜の市に、彼ははなはだ豪壮華麗な宮殿を建て、豊富なそのすべての財宝、さらにまた美濃・尾張のの二か国を加えて庵である嫡子信忠に与え、ただ茶の湯の道具と呼ばれる茶器だけは自ら保管し、伊勢の国を息子である信雄(のぶかつ)に与えた。

かれは、都から十四里の近江の国の安土山という山に、その時代までに日本で建てられたものん中で最も壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築(1576年)し、すべては裁断せぬ石からなり、非常に高く厚い壁の上に建ち、なかにはその最も高い建物へ運び上げるのに、四、五千人を必要とする石もあり、特別の石は六、七千人がひいた。

 

三年を経ずして新築され、不断に成長したその市(まち)は、既に一里以上も拡張し、諸侯諸士の家々は、すべて上に番人部屋がついた特殊材の玄関を有し、壁はすべて白く上塗りされ、内部には日本人が知らない、ヨーロッパ風な壁掛けに代わり、塗金(ときん)した屏風がしつらえてある。

この安土の市から都迄陸路十四里の間に、彼は五、六畳の幅をもった唯一の道路を造らせ、平坦で、真直ぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木(松と柳)を植え、ところどころに箒を懸け、近隣の村から人々は常に来て道路を清掃するように定め、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような感を呈せしめた。

【追伸】

近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田という言うところに、四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、中央に非常に快適な休憩所のつくられた、立派な木材の橋を架けさせた。(20211104)

第34章 信長が、和田殿の好意により、ルイス・フロイス師を呼び戻すべく命じた次第

 

都の市外に入る約一里手前の途上にあった、阿弥陀の一寺院で、かっらは多くの馳走を用意しておりそれらを司祭とともに芥川城から来たすべての人々に満ち足りるほどに振る舞い、そして都から来た人々は、次から次へと高山ダリオに対し、彼が示してくれた好意と援助、並びに道中の労苦について感謝の意を表した。

一行は司祭を立派な輿に乗せて運び、男女子供ら二百五十名以上のキリシタン、および司祭とともに来たダリオの家臣たちがそれに伴ったが、キリシタンたちは、かつて司祭がひどく侮辱されて市から追放されていくのに接した、得意満面であった、かのデウスの教えの敵である仏僧たちが、今度はよりよく伴天連様を眺めることができるよう、わざと大通りを通って連れて行った。

 

信長が都にいたこの頃、三河国主(徳川家康)の叔父で、三千の兵を率いる武将である人が、われらの教会を宿舎としており、それゆえ司祭はそこに入ることができず、かくて司祭は、ソーイ・アンタンと言い、非常に名望ある年老いたキリシタンの家を宿とし、そこに百二十日間滞在したが、アンタンは都で改宗した最初のひとりであった。

司祭が都に到着して三日を経、和田殿は司祭が信長へ伺候する準備を整え、司祭は贈り物として非常に大きいヨーロッパの鏡、美しい孔雀の尾、黒いビロードの帽子、およびベンガル産の藤杖を携えたが、それらすべては日本にはない品だったからであるが、宮廷の最も高貴な殿たち数人は、和田殿に対する顧慮から司祭に大いなる慇懃さを示した。

 

公方様を殺し、司祭を追放した松永霜台が、信長ならびにすべてのかの殿たちが司祭を迎えたのを見たとき、彼は信長に対し、「殿が、市(まち)にとって危険な存在であるあの人物を呼び戻すよう命じたもうたのには驚き入っている、伴天連が解くかの呪うべき教えが行きわたるところ、常に国も市も直ちに崩壊し滅亡するに至ることは、御共が明らかに味わったところである」

「汝霜台、予は汝の如き老練、かつ賢明の士が、そのように小心怯儒(きょうだ)な魂胆を抱いていることに驚くものである。たかが一人の異国人が、この大国において、いったいいかなる悪をなし得るというのか。余はむしろ反対に、いとも遠く、かくも距たった土地から、当地にその教えを説くためにやってきたことは、幾多の宗派があるこの市にとって名誉なことである」(20211111)

第35章 司祭が奉行和田殿の好意により、信長と公方様を再度訪問した次第

 

信長は、司祭に対して愛着の念を抱いていたので、ついには彼を再度連れてくるように、そうすれば引見しようと述べ、ついには建築作業現場(二条城)で、信長は司祭にあい、いくらかの質問のあと、「果たして日本の学者たちが、そのような宗論に同意するかどうかわからないが、他日一度そのようになるかもしれぬ」と述べた。

そこで司祭は、自分が都に自由に滞在しても良いとの殿の允許状を賜りたい、それは目下、わたしの示すことができる最大の恩恵の一つであり、それにより、殿の偉大さの評判は、インドやヨーロッパのキリスト教世界のような、殿をまだ知らない諸国にも広がることであろう、と恩寵を乞うと、それらの言葉に、彼はうれしそうな顔つきをした。

 

允許状に捺印された(永禄12年4月15日)翌日、和田殿は謝意を表すために再び司祭を信長の許に導き、司祭が建築場で信長をみつけると、彼は司祭をいつもの好意をもって迎え、和田殿に対してもう一度すべての建物を見物せしめるように命じたおり、城中での途すがら、和田殿は司祭に、我が子に教えるように、信長の好意ある態度を人々に知らしめるように指示した。

4・5日後、和田殿はさらに司祭を訪れ、見ることを切望している小さな目覚まし時計を携帯し、献上すると、彼は時計を見、大いに感嘆したが、「余は非常に喜んで受け取りたいが、受け取っても予の手元では動かし続けることは難しく、だめになってしまうだろうから、頂戴しないのだ」といい、彼は司祭を自室に入らせ、自ら飲んでいた同じ茶碗から二度かを飲ませた。

 

その二日後、司祭は早朝のミサが終わった後、ロレンツ修道士および数名のキリシタンとともに、約一里隔たったところに住んでいた和田殿を訪問した折、「余は内裏のため、信長や公方様の許で多く貢献するところがあり、そのことについて内裏から報酬もしくは恩恵として望むとすれば、内裏が伴天連のために、その允許状である綸旨を余に下付されること以外の何物もない」

此処には私たち一堂に対するデウスの大いなる、御父としての御摂理が見受けられ、すなわち、いとも多数の敵が充満し、かくも遠隔で見知らぬ諸国において、デウスは、司祭・修道士、並びに教会の道具、また恩人として、かかる愛の業と非凡な愛の証を備えた一人の異教徒(和田惟政)を選び給うたのである。(20211118)

第36章 司祭が信長、および彼の政庁の諸侯の前で日乗上人と称する仏僧と行った(宗)論について

 

1569年4月19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言したが、これに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与えており却下された。

4月20日、日乗は、信長を訪ねてきたルイス・フロイスおよびロレンソ了斎にキリスト教の教えについて訪ね、信長の面前で宗論となった。

「日本の宗教は『無』の原理に基づいており、日本の学者たちの学識なり認識は、四大(地水火風)のうちに含まれている可視的なもの以上には及ばず、彼らは四大の原因に関しては、大部分知るところはないから、不可視・不滅の霊魂について語られると、それを新規なこととみなすのは何ら不思議なことではない」

 

日乗曰く、「夢の中ですら、そのような妄想はあり得ないし、貴殿が申されるごとく、死において四大から分離した生命が存在するなどとは、あり得るべきことではなく、もしさようなものでもあるとするなら、さっそくここへ出して見せてもらおうではないか」

司祭はそれに応えていった、「わたしはずっと前から貴僧にそれに示そうと思っているし、多くの根拠、すなわち、貴僧自身でわかることができるに違いない方法を提出したのであるが、今に至るまで貴僧はそれを求めようとされなかった」

 

そこで日乗は全く激昂し、唇を噛み、歯軋りをし、手足を震わせ、まるで火炎の中にいるかのように真赤な顔をし、眼を充血させて激怒に燃え、同席の国主(信長)に対する畏敬の念を全く失い、弦から放たれた矢のように飛び上がり、信長の二握りの刀があった部屋の一角に突進し、その刀を握り、ごく興奮しながらそれを鞘から抜いて、「しからば予は汝の弟子ロレンソをこの刀で殺してやろう。その時、人間にあると汝が申す霊魂を見せよ」

彼が鞘から抜き始めた特に、信長およびその場にいた多くの他の貴人たは素早く立ちあがって彼を後ろから抱き、刀をその手から奪い、一同は彼の恥知らずな暴挙を非難したが、信長は格別で、「日乗、貴様のなせるは悪行なり仏僧がなすべきは武器を取ることにあらず、根拠を挙げて教法を弁護することではないか」と言ったが、日乗がこの暴行と騒動を犯している間、司祭と修道士は、そのいた場所から全く動かなかった。(20211125) 

第37章 日乗が信長の出発後、司祭を再び放逐するためにとった手段について

 

日乗(?-1577)は天性傲慢不遜で、自らの名が信用を失ったことを知ると、さっそく憤懣を晴らす方法を求め翌日信長に対して、「伴天連が当地に留まっているのはよろしくないから、殿はご出発に先立って、伴天連を追放なさるべきである」と督促を繰り返した。

勿論信長は相手にせず、次に訪れた公方様は、「余は伴天連に対し、都のみならず、日本国の、他のいずこであれ望むところに居住するも差し支えないとの允許状を付与いたしており、伴天連を放逐するはイワレなきこと故、予はそうは致さぬ決意である」

 

悪魔の手先、日乗上人に一層その悪意を容易に実行し得るようにし、約一か月の間に内裏及び信長のもとにおける彼に対する寵は顕著に高まって、内裏と信長は、五畿内における非常に重要ないくつもの職務を彼に与え、各々につき允許状を授けた。

信長は、ピラトのようにことの不正なるを見抜いていたが、彼は内裏に礼をなくしたくなかったので、この件では折り合うことを考え、伴天連の追放に関しては、ごくわずかの言葉でもって、すべてを全日本の君であられる内裏に御一任するとのみ答えた。

 

和田殿の声明は、「内裏がもし伴天連を日本から放逐するならば、予はたとえ彼の行方がシナであろうとインドであろうと、彼らを見捨てることなく、地位・収入・居城・妻子、および都と津國の奉行という職を捨て、いかなることがあろうと、司祭らのお供をするであろう」

和田殿は賢明だったので、この仏僧に対しては、できる限り厳しからざる処置をとることに決めたのも、日乗が信長のもとで大いなる勢力を有しており、決して自分が熱望していることを終局的に達成するのに当を得た手段ではないことを承知していたからであった。(20211202)

【追伸】

日乗においては、信長に殺されなかったことが不思議なくらい密着しているのだが?

第38章 ルイス・フロイス師が、信長の許で援助を求めるために美濃国に赴いた次第、ならびに(信長が)彼に示した寵愛について

 

わたしたちは夜半過ぎの三時に近江の湖上で乗船し、翌日、同所から十三里隔たったところ(朝妻:米原市湖東)に赴き、陸路を辿った後、近江の国を二日間旅行し、大部分が平地で産地が少ない美濃の国の領内に踏み込みました。

そこには新鮮な緑の森と大河(長良川)があり、それを帆船で渡り、途次、地上に投げられて頭が欠けている多数の石の偶像を見ましたが、これは信長が、それらが安置されていた仏龕(ぶつがん)から取り出して放棄させたものでありました。

 

美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、最もわたしを驚嘆せしめたものは、この国主(信長)がいかに異常なし方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。

すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは極めて凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにして直ちに消え去り、そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事をしました。

 

日本の諸事に全く疎い方々には、わたし達が俗世を軽んじ、真にキリストに倣い、一切のこの世の名誉とか富を捨てることを公言するものであるにもかかわらず、この書簡において、いとも詳細に、この異教の国主、およびその廷臣たちから受ける歓待、恩恵、名誉と言ったことを述べる気持ちになれるのかと、疑いが生じることでありましょう。

日本の風習とか、この異教世界との交わり方は、全世界にあり得るありとあらゆる習慣のうち、わたし達の風習とはもっとも異なったものであり、そしてそれは、彼らと長く交わった経験の持ち主だけが、その真実を理解することができる性質のものなのです。

【追伸】

1569年7月12日のフロイスからの手紙。(20211209)

第39章 司祭が岐阜から都に帰った次第、ならびに引き続き和田殿と日乗の間に生じたこと

 

日乗宛、和田殿の書状

伴天連は過日、都より美濃国に旅し、信長を訪れたところ、上様から歓待され、それのみか信長はわたしに、伴天連につき入念に保護するようにと書き寄こされ、公方様も信長と何ら変わりなく同じ態度をとっている。

伴天連は異国の人であり、非常に遠いところからきているので、わたしは彼を保護することを引き受けており、伴天連に関し伝十郎殿(大津長昌:?-1579)、並びに信長の秘書夕庵(せきあん)が貴殿に宛ててしたためた書状をお送りする。

 

和田殿宛 日乗の返書

貴殿、並びに伝十郎及び信長の御書状拝見つかまり候、書中伴天連に関しては、かかる者とご承知あれ、即ち悪魔の教法を説き、天皇並びに詔勅を蔑ろにし、神に献げるべき拝礼に背き、日本の教法をば害をもってこれを妨げ、悪魔の首領にして欺瞞者、また諸国諸領主の破壊者にして、彼らあらゆる当国の風習公益に背反仕り候。

しこうして拙僧、日本六十六か国すべてを裨益する者にて、それら諸国の安穏平和のための貴殿の助力者なれば、公方様並びに信長に関し、予に比すべき第二、第三の者なきは疑いの余地なきことにて候といえど、拙僧に不正、無礼、もしくはなんらか卑しき根性にてもお認めあらんには、お報せ給わりたく、それ拙僧の喜びといたすに御座候。

 

ロレンツ修道士が高槻の和田殿のもとに赴いたとき、彼は多数の武士たちの前で次のように話した。

「余はデウスの教えについて何度か説教を聞いたが、それにより、世の創造主である唯一のデウス以外に神は存在せぬこと、また日本の神や仏はすべて人間の虚構であり、笑うべきものであることが明らかになった。

たとえ内裏が絶対に伴天連を都から追放するとご主張為されても、伴天連は都から七里しか離れていない当地におられるなら、都の市内にいるのと変わらず、そしてヨガ都に行くたびごとに伴天連を伴い、そこで彼が一、二か月予のもとにおられるようにしよう」(20211216)

第40章 日乗がその憎悪を和田殿に転じた次第、、ならびに日乗が死去した次第

 

日乗の虚偽・欺瞞によって和田殿は信長の寵愛を失ったが、訪ねてきた貴人たちに言ったー「自分が伴天連に対してどんなに深い愛情を抱いているか認めてもらうために言うのだが、予は地位を追われている間も、伴天連を助け、好意を示すことになお一層努力したいと思う。それに、伴天連がシナかインドへ完全に放逐されることになれば、予は妻子・故郷・家臣、および名誉を捨て、伴天連についていくであろう」

日乗は、自分が仕掛けた罠が成功したことで、どんなに喜んだかは容易に想像できるが、彼は喜悦と満足に耽溺し、「和田殿は拙僧の忠告に耳を傾けず、頑迷、かつ不遜にも、伴天連の教えはみなからひどく嫌悪されているのに、彼を寵愛しようとしたのであるから、これは神と仏の罰であることは全く明白なことだ」と吹聴しており、この日乗という悪魔が、和田殿が現下の状況にあるのを見て、障害を加えることがないようにと美濃に赴く必要があった。

 

ロレンツはその旅を行い、信長から非常によく、一同が望んでいたように歓待され、信長は司祭に宛て、その訪問についてはなはだ鄭重な挨拶をもってする一書をしたため、将来における寵愛を約束するとともに日乗はなんら危害を加えることがないから心配せぬようにと言った。

ロレンツ修道士は、この返答を携えて帰ると、まず和田殿にそのよい成果を報告しようとして、彼が流謫(るたく)の日を過ごしているところに赴くと、和田殿は最大級の喜悦と満足を示したー「伴天連のことが好都合に捗っているなら、予自身の損害など全然悲しみも嘆きも感じない」

 

いかに自分が和田殿と再び和解したかを一堂に確認させようとして、信長は市中で騎行の際、和田殿だけを騎馬のまま右側に連れていき、和田殿には、貴殿のごとき武将は坊主のように剃髪して道を行くべきではない、髪を生やせといい、その時以来和田殿は大いに名誉、信長の信頼、地位を高め、公方様に次ぐ全五畿内での主要人物となるに至った。

それからわずか十日乃至十二日が過ぎたとき、信長は、日乗が黙視するに堪えぬいくつかの乱行と、彼の世間に有していた身分にふさわしからぬことに関して重罪を犯したことを耳にし、面前にまかり出たところ、非常に癇癪もちであった信長は、日乗の行為に激しい言葉で彼を罵倒し始め、そこにいた若い貴人たちに、即刻、日乗を踏み殺せと命じたが、電光石火の速さで逃れた。

 

日乗はほとんど羞恥心なき人物であったから、外面を装い、まるでまったくあの破廉恥な行為はなったように振舞い、多くのつてによって、ついに信長から、またしても用いられるまでになったが、以前よりはずっと低い身分においてであった。

それ以上、地位を高めることができず、零落し、自尊心を軽んぜられたことを知ると、他の遠い地方に赴き、この不幸にして運が尽きた僧侶は、そこで、みすぼらしく悲しく、みじめな死を遂げた。(20211223)

第41章 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について

 

幸福は、これを失いたる後にあらざれば認められず」という人口に膾炙した諺は、たいていの場合事実でありまして、今、わたしにおいて疑いもなく実証されたと思われますのも、奉行和田殿がわたしに示された不断の好意と恩恵にしばしば浴していました間には、それを享受し、それに慰められることが多大で、よく判っておりませんでしたが、今、突如としてその保護と援助を失って初めてこれを知るのでございます。

彼をキリシタンにするという、わたしの熱望していた目的を、達成できずに彼を失ってしまったという苦痛が、いっそう高まるのでありますが、他方、彼の好意に対する感謝と感恩を、わたしが黙って看過することは許されぬことであり、和田殿のわたしに対する行為は、異教徒たちにも明らかに知れており、わたしもまた、これを記すことで、彼の予期せぬ死が、わたしにあまりにも当然に惹き起こす、苦情の一部が和らげられるからであります。

 

わたしは尊師に確言申す次第ですが、彼が戦死したとの悲しい報せがもたらされたとき、わたしを襲った悲嘆と痛心は非常なもので、本状を執筆しながらも、何度も何度も筆を置くほどです。

そして和田殿が、自ら説教に基づき、その業績に対する、永遠のそして栄光に満ちた報酬をまさに受けんとする際に、不幸な死を遂げた悲しむべき情景が歔欷(きょき)せざるを得なかった。

 

奉行和田殿の死去が、わたし達にとって、どんなに苦痛であり、どれほど深い悲しみとなったかは、容易に述べ得ることではありませんが、わたし達が彼のことで、何にもまして最も心を痛めますのは、聖なる洗礼を受けることによって獲得されるはずの、われらの主キリストのご受難の無限の功徳に与れなかったことでございます。

かかる出来事を許したもうた、人知の得て及ばぬ、計り知れないデウスのお計らいは、あらゆる創造された理性を超えるものですから、わたしたちは万事につけ、デウスに無限の感謝をささげ、謙虚にデウスのご恩寵とご援助を奉るのであり、尊師またその聖なるミサ聖祭において、ここにわたしたちを助け給わんことをお願い申し上げます。

【追伸】

和田殿に関し、インド管区長に宛てられたルイス・フロイス師の書簡(20220106)

第42章 高槻でさらに生じたことについて、ならびに日本布教長フランシスコ・カブラル氏が1571年に都地方を訪れた次第

 

高槻城には、同地で最も賢明で、戦のことに極めて経験を積んだ人のひとりである高山ダリオ殿と、その息子ジュスト右近殿がおり、老いに卓越した個性の持ち主であり、父同様に勇敢な兵士であり、若輩にもかかわらず、その輝かしい行為、並びに勇敢な精神によって、大いに天下に勇名をとどろかせていた。

各々にはそうしたまれにみる優れた特徴があったために、和田殿の息子の側近の若者とか、数名の家人、または同郷の知人たちは高山親子に対して激しい憎悪を抱いたのも、彼らが、和田家の若者を乱脈な行為に誘い込んでも、ダリオとジュストがそれに同意しないことを知ったからである。

 

和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していたところ、惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまい、これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届き、友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。

 

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出し、高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになり、夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまうが、およそ助かりそうにない傷だったものの、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。(20220113)

第43章 公方様と信長の葛藤、並びに上京焼失の際、教会に生じたこと

 

1573年、公方様はまだ、統治上の経験が乏しいのに加え、彼を取り巻く若者たちの誤った扇動のため全く信長と不和になり、彼を敵だと公言し、信長が公方様に不和になったことについて弁明したあらゆる根拠も、その悪しき見解を諫止しょうとした努力も、何ら功を奏さなかった。

都の人々はいかに信長が激昂しやすい性格であるかを心得ていたので、一里にわたる市外の混乱や動揺する情景を眺めるのは恐ろしいことで、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近接した村落に逃れ、あるいは子どもたちを頸や腕にかけ、泣きながら市中を彷徨するのであった。

 

都の人々は、信長がいとも短時日に軍勢を整備することはできまいと疑っていた折から、彼は突如全く人々の予感を裏切り、御主の御昇天の日に当たり、わずか十騎ないし十二騎を従えて洛外四分の一里の地点に現れ、直ちに軍勢を整え、阿弥陀宗の知恩院なる寺院に設営した。

司祭が躊躇するのに心痛めていた都のキリシタンたちは教会に来訪し、司祭に対し、市(まち)から八分の一里にあたり、市に入る際の通常の入り口に、東寺と言い、同地方の大寺院の一つがあるが、その近くの一村に隠れるがよいと述べた。

 

一か月ののち、公方様は信長に対する恐怖と若者の言に動かされたため、そこに有していた新築の美しい城(二条御所)を捨て、都を出て5里離れた槇島(まきのしま)なる家臣の城へ赴き、これを聞いた信長は、再び彼に対して軍を起こしたのである、

信長はなんら危害を加えることもなく、公方様を逃れさせたが、最初は大坂へ、次いで堺へ、さらに山口の国主である毛利の領土へ船で渡り、彼は同地で流謫(るたく)の生活を過ごし、信長は十四年間、勝利と実力と覇権を掌握して「日本王国」の絶対的君主の地位を保持した。(20220120)

第44章 フランシスコ・カブラル師が二回目に都を訪れたこと、ならびに同地でさらに生じたこと

 

安芸の毛利元就(1497-1571)というかの山口の国主は、デウスの教えの敵で、その生存中には一人の司祭もその領内に入ることを許そうとしなかったので、山口のキリシタンたちは、司祭の来訪に接せぬこと、既に約20年、またはそれ以上になっていたが、孫の輝元(1553-1625)の時代になって、フランシスコ・カブラル師(1529-1609)が山口訪問(1573)を実行することになり、皆が感じた慰安は並々ならぬもので、彼ら、事に老人たちは喜びの涙を流した。

それまで彼らが堪えてきた数々の苦難、いとも長期にわたって秘蹟や聖なる福音の説教を断たれたこと、自分たちに対する異教徒らの迫害、自分たちの霊魂の牧者が一人もおらず、孤独のおもいであったこと、またそれにもかかわらず、自分たちは、それがデウスの御旨(ぎょし)であることを知っていたので互いに慰めあったこと、そしていつかは司祭たちが再びこの地に入国が許される状態になると期待していたことなどを長々しく語った。

 

フランシスコ・カブラル師は、かの山口の市からずっと遠く離れたところにいた山口の国主、並びに数人の他の殿を訪問させ、皆、彼に名誉と親切を示し、司祭は山口のキリシタンたちが、この好機を一層よく利用することができるようにと、約三か月、彼らの所に滞在した。

カブラル師は三日熱を患っていたが、岩国というところに赴き、そこで彼はマチアスという一人のキリシタンにあい、妻子とともに住んでいたが、彼は山口でキリシタンになった最初の人たちのひとりであり、ここで異教徒たちの真只中にあって、なお堅固に信仰を守っていた。

 

司祭が、その地で堺に向けて航海するために乗船しようとしたところ、港には信用できる人が誰もおらず、異教徒の海賊で、名を九郎右衛門という一人の海賊がいるだけで、彼は司祭を安全にお連れすると申し出た。

司祭の病気はどんどん悪化するばかりであったので、この好人物は、司祭を自分の妻と家族がいる川尻(広島県豊田郡)という港に連れて行き、司祭が異国の人であることと、自分を信頼していたので、同情して二十日間病気の司祭を自宅に泊め、縁者の様に非常に親切に看護した。

 

九郎右衛門は、司祭のうめき声を聞くと、二度も三度も起き出てその脈をはかり、何か食べたいものがないかどうかと訊ねたりし、司祭は、彼をキリシタンにすることによって、これらすべての好意に報いたいと望んだが、まだ彼にはその時が来ていなかったらしい。

司祭、もしくは修道士がそのことで彼に話すと、彼は快活に、いつか当国にもっと大勢の改宗者が現れ、国主がキリシタン宗門を庇護するようになれば、自分もキリシタンになろうと答え、かくて司祭は、道中の苦労などいろいろあったが、堺に至った時には元気になっていた。(20220127)

第45章 デウスの教えが高槻で広まり始めた次第

 

フランシスコ・ガブラル師は、都から豊後に戻るに先立って、都からルイス・フロイス師、ならびに、ロレンソトジョアン・デ・トルレス両日本人修道士を伴い、数日高槻城に滞在したのは、その地の城主であり、かの諸城の城主である、ジュスト右近殿に、改めてキリシタンの教理の説教を聞かせたく思ったからである。

というのは、右近殿は幼少時にキリシタンとなったから、デウスのことについては、両親の信仰を信仰として生きているという以外、何も知らなかったからで、ジュストの父、高山ダリオ殿は大いなる献身と熱意をもってその世話に当たり、さっそくそこに一基の持ち運びできる祭壇を設けて、司祭がそれでミサ聖祭を捧げることができるようにし、聴聞者たちも傾聴した。

 

1576年8月20日付フロイス書簡によれば、友照は高槻の「かつて神の社があった所」に自費で教会を設け、大きな十字架を立て、「四名の組頭」を定め、「異教徒の改宗を進することや貧者の訪問、死者の理葬、祝祭に必要な物の準備、各地から来訪する信者の歓持」の役割を担うものとした。

その第一の組頭を友照自身が担い、高槻城下における布教の中心は城主の右近ではなく、友照であり、1581年(天正9年)に高山右近は、イタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを招いて壮大な復活祭を行うなど、積極的なキリスト教の布教を進め、高槻城下にキリシタン文化が花開いたんよ。

 

司祭たちがかつてダリオに、厳正において期待をかけている最も切実で有効な望みは何かと尋ねたところ、「その第一は、決して種を害し奉らぬこと、第二に、死に至るまで、主のご恩寵を受け、主のため崇高なご奉仕をいつまでも続けること、第三に、たとえ自らの命を賭しても幾多の霊魂をキリシタンに改宗させること、第四には、自分の望むままに、貧者・寡婦・孤児、また寄る辺ない人々に善行ができる環境にありたいことでございます」

さらに続けて、「日本を出立し、ローマにおいて教皇様の足元にひれ伏し、数々の聖なる場所を敬って歴訪し、教皇様から多くの祝別されたコンタツ(ロザリオの鎖)や遺物を乞い奉り、それらをキリシタンたちの間に分かち与えたく、さらにまた、教会用の祭壇の画像を、そしてキリシタンたちのため、その救いに役立つ品々を乞い求め、さらにまた、己が眼をもって、ヨーロッパにお住まいの伴天連様方や伊留満様方を眺めとうございます」(20220203)

第46章 都に最初の被昇天の聖母(に奉献された教会が建てられた次第、ならびにそれが受けた抵抗と五畿内のキリシタンが行なった援助について

 

今や上京はすでに再建されていたし、天下は信長の善政のために平穏であるように見受けられたので、ルイス・フロイス師とオルガンティーノ師は、全5畿内の主立ったキリシタンたちに、都に素晴らしい教会を建立する計画をどう考えるかについて協議した。

一同異議なく、都は全日本の首都であり、最高の朝廷があり、かつ法令の源泉であるから、それは彼らが多年希望していたことであり、日本におけるデウスの教えの威信と尊重のために大切なかことであるから、この仕事に際しては、だれしも全力を傾けて布施と個人的協力作業で援助したいと答えた。

 

高山ダリオ殿はさっそく、司祭たちや大工たちと計画を練ろうとして高槻から都に赴き、柱とか、その他、特別の良材を使用せねばならない、多くの他の部分に要する材木の調達を引き受け、家臣たちの誰にもその世話をさせることなく、自らわずか4.5名の騎馬のものを率いただけで、高槻から七里も離れた山中に赴き、その際材木を伐ったり焼いたりするために、大工や樵たちを連れて行った。

そして、自費でもって、陸地を七里、川を八ないし十里も遡らしめ、そこからは車で都へ運搬させ、建築が続いている間中、彼は援助を決してやめることなく、その援助は最も傑出したものの一つで、事に彼がその仕事に遣わした人々によるものであったが、同様のことは、ジョルジ弥平次殿についてもいう事が出来、彼は、教会建築を援助するために、河内国からわざわざ四・五十名を率いてきた。

 

この教会の呼称、並びに保護の聖人としては「被昇天の聖母マリア」が選ばれ、8月15日という記念すべき日に、メストレ・フランシスコ・ザビエル師が、日本の薩摩の国につき、当地に喜ばしい種の福音を伝えたからであった。

その輝かしい日が訪れてると、教会はまだ完成していなかったが、この建築に当たって大いに苦労し、最も多く働くところがあったオルガンティーノ師がそこで初ミサを捧げ、この祝祭には、都および近隣諸国のキリシタンたちが参集した。

【追伸】

「被昇天の聖母教会」(通称:都の南蛮寺)の献堂ミサも、会堂の落成に先立つ1576年8月15日(聖母被昇天の祝日)に行われた。

教会堂の所在地は、中京区姥柳町蛸薬師通室町西入ル付近と推定され、その後1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。(20220210)