22 徒然草

徒然草』は随筆集で、短いものは一行、長いもので数ページ程度の随筆を収めた作品で、成立問題の特定はまだ問題を残すが、一般に、1329-1331年までの間に書かれたとされており、その時代の雰囲気は、とても内省と評論に適していたとは言えない。

当時の日本は、事実上、執権北条氏に支配されていたが、1331年に後醍醐天皇がその打倒を企図して失敗し、翌年隠岐に流されるものの、1333年には脱出、都に戻って討幕を果たし、こうした経過とそれに先立つ一連の事件は、知識層に大きな不安を生んだ。

 

しかし、この動乱の時代に書かれながら、『徒然草』の表面にはほとんど小波(さざなみ)すら立っておらず、困難な時代を嘆くでもなく、特定の勢力に肩入れするでもなく、『徒然草』は時代を超えて意義を持ち続ける作品であり、日本人の思索の様式のひとつの典型を示している。

作者は法名の『兼好』で知られているが、先祖は京都吉田神社の社務職にあったことから『吉田兼好』とも呼ばれ、代々神祇官の家系であったが、祖父の代から分家となって神道との関係は切れ、父親は宮廷の官人、兄の一人も同様で、もう一人の兄は仏門に入り大僧正になった。

 

生前の兼好は、二条派の歌人として知られており、次世代の主要歌人である二条良基(1320-88年)は、貞和の三大歌人の一人に頓阿・慶運とともに兼好をあげ、「人の口にある歌どもおほく侍るなり」と言っている。

後醍醐天皇は政権を取り返すも、たちまち足利尊氏の反乱にあって、1336年以後は足利将軍の時代になり、特に武辺一辺倒ながら文化的装飾を欲した高師直(1351年没)との関係は有名で、『太平記』によれば、師直のために恋文の代筆までしたという。(20230130)

正徹(1381-1459)の書写した『徒然草』は現存最古の写本【1431年)として重要なものであり、彼が「つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也」と、両書を同じ文学の形態として認めた点は、現代では常識であるが、当時の文学史家として優れた着眼点といえる。

『徒然草』が『枕草子』と並ぶ随筆の傑作であることは、ほぼ万人の褒めるところであるが、両者には詮な違いも多く、清少納言があらゆるゴシップに興味を示す宮廷女性だったのに際し、兼好は俗世間のことに興味を持ちながらも、最終的には侵攻に身をささげる僧侶である。

 

『徒然草』に顕著で、『枕草子』に全く欠落しているのは、世の中が着実に悪くなっているという認識なのだが、もはや自力救済の望みもなく、ただ悲惨さを耐え忍ぶよう運命づけられた末代の作者であり、伝統はいかに些細であっても過去からの貴重な遺産であり、本質的な価値の有無にかかわらず尊重すべきものであった。

兼好は、罪人への刑罰の考え方も伝統と異なると言って、機嫌を悪くし、世を捨てる決心をしたころの兼好の歌からは、中世に僧侶に共通する厭世観が窺われるが、西行らの隠遁歌人とは異なり、兼好はやがて比叡山をおりて、都での生活に戻り、俗世のことに深くかかわるようになり、孤独の喜びを頻繁に語ってはいるが、特に熱心に孤独を求めた様子はない。

 

最後の一文には兼好の仏教的信念がが現れているが、文章全体は、明らかに家を飾り立てすぎることの愚をいっているのであって、あらゆる住まいがはかないと言っているのではないが、このエピソードは、もう一つ、日本人の美意識を代弁している点で重要である。

兼好がここで言っていることは、何世紀にもわたって日本人の美の好みであり続け、兼好が『徒然草』で説いている美的理想は、「簡素」だけではなく、一様性や対称性でなく、不規則性が良いとも言っているのだ。

 

『徒然草』に見る、兼好の美意識の中で、最も特筆すべきは、漸層法表現に対する暗示表現の重視で、視覚その他による直接体験より、暗示や創造による方がいいっそう豊かでありうるという立場は、文学だけでなく、日本のあらゆる芸術に見られる際立った特徴である。

例えば能楽師は、背景のない舞台に立って数歩踏み出すだけで、長旅の途中であることを暗示でき、日本人が暗示を多用するのは、制限の多い表現形式を用いていることもあるが、それよりも、無限の暗示を好んだということであろう。

 

兼好が孤独を愛したのは、必ずしも仏教の経典に没頭できるという理由からではなく、事実、ともしびの下で広げた書物には、特に仏教的と言える内容のものではなく、『老子』と『荘子』は、道教の書物だし、和歌集を詠むことも喜びだったようである。

兼好は、出家してからも、人間という迷える生き物への愛情を失わなかったが、心の中では、どのような刹那的な気晴らしとも比べものにはならず、「思ひたつ」ことの重要性を悟り、周囲の世界に変わらぬ愛情を持ち続けたのであろう。(20230206)