24 連歌

連歌(れんが)は、日本の古来に普及した伝統的な詩形の一種で、5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていくのだが、連歌を変えた二つの発展がある。

一つは句数を短連歌の二句から大きく増やし、それによって、二人で和歌一首を詠むという連歌の観念を打ち破ったことであり、もう一つは、この長連歌(鎖連歌)という新しい形式の持つ可能性に注目し、歌人や学者がそれを表現の手段に採用したことである。

 

鎖連歌の始まりは、『今鏡』に記録されている有仁親王(?-1145)家での出来事迄さかのぼり、親王は芸術的才能にも容姿にも恵まれ、光源氏を思わせるほどだったと遺、頻繁に管弦の遊びや歌の会が催された。

いったん和歌の三十一文字から解き放たれると、三十句・五十句、さらには百句となり、連歌を長くしてはならない理由はどこにもなくなり、十二世紀中ごろまでには、五十句程度の連歌が頻繁に作られるようになっていたが、やがて長連歌の標準形式は百句に定められる。

 

宮廷歌人が連歌に積極的な興味を示し始めると、状況が一変し、中でも重要だったのは、「賦物(ふしもの)」と「嫌物(きらいもの)」という二つの規則であり、賦物とは決められた題のことを言い、付句の内容が如何であれ、則った意味を成す言葉でなければならない。

きらい‐もの【嫌物】は、句の配列上、同類のことばを付けることを避けるようにきめられたものだが、この嫌物の導入で、連歌の内容は様々な方向に変化することが保証され、どう展開するかは、最後の一句がつけられるまでわからなくなった。(20230320)

連歌を単なる遊びから重要な芸術の一形式にまで高めるうえで、最大の功績があったのは二条良基1320?-88?)だが、地毛派の連歌師、救済(きゅうせい:1282-1376?)の弟子となり、その指導の下で連歌を究めた。

『僻連抄』を書いたのは1345年、良基26歳のときであるが、連歌論としては最古のものだが、これを書き粗目多『連理秘抄』の方がよくしられており、その跋文には、田舎に住むある人から連歌とは何かを聴かれたので、それへの答えとしてこれを書いたとある。

 

連歌の上達には二つの要素があると言っており、一つは正得の資質であり、もう一つは、優れた歌人らと付合いの経験を積むことであるが、さらに、連歌には、高貴な生まれも学識も必要ないと良基は言うのである。

連歌には、菩提の因縁とは別次元での宗教的意義も認められていて、例えば、神社や寺院に連歌を奉納し、病気平癒や戦勝を祈願することが良く行われ、1471年には、宗祇が伊豆の三島神社にホックを献納し為に子どもの病気が奇蹟的に快癒したとされる。

 

良基の連歌論は、さらに一つの連歌を構成する個々の句に及び、何よりも重要なのは「発句」であり、出発点となる発句がまずければ、それ以後の句がいかに優秀であっても、その連歌は失敗作となり、では良い発句とはどの様なものをいうのか、良基自身はあまり詳しく語っていない。

しかい、後世の連歌師はこの問題をさかんに論じ、例えば、木食応其(1536-1608)は、連歌式目を説いた『無言抄』(1598年)の中で、発句は「その所の山海・地景・四季草木の飛花洛陽、風雲霞霧雨露霜雪・温熱・零寒・月の上限下限の季節」と違ってはならないとしている。(20230327)

どの様な歌が詠まれるにせよ、連歌は本質的に集団の営みであり、上手下手はともかく、他者と協力して歌を作るという行為は、人々が集まるのは主として殺し合いのためだった戦乱の時代には、じつに魅力的に映ったのではないだろうか。

確かに、あらゆる文学の中で、「座の文学」として最もわかりやすいのは連歌であろうが、時にはひとりが連歌全体を詠むこともあって、これを「独吟」というが、たとえ独吟で文学的に質の高い連歌が得られたにしても、そこでは、他者から思いがけない反応が返ってくるという可能性が排除されている。

 

良基は連歌を能と比較しており、能も又、座によって引き継がれてきた芸術であり、ある曲を演じる能役者は、みな同じ座に属し、共同で作業することに慣れているし、能の観衆は今も昔も、自身でも謡や舞を習ったことのある人々が大半だから、観衆と役者との結びつきは、西洋の劇場で一般に見られるよりずっと強い。

当時行われていた連歌には、優雅な「有心(うしん)連歌」と滑稽な「無心連歌」の二種類があったが、無心連歌は今日にほとんど伝わっておらず、有心連歌の方は、今日に伝えられながらまだ印刷されていない何千という連歌会の記録があるが、今日、連歌への関心は薄く、今後も版本として刊行されることはないかもしれない。

 

良基の最大の業績は、1356年に救済とともに『菟玖波集』を編集したことで、和歌の勅撰集に倣い、標準の二十巻からなり、和歌で『古今集』が果たした役割を、連歌で再現しようという野心的な企てである。

自分の生きた時代の文学にこれほどの価値を認め、自信を持っていた人物は、日本文学の長い歴史のなかにもあまりいないが、連歌師良基にとっては、現在こそが重要であり、連歌には過去も未来もなく、ただ現在を見て、目の前に出された他者の句につけるだけだ、と説いた。

 

和歌では歌人が一首の和歌に命を懸け、他人の批判に死ぬほど傷ついたりするが、目の前に難問を突き付けられている連歌師は、それを解くことに夢中で、他のことを思い煩う暇がなく、和歌は厄介な伝統で雁字搦めだが、連歌はそうした伝統に縛られない喜びの源泉だった。

二条良基は非凡な人物であり、宮廷の要人として、一日のほとんどを公務に費やしていただろうに、どうやって暇を見出したのか、歌に、特に連歌に打ち込んだのだが、救済と協力して編んだ『応安新式』(1372)は、標準的な連歌式目として七十年もの間使われ続けた。(20230403)

周阿(?―1376/77)は、南北朝時代の連歌師、二条良基の信頼を得て,師の救済と共に『連歌新式』の制定に尽力したが、作風はのちに心敬が「手だり上手」と評したように,理詰めで一句の仕立てに工夫をこらし,人の意表をつくもので,情趣深い句とはいいがたい。

梵灯庵(ぼんとうあん、1349- 1417年?)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての連歌師で、冷泉為秀に和歌を、二条良基に連歌を学び、室町幕府3代将軍足利義満に和歌・連歌をもって同朋衆として仕え、使者として2回薩摩国へ下っている。

 

灯庵は、40歳過ぎに出家し、筑紫国・熊野・陸奥国など20年余り諸国を巡り歩き、連歌師としての名を広め、句風は、周阿の影響を受けて技巧的であるが、連歌書では誠の数寄にふれ主観的な美意識を唱えた。

宗砌(そうぜい、1386年頃 - 1455)はと云うと、室町時代中期の連歌師で、連歌を梵灯、和歌を正徹に学び、梵灯が没した応永末年(1427年頃)には出家し高野山に住していた(『初心求詠集』)という。

 

とはいえ、良基が没すると連歌は衰退期に入っており、良基の死からニ・三十年間は、連歌史の空白期だという人さえいるが、人気が急落したというのではなく、むしろ逆で、都では数多くの連歌会が開かれていたのだが、質的低下が叫ばれたのである。

連歌の復興がいつ始まったかは正確に示すことは難しいが、二条良基の孫一条兼良(1402-81)が宗砌とともに「新式近案(しんしきこんあん)」を編んだ年(1452)を候補として挙げることはできよう。

 

連歌は、時代の文壇の主流に返り咲き、連歌を熱心に講演した兼良はー連歌作者としては良基にはるかに及ばなかったもののー第二の良基と呼ばれるようになり、最後の勅撰和歌集『新続(しょく)古今集』(1439)の仮名序と真名序は兼良の筆になる。

心敬(しんけい、1406 - 1475)は、室町時代中期の天台宗の僧、連歌師であるが、「十五夜の満月のような歌よりも、雲に部分が隠れる月のような歌が良いとしている」が、この美意識は、侘び茶の祖とされる茶人村田珠光も共有していた。

 

連歌について語るとき心敬は仏教や儒教の言葉を良く用い、例えば連歌の「十徳」と言い、「七宝」と言い、さらに連歌には、「仏の三身」に応じた三通りの段階があるとも言っており、当時の人々にどれだけ理解されたかは疑問である。

永享5年(1433年)、将軍・足利義教が山名常熙(時熙)を奉行として催した北野法楽の一万句連歌に宗砌は参加し、同年10月には草庵を新たに営み、正徹や山名持豊ら歌友のもとを訪ねて歌会を催した(『草根集』)。(20230410)

心敬(1406-1475と宗祇(1421-1502)の関係は必ずしも明らかでないが、1470年に心敬が書いた書状から、宗祇が何年もの間心敬の弟子だったことがわかるが、宗祇が心敬に心酔していたことを示す何よりの証拠は、1495年に宗祇が兼載らとともに編んだ『新撰菟玖波集』だろう。

宗祇は兼良に和歌と故実を学び、『源氏物語』についても特別の教えを受け、和歌は飛鳥井雅親(1416-90)と、古今伝授の創始者東常縁(とうのつねより:1401-84?)にも学ぶなど、身分の低い宗祇が、何人もの貴顕を師にもてたというのは隔世の感がある。

 

三百年前の西行・二百年後の芭蕉とともに、宗祇も偉大なたびの詩人のひとりで、生涯に幾度となく長い旅に出ており、連歌論で「歌枕」の重要性を論じている宗祇らしく、歌枕を訪ねる旅もあったが、他に戦乱の都を逃れる旅もあったし、都の文化を渇望する各地の大名の要請に応える旅もあった。

肖伯・宗長とともに詠んだ『水無瀬三吟何人百韻』は、あらゆる連歌の中でもっとも有名なもので、水無瀬は京の西に在り、かつて後鳥羽院の離宮がここにあり、三人の連歌師が集まった日が、たまたま院の祥月命日にあたっていたための法楽連歌なのだが、歌の先達にささげられたこの百韻は、連歌師宗祇の脂の乗り切ったころの作品である。

 

宗祇が亡くなった後は、宗長(1448-1532)が最も完成された連歌師だったであろうが、師の宗祇と違い、和歌を詠まなかったけれど、標準的な和歌に通じていたことはもちろんで、宗祇に劣らず全国を広く旅していながら、句中に詠みこんだ地名は伝統的な歌枕ばかりである。

一休にいつ出会ったかは書いていないが、一休が83歳(1476年)から亡くなる5年後まで、勤めて一緒に過ごそうとしたことが窺われ、宗長の残りの人生は一休の影響下にあったと言ってもよく、詠む連歌が極めて正統的だったのと対照的に、しきたりへの反抗で彩られている。(20230417)