五畿内篇Ⅲ
第47章 五畿内の諸事の発展、並びに安土山の神学校について
高山ジュスト殿を主将とし領主に仰ぐ津の国(大阪府)の高槻城には、かなりの数にのぼる身分あるキリシタン武士と信望厚い人たちがいたが、オルガンティーノ師は、こうしたキリシタン領主の許にある、町の主だった異教徒や家臣たちに教えが説かれるように奔走した。
そして彼らが(キリストの)福音の教えによって聖なる秘蹟を(受けるに)ふさわしい者になると、司祭はさらに彼らの町や村に十字架を建て、彼らの告白を聴いたり、その他の秘蹟を得るようにいくつかの教会をたてることを勧告した。
オルガンティーノ師は河内の国をしばしば訪れ、その国の三つの地方には、堅固で、よく整ったキリシタン宗団が存在し、その第一は岡山(大阪府四条畷市)、第二の場所は三箇(さんが:)で、岡山から半里足らずのところにあって、初期に当国で改宗が行われた時の代表的な一地域であり、第三の場所は三箇から二里半三里隔たった若江(大阪府東大阪市)と称せられるところである。
日本人は本来、新奇なことを好む国民であり、すでにオルガンティーノ師はその気ごころを知り、経験に基づいて(それを利用することは)極めて有効な布教手段であると考え、キリシタンの信仰を一層固めさせ、異教徒たちに救いのことを理解させることができそうな機会は、何一つ見逃しはしなかったが、一年の主だった祝日には、あらゆる地方のキリシタンを儀式に参加させることにし、その際、できうる限り美しく豪華な公開行列を繰り出すように命じた。
信長は短期間に日本王国の種になることを成就し、すでに三十四か国を入手し、残余の諸国は制服の途上にあり、行くところ敵なく、デウスが彼に生命の糸が発つことがなければ、早晩全日本国の主となることであろう。
彼は万人におそれられ、地方の多くの敵は敵でありながら彼から好感を得るために名誉ある妥協を計ろうとしても、自信と能力にあふれた彼は、家臣としての身分以外にはこれを受け付けようとはしなかった。
今まで彼は神や仏に一片の信心すらも持ち合わせていないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の主だった寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日奥のむごい仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、そのすべての宗派の者どもは意気消沈していた。
彼がこのような憎悪を抱くに至った動機は、一部の仏僧らが彼の支配の拡大に対して抵抗を試みたことに基づいており、一部の宗派には極めて富裕で強大な仏僧たちがおり、大いなる城や豊かな土地の領主であって、信長は彼らから屈強で長期にわたる抗戦を受けており、時には窮地に追い込まれることもあった。(20220908)
第48章 安土山で収め始めた成果について
安土の修道院が完成されるにはまだほど遠いが、中に入れるだけの形を整え始めたころから、説教を聞くために大勢の人々が毎日同所に集まってきて、この役を担当していた修道士たちの力だけでは処理できぬほどの盛況であった。
本年だけで、津の國・河内の国・安土と五畿内の諸地方と四千名以上がキリシタンになったが、連日、様々な武将たちが諸王動員に見物に来たので、かっらに対し、デウスについて説教し、話し合う機会を持つことができた。
説教を聴きに来た人々の中には京極高吉(1504-1581)殿と称される近江国の本来の領主がいたが、彼は領地を失ったが、信長から寵愛を受けることになった非常に偉大な殿であり、安土にあるもっとも立派な邸のひとつに住んでいた。
彼はその妻とともに説教を聴くことにしていたが、彼女は禅宗の信徒で、その教えに通暁していたのでロレンソ修道士と四十日間も議論(1581)し続け、彼女のはつらつとした才能、またやすやすと答弁したり質疑する英知には、一同が目を見張った。
ロレンソ修道士は、われらは他のいかなる理由からでもなく、ただ日本人の霊魂と心を人類の残酷な教えである悪魔から奪い、その造り主の御手と天国に返すためにはるばる遠隔の地からやってきたのであると答えたのだが、信長は、われらが談義を聴くために再び呼ぶことになろうと言い、われらの修道院が立派に完成(1580)したと聞いているので参観に赴きたいと述べた。
信長の長男は、1579年にオルガンティーノ師が美濃を訪れた時、与えた歓待と好意のほか、その領地に教会を建てるようにたびたび司祭に依頼していたのだが、自らの岐阜の市(まち)よりも先に安土山に我らが修道院を建てたことを遺憾としたが、他面、彼の父が我らの事業に深い関心を寄せているのを知って大いに喜び、自分の願いが実現されることを一層希望するに至った。(20220915)
第49章 ジュスト右近が信長に投降しときに示した英雄的行為
天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉の軍に属していた荒木村重は戦線を離脱し、居城であった有岡城(伊丹城)に帰城、織田信長に対して謀反を起こしたのだが、これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かい、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いた。
右近はまた、彼らの疑念を解くために、すでに村重に2名の人質を差し出していたにもかかわらず、さらに長男まで人質として預けるに及び、村重は一旦はこれらの説得を聞き入れ、母親を人質に釈明すべく、息子と共に安土城へ向かったのであるが、道中の茨木城に立ち寄った際、「安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき」と引き止められた。
宣教師のニェッキ・ソルディ・オルガンティノは、右近に「いかなる事があっても信長に敵対してはならない。熟考するように」と通告し、右近は「人質さえ取り返せるならそうするが、どうすればこの難事を切り抜けられるか分からない」と返答したのだが、この返答に、オルガンティノは信長がキリシタンを害するのではないかと心配した。
信長はオルガンティノに使者を遣わし、荒木方につかないなら望み通りの金子と領地を与えると伝えたが、オルガンティノは、右近が人質の処刑を恐れて動向を決めかねていること、彼の性格からして説得のために金や領地は必要ないこと、自分が彼を説得できるかどうか努力してみることを返答したが、事態は進展しなかった。
信長はオルガンティノを呼び出し、人質の奪回方法を協議し、ここで信長は、村重の差し出している人質と右近の人質を交換することを提案、同時に、もし右近の人質が処刑された場合、それが右近の逆心や野心によるものではない旨を京都と堺に掲示させて右近が名誉を失墜しないように取り計らうことや、宣教師の望みを聞き入れて彼らの布教を助ける、などの条件を提示した。
これを聞いた高山父子は「人質さえ取り返せばただちに信長につくので、摂津への進撃は4、5日待ってくれ」と答え、信長は、事を急がすためには宣教師たちを捕らえ、それを高山父子に知らせるのが得策だと考え、ジョアン・フランシスコ、ロレンソ了斎ほか2名を近江へ連行するよう命じた。
オルガンティノもこれに合わせ、ロレンソに「もはや現世では会えないと信じているかのように別れを告げた、深い憂慮と苦悩に満ちた」書状をしたためさせ、自身も説得の書状を送り、これらを受けた高槻城では荒木と荒木の家臣達への説得が続けられ、ついに「最初の領地以外は何も求めない」という条件で、信長に下る話がまとまる。
しかし信長はこの条件を許さず、オルガンティノの「人質の件が解決するまでは高槻の地を焼き払わないでほしい」という約束は受け入れたものの、11月9日、信長はついに自ら摂津へと出陣したが、 翌10日、信長は、オルガンティノを含めた京都の教会の人間全てを召還し、全力を尽くして右近を投降させるよう命じた。
万事休すかに見えたところへ、右近が家臣に説得されたとの知らせが入る。右近が見出した解決法は、人質とキリシタンの両方を救うため、剃髪して領地・俸禄・家臣全てを返上するというものであり、兵や城をもって信長に加勢するわけではないから人質は処刑されないだろうというわけである。
右近は父への書状を残すと、この策については伏せたまま「オルガンティノとロレンソを逃がしてやる」という名目を装って家臣と共に城外へ出、その場で右近は決心を語り、脇差で髪を切ってしまい、右近は二刀・肩衣・頭髪を彼らに渡すと、服を脱いで下に着ていた紙の衣だけになり、オルガンティノ・ロレンソと共に信長のもとへ向かった。(20220922)
第50章 信長が荒木一族に課した厳罰、ダリオの追放、並びに三か殿とその息子の危険
信長の要求を受け入れた有岡城では、一族の荒木久左衛門らが信長に人質を差し出し、村重を説得すべく尼崎城に向かいます。
家臣たちの必死の説得にもかかわらず、村重は信長の要求を受け入れることをしなかったので、これにより、有岡城にいる荒木一族とその家臣たちの命運が尽きた。
信長は、荒木の妻をはじめ、近親らすべて三十六名をとらえ、処刑されることになっていた法華宗の大寺院(本興寺)近くの広場で車から降ろされ、犠牲者たちに阿弥陀の名を十度唱えさせた。
だしと呼ぶ荒木の妻は、天性の美貌と貞淑さの持ち主で、常に顔に大いなる安らぎを示していたが、車を降りる前に頭上の降り乱れていた髪を結び、身だしなみをより保つため、腰帯を締め、時の習慣に従い、幾重にも重ねた高価な衣装を整えた。
更に第二の処刑は苛酷で前代未聞のものであり、この場合、全然罪なき人々に対して無慈悲な残虐さであったが、第三のの処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった。
この火刑とその責苦から、右近の父ダリオ、ならびにその娘と孫だけが免れるように命ぜられたことは、主のいとも偉大な御手の守護による破格の取計らいであり、いとも大いなる神助けであったと言わねばならぬ。
更に他の問題が、三ケサンチョ殿(伯耆守頼照)とその息子であり嗣子であるマンショ(三ケ頼連)に起こり、彼らはその際同じく生命の最後の絆を絶たれそうになったのは、多羅尾殿と称する武士が、信長に対して密かに山口の国主(毛利)と共謀し同盟したと訴えられたのである。
これを知った信長は、激怒して三箇頼連を捕縛させたが、佐久間信盛がその無実を訴えたため頼連は許されたが、多羅尾殿は執拗に三箇父子を讒言(ざんげん)したため、信長は信盛に頼連を誅殺するよう命じたが、この時も佐久間信盛が信長を直接説得して、頼連は救われたのだ。(20220929)
第51章 安土山で法華宗と浄土宗との間で行われた公の争論について
『信長公記』等に依ると、1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていたところ、法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。
霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答え、説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。
そしてこの噂が広まり、信長も伝え聞く事になり、信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。
しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、宗論に負けるわけがないと、法華宗側は驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまい、そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけた。
京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀(てつそうけいしゅう)を審判者に招き、折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。
討論の結果が信長に報告され、法華宗が敗北したことが判明すると、討論を挑んだ二人のうちの伝助を呼び、俗人でしかも塩を売って生計を立てている身でありながら、仏僧に挑むという大胆なことをあえてし、その無謀さたるや甚だしいものがあると、直ちにこの男の首を刎ねた。(20201006)
第52章 巡察師(アンドレサンドロ・ヴァリニャーノ)が豊後から都に向かって出発した次第
豊後では出発に先立って、山口の国主毛利輝元が、自領のよく船が立ち寄る港、、特に塩飽と称される日本で非常に有名な港に対して、そこを通過する伴天連はいかなる者であれ捕らえるように命じたとの報せを受けた。
そこで巡察師は、毛利の領国に添った湾を通過するほかはなく、都や豊後のキリシタンともども非常に憂慮せざるを得なかったけれど、我々の乗船の船頭は、豊後国主の家臣になってはいたものの、実は毛利に劣らず、信長に抵抗する人物であったのだが約束通り連れ出してくれた。
我ら一同は堺の市(まち)の日比谷了慶の家でもてなされ、そこから三里ないし七里のところにある諸城に知らされると、、同夜のうちに大勢の貴人たちが来訪し、一人一人に逢う時間もないほどでだった。
巡察師は、これらのキリシタンが、外面的によくもてなしてくれるのみならず、それにもまして彼らが信心の業にいそしみ、心に深い信仰心を抱いているのを見て深い満足を覚え、彼らの願いについて執成すことを断りえなかった。
四旬節の金曜日には、われらの主キリストの後受難の玄義についての説教がなされた後、男女を問わず全員が鞭打ちの苦行を行い、この苦行は詩編ミゼレレ・メイが歌い終えられるまで続けられた。 彼らは習慣通り、男女別々に分かれていとも熱心に行ったが、それをやめさせるには、鐘を鳴らして合図したり、大声で叫んでも通じないほどで、この鞭打ちの苦行は、この日本にあっては、ヨーロッパにおいてはあり得る不便さが、いとも簡単になされる。
というのは、彼らの着物は居場所から身を動かすことなく、瞬時に肩を出し胸を下方に隠すことができるように仕立てられており、同じ仕方でごく短い時間で元通りに着られるからなのだが、 これらの人々を改宗させ育てるについては、多く骨折れることがあるのは事実であるが、彼らが能力に富み、自らの救霊を切に求めており、そのための手段を探し、大いにそれを利用 しているのを見るのは大いなる慰めである。
【追伸】
四旬節(しじゅんせつ、ラテン語: Quadragesima)は、カトリック教会の典礼暦において、復活祭の40日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間を指す用語である。(20221013)
第53章 巡察師が都に信長を訪問し、同地から再度、安土山を参観に赴いたこと
信長と面会することになったヴァリニャーノは、天正9年(1581)、京都で行なわれた天皇臨席の馬揃えに招かれ、主賓といっていい待遇を受けたが、この行事が終わると、信長は直ちに安土山に帰還し、参観するように言いつけていた。
信長は、天下の主であったが、日ごろの住居は、都から十四里のところにある近江の国の安土山にあり、同国を征服すると、十二、三ヵ年にわたって諸国を支配し、全日本で最も気品があるお城であった。
信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるもので、いずれにも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達しえないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして城の真ん中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、われらの塔よりもはるかに気品があり、壮大な別種の建築でもあるが、この塔は七層からなり、内部・外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
日本の大工はその仕事に極めて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場には、しばしば見受けるように、必要に応じてここに解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができ、そのために、最初から材木だけを全部仕上げて置き、三、四日間に組み立てて打ち上げることにしているので、突如としてある平地に作り上げてしまう。
盆と呼ばれる日本で異教徒が盛大に行う祭ー夜、各家の戸口や窓に多くの灯をともし、提灯を掲げるのが習慣であるーが近づき、巡察師が出発するための許可を信長の許へ請いに行ったちょうどその際、彼は城に別の建物を作ったので、それを司祭に見せることにしており、家中を整理し清掃させた後に司祭を呼びに人を使わすと、さりげなく司祭に告げさせた。
巡察師は、生態の祝日に高槻に帰ってくると、そこで復活祭の時をはるかにしのぐ盛大な行列を催したが、それには前回を上回る多数の参加者が集まり、キリシタンたちは、行列が通過するところに、蠟燭をいっぱい飾り付けた精巧な入り口を設け、長く、まっすぐ伸びたとおりのもっとも集まったところに建てられた十字架がそれ未対応した。
これらのキリシタンが、司祭に示した好意並びに愛情は、偉大なことであり、また、述べつくせないほどであったが、彼らはなおもそれを不足とみなし、司祭に対して当然あすべきことを十分できなかったといって誤り続け、許しを請い、その彼らの真心と愛情こそは、なお一層偉大で感服させられることであった。(20221020)
第54章 巡察師がフロイス師に命じた越前国への布教について
右近の父ダリオは、荒木村重謀反の際に村重側に付いたとして、信長は彼を越前に追放したが、 父ダリオは落胆するどころか、ますます布教の情熱を燃やし、自分達夫婦の信仰と、越前でのキリシタンの布教のために、司祭を派遣するよう要請した。
巡察師ヴァリニャーノは、ダリオを都地区のキリシタンの大黒柱と考え、越前国は都から四十里近く離れているとはいえ、日本におけるもっとも高貴で主要な国のひとつであり、五機内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた。
ダリオとその妻マリアは並々ならぬ鄭重さと喜悦をもって司祭を迎え、彼らが流す随喜の涙やその徳操なり愛情は、異教徒たちを感心させ、司祭を少なからず困惑させもしたが、直ちに国主(柴田修理亮殿)を訪ねるように手配した。
「予はすでに年老い、禅宗の信徒であるが、尊師はこの機会に当国において教えを説いても差し支えないし、もし司祭館や教会をこの地に造ることを望むなら、好みの場所を示せば、そのための地所を献じよう」
府中のリアンが、司祭を見送りに乗っていた馬が、突然暴れだし地に投げ出された彼を、脚で踏みつけ、噛みつき始め、頭にいくつかの傷を負わせ、窒息させるかのように首を銜え、血だらけで瀕死の状態にして彼を置き去りにした。
「わたしはもはや告白を終えており、死ぬようなことがあっても主なるデウスは、たとえわたしがふさわしくなくとも、天国をお与えくださるものと確信しており、このような出来事があったからと言って、騒動を起こしかねまじき異教徒の真只中にお留まりなさるな」
リアン夫妻は、自分たちの苦しみよりも、司祭がつらい思いをして帰っていったことをより一層悲しみ、それが為、リアンが少しでも良くなると、直ちに司祭の後を追って使いの者をおくり、彼が回復に向かっている旨を随時報告させた。
体が良くなると、直ちに巡察師に逢い、司祭と修道士かの地に派遣してくれたことに謝意を表すため、越前から馬で三・四日の旅をして安土山にやってきたが、まだ首を自由に回すことができないまでも、喜悦と満足あふれる態度は、一同に深い感銘を与えた。(20221110)
第55章 信長がその富、権力、身分のために陥った大いなる慢心と狂気の沙汰について
彼は戦争においては大胆であり、寛大、かつ才略に長け、生来の叡智によって日本の人心を支配するすべを心得ており、後には公方まで都から追放し、日本王国を意味する「天下」と称せられる諸国を征服し始めた。
彼は近江国の安土山に、実に見事で不思議なほど清潔な城と宮殿を造営し、彼が最も誇っていたことのひとつは、その邸の美麗さと財産、並びに七層を数える城塞で、麓に設けた市街は、ますます発展し、既に一里、もしくはそれ以上の長さに達している。
「時に御身らに対する反対者の陰謀が大きく、予の許で頻繁に偽証するものがあるが、予は伴天連たちの行状を承知しており、その教えが善良で真実であることをわきまえているので、予が生存中は何人の嫌がらせも妨害も御身らは受けはしないであろうし、自領内でデウスの教えを説き、教会を建築することを保証する」
かくて信長は、戦争において順調に成果を収めていたので、彼がいまだ武力を行使したことがない、坂東地方の多くの諸国までが、彼の支配下にはいることを申し出たほどであり、それらすべてが、造仏主の御手から授けられた、偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になる所か、いよいよ傲慢となり、その乱行と尊大さのゆえに、破滅するという極限に達したのである。
司祭たちを援助し、教会を建てるために地所を提供したりして、彼らに対し深い関心と愛情を示してきた城介殿(織田信忠)は、時勢に順応し、父を喜ばせるためか、同じく悪魔に欺かれてしまった。
父とともに甲斐国の武田を討伐して帰還した際、かの地で大いに尊崇されていた一つの偶像を持ち帰り、尾張国に安置して礼拝することを命じ、愛宕と称せられる山にある悪魔に、二千五百クルザードを献納した。
信長はかねて数年にわたって交戦中の毛利との戦争にも早く決着をつけ、その領土を征服しようと望み、身分も低く、血統も賤しいが、悪賢く、戦争に熟達した羽柴筑前なる人物を、かの地に派遣していた。
そこで羽柴は、信長に書を贈って援助を乞い、別に二万ないし三万の兵があれば、十三か国のすべてを占領し、毛利の首級を献じようと述べ、信長自身も、その暁には、シナを武力で平定し、諸国を子息たちに分かち与える考えでもあった。(20221117)
第56章 明智が謀叛により、信長並びに後継者の息子を殺害し、天下に叛起した次第
彼(光秀)は、特に安土で信長から、毛利との戦いにおける羽柴を援助するため、七、八千の兵を率いて、直ちに出動を命じられた武将の一人で、そこで受理していた接伴(せっぱん)役を放置して、兵備を整えるために直ちに丹波国へ出発した。
そして兵士を率いて都から五里離れた亀山(亀岡市)と称する城に向かい、従軍の兵士たちは、毛利との戦いに赴くのに通らねばならぬ道でないことに驚いたが、抜け目のない彼は、その時まで何人にも自らの決心を打ち明けていなかった。
彼は最も信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明し、とりわけ彼は自らは蹶起させるやむを得ない事情と有力な理由があったので、信長とその長男を過つことなく殺害し、自らが天下の主になることを言い渡した。
すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような謀叛に備えるようなことには遠く及ばぬ状況にあり、兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、さらに信長の三男は、一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四か国を征服するために出発している。
このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、既に同所から仏僧を放対して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に達すると、明智は天明(早暁)前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。
この件で特別な任務を帯びたものが、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長刀を手にして出てきた。
そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼は直ちに御殿に放火し、生きながら焼死したといったが、火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。
我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず骨と言わず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである。(20221124)
第57章 この争乱のより、司祭・修道士、および安土の神学校が受けた難渋と危険について
オルガンティーノ師たちが山に銀を送ったのは、たとえ教会の物品を何一つ回収できなくても、そうすることによって、実際に同所にいる多数の人々の生命の安全を保つためには、泥棒たちがそれを見つけなければよいということのみが最大の願いであった。
こうした時、しかも気づかれるかもしれない笈なる危険を冒して、銀と装飾品を山へ運搬した件(くだん)の若者は、身をもって示したその忠実さと愛情のゆえに、われら一同には、デウスが遣わしたもうた天使のように思われた。
彼らを救出するためにデウスが用いたもうた方法は、あるキリシタンは明智と昵懇の間柄にある異教徒の甥を持っていたが、彼はこの異教徒の甥に宛て、特に一書をしたため、われらに便宜を計ってくれるように依頼した。
その結果、まだ安土に居た日本人の修道士ヴィセンテとともに、彼は大いなる熱意と周到さをもって、人々を連行するための安全な船を同島(沖島:琵琶湖)へ派遣することについて交渉し、われらがその船を観た時の歓喜は言葉に尽くせぬものがあった。
ところで、ジュスト右近殿を説得するよう懇請された司祭は、状況に鑑み、非常に快い返事をしたが、要請を命じられた件に関しては件に関しては、日本の文字でしたためたものと、ポルトガルの文字で書いたものを用意したのである。
明智が、同所から一里のところにおり、しかもキリシタンの武将たち、とくにジュスト右近殿が自らの敵であることを知りながら、彼らと争うに至らなかったことも決して小さなデウスの御摂理ではなく、万事において我らの主なるデウスが、諸計略から彼らを救い給うたのであった。(20221201)
第58章 明智の不運と十一日後の死去について
ジュスト(右近殿)が高槻に到着すると、キリシタンたちは皆蘇生したようになり、彼らは直ちに明智の敵であることを宣言し、信長の息子の三七殿(三男:信孝)と毛利の征服者である羽柴とともに、復讐については団結しており、ともに明智討伐に臨む覚悟でいた。
当地方の主要なキリシタンを有する河内と津の国のすべての武将たちが合流したが、三ケ頼連(よりつら)殿だけは、明智が彼に河内国の半領と、兵士たちに分配する黄金を摘んだ馬一頭を約束していたので、彼の側に味方した。
明智は都から一里の鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝竜寺と称する、都から三里離れた非常に重要な一城を占拠しており、彼はその辺に居て、自分の許に投降してくる者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見極めようとしていた。
右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門をたたき始め、そこで右近殿は、この上待つべきではないと考え、勇敢で大度のある右近は、デウスを信頼し、戦闘においては大胆であったので突撃した。
哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに、奥の金の棒を与えるから、自分を坂本上に連行するように頼んだということであるが、彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねた。
デウスは、明智が日本中をかく乱するほどの勇気を持ちながら、残酷な叛逆を遂げた後には、十一日か十二日以上生きながらえることを許し給わず、彼はこのようにして、実に惨めな最期を遂げた。(20221207)
第59章 日本のもっともすぐれた学者の一人で主だった医師である、都の住人曲直瀬(まなせ)
道三の改宗について
曲直瀬 道三(1507年 - 1594年)は、その治療の巧みなことで有名で、都において何年も前から公に自宅で医業に従事し、既に70歳を越えているが優れ、かつ健康な体質に恵まれており、もとより思慮深い人で、秩序ある生活を営み、行いも立派で、話をする態度に飾り気がなく好感が持てた。
その道三を、天正12年(1584)、京の都のキリスト教学院の上長、ベルショール・デ・フィゲイレドが治療のため訪れ、意気投合し、話は当然キリスト教の話題となりましたが、その話に完全に納得はしなかった道三は、ともかく長く閉じこもっていた家を離れ、教会を訪れることには同意しました。
司祭は、「宇宙万物の上に、不滅、かつ栄光の生命の源があって、それこそ天地の創造主であり、その絶対の主であり、この主の恩寵によって、霊魂はまた永遠に生き、扶(たす)かりを得、無限の知恵であり善であるこの源が、宇宙の全被造物の各々に、その存在・生命・才能を与えるのである」
「御身に申している、この宇宙万物の創造主のことを、禅宗で説く諸物の本源のようなものとは夢々お考えにならず、彼らによれば、その本源から諸物が生じ、後に再びその同じ本源に諸物は還元するということだが、その混沌は、禅宗の人々も主張しているように、知恵も生命も善もないのだから、己にないものを被造物に与えることはできぬ」
道三が、キリシタンに改宗したとの報せは、日本全国最高の国王である天皇の耳に達し、その件は、デウスの教えの敵である異教徒たちによって、天皇の許では悪意に解釈されたので、天皇はそのことで一人の使者を遣わした。
「キリシタンの教えは道三を弟子とするには相応しからず、それは日本の神々の敵であり、悪魔呼ばわりし、まさしくそのお怒りを招く教えである」と述べたが、「キリシタン宗門は、徳を説き、全てにおいて公正なことを教えるものです」と答えた。
道三はこの使者が来たことを直ちに協会に通報し、使者をして次のように忠告させたー「もし今まで日本の神々を悪魔と呼んでいたなら、今後、天皇並びに貴族に対する尊敬の念から、そのような呼び方をせぬ方がよいであろう」
「日本の神々について語るときには、それらは死すべき人間と同様のものであると言い、その力や功徳は人間を救いえず、また現世のことに対しても何ら利用するところはないものだと説明するがよい」と付け加えた。(20221214)
第60章 グレゴリオ・デ・セスペデス師が、小豆島で行なった布教、および五畿内地方で生じた異常な地震について
1585年、豊臣秀吉はキリシタン大名の小西行長に小豆島を領地として与えたが、翌年大阪の神学校にいたグレゴリス・セスペデスを島に呼び寄せて布教させ、1人のキリシタンもいなかったっけれど、1カ月たたぬうちに1400人以上の信者ができ、高さ15m以上の十字架を建て、神仏は残らず破壊し、行長の自費で聖堂を建てたといわれる。
こうしてセスペデス師は、小豆島のキリシタンに別れを告げ、彼らを励まし、島に居たアゴスチイノ(小西行長)の名代を務める、かの善良なキリシタンの貴人に彼らのことを委ね、自らは室の港(兵庫県たつの市)に向け出発し、司祭はその地で十日間滞在し、百二十名ばかりが受洗した。
1586年、堺と都からその周辺一帯にかけて、極めて異常で恐るべき地震(天正地震)が起こり、それはかつて、人々が見聞きしたことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど、凄まじいものがあった。
というのも、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁外れに大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与え、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし茫然自失の態に陥り、堺の市(まち)だけで三十以上の倉庫が倒壊し、下敷きになって死ぬのを恐れ、何びとも家の中に入ろうとしなかったが、そのあと四十日間、地震は中断した形で日々は過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音(ごうおん)が地底から発していた。
近江の国では、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が飲み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰し、若狭の国では、海が荒れ立ち、高い山に似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら、猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲い掛かり、殆ど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(20221221)
第61章 迫害をしって五畿内の司祭らが平戸に向かったこと、および報せを聞き、同地方のキリシタンが行ったことについて
司祭たちが五畿内で、暴君(秀吉)が右近殿を追放したことを知ってから二・三日を経て、関白秀吉がイエズス会の司祭および修道士全員を追放することになったとの報せが届き、その噂は、恐怖と驚愕を伴うのが常であって、人々は、暴君が着けば、キリシタン全員に棄教を命じ、それに従わぬものは磔刑に処するか直ちに司祭たちとともにシナ(マカオ)へ追放することになろうと言っていた。
告白をし聖体を拝領する人たちは口々に、「伴天連様、わたしは死に備えてこれを行うのですが、わしは畑で野良仕事をしていましたが、このたびの出来事について話を聞き、告白をして準備の準備をしようと、何もかも放ったまま急ぎ駆けつけてきました」と、告白を終えると、「女房も準備しなくてはなりませんから、連れに行きます」と言い、連れられてきた農夫の妻も告白を済ませた。
ある老人は、「たとえわたしを捕らえに来るようなことがなくても、わたしはゼウス様の御恵みによって、真っ先に出て行く者の一人となって、わたしのために、先に十字架で磔になりたもうたイエス・キリスト様への愛のために磔刑に処していただきたいと願い出る覚悟でおります」と答えた。
さらに都には、メシアという教名の名望があり、かつ有徳な夫人がいたが、「皆さんはわたしがキリシタンであることをご承知ですから、わたしは余所へ逃げたり財産を隠したりすべきではありませんし、それどこかわたしは喜んで自分の全財産と生命をば、デウス様への愛のためにお捧げ申し、デウス様の偉大な御手から永遠の生命の報いを得る覚悟でいるのです」
関白夫人の北政所様は、このたびの迫害を知ると、司祭たちが五畿内を出発するに先立って、食料品の贈物を携えさせ、深い愛情と尊敬をこめて、人をして司祭たちを訪問せしめ、われらの仲間たちに大いに同情した言葉を述べ、関白が五畿内に帰ったら、自分のできる事なら何でも御身らのために執成そうと約束をした。
司祭を乗せた二隻の船は、関白の兵士たちが載った多数の軍船に出会ったが、ただの一隻として司祭に対して無礼な言動を働くものはなく、むしろわれらの無実、並びに暴君の非道な悪意を知っているので同情を示し、軍団に加わって帰途にあった多くのキリシタンの将兵は、キリシタンであるという点に関しては、一点たりとも変えることはないから心配なさらぬようにと告げた。(20221228)
第62章 丹後の国の貴婦人にして明智の娘であり、異教徒細川越中殿の奥方なるガラシアの改宗について
天正15年(1587年)、たまたま日本では、彼岸と称される時期にあたり、異教徒の間では霊場巡りをするときで、人々は寺院へ説教を聴きに行ったり、貧者に施しを行ったりして、ちょうどわれらの、聖週間のようであった。
そこで奥方の親しい者、また内輪の者のうち、6・7名が、奥方を見つからないように、自分たちの間に取り囲んで、番人がいる、開かれた門から出て行くのではなく、奥方がカギを持っている、人通り少ない小さな傍門から出ることにした。
教会につくと、幸運にもその日はちょうど復活祭にあたり、折から正午過ぎであり、奥方は教会を眺め、とりわけ彼女の眼に、美しく映じた一枚の救世主の新しい肖像を喜び、室内の装飾、祭壇の造作と清潔さ、教会の地所なども彼女を非常に満足させた。
ところで、人々の彼女に対する応対ぶり、彼女の華麗な身ごしらえや品位などは、何よりも彼女が高貴な人であることを物語っていたので、大坂の教会の上長の司祭は、彼女の侍女の幾人かに、かの夫人はいかなるお方かと訊ねてみたが、口外する者はいなかった。
越中殿の奥方は実に鋭敏で繊細な頭脳の持ち主であったから、彼女は次のような二つの大いなる悩みの中に置かれ、その一つが聴聞した話に関して生じてくる疑問を解決したいという願望と、もう一つの悩みが時間のないことであった。
かくて彼女は多くの質問を持ち出し、さらに霊魂の不滅性、その他の問題について、禅宗の幾多の権威を振りかざして反論を試み、コスメ修道士は彼女の頭脳の敏活さに驚き、これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかったと漏らした。(20230104)
第63章 オルガンティーノ師から届いた別の諸書簡について
小西アゴスティノ(行長)殿が、わたしに申したところによりますと、小寺官兵衛殿(黒田孝高)はアゴスティノに、関白の弟、美濃(秀長)殿は、暴君の命令で、右近殿をその配下とし、望みえる最良の地で、六万俵の俸禄を与えようとして彼を召喚させたと告げたということです。
この問題についてわたしが、ジュスト右近殿に話をしましたところ、彼には、デウスに仕え、己が霊魂の救いを慮ること以外に何も見受けられませんでしたが、私が思いますには、彼らは右近殿を坂東の戦の前線に送ろうとして召喚しようとしているのであると・・・。
関東勢は防備を固めつつあって、この暴君(秀吉)の友になることは到底ありえず、こんどこそはこの悪魔(秀吉)が滅亡することを主において期待しており、関白秀吉の傲慢さは信長のそれをなお一層しのいでいる有様で、関白は己を神々の一とみなし、内裏の母君すらも己が側室にするほどで、しかもその悪行を全うするについて、それでもなお足りずとしているからです。
関白が大坂と淀と都で着手した事業のために、皆が味わわされている大いなる苦悩は前代未聞のことということができ、それが為全ての人々が貧乏となり、借金だらけで、質に身を縛られており、兵士たちはすでに持ち物を売りつくし、飢餓に悩まされていますので、都やここらの街道では、公然とすこぶる奇怪な盗賊を働いて生命を繋いでいる次第です。
「一つの十字架から逃れる者は、いつもほかのより大きな十字架を見出す」という言葉を、ガラシアは理解し、その結果、落ち着きを取り戻し私宛の書状や伝言からして、あのようなことを興すことはなさそうです。
これによっても、われらの主となるデウスが彼女の霊魂にお恵みを授けたもうたことは明白で、それについては、人々の間に噂が広まらないよう、ここでは割愛し、後に機会があれば記すことにします。(20230111)
第64章 都地方の幾つかのことについて
この1588年、当地方のイエズス会および日本のキリシタン全員は、未だかつてなかったほどの、深い愛情と祈願をこめて、巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ師とその同僚たち、並びに日本人貴公子(遣欧使節)たちの来着を待ち望んだ。
豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国、使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
暴君関白は、都の市(まち)に、かつて見られなかったような建造物とっか豪華な諸建築を次々に完成し、日々新たに増築していき、市に平屋の家が一軒として存在することを許さず、全ての家屋が二階建とされるように命じた。
所で、関白には信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室との間に男児が生まれたということだが、日本の多くのものがこの出来事を笑うべきこととしているというのも、兄弟や甥にせよ、子宝に恵まれていなかったので、その子どもが関白の子であると信じる者はいなかった。
右近殿の父ダリオも、妻とともに息子と同じ加賀の国の別地に住んでいるが、ダリオの徳行・深慮・稀有の才能のことを聴き及び、自分の息子の付け人、また後見人として、ダリオを城に置き、その息子はダリオを大いに信頼し愛情を示すに至ったので、深い知識と慎重さを以って、ひそかにデウスのことを領主の息子に説いていった。
領主であるその父前田利家は、キリシタンの教えを嫌悪しており、目下は病床に伏しているが、その父親が亡くなれば、直ちにダリオは、われらイエズス会院のいずれかの説教師を呼んで、城中で一緒にいるこの嗣子(しし)に、カトリック信仰を教育させることになろうと、派遣されたキリシタンは確信している。(20230118)
第65章 都地方に関すること、並びにその状態について
都地方においては、キリシタンの熱意と信心は、常に他の地方に優っていたが、このたびの迫害期にあっても同じことが窺え、そこは関白の膝下であったので、キリシタンたちは司祭とともにいることができず、われらの修道院や、彼らが多大の犠牲を払って建てた教会もすべて破壊されてしまった。
彼らがかつて信長の時代に有していた教会の主要な柱であり、主でもあった人々は、戦争やこのたびの迫害でその所領を失ってしまった、高山ジュスト右近殿・池田シメアン丹後殿・三ケマンショ殿、および結城ジョアン殿らがそうで、彼らは先にはその城や領地に、繫栄したキリシタン宗団を要していたのである。
そのうち、ジョアン殿は戦死(1584年、小牧長久手の戦い)し、関白は他の諸侯に対しては、その領地を没収してしまったので、そのため彼らは財産を失い、その他のキリシタンたちも、ことごとく親族や家来をなくし、その結果、この都地方の全キリシタン宗団においては大規模な離散が行われた。
しかるに至聖なるカトリック信仰とわれらのキリシタン宗門は、これらキリシタンの胸中に深く根を下ろし教化な基礎を築いていたので、キリスト宗団は消滅しなかったばかりか、このように拡散することによってむしろ一層広がってゆき、われらの聖なる教えの信用と評判はあらゆる地方においてさらに高まった。
ジュスト右近殿は、このたびの迫害で領地を失い、一年以上も幾多の、いとも大いなる辛苦をなめたが、以前にも優る名声を博し、われらの主は、このように彼を試練させた後は、再び取り立てて加賀国に住まわせたもうた。
池田シメアン丹後殿も、また領地は失いはしたものの、全く見放されたわけではなく、彼は勇敢な武将として知られていたので、今や天下の主である、関白の甥(秀次)が彼を部下として受け入れていたのである。
三ケマンショ殿もまた戦争で城を失ってしまったが、他の大名(?)が彼を家臣として受け入れて六千俵の封禄を与えたので、彼はその邸で十分な暮らしを立てており、このたびの戦争では優れた戦果を収めた。
中でも小寺(黒田)官兵衛は、シメアンと称し、ごく短期間に驚嘆すべき事業を成し遂げ、彼は軍勢とともに豊前国に居た折に、おびただしい数の、かつ優れた改宗を実現し、今や領主になっている息子がキリシタンとなり、彼みずからは豊後の国主である。
安威 了佐(あい りょうさ)は、豊臣秀吉の秘書であり、洗礼名シモンと称し、摂津国安威城主で、小西行長らと共に、宣教師以下のキリシタン勢力を豊臣秀吉に結びつける役割を果たしており、伴天連追放以後も、キリシタンサイドの役割を担い続けていた。
小西アゴスチイノ(行長)は、オルガンティーノ師に対して、関白殿の態度が緩和したならば、自分の土地、また両国にいるすべての伴天連を扶養するに足る、じゅうぶんな収入を与えるであろうと約束した。(20230125)
第66章 多数の人々が(巡察)師を訪ねてきたこと、およびかの都地方のキリシタンが、司祭なしに信仰を良く保ちえた次第
巡察師は、関白が尾張に向けて出発後、二十二日間、都に滞留し、この間に、各地から来たキリシタンの男女数はおびただしく、巡察師が宿泊している家には、まるで切れ目のない行列ができているようであったが、関白が時を経ないで、尾張の国に出向いたことは、デウスの御計らいと思えた。
この動きを見たポルトガル人たちは、この迫害時に、しかも異教徒の真只中にあり、関白殿がキリシタンと司祭らに対し、明白な禁令を出しており、この都にあった多数の教会や修道院が跡形もなくなくなっているにもかかわらず、かくも大勢の人出とその信心ぶりを目の当たりにして驚嘆した。
巡察師はまた、いろいろな異教徒の殿たちを訪問させるとともに、自らも訪問を受けたが、最も巡察師自身は、官兵衛殿以外には誰も訪ねはしなかったが、都では、関白の甥で、後嗣でもある大納言(秀次)を訪問させ、百クルザード以上の価値がある日本の反物の豪華な贈り物をした。
九か国の領主であるので、領地と財産においては今までのところ、関白に次ぐ日本最大の大名である毛利輝元殿にも、また関白の一養女を娶っている三カ国の領主である宇喜田八郎秀家殿に対しても同様にした。
ある人々は、ひそかに説教を聴きに来たが、彼らのうちには関白から大いに信頼を受けている側近者で、三カ国の領主でもある前田又左衛門の嫡子(利長)もおり、既に一カ国(越中)を統べ、ジュスト右近殿の父ダリオを召し抱えており、彼らと話すことにより、われらの教えに次第に親しむようになり、教理の説教を聴くことを希望した。
飛騨の蒲生殿(氏郷)も巡察師を訪ねてきたが、彼は信長の娘婿で、関白が迫害を開始する少し前に、大の親友であるジュストの執成しによって受洗していたが、関白は、伊勢国の一地方の領主であった彼に、日本の端にある奥州において、初めの所領の十倍以上の領地を与えたので、今は日本で最大の大名の一人になっていた。(20230201)
第67章 都から他の地方に対して行われた第三回目の布教について
都に滞在中のオルガンティーノ師、また日本人修道士ファンカン・レアンによって行われ、両名はキリシタンたちを慰め励ますために各地を巡歴したが、巡察師が都に滞在していた時に告白を済ませた人々と、その後、オルガンティーノ師が告白を聴いたほとんどの人々が慰めを受けた。
レアン修道士は引き続きいくつか遠隔の地で布教を行い、美濃と尾張の国々に居たキリシタンを訪れたので、彼らは大きな喜びに接し、オルガンティーノ師が都で洗礼を授けた人々以外にも、このたびの旅行において、二百名以上の異教徒が同じく彼の説教によって改宗した。
レアン修道士が美濃国に居た時、ルイス・サスケ殿というひとりの貴人がおり、この人にはカタリナという妻がいたが、、彼女は夫に劣らず有徳の優れたキリシタンで、われらの主は、恰もかの地のキリシタンの救済と慰安のため夫妻をそこへ派遣佐r多様であった。
というのも、戦争のことに係わらなくてもよいカタリナは、夫のように、これら貧しいキリシタンたちに、信仰を守らせることや、彼らを援助することに専念し、しばしば彼らを呼んで来させては施しを行い、弱い人々を励まし、悩めるものを慰め、日曜日ごとに食事を与えていた。
美濃の国には、キリシタン伝道の初期に虎之助シルベステレというひとりの貴人がいたが、信長に重んじられ、関白とも昵懇でしたしくまじわっていたところ、信雄の配下にとどまっており、関白とも幾たびか戦ったため、ついにこの人物も追放され、その有していた三カ国も没収されたのである。
時に関白は、彼について話をすることがあり、そこで彼の友人たちは、折を見て関白の目に触れるようにと勧告し、ぼろをまとい身をかがめて待機していると、関白は一瞥するなり、彼を呼んで幾つかの言葉を交わした後、𠮟責しながらも、毎年千俵の禄を扶養費として与えたので、キリシタン一同これを大いに喜んだ。
過日、新関白秀次は、美濃の国に出向いた時、ショウヤ・コスメと称する五畿内中で最も有徳で古いキリシタン貴人を伴ったが、このたびの迫害が始まると、彼は今ひとりのキリシタンの池田丹後シメアン殿とともに、当時は孫七郎(秀次)殿と呼ばれていた自分たちが使える主君に、公然と次のように言った。
「われら両名はキリシタンであって、キリシタンとして死ぬ覚悟があります。この度関白殿は、伴天連様方を追放に処せられたが、殿が我ら両名を政庁にとどめ置かれることを、関白殿が快く思われぬかもしれぬ故、お暇をいただく許しをいたした」と言えば、「キリシタンとして生活して差し支えぬ故、予に仕えることを思いとどまらぬことなきように」と答えたという。(20230208)
臺68章 当年(1593年)、都地方で生じたことについて
この所司代であり、老関白の大の寵臣でもある前田玄以法印が我らに示してくれた好意が、われらを守ってくれたのだが、この人物は異教徒であって、初め吾らに対して幾分反感を抱いていたがデウスの御業とお計らいにより、彼はわれらの友となり、インド副王の書簡と贈物の件で交渉してくれた。
老関白の許可によって、玄以法印をはじめ、全てのキリシタンとわれら(司祭・修道士たち)はいっそう安堵するを得て、オルガンティーノ師は、こうした玄以法印の好意によって、その地の顔役で著名なひとりのキリシタン御家の傍らにそのキリシタンの名義で一屋を購入し、自分なりに内部をしつらえよく整ったれがを作った。
司祭たちは小寺官兵衛殿(黒田孝高)を訪問し、少しばかり保存食を送ったところ、その食物を関白殿(秀次)に届け、関白は直ちに、「予は伴天連オルガンティーノを存じており、上洛したことをうれしく思う。できるだけのことをして便宜を計って進ぜよう」と答えた。
自分の伯父が司祭たちに対しあまりにも国であったことに遺憾の意を表明し、「キリシタンたちは、日本を立派に統治していく上に妨げにならぬばかりか、予はその教えをよく理解しているが、それは彼らの主人に忠実で従順であるよう命じるものであることを承知している」
1593年の去る9月に、関白(秀次)は司祭たちに対する慈愛の気持ちを好意を以って示そうと欲し、司祭たちが思いも及ばなかったときに、彼らの生計のためとて、百タイスまたはエスクードに価する米二百俵を付与するよう命じた。
だが、何にもまして評価すべき点は、われらが、彼の伯父によって追放されているという時に、このように大いなる愛情と好意を示されたことであり、それはすべてのキリシタンにとって笈なる喜びの糧となり、異教徒たちにはそれに劣らず驚嘆の的になった。(20230215)
第69章 この頃に行われた幾つかの布教による成果について
第一の布教は、クリストヴァン・モレイラ師が一人の日本人修道士とともに、豊後国が破滅させられるの先立って同国へ派遣され、志賀ドン・パウロ殿に、妻マグダレナの大きい喜びのうちに一子が誕生したことにあり、ドン・パウロが朝鮮にいたときに出産したので、子どもに洗礼を授けるとともに、かの地のキリシタンの告白を聴き、彼らを慰めた。
そこから、肥後国に行き、小西アゴステイノの所領である矢部城を訪れ、城主である結城ジョルジ弥平次、アゴステイノが自ら領する肥後半国の管理を委ねている一奉行、およびその妻マルタの許に数日間留められ、彼ら、および城にいたほかのキリシタンたちの告白を聴き、彼らを慰めた。
こうして司祭が、住み着いていた加津佐に帰っていくと、口之津の町全体が一種のペストに似た病に侵されているのに際会し、その病気は、朝鮮からその地に着て死亡した一人の男と、同時に故郷で治療しょうとして同人とともに帰ってきた別の患者たちによってもたらされたのであった。
この病気は、ひとたび感染すれば最後、家族一同を全滅させずにはおかぬほどの勢いで蔓延し、そこでその地の為政者たちの命令により、患者たちはさっそく人々との接触を一切禁じられてしまったので、大勢のものは全く見捨てられたまま死んでいった。
モレイラ師は、この異常、かつこの上なく助けを必要とする事態に駆け付け、少しも動ずることなく、自信をもって患者がいるところに入っていき、彼らの告白を聴き、立派に死ねるように援助した。
このようにして司祭は、原子から旅立っていった多数の人々に、教会の秘蹟を通じて精神上の健全さを授与したのみならず、他の大ぜいに対しては、彼らが見放された状態にあったときに必需品を携えて行って彼らを救け、その肉体的健康をももたらしたのであった。
第二の布教は、太閤様がいた名護屋城で数度にわたって行われ、その地に参集していた多くの殿たちのうちには、ジュスト右近殿、立佐の息子ベント、およびその他のキリシタン貴人や兵士たちがいたので、1593年の四旬節に至る十一日間、大村から一司祭が赴き彼らの許にとどまった。
名護屋では、ポルトガル人の修道士ジョアン・ロドゥリーゲスと日本人修道士コスメがそこへ派遣されたとき、彼らは寺沢(志摩守)と和解し、友好関係を得ることに成就し、われらを大いに重んじ、長崎の教会と修道院を返還して、そこに十名の司祭の認可をほのめかした。(20230222)
今は太閤様と山口の国主(毛利てえる元)に次いで、日本で最も強大な大名、徳川家康はかねがねジョアン・ロドゥリーゲスのことをいくらか知っていたが、ある日彼を召喚させ、その際、学者として誉れの高い二名の僧侶と一緒にいた。
そして修道士と僧侶の間で、現世における天の主の摂理について、論議が交わされ、僧侶たちは、「現世にあるものはすべて偶然か自然に生じるのであって、人間をば好むままにふるまわせている」と、天の主の摂理と言ったものが存在することを否定した。
修道士は唯一の創造主が存在し、その創造主と被造物が同一物であるなどあり得ぬことで、あらゆる被造物は、この創造主の聖なる摂理によって支配され統治されていることを示し、仏僧たちは論駁され、修道士の言葉に対して言い返すすべなく沈黙してしまった。
修道士は、天国にある優れた別世界を除けば、天の下にはこの世以外にいかなる世もないことを示し始め、そのことを道理により、またそれを立証する、日本までの航海の経験を通して彼らに教え、それに対して仏僧らは何と答えてよいかわからなかった。
家康は、「太閤様が伴天連たちにとった言われない所為についてはよくわかったいる故、援助したい気持ちは十分に抱いているのだが、目下のところそうした余裕がなく、もし予の領国に赴いて住むようならば、門戸が開かれるまで、予が彼らを十分にかくまって進ぜよう」と言った。
修道士たちは、それに対して感謝し、その時には殿の国に参り、殿から多くの恩恵と援助を賜ることを希望しているというと、家康は、われらのことに関しても、また、彼ら修道士たちが語ったり説教したことにも深い満足を示した。(20230301)
玄以法印は、伴天連たちとその説いてる教えを絶賛し始め、日本の仏僧たちの非行について次のように述べたー「予は彼らを熟知しているが、まるで詐欺師で盗人だ。表立っては一つのことを言い、心の中では別のことを考えている。彼らが言っていることはみんな嘘だということは、次の一事を以って足りる。
即ち彼らは、人間はいかに多くの悪行を重ね、好きなだけ罪を犯そうとも、自分たちが頼っている仏の名、南無阿弥陀仏を唱えるだけで罪から解放され、許され、救われると断言している。それこそ全く道理に反することは明白だ。だがこれはすべて、人々の財産をかすめ、己のものとなさんがための方便なのだ」
一夜を過ごそうとして立ち寄った一軒の家には、たまたまキリシタン婦人がおり、その夫と姑は異教徒であったが、「阿弥陀は他の人間と変わらない、死すべき一介の人間に過ぎない。阿弥陀は、自分を生んだ両親や妻子をもった人間であったことは、あなた方が認めている通りである。だから阿弥陀は、創造主でも人類の救い主であり得るはずがない」と説いた。
阿弥陀が人を救うために四十八の誓願を立てたということが書かれていることを明白に教え、請願はそれを立てるものよりも優れたものに対して立てるものであって、このことを指摘された両名は、阿弥陀の教えそのものによって、実は別の方を認めていたことを確信するに至り、その優れた方が天上の主であることを悟ったのである。
「わたしたち(ヨーロッパ人)の食物もっ彼らの間ではとても望まれております。とりわけ、これまで日本人が非常に嫌悪していました卵や牛肉料理がそうなのです。太閤様までがそれらの食物をとても好んでいます。
このように、ポルトガル人の品々が彼らの間で大した好評を博するようになりましたことは、全く驚くべきことなのです。このことから、わたしたちの聖なる教えに対しても彼ら(日本人)が馴染むように至りますよう、願わくばわれらの主、望み給わんことを」(ある一通の手紙より)(20230308)