『日本文学の歴史4』古代・中世篇4

源氏が平家を滅ぼした1185年から、関ケ原の戦いで徳川方が勝利した1600年までを、しばしば「中世」という言葉で呼んでおり、学者(文学者・歴史家)の間に意見の違いがあったにしても、古代とも近世とも性格の異なる時代が、約四百年間続いたことには異論がない。

この時代は、政治の中心が置かれた場所によって、さらに鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代に細分され、それぞれに特徴を持っているが、一般にはこの三時代をひっくるめて「中世」と呼んでいるが、平安文化が即座に崩壊したわけでなく、宮廷では以前とほぼ変わらない生活が続く。

 

中世日本文学の真骨頂は、いくつかの新ジャンルを生み出したところにあり、それは軍記物語・連歌・能であるが、宮廷界に住む人々の手で創造され、軍記物語では、琵琶法師という職業的芸人の語り物として始まり、十二世紀戦乱の時代の武勲を隅々まで広めた。

一方連歌は、一種の知的ゲームとして始まり、一人が和歌の上句(または下句)を詠み、相手に下句(または上句)をつけて完成させるように挑み、素人歌人の間でも大いに行われ、付合(つけあい)の巧拙が賭けの対象にまでなった。

 

最後に能は、文学的重要性をもつ日本最古の劇であり、おそらく寺院や神社の境内で演じられた寸劇に始まったものだろうが、文字を読めない信者に、そこに祀られている髪を理解させ、その奇蹟を魅せることが目的だった。

だが、足利将軍家の庇護のもとで、能は高度な舞台芸術に発達し、その脚本は通人にしかできないものとなったが、素朴な形式の能も廃れず、全国各地の粗末な舞台に近隣の人々を集め、その前で演じられ続けた。

軍記物語

軍記物語(ぐんきものがたり)とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた歴史上の合戦を題材とした文芸のことで、実際の史実を元にしているが、説話的な題材や虚構も交えられていることもある。

『将門記』は平将門の、伯父の平国香や源護らとの争い935年(承平5年)から死去までを、合戦の記録としての年代記に記述しながら、表情豊かな文体によって『竹取物語』などの系譜の物語としての構成も備え、英雄的な人物像を描く軍記物語の先駆け的存在となった。 

『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱(1156年)の顛末を描いた作者不詳の軍記物語だが、『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた4作品は「四部之合戦書」(『平家物語勘文録』)と称され、保元から承久にいたる武士の勃興期の戦乱をひと続きのもとして理解する見方が中世からあったことが確認できる。

『承久記』(じょうきゅうき)は、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた公武の合戦記だが、残念ながら言及されていないが、 因みにその相手というのが、NHK大河『鎌倉殿の13人』の鎌倉幕府執権:北条義時である。 

『新古今集』の時代

定家の父・俊成によって提唱された幽玄、有心の概念を、定家が発展させて「余情妖艶の体」を築き上げ、これが撰歌に大きく反映されている。

また、鎌倉幕府成立以降、政治の実権を奪われた貴族社会の衰退の中で、滅びや自然への見方に哀調があると指摘される。

 

題詠によって現実的な心情変化の歌ではなく、定められたお題の中でより複雑に工夫された象徴的な歌が主流になっていった。

特に、上代以来の数々の和歌の歴史が可能にした数多くの本歌取りに特徴があるが、主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いたとされる。

 

『古今和歌集』を範としてそれまでの七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集である。

しかも、古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出して、「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲に大きな影響を残した。 

鎌倉・室町時代の和歌

鎌倉時代初期に編纂された『新古今集』(撰者は定家を含む6人)は、唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的などの特徴が挙げられる。

定家の父・俊成によって提唱された幽玄、有心の概念を、定家が発展させて「余情妖艶の体」を築き上げ、これが撰歌に大きく反映されているのだ。

また、鎌倉幕府成立以降、政治の実権を奪われた貴族社会の衰退の中で、滅びや自然への見方に哀調があると指摘され、このころは題詠が盛んに行われていたことにより、より華やかな技巧にあふれている。

つまり、題詠により現実的な心情変化ではなく、定められたお題の中でより複雑に工夫された象徴的な歌が主流になり、上代以来の、数々の和歌の歴史を可能にする、数多くの本歌取りに、技法として、余韻・余情をかきたてる体言止め、初句切れ・三句切れなどを使用。

とはいえ、入集した歌人のうちでは西行の作が94首ともっとも多く、自然と人生を詠い「無常」の世をいかに生きるかを問いかけているのだ。

 

鎌倉時代前期の家集(歌集)は、源実朝の『金槐集』で、国学者賀茂真淵に称賛されて以来、「万葉調」の歌人ということになっているが、実際には万葉調の歌は少なく、所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。

それでも俳聖松尾芭蕉が、中頃の歌人は誰かと聞かれ、即座に「西行と鎌倉右大臣」と答えているのは、どこか通じるものがあるのであろう。

 

なお連歌(れんが)は、日本の古来に普及した伝統的な詩形の一種で、5・7・5の発句と7・7の脇句の、長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていく。

南北朝時代を経て室町時代が最盛期とされ、能楽と並び室町文化を代表する遊戯の1つとされ、二条良基、宗祇、心敬などの連歌師が出現した。 

鎌倉時代の仏教文学

『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書で、作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。

書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。

いちごんほうだん【一言芳談】は、鎌倉後期の仏教書で、念仏行者の信仰を伝える法語153条を集めたもので、無常の認識と現世の否定に徹すべきことを説くその思想と、簡潔なかなまじりの文章から、中世の仮名法語を代表する書とされている。

法然(1133-1212)・明禅(1167-1242)ら30余人の法語を収め、《徒然草》に引用されていることから、鎌倉後期の成立と考えられるが編者は不明。

『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)は、禅僧で曹洞宗開祖道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘(えじょう:1198-1280)が記した曹洞禅の語録書であり、道元の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献である。

『発心集』(ほっしんしゅう)は、鎌倉初期の仏教説話集で、『方丈記』の作者として知られる鴨長明(1115-1216年)晩年の編著だが、仏の道を求めた隠遁者の説話集で、『閑居友』、『撰集抄』などの説話集のみならず、『太平記』や『徒然草』にまで影響を及ぼし、説話の本性というべきものを後世に伝えている。

閑居友(かんきょのとも)は、慶政(1189-1268)の作とされる仮名文で書かれた鎌倉初期の仏教説話集。承久4年(1222年)春成立。

『沙石集』(しゃせきしゅう)は、鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集で、日本・中国・インドの諸国に題材を求め、霊験談・高僧伝から、各地を遊歴した無住自身の見た、見聞を元に書いた諸国の事情、庶民生活の実態、芸能の話、滑稽譚・笑話まで実に多様な内容を持ち、その通俗で軽妙な語り口は、『徒然草』をはじめ、後世の狂言・落語に多大な影響を与えた。