『日本文学の歴史3』古代・中世篇3

 

『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆で、本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれていたという。

執筆時期は正確には判明していないが、1001年にはほぼ完成したとされており、「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「回想章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。

 

『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語だが、「いつごろ」「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。

下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めたとされ、『紫式部日記』には、寛弘5年(1008年)にその冊子作りが行われたとの記述がある。

 

清少納言(966年頃 -1025年頃)は、一条天皇(980-1011)の時代、993年頃から、私的な女房として中宮定子(関白の内大臣藤原道隆の長女)に仕え、1000年に中宮定子(977-1001)が出産時に亡くなってまもなく、宮仕えを辞めた。
紫式部(970年頃-1019年頃)は、1006年より、一条天皇の中宮・彰子(988-1074:道隆の弟:道長の長女)に女房として仕え、少なくと1012年頃まで奉仕し続けたようであり、同期には和泉式部(978-?)・赤染衛門(956年頃? - 1041年頃)などがいる。

清少納言と『枕草子』

「をかし」は、日本文学(平安期の文学)上における美的理念の一つであるが、語源は愚かな物を表す「をこ(痴、烏許、尾籠)」が変化した物という説が有力である。 しかしこの理念は『枕草子』以外の平安文学ではあまり用いられず、それゆえ「をかし」の文学理念は、『枕草子』固有になっている。 全体に見られる三千六百六十例ほどの形容詞のうち、四百四十五例を占めているというのだが、細かなニュアンスはともかく、常に発言者がうれしがり、たいていは面白がっていることを表している。

物語の始まり

最も狭義には『竹取物語』にはじまり、平安時代前期に成立した日本最古の物語であり、作者は不明で、正確な成立年も未詳である。

『伊勢物語』(作者不詳)も、平安時代のうちの具体的な成立年代は不詳であるが、900年前後と言われており、『竹取物語』と並ぶ創成期の、仮名文学の代表作で、現存する日本の歌物語中最古の作品なのだ。

さらに『平中物語』も不詳ながら、960-965年頃と推定され、また、『うつほ物語』(宇津保物語)は、日本の平安時代中期に成立した長編物語(全20巻)で、著者は不明だが、『竹取物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われている。

『落窪物語』(10世紀末頃)もまた、『源氏物語』に先立つ中古の物語で、『枕草子』にも言及されている。

源氏物語

紫式部が、それまでの物語や和歌集から多くを摂取し、とりわけ宮廷女性の日記から多くを学んだことは事実だが、『源氏物語』は日本文学最高の傑作とみなされている。

キーンもまた、本居宣長の意見と同じかもしれないが、『源氏物語玉の小櫛』の一部を載せており、「あはれの文学」を引き出している。

おそらく万葉の時代から、ポテンシャルにあったであろう、“をかし文学とあはれ文学”が、明確ではなかったにしろ、この平安時代に花開いたといえるのかもしれない。

『源氏物語』以後の王朝物語

『源氏物語』以後、その影響を受けた『夜半の寝覚』(11世紀後半:<菅原孝標女?)・『浜松中納言物語』(菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ、1008年 -1059以降?)・『狭衣物語』(六条斎院宣旨(ろくじょうさいいんのせんじ、?- 1092年)・『とりかへばや物語』(平安時代後期:作者不詳)などの物語が成立した。

平安時代末期までに成立したこれらの物語は通常後期物語と呼ばれ、『擬古物語』(ぎこものがたり)は、鎌倉時代から近世初頭に成立した、平安時代の王朝貴族を主人公にする物語の総称である。

歴史を移す鏡

語り手の創意工夫より現実の出来事に多くを負う文学作品は、日本では十世紀ころから書かれ、そのような作品を純粋の歴史書から区別することは難しく、多少なりとも敵攻勢を持ち、表現に注意して書かれたものなら、歴史書といえども文学作品として読めるからである。

例えば、『古事記』や『日本書紀』はふつう歴史書として扱われるが、「史実」のあいまに神や天皇の行いを語る神話や歌が混じっていることから、日本文学の全集・選集に含められることも多い。 

 

もっとも古い「歴史物語」は『栄花物語』だが、六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『三代実録』)の後継たるべく、宇多天皇の治世から起筆しており、評価すべきは、女手(おんなて)といわれる仮名で物語風に歴史を書いている事である。

 そして、『大鏡 』(白川院政期:1086~1129)『今鏡』(1170年頃)『水鏡』(1195年頃)と続き、『増鏡』(1338~1358)は、南北朝時代の歴史物語であるが、文学的には最も優れている。

説話物語

平安時代中期の説話文学で、最初に取り上げるべき作品は『三宝絵』で、仏・法・僧のことであり、出家した尊子(たかこ)内親王(966-985)の教育用に、源為憲(941-1011)が984年に編んだ説話集である。

打聞集(うちぎきしゅう)もまた、平安時代後期の仏教説話集であるが、僧栄源による1134年の1巻(下巻)のみが現存し、インド・中国・日本などの仏教に関する27条の説話が収録されている。

初期の説話集については、興味をひかれる点もある一方で、語りが粗雑で、登場人物の性格付けも十分ではないが、説話文学の最高峰ともいえる『今昔物語』については、そうした弁明は不要である。

古本説話集は、具体的な成立時期は大治年間(1126年-1131年)など諸説があるも、世俗説話には、紀貫之・凡河内躬恒・藤原公任・和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔・大斎院ら王朝時代を代表する人物たちが登場し、和歌を中心とする宮廷社会の風雅な逸事を集める。

一方、本朝神仙伝は、平安後期、大江匡房によって書かれた日本最初の神仙説話集で、倭武命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)、上宮太子(聖徳太子)に始まる全37話であるが、『江談抄』(ごうだんしょう)も、匡房の談話であるという。

平安時代末期の説話集の中には、中国の歴史上の人物だけを扱ったものがいくつかあり、もっともよく知られているのは『唐物語』、さらに【蒙求(もうぎゅう)和歌全14巻】(源光行)も、和歌というより翻訳した説話に重点があり、源実朝に献上されたものとみられる。(1204年)

『古事談』(こじだん)は、鎌倉初期の説話集だが、建暦2年(1212年)から建保3年(1215年)の間に、源顕兼(1160-1215)が編集したと思われる。

天皇を始めとする貴人に関しても、憚らずその秘事を暴き、正史とは別世界の人間性あふれる王朝史を展開している。

あまりな醜聞暴露に恐れをなしたためか、称徳と道鏡、宇多と京極御息所、花山と馬内侍らの淫猥な説話を削った略本もあり、崇徳院は鳥羽院の実の子ではなく祖父の白河院と待賢門院の密通によって生まれた子で、鳥羽院が崇徳院を「叔父子」と呼んで嫌ったのが保元の乱の一因となったとする伝説(2巻54節)もこの本が唯一の出典である。

『宇治拾遺物語』は、鎌倉時代前期(1212~1221)成立と推定され、『十訓抄』(じっきんしょう)は鎌倉中期の教訓説話集で、古今和漢の教訓的な説話約280話を通俗に説く。

古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季(なりすえ)によって編纂された世俗説話集で、今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。

なお。古今著聞集については、成季が、何を考えてこの膨大な説話集を編纂したにしろ、結果的には、衰退に向かう貴族階級が平安王朝にっどれほどの郷愁を抱いていたかを物語る、最後の作品となった。

しかし、こうした過去への郷愁でさえ、『源氏物語』の言葉とは明らかに別の和文で書かれており、こののち現れる中世の説話文学は、従来とは異なる口調を帯びるようになる。