三 万葉集

『万葉集』は日本最古の歌集であるだけでなく、ほとんどの日本文学研究者の意見では日本最高の歌集でもある。

さらに、『万葉集』の歌にも暗示は見られるが、読者の印象に残るのは、歌人の体験と心情を直截に表現した歌だからという。

 

『古事記』と『万葉集』の歌の違いは、歌の機能についての考え方の違いを反映してるほか、日本国内の政治的・社会的発展にも起因する。

大化の改新から十五年後の660年、当は朝鮮半島の百済を征服したが、百済から日本へ大量の渡来人が流入したのは幸いであった。

 

固有の文字を持たない日本で、歌を構成するすべての言葉を、大和言葉として読もうとすれば、大和言葉の音を表記する以外にない。

漢字はここに、表音文字として使われ、時に表意文字として使われるようになったというのだが、口承されない万葉歌の読みが怪しくなったり、解読不能になったりした。(20200914)

『万』『葉』『集』と言う三つの表意文字は、文字どおりには“万(よろず)の葉の集まり”であり、歌集に収められた四千五百十六種と言う歌の多さを比喩的にいっていると、従来、説明されてきた。

だが、『万葉集』が編纂された時代に、「言の葉」という言葉は存在しなかったという反論がある。

 

序文がなく、編纂の事情を記した文章もないため、古い記録に頼るか、収められている歌自体に手がかりを求めなければ、ごく基本的な事実さえ確定できない。

編者に言及している最も古い記録は、十一世紀になった「栄花物語」と言う歴史物語で、そこには753年、孝謙天皇(718-770)が左大臣橘諸兄(684-757)に『万葉集』の編纂を命じたとある。

 

とはいえ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、大伴家持(718-785)の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。

だが、“万葉の時代”と呼ぶのにふさわしいのは、飛鳥・奈良時代と言うことになろうが、いちばん古い歌は、仁徳天皇(古墳時代)の磐姫皇后の相聞歌である。(20200917)

第1章 初期万葉(645-672)

集第1期を、「詞(ことば)の嫗」が活躍した時期と呼んだのは中西進で、宮廷の公式行事で歌を詠むことを努めをする女性だという。

『万葉集』巻一は「雑歌」、巻二は「相聞」と「挽歌」と言う部立になっており、最も重要なのは相聞の部で、『万葉集』の歌の半分以上がこれに分類される。

 

これが『文選』に倣ったものとしても、その1番が第21代雄略天皇の歌で、2番には第34代舒明天皇(593-641)、そして3番に皇后である第35代皇極天皇(594-661)の歌が入り、万葉時代を迎えるのだ。

その13代前の雄略は、倭王 武であり、当時としては、中国・朝鮮においても第一の天皇だと、一目置かれていたのかもしれない。

 

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

 

籠(こ)もよ み籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持(ぶくしも)ち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます兒(こ) 家聞(いえき)かな 告(の)らさね そらみつ大和(やまと)の国(くに)は おしなべて我(われ)こそ居(お)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)にこそは告(の)らめ 家(いえ)をも名(な)をも

 

これを相聞ではなく、編者は雑歌の巻頭に持ってきているのを評して、「雄略天皇を主人公とする原始的な上代歌劇」と解釈し天皇と国土との結合を祝い、繁栄と豊作をもたらすための歌劇である。

次に来るのが、舒明天皇の国見の歌であり、その題辞は「天皇登香具山望國之時御製歌」そして3番目の題辞は『天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌』とあり、この牧歌的な風景は、つまり国見・狩猟の前に、春に「若菜摘み」をし、不老不死を願ってのことなのだ。(20200924)

特筆すべき、最初の万葉歌人は額田王(生没年不詳)で、歌作りを任務とする、女性グループのひとりだとしている。

その割には、短歌8首と長歌3首では、宮廷歌人にしては少なすぎるようにも思われるが、その一つが、「熟田津(ぬぎたつ)に」(661)の歌で、661年日本の同盟国百済が、唐・新羅連合軍の攻撃に救援群は県の時の歌である。

 

その額田王は、大海人皇子との間に女児をもうけていたが、のちに天智天皇の后となり、遷都の際はには天皇に変わって三輪山を振り返り見事な長歌と短歌を詠んでいるのだ。

671年に天智天皇が崩御すると、何人もの女性が挽歌を詠んでおり、倭姫皇后の他にも、婦人(姓氏未詳)・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。

 

しかし何と言っても、額田王「あかねさす」と大海人皇子「むらさきの」の掛け合いの歌なのだが、相聞ではなく雑歌に分類されている。

そしてこの額田王を語るに、天智天皇が「春山の花々と秋山の紅葉と、どちらの趣が勝るか」と藤原鎌足に訪ねた時の、額田王の応え方が中国文学の影響を受けていると言われている。

 

冬木成(ふゆこもり)春去来者(はるさりくれば)不喧有之(なかずありし)鳥毛来鳴奴(とりもきなきぬ)不開有之(さかずありし)花毛佐家礼杼(はなもさけれど)山乎茂(やまをしみ)入而毛不取(いりてもとらず)草深(くさふかみ)執手母不見(とりてもみず)秋山乃(あきやまの)木葉乎見而者(このはをみては)黄葉乎婆(もみつをば)取而曽思努布(とりてぞしのふ)青乎者(あをきをば)置而曽歎久(おきてぞなげく)曽許之恨之(そこしうらめし)秋山吾者(あきやまわれは)【万Ⅰー16】

【追伸】
万葉集に、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」に応えた額田王の歌が二首(112・113)あり、その年代(693年)は生存していたことになる。(20200928)

第2章 第2期(673-701年)

集中最大の歌人、柿本人麻呂(660-724)の活躍期として特徴づけられているけれど、ひょっとしたら、生存していたであろう額田王と出会っていたはずなのだ。

それはそれとして、盛んに作家活動をした人麻呂の十年間は、そっくり持統天皇(645-703)の治世に含まれ、年代が明らかな作品は、すべてこの時期のものである。

 

万葉集を理解するうえで、壬申の乱(672)は重要であり、集中最長の歌、天武天皇の皇子高市皇子(654?-696)の死をいたむ人麻呂の挽歌は、その活躍ぶりを中心にすえている。

 持統天皇と皇族への人麻呂の敬愛は絶対のもので、「わが大君 神ながら」と言った句で始まる多くの歌を詠んだとき、人麻呂が持統天皇の神性を心から信じていたことは疑いない。

 

安見知之(やすみしし)吾大王(わごおほきみ)神長柄(かむながら)神佐備世須登(かむさびせすと)芳野川(よしのがは)多藝津河内尓(たぎつかふちに)高殿乎(たかどのを)高知座而(たかしりまして)上立(のぼりたち)國見乎為勢婆(くにみをせせば)疊有(たたなはる)青垣山(あをかきやま)〃神乃(やまつみの)奉御調等(まつるみつきと)春部者(はるへは)花挿頭持(はなかざしもち)秋立者(あきたてば)黄葉頭刺理(もみちかざせり)一云 黄葉加射之(もみちばかざし)逝副(ゆきそふ)川之神母(かはのかみも)大御食尓(おほみけに)仕奉等(つかへまつると)上瀬尓(かみつせに)鵜川乎立(うかはをたち)下瀬尓(しもつせに)小網刺渡(さでさしわたす)山川母(やまかはも)依弖奉流(よりてつかふる)神乃御代鴨(かみのみよかも)     【万38】

この長歌を近代の歌人伊藤左千夫は、人麻呂の絶唱二首の一つと感嘆し、近代最高の歌人のひとりであり重要な万葉学者でもある斎藤茂吉は、この歌について「理論的穿鑿よりも、吟誦の反覆にによって悟入する」用読者にすすめたが、音の組み合わせに注目し、この長歌の音楽的性格を理解するためのカギとしている。

年代が明らかな人麻呂作品のうち、最も古いものは689年に草壁皇子の死を悼んだ挽歌(万167)、最も新しいものは700年に明日香皇女の死に際して詠んだ挽歌(万196)である。
人麻呂は職業的な宮廷歌人と呼ばれてきたが、後世の歌人とは異なり、公と私、集団と個人の厳密な区別はなかったようであるが、その事実はともかく、その詩的真実は疑いようがない。

【追伸】
壬申の乱で、夫である大友皇子自殺し、父天武天皇もとに身を寄せていた十市皇女(653?-678)だが、母である額田王の消息が分からない。
この十市の挽歌を高市が詠み、高市の挽歌を人麻呂が詠んでいるのだが、もし額田が健在であるなら、人麻呂と贈答歌を交わしていたように思うのだが・・・。(20201005)

人麻呂の歌にどの程度の「真実」が含まれているかはともかく、その詩的真実は疑いようがない。

持統天皇(645-703)は大津皇子(663-686)を処刑し、あとは天武天皇(?-686)の本葬を待って草壁皇子(662-689)に譲位するつもりだったのだろうが、その草壁皇子が、天武天皇の本葬(大内陵:688)から遅れること5か月で他界した。

 

人麻呂の長歌は、草壁皇子の仮葬期間中に創られ、殯宮の死者はまだ死者ではなく、あの世との境目に居て、この世に呼び返せるとみなされていた。

しかし、火葬が公式の埋葬方法になると、挽歌も不要になり、持統天皇は1年間の殯の後、天皇として初めて火葬に付されたのだ。

 

皇族に捧げられた人麻呂の挽歌のなかでは、696年、42歳で死んだ高市皇子の殯宮の時に詠まれたのが最高傑作とされている。

業績を永遠に忘れないと約束することで、死者を安心させお怨霊となってこの世に戻る必要がないことを説く。(20201012)

人麻呂が皇族に捧げた挽歌は無論素晴らしいものだが、最も感動的な歌はと問われれば、離島で見た死者を詠んだ歌、そして人麻呂自身の妻を詠んだ歌を挙げたい。

瀬戸内海の小島、狭岑(さみね)島で行き倒れていた見知らぬ男に捧げた挽歌【万Ⅱー220】は、まさに人麻呂最高傑作の一つと呼ばれるにふさわしい。

 

 

遠い離島で死に、打ち捨てられた男の姿を見て、人麻呂は当然のようにその男の運命を想い、家で待ち続ける男の妻を想った。

「はっきりうたわれてはいいないが、おそらく、いずれ死すべき自分の運命をも思っただろう」というのだ。

 

さらに、後の歌人への影響力と言う点では、何よりも、人麻呂が妻との別離をうたった長歌二首【万Ⅱー131】【万Ⅱー134】、さらに妻を失った時の挽歌二首【万Ⅱー207】【万Ⅱー210】を挙げなければならない。

特に挽歌二首は、人麻呂の最高傑作であるばかりでなく、日本語で書かれた長詩の最高峰であるとまで言ってのけた。

 

詠まれているイメージの数々は、人麻呂作品で見慣れたものであるが、「なびく藻のように妻が夫にすり寄り、月が隠れるようにこの世から光が失われる」など。

あるいは、「死んでいると知りながら、妻がよく言った場所に出てその姿を探すくだり」は、ほとんど堪えがたいほど切ないのだ。

 

【追伸】

【131・134】の妻と、【207・210】の妻は違う女性である。(20201019) 

『万葉集』には、『人麻呂歌集』からとった歌が364首あり、九つの巻に分散配置されている。

しかも、旋頭歌35首も含まれており、中西進は、「多くの旋頭歌が庶民的な、時には農民歌的な調子で詠まれていることから、人麻呂が持統天皇の行幸に従い、全国を旅したものではないか」と推理する。

 

人麻呂については、もう一つ、いったいどこでどのようにして死んだのかが、激しい論争の的となっており、石見国(いわみのくに)で死んだというのが通説になっている。

いずれにしても、生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明なのだ。

 

もし人麻呂が、持統のお抱え歌人であるなら、崩御された後、なぜ石見の国に遣わされたのであろう?

政争に巻き込まれたわけでもない限り、善きにつけ悪しきにつけ、第42代文武天皇(683-707)の時代に起きたことであろうと思うが・・・。

 

【追伸】

因みに没年とされる724年、第44代元正天皇(680-748)が、皇太子(聖武天皇)に譲位している。(20201026)

第3期(702-729)

持統天皇が702年に没した後、万葉の性格が大きく変わったのは、藤原不比等(658-720)の

漢詩好きが反映している。

娘の宮子は文武天皇の妃になり、もう一人の娘光明子は聖武天皇の皇后になり、当時最も力のある政治家として、710年の平城遷都をも指揮した。

 

万葉集には、不比等の歌が一首もなく、『懐風藻』には漢詩5編が載っており、宮廷は明らかに和歌より漢詩を愛好していたのだ。

そんな中にあって高市黒人(生没年不明)が、和歌18首、すべて旅の歌で、風景を詠むことに専念し、独特の歌風によって確固たる地位を占めている。

 

歌人にとって、旅が重要な意味を持っていたことは、日本人が依然として、地名に魔力を感じ続けていた表れともみられる。

黒人の歌は物悲しく、それまでの万葉歌人の朗らかさとは全く異なるムードを、旅の歌に持ち込んだ。

【追伸】

大宝元年(701年)の持統上皇の吉野宮行幸

倭尓者(やまとには)鳴而歟来良武(なきてかくらむ)呼兒鳥(よぶこどり)
象乃中山(きさのなかやま)呼曽越奈流(よぶぞこゆなる)        【万Ⅰ-70】

 

翌大宝2年(702年)の三河国行幸

何所尓可(いづくにか)船泊為良武(ふなはてすらむ)安礼乃埼(あれのさき)
榜多味行之(こぎたみゆきし)棚無小舟(たななしをぶね)         【万1-58】

 

この時、柿本人麻呂は随行していたのであろうか?(20201102)

黒人のいくつかの歌は、のちの歌人にあまりにも評判が高く、字句の借用などもおおっぴらに行われたらしく、歌は創作者だけという観念は万葉歌人になかった。

後世の歌人が先人の歌と同じ題材を使い、ときには同じ言葉まで使ったのは、そこに詠まれている先人の心情に迫ろうとする努力の現われだった。

 

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る(鶴鳴渡) 黒人

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(多頭鳴渡)    赤人

 

『万葉集』で頻繁に行われている先行歌の借用は、後の時代になると「本歌取り」として作家手法の一つまで高められる。

後の歌人は、読者が本化を知っていることを前提にしており、ある部分をそっくり借り、別の部分を変化させ、そうした自分の技術にって本歌を超える歌ができたことを読者に認めてもらおうとした。

 

黒人が最も多く学んだ歌人は人麻呂だろうが、ふたりの違いを最も分かりやすく見せてくれるのが、それぞれが近江の旧都を訪れた時に詠んだ歌である。

どちらも、悲歌を詠む歌人だったが、人麻呂は過去(昔の宮殿や人々)を詠み【万29】、黒人は、過行く瞬間と身のはかなさを詠んだ【305】。

 

【追伸】

櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡【万270】

若浦尓 塩滿来者 滷乎無美  葦邊乎指天 多頭鳴渡【万919】

 

「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」(紀貫之『古今和歌集 仮名序)ではあるが・・・。(20201109) 

『万葉集』が詠まれなかった何世紀もの間、一般に知られている万葉歌人と言えば人麻呂と赤人(?-736?)ぐらいなのだ。

たしかに『万葉集』には、赤人の歌が五十首あり、そのうち十三首は長歌であるが、賀茂真淵の昔から、赤人の長歌にはあまり関心を示さず、和歌だけを褒め称えた。

 

現代の読者には、赤人の反歌に詠まれている鳥の意味が分かりかねるかもしれないが、古代の日本人は、鳥を死者の国からの使者とみなした。

人麻呂同様、宮廷歌人の伝統を受け継ぐ赤人だが、その歌はーたとえ天皇の栄光を称えるための歌でさえー眼前の風景に注意を奪われている。

 

高橋虫麻呂(生没年不詳)については、ほとんどわかっていないが、年代が明らかな歌は732年の作とされる一首【万971】だけである。

つまり、732年の長歌は、虫麻呂の庇護者藤原宇合が、西海道の節度使として赴任するとき、出発に際して捧げられた歌である。

 

もう一人の重要な万葉歌人、笠金村(生没年不詳)は、赤人より格が上と見られていたらしいが、宮廷歌人の役目に倦み疲れ、時には心の命ずる歌をつくって慰めを得ていたという節がある。

と言うのも、726年に聖武天皇が印南野(イナミノ)に行幸したとき、金村は決まりきったテーマには目もくれず、いきなり船がないと嘆き始めている【万935】。

 

【追伸】

金村の作で最も心打たれる歌として、725年、聖武天皇が三香原(みかのはら)の離宮に行幸したときの歌を挙げている。

 

三香<乃>原(みかのはら) 客之屋取尓(たびのやどりに )珠桙乃(たまほこの) 道能去相尓(みちのゆきあひに )天雲之 (あまくもの)外耳見管(よそのみみつつ) 言将問 (こととはむ)縁乃無者(よしのなければ) 情耳(こころのみ) 咽乍有尓(むせつつあるに) 天地(あめつちの) 神祇辞因而( かみことよせて) 敷細乃( しきたへの)衣手易而 (ころもでかへて)自妻跡(おのづまと) 憑有今夜(たのめるこよひ)

秋夜之( あきのよの)百夜乃長(ももよのながさ) 有与宿鴨(ありこせぬかも)【万546】

 

「道能去相尓と有与宿鴨」は、別の訓がありそうだけど・・・(20201116)

正史『続日本紀』の710年の項に、はじめて大伴旅人(665-731)の名前が見え、左将軍として隼人と蝦夷の捕虜を行列に従え、元明天皇の目前で行進している。

その旅人が太宰府に着任する以前の歌は、わずか2首しか残されておらず、724年、聖武天皇が即位後1か月で吉野の行幸したとき詠まれた(万315)。

 

初期の歌のほとんどない旅人が、728年、63歳になって突然大歌人に変身するのはお驚きなのだが、この年、都から九州へ伴ってきた妻が死んだのだ。

この時期の最初の歌群は妻の詩を詠んでいるのだが、この一連の歌のうち、どれが旅人の作で、どれが友人山上憶良の作なのかは不明である。

 

そして、『酒を賛むる歌』13首にいたっては、その背景には長屋王の変(729年)が見え隠れしているとも言われるが、731年正月、従二位に昇り、当時の臣下最高位となったのである。

いっぽう、730年正月に大宰府を離れる直前に詠んだ『梅花礼賛』32首の序は、新年号【令和】を導き出したりし、梅が学者の花とは言え、大宰府はその頃より梅がつきものかもしれない。(20201130) 

旅人の名前は、友人だった山上憶良(660?-770?)と併せ語られることが多いのだが、憶良の評価は二十世紀に入って急上昇し、いまや人麻呂に次ぐとみなされるまでになった。

憶良は日本の同盟子kだった百済の生まれで、663年、、日本軍が白村江で唐・ら戲連合軍に惨敗したとき、父親に連れられて日本に亡命したという。

 

702年、憶良は無位の少録という端役ではあったが、遣唐使節団の一員に任命されており、それ以前は書生として写経に従事していたという説もある。

憶良は長安に二年間愛し、他の使節とともに704年に帰国したが、一説には707年までとうにとどまったともいわれる。

 

憶良葉714年に従五位下に昇進し、706年の伯耆守に任命され、さらに721年には東宮(聖武天皇)の侍講に取り立てられている。

憶良が九州の筑前守に任命されたのは、725年後半から726年前半にかけてのことで、帰京できたのは732年らしい。

【追伸】

天離る鄙に五年住まひつつみやこの手ぶり忘らえにけり    (20201207) 

憶良の最高傑作のいくつかは、大伴旅人(665-731)との友情と文学的交流の中から生まれ、『万葉集』巻5はまるでこの二人の歌集の観がある。

憶良の表現には、有無と言わせぬ力強さがあり、その力強さの前に、他の歌との類似は忘れ去られる。

 

憶良の最も有名な歌は、「貧窮問答歌」であり、貧しいが誇り高い男が、自分より貧しい人々はどうやって生きながらえているのかと問いかけ、もう一人が自分の惨状を語ることで答えに代える。

飢え凍えている者への憶良の関心は、もちろん、その儒教的素養を反映しているが、のちの日本の歌人は、たとえ中国古典の試験に合格した役人であっても、憶良のような関心を示そうとはしなかった。

 

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ

 

この歌は、憶良の宴会嫌いの証拠として引合いに出されることがあるが、憶良の多くの歌の真面目さから、宴会嫌いの連想が働いたのであろう。

今日憶良が評価されているのは、そうした歌によるのではなく。やはり病気・死。貧困をうたった長歌による。(20201214)

第4期(730-759)

『万葉集』の最後の時期には、大伴家持(716?-785)一人が君臨し、特に最後の4巻はほとんどが家持の歌で占められ「家持歌日記」と呼ばれているほどである。

人麻呂の壮麗さも、憶良の社会的関心もないが、家持にはやはり独自の歌風があり、その歌は悲劇的と言うより感傷的であり、爆発的な強烈さより精妙な言い回しを特徴とする。

 

家持は旅人の息子であるが、正妻の子ではなく、727年、9歳で父に連れられて大宰府に移り、728年に義母が亡くなった後は、旅人の異母妹である大伴坂上郎女(700?-750?)を呼び寄せ、養育にあたらせた。

731年、旅人が死んでからも、坂上郎女は甥の面倒を見続け、732年ー早熟な家持は、坂上郎女の娘に初めての恋歌を贈り、ふたりは740年ごろに結婚する。

 

ある歌の序で家持は、「幼年未だ山柿の門に至らず」と告白しており、何世紀もの間、山部赤人と柿本人麻呂の前では未熟さを感じる、と解釈されてきた。

だが、二十世紀の学者の中には、「山」を赤人ではなく憶良と考える人もおり、それほど影響を受け、歌からばかりでなく、重要な歌の背景説明につけた漢文の序からも借りているぐらいなのだ。(20201221)

山本健吉は、家持が「いぶせみ」を詠んでいる歌にとくに魅かれており、その言葉は欲求不満や憂鬱を表す言葉なのだ。

理由のない不満や倦怠を表し、山本はこの言葉の多用に家持の近代性を見ており、若年の家持の心情には、十九世紀西洋の詩人がうたったアンニュイに通じるものがあるかもしれないという。

 

妻と叔母に宛てた多くの歌のなかに、名前が判っているだけでも十四人の女性に歌を贈っており、これらの女性たちのうち、最高の歌人は笠郎女である。

現存する彼女の歌29首は、すべて家持に贈った恋歌であり、家持がこうしたプライベートな歌も含めようと思わなかったらこの歌人は今に伝わらなかったことになる。

 

746年、家持は越中守に任命され、その5年間は、量的にも質的にも作歌活動の最盛期で、755年難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。

759年元日、家持は任地の因幡で、『万葉集』巻20の最後の歌を詠み、亡くなる785年までの26年間、歌を一首も残していない。(20201228)