16 軍記物語

平家は瀬戸内海地方を地盤として水軍を発展させ、源氏(十二世紀の内乱で戦った系統)は、東国の伊伊豆や相模で勢力を伸ばし、もう一つの有力氏族に藤原氏があり、これは都での政治活動に没頭していたが、その威信は十二世紀中頃までに大きく低下していた。

将門記』は、東国の武将、平将門(903?-940)の物語で、近隣の土豪を討ち従え、939年に、巫女に乗り移った八幡大菩薩の託宣をうけて、みずから「新皇」を名乗るが、事態に恐れをなした朝廷が必死に神仏に祈願すると、将門の命運は尽き、仇敵平貞盛に敗れた。

 

やがて、将門の霊が現れ、生前の罪を悔いて、死者の世界で味わっている苦しみを語り、最後に「口ニ甘シト雖モ、恐レテ生類ヲ食スベカラズ。心ニ惜(おし)ムト雖モ、好ミテ仏僧ニ施シ供(そな)フベシ」と、仏教の教えを説く。

日本の歴史が中国や西洋のそれと大いに異なっている点の一つに、この将門以外には、自ら皇位につこうとした英雄が一人も現れなかったことであり、平清盛・源頼朝・豊臣秀吉・徳川家康などは、その気になれば、天皇を殺すことも、退位を迫って三種の神器を奪い取ることもできた。

 

そうしなかったのは、巨大な力を持つ武将でさえ、皇位の神聖を冒すことを恐れ、天皇から権力を剝奪しながらも、表面的には忠誠を誓っていたように、将門にしても、桓武天皇(737-806)の末裔であることを標榜していた。

『将門記』は平板な漢文で書かれていて、文学的に興味深い点があるとすれば、ところどころに日本語の構文や敬語が混じりこんでるくらいであり、個性的な人格には全く出会えず、欠点は多いが、『将門記』は近い過去に題材をとった最初の文学作品である。(20220620)

「軍記物語」と呼びうる最初の作品は、「保元(ほうげん)の乱」の顛末を描いた『保元物語』だが、保元元年(1156年)のこの争乱は、皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇対立から起こったが、大本は1141年、当時天皇であった崇徳院が、近衛天皇(院の異母弟)の即位を強く望む父鳥羽院(1103-1156)の意向で、譲位を余儀なくされたことに始まっている。

その近衛天皇が1155年に没すると、崇徳院は自らの重祚(ちょうそ)か、少なくとも自分の子の重仁(しげひと)親王の即位を期待したが、新帝は同母弟である後白河天皇(1127-1192)に決まり、怒った崇徳院は、左大臣冨藤原頼長や源氏の数人と謀って、皇位の奪取を企てた。

 

保元の乱の歴史的意義は、皇位継承の争いというにとどまらず、僧であり歌人でもあった慈(1155-1225)は、過去を批判的・分析的に記述した日本最初の史論と言われる『愚管抄』の中で、「鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国の乱逆(らんげき)ト云フコトハオコリテ後、武者(むさ)ノ世ニナリニケルナリ

『保元物語』によって、日本文学に新しいジャンルとして成長していった陰には職業的な語り手の活躍があり、これを「琵琶法師」と呼び、合戦の様々な出来事を逸話や注釈で潤色しながら、琵琶の伴奏にのせて聴衆に語り聞かせ、書物の印刷が一般化する十七世紀まで変化し続けた可能性がある。

 

保元の乱から三年後の1159年、平治(へいじ)の乱が起こったが、論功行賞が不公平であったことから、のちの源平抗争(への下地を作るのであるが、『平治物語』は没頭に、「支配者たるものは文武に優れていなければならない」という命題を掲げている。

平治の乱の中心人物は、二人の中流貴族、藤原信頼(のぶより:1133-1159)・藤原通憲(みちのり:1106-1159)、出家後の名を信西(しんぜい)と言い、『平時物語』が信西を語る口調は、無条件の賛美である。

 

平家物語』は、間違いなく軍記物語の最高傑作であり、平家と源氏の抗争の発端、源平の合戦と平家の敗北、つまり、おごり高ぶっていた平家の、滅亡していくさまが順次語られていくのだが、兼好法師の『徒然草』に、「行長なる人物が『平家物語』を書き、生仏(しょうぶつ)という盲人に教えて語らせた」とある。

『平家物語』の中心人物は、作品半ばで死んでしまうが、平清盛であり、この世で得た名声のはかなさを、仏教の世界観によって説いた有名な没頭部分は、特に清盛の異様な生涯を念頭に置いた言葉のようで、よく言われるように、『平家物語』はもともと清盛の死で終わっていたのかもしれない。(20220627) 

作品の前半は、おごり高ぶる平家の描写に費やされていて、清盛らが行った様々の暴挙が語られ、後半では一転、その平家のっ高慢の鼻を折り、ついには滅亡に追いやった不幸・災難の数々が語られる。

源氏が勝利を収めたことを作者は明らかに喜んでいるが、作品としての『平家物語』は、祝い気分の書というより、むしろ哀歌であり、清盛を描く筆致には極めて厳しいものがあっても、滅びゆく平家には心を動かされ、偉大な一族の崩壊する様は、それだけで悲劇的である。

 

清盛の長子重盛は、父親と正反対の人物に描かれており、健全な判断と慎重な行動の主であり、父親が気まぐれを起こすたびに、それをいさめる役に回って、儒教に裏打ちされた諫言(かんげん)を行い、皇位への忠誠の何たるかを説いて清盛の半生を促し、無謀な行動を思いとどまらせることも少なくなかった。

後白河法皇もまた、重盛に救われた一人で、「無類の暗主」(藤原信西)・「日本一の大天狗」(源頼朝)とも呼ばれたりしたが、実際の法王は仏教の熱心な信者で、造寺造仏を盛んに行い、音楽的才能も豊かであり、今様を集めて『梁塵秘抄』を編んだことでは、今日の文学研究者からも大いに感謝されている。

 

木曽義仲の攻撃の前に平家が急遽都落ちする場面は、『平家物語』の劇的クライマックスと言えるが、源氏が平家を打倒するうえで一層決定的な意味を持ったのは、一の谷・屋島・壇の浦での三度にわたる合戦である。

『平家物語』の末尾近くに、源平の争いを無傷で切り抜けた後白河法皇が、寂光院に建礼門院を訪ねる場面があり、平家の滅亡は叙事詩のテーマにふさわしいが、読者の心に残るのは、随所に挿入されているエピソードの数々である。

【追伸】

平安時代に書かれた「大和言葉」の作品に対し、『平家物語』は和漢混交文で書かれた最初にして最大の傑作であるともいわれ、現代日本語の形成に、この作品がいかに重要な役割を果たしたかを示す証拠ともいえる。(20220704)