11 物語の始まり

 

「物語」という言葉は、『万葉集』で初めて現れ、そこでは「伝承説話」の意味を持っており、古代中国では「物」が鬼神や死者の霊を意味していることから、もともとは超自然的な存在についてのはなしではなかったか、と考える人々もいる。

神の業について語るのを仕事とした神官だとは別に、物を語る能力に優れ、その能力で家族や村人を楽しませていた人々は大昔からいたと思われる。

 

しかしフィクションが文字に書かれたのは、ようやく平安時代になってからで、『蜻蛉日記』や『源氏物語』で古物語がけなされているとこから見ると、最初の物語は粗雑で荒唐無稽だったのであろう。

九世紀の後半から、二種類の物語が作られるようになり、ひとつは「作り物語」と呼ばれ、世界各地に生まれたフィクションと同様、並外れた善人や悪人の行いを語っている。

 

もうひとつは「歌物語」で、これは日本固有の物語形式で、主として歌とその歌が詠まれた状況の説明からなる。

 

作り物語と歌物語という二つの流れは、最初こそ別々だったが、十世紀後半には合流し、十一世紀から十二世紀に平安時代の主要作品を生む下地となった。(20210809)

現存する最古の物語は『竹取物語』で、成立年代は不明だが、909年には完成していたと思われ、『大和物語』の第七十七段には「竹取」の歌がある。

『源氏物語』が『竹取物語』を「物語の出来一の祖」と呼び、最古の物語であることはほぼ定説となっている。

 

この物語は、いくつかの要素から構成され、竹から生まれた少女とその急速な成長ぶり、五人の求婚者とその冒険談、帝の行幸、天の羽衣と昇天、富士山から立ち上る煙だが、どの要素にもアジアの民話や文学の中に先例・類例がある。

中でも五人の求婚者(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍・大納言大伴・中納言石上)は、いずれも壬申の乱で天武天皇方として、功労のあった人物に擬せられ、この五人を滑稽に描くことで、間接的に天武天皇と縁故者を風刺したのかもしれない。

 

あるいは、子どもっぽい御伽噺を少し優雅に作り変えてみようとという程度の、作者の意図だったであろうし、その作風も、おそらく当時の読者の水準を超えており、同様の作品は生み出すには至らなかったが、作り話の誕生に大きく寄与したことは確かである。

 

作者は、平安朝宮廷社会の成立前提や、そこで活動する人々の心的態度を、おそらくは無意識のうちに描き出しているのだろうが、『竹取物語』の最大の貢献は、日本語で書かれた最初のフィクションとして成功を収めたことであろう。(20210816)

宇津保物語』の成立年代の確定には様々な問題が付きまとうが、おそらく、970年から983年の間に書かれたと思われる一方で、最後の一巻だけは1000年以後に追加された可能性もある。

『宇津保物語』二十巻には、一千首近い和歌がちりばめられており、約二倍の長さの源氏物語が七百九十五首だから、和歌の比重が相当に大きな物語だといえる。

 

落窪物語』は、『宇津保物語』よりずっと完成度が高く、長編物語にするという意図で書かれた最初の作品かもしれない。

この物語はシンデレラにあまりにもよく似ているので、妖精が登場しないことを不思議に思うかもしれないが、これは徹頭徹尾この世の物語であって、『宇津保物語』にみるような空想的要素は少しもない。

 

他より一段落ち窪んでいる部屋を「落窪」といい、ヒロインは、継母に押し込められていたその部屋から名前を得ている。

『落窪物語』で最もよく描かれているのは、落窪の女房であり相談相手でもあったあこぎであり、頭の回転が速い召使で、主人を守って敵の目論見を次々失敗させていき、実に不思議なことに、この作品は、あこぎがその後「二百まで生きるとかや」と言って終わる。

 

『宇津保物語』や『落窪物語』の間には、、成熟した読者には取るに足りないと思われる物語から、世界の偉大な散文作品へと肩を並べる傑作へと、目を見張るほどの飛躍がある。

 

それを可能にしたのは紫式部の天才だが、作り物語とは別に歌物語、さらには日記の伝統がなかったら、いくら紫式部でも『源氏物語』を書くことができなかったであろう。(20210823)

九世紀後半から十世紀初頭にかけて発達したもう一つの系統の物語を、明治以降、「歌物語」と称するようになったのも、歌こそが、そこで語られる様々なエピソードの核になっていて、付随する散文は、歌が詠まれるに至った状況を簡単に説明しているに過ぎない。

歌物語といえば、まず『伊勢物語』を挙げなければならないが、この作品は百二十五段からなっており、格段のつながりは緩く、なかには作歌事情を感嘆の説明したに過ぎない段もある。

 

『伊勢物語』の作者は不明であるが、物語の中心人物である在原業平(825-880)自身が、最初の本を書いたとも考えられ、業平の死後、その草稿を見つけた人が、関連するエピソードで膨らませようと考えたとしても不思議ではない。

『伊勢物語』の本質を一言で言い表すなら、「みやび」ということになろうが、作品中に一度しか使われておらず、第一段の終わりに、「かくいちはやきみやびなむしける」とあるだけである。

 

『伊勢物語』という名称が、「おとこ」の驚くほど大胆な恋愛行動を語る第六十九段なのだが、異性関係を厳禁された斎宮との恋愛では、あまりにもスキャンダルにも思えるが、第79段には源氏物語の伏線ともいうべき貞数親王のことも取り入れられているのだ。

 

なお、第九段の業平の東下りは、『伊勢物語』の中心的挿話であるが、「八橋」を歌枕として有名にもしたが、実際にはありそうにない事柄や空想的要素も含まれてはいるが、それは「竹取物語」にみられる空想とは異質のものである。(20210830)

『伊勢物語』以外の平安時代の歌者がtりとしては、『大和物語』が最もよく知られており、百七十三の章段からなり、それぞれに一首以上の歌を含んでいる。

成立は951・2年のこととされ、作者は未詳であるが、中心的な作者は宮廷女性であり歌人の伊勢(877?-939?)、完成させたのはその伊勢の娘で、やはりよく知られた歌人の中務(なかつかさ:912?-991?)だろうといわれている。

 

『大和物語』は、二つの明らかに異なる部分に分かれていて、第百四十六段までは、宇多天皇(867-931)の宮廷が舞台で、そこに百人を超える宮廷人が登場し、その人々の詠んだ歌について種々のエピソードが語られている。

殊に141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会いと歌を通した古い民間伝説が語られており、説話的要素の強い内容となり、二人の男から求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」(147段)、「姥捨山伝説」(156段)などがある。

 

『大和物語』を読んで読者の記憶に残る名前は、おそらく藤原千兼の妻『としこ』だけだろうが、もう一人取り上げるとしたら、色好みの平貞文(872?-923)だが、同じく歌物語の一つ『平中物語』に語られている。

平中物語』は960-965年の成立とみられているが、歌物語の主人公にふさわしい人物であったが、同じ色好みでも業平ほど魅力的でなく、拍子抜けする。

 

歌物語の中で、読者を最も感動させるのは『篁物語』で、漢詩人小野篁(802-852)の話で、第一部は篁とその異母妹との悲しい恋物語、第二部は異母妹の死後、篁が左大臣の娘と結婚して、幸せに暮らしたという話である。

 

『篁物語』は、現代の読者が時代的背景を気にせず読めるという意味で、日本最初の現代的な作品といえる。(20210906)