八 平安時代後期の漢文学
平安後期に漢詩や漢文を描いた人々の中からは、作品の質で菅原道真と肩を並べる人物は現れなかった。
もっともよく知られている詩文集は『和漢朗詠集』で、これは、藤原公任の娘が藤原道長の三男教通のもとに嫁いだ時、結婚祝いとして編んだもので、年に成ったとされている。
日本人50人、唐人30人の作品から589の対句を集め、それを四季などの部に分類して、類似のテーマで詠まれた和歌(合計216首)を添えている。
『和漢朗詠集』に収められている漢詩と和歌は、おそらく、撰者である公任個人の好みより、宮中全体の好みを強く反映していると思われ、当然白居易の詩句が多く、ほとんど『白氏文集』からのアンソロジーのようである。
他には主に、中唐・晩冬の詩人が選ばれ、平安時代に好まれた七言律詩の一部で、詩の評価を定めるものは、詩想の斬新さより対句の巧拙だった。
『和漢朗詠集』に収められた中国の詩人の詩句のうち、三分の二は『千載佳句』(963年以前の成立:大江維時撰)と重複していて、この書の影響が大きかったことをうかがわせる。
『和漢朗詠集』の最大の意義は、日本語に読み下された漢詩句が後の日本文学に大きな影響を与えた点にあり、白居易の『春夜』の対句は、『忠度』『経政』など、多くの謡曲に引用されている。
【追伸】
平安時代最期の漢詩人として大江匡房(1041-1111)と藤原忠道(1097-1164)の二人を挙げておく。(20210315)
平安後期の日本人の作品だけを漢詩文集の中では、1060年前後の編まれた『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)が最も重要である。
編者は、儒学者であり詩人でもあった藤原明衡(あきひら:989?-1066)で、表題を唐詩文集の『唐文粋』からとり、体裁を有名な『文選』(530年頃)に倣った。
採られた作品の多さでは、上位十人に大江匡衡・大江朝綱・菅原文時・紀長谷雄・菅原道真が並び、『和漢朗詠集』の顔ぶれとはほとんど変わっていない。
菅原道真が失脚(901年)し、藤原氏が政治権力を掌握して以来、学者の権威はほとんど失われていたが、『本朝文粋』では学者の家系である大江氏と菅原氏の比重が大きい。
内容の空虚なものが多いが、兼明(かねあきら)親王の「莵裘賦(ときゅうふ)」や慶滋保胤(よししげのやすたね)の「池亭記(ちていき)」のような傑作もあり、また「男女婚姻賦」(大江朝綱)」のような猥雑(わいざつ)な戯文に編者の独創性がうかがえる。
本書の後代文学に及ぼした影響は広範で、その分類編纂が後の文集の規範になり、その文章は作文指南書に引用されて手本になり、その秀句は朗詠や唱導を通して人々に賞翫(しょうがん)され、中世の軍記物語や謡曲に引かれて和漢混交文の完成に大きな貢献をした。
藤原明衡は、ほかに『新猿楽記』と『雲州消息』(『明衡(めいこう)往来』)という二つの漢文作品でも知られている。
『猿楽』とは、のちに厳粛な能に発展する雑芸の総称であって、そのためか、『新猿楽記』は主に日本の舞台芸能史に関心を持つ人々に読まれてきた。
ある晩京の猿楽見物に訪れた家族の記事に仮託して当時の世相・職業・芸能・文物などを列挙していった物尽くし・職人尽くし風の書物で、その内容から往来物の祖ともいわれる。
『雲州消息』は書簡集で、頼み事や問い合わせの手紙があり、次にそれへの返信があるという形で、全部で二百十一通の手紙をのせており、おそらく書簡の模範文集として編まれたものだ。
平安時代最後の漢詩人では、大江匡房(1041-1111)と藤原忠道(1097-1164)の二人が抜きんでており、神童の誉れ高い匡房の漢詩には、『本朝続文粋』や1163年ごろに編纂された『本朝無題詩』など、様々な詩文集にとられている、
藤原忠道は、平安後期貴族文学の「最後の記念碑的存在」といわれ、もっともよく知られている作品は『傀儡子』(くぐつし)であるが、日本全国を流浪していた人々であり、男は人形芝居を演じ、女は春をひさいだ。