21鎌倉時代の日記文学
平安時代の日記と鎌倉時代の日記を、明確に分けることは難しく、十二世紀末から十三世紀初頭の作品には、両時代にまたがったものがいくつもあり、男性の日記は、従来通り漢文で書かれることが多かったが、和文日記も次第に増えてきている。
歴史書でこの時代のことを読むと、鎌倉幕府の成立は京都朝廷に致命的な打撃を与えたかのような印象を受け、かつての栄光は、もはや面影を留めるにすぎなくなったかと思わせられるが、宮廷女性の残した日記にはそうした印象を否定している。
平安末期から鎌倉初期を扱った日記の中で、読者の胸を最も打つ作品と言えば、『建礼門院右京大夫集』で、高倉天皇がまだ皇位にあり、平家がわが世の春を謳歌していた1174年に書き始められ、ほぼ50年後の1232年、定家との歌の贈答をもって擱筆(かくひつ)されている。
平資盛(すけもり:重盛の子1161-1185)への愛は、右京大夫(1157-?)の生涯を彩ることになるが、間もなく藤原隆信(1142-1205)という愛人もできるが、資盛との関係には全く変化がなかった。
後半は、前半とは雰囲気が一変し、1183年、木曽義仲に敗れた平家は都落ちし、資盛も平家の軍勢と行動を共にし、都を離れるとき、合戦で命を落とすことを覚悟した男の言葉を述べており、また右京大夫は、1190年代半ば後鳥羽天皇の宮廷に出仕するよう請われる。
『右京大夫集』からは、当時のどの作品にもまして平家敗北の悲哀が伝わってくるが、収められている歌の数々は、数種の例外を除き、張り詰めた詞書にははるかに及ばず、読者は平凡な和歌を詠み飛ばし、散文だけを追うことになるだろ。(20230102)
平安末期から鎌倉初期に書かれた日記の中で、藤原定家(1162-1241)の『明月記』ほど、文学的にも歴史的にも豊かな内容を持つ作品はなく、定家はこれを1180年から1235年まで書き続けたが、、今日伝わる『明月記』には日の飛んでいるところも多く、時には数年分も記載がなかったりする。
結果的には、定家子孫で唯一存続した冷泉家とともに、『明月記』のかなりの部分が伝存されたものの、その冷泉家においても、『明月記』は歌道・書道の家の家宝とされ、定家が子孫に伝えたかった有職故実については顧みられることがほとんど無かったのであるが、歴史上著名な人物の自筆日記としての価値とともに、歴史書・科学的記録としても価値がある。
ぜひ取り上げておくべき文学的価値の高い作品ということになると、『海道記』一編しか見当たらないが、これは氏名不詳の男が1223年に京都から鎌倉へ旅した時の記録であり、冒頭で語られる旅の理由によると、かねてから新都鎌倉のすばらしさを噂に聞き、機会があればぜひ自分の目で見たいと思っていたという。
作者が京都を離れたかったのは、ただ鎌倉を観たかったのではなく耄碌した母親と一緒に暮らすのが苦痛だったのだが、鎌倉についてみると、たちまち母親の身が案じられ、帰らなけれなならないと思い始め、脳裏からはいつも母親のことが離れることがなく、良心が長逗留を許さないのである。
最も読者の胸を打つ部分は、作者が鎌倉への道をたどりながら、1221年の承久の乱を思い出しているところで、勝者の北条執権家に敬意を表す一方で、執権政治の転覆を企てて死んでいった人々、特に後鳥羽院側の最も優れた側近だった中御門宗行(なかみかどむねゆき)を哀れんでおり、宗行の処刑された場所まで行く。
『海道記』には随所に美しい叙述もあるが、全体的にはごつごつした読みにくい作品であるが、自分はいったい何者なのか、自分の居場所があるとも見えないこの世になぜ存在しているのか、それを理解しようとする作者の思索の揺れが文体に反映しており、人生に対するその誠実さと真摯さは読者の心を打たずにはおかない。
【追伸】
『東関紀行』(とうかんきこう:1242年成立)もまた、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を主として構成されており、中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)のうちの一つ。(20230109)
阿仏尼(1222?-1283)には、新旧二つの伝統に根差す日記があり、十八・九歳の時の『うたたね』は、平安女流日記の流れの中で書かれた作品だが、晩年に都から鎌倉へ赴いた時の『十六夜日記』は、鎌倉時代に新しく生まれた旅日記の伝統に属するものである。
『うたたね』は不幸な恋の記録で、ある年(1240年?)の春、作者はある男性と初めての恋愛を経験したが、秋になって、男の足は遠のき始め、思い煩ってもどうなるものでもないことはわかっているが、日記でも書いたら悲しみが和らぐだろうかと考える。
相手には妻があり、その上非常に身分が高く、たとえ今の正妻が亡くなっても、自分と結婚してくれることは期待できず、自分には通り一遍の関心しか持ってくれていない相手なのに、それでも燃やす激しい恋心は、相手の中に光源氏を見ようとする無意識の願いの繁栄だったかもしれないが、一度でも愛した女性を決して忘れなかった光源氏と違って、阿仏尼の恋人の訪れはその年の終わりまでに完全にとだえた。
ある夜、月の光の下で恋人のこと考えていると、涙があふれて月がかすみ、その瞬間、仏陀の影が見え、尼になれば心が慰められるかもしれないと考えたのはその時で、その一か月ほど後、家の者が寝静まったころを見計らい、髪を切って、暗闇の中を遠く離れた尼寺へ向かうも、途中で雨が降り出し、雨具を持っていなかった阿仏尼はずぶ濡れになったが、後年に見せる強い意志は、既にその頃からのものだったようで、夜明けまでそのまま歩き通した。
最初のうちこそ日々の行に気もまぎれたが、やがて恋人のことを再び再び考え初め、もともと尼寺に入ったのは、仏の道を歩むというより、恋人を忘れるためだったのだから、出家の甲斐はなかったことになる。
都に戻ってからの阿仏尼のことはよくわからないが、二度結婚したようで、二人目の夫は藤原定家の子の為家で、阿仏尼は息子を三人生んでおり、1275年に為家が没すると、先妻の子である嫡男為氏と、阿仏尼の生んだ第二子為相(ためすけ)の間に、父の荘園をめぐる争いが生じた。
『十六夜日記』の阿仏尼は、いわば鎧を身にまとっているが、一か所だけその鎧の下から、『うたたね』を書いた乙女が垣間見えるところがあり、旅の途中、浜松についた時のこと、かつて尼寺を出た後、ここの養父の家でつらい一カ月を過ごしたことを思い出し、昔、この地で知っていた人々の子や孫を呼びにやる。
飛鳥井 雅有(あすかい まさあり:1241-1301)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人だが、日記・紀行類としては『仏道の記』・『嵯峨のかよひぢ』・『最上の河路』・『都路の別れ』(以上の4種を「飛鳥井雅有日記」とも)があり、阿仏尼も登場している。
【追伸】
阿仏尼:奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女(20230116)
『弁内侍日記』(べんのないしにっき)は、鎌倉時代の女流歌人で、藤原信実の娘にあたる弁内侍によって記された日記だが、遊び心が随所に見られ、他の宮廷女流日記の激しさや深さはないものの、このユーモアはめったに見られないものであるだけに貴重である。
『中務内侍日記』(なかつかさのないしのにっき:1280-1292)の著者は、伏見院中務内侍こと藤原経子で、政治に興味を持たなかったし、宮廷の噂話にも無関心な反面、自分の見知っている世界が終ろうとしていることだけは予感していたようである。
『とはずかたり』(1271-1306)は、後深草院に仕えた女房である二条(久我大納言雅忠の娘)の数え14歳(文永8年/1271年)から数え49歳(嘉元4年/1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。
二条には四人の子がおり、一人は呉深さ院の子、一人は初恋の『雪の曙」の子、残り二人がもう一人の愛人「有明の月」の子だが、愛人の存在は、院と二条の関係になんの危機ももたらさず、むしろ、二人はいっそう親密になっていったようである。
二条が最も深く愛したのは、日記の中で「有明の月」と呼ばれている高僧で、その正体は、後深草院の異母弟、性助法親王(しょうじょほっしんのう)ではないかと言われているのも、ある時院が病気になり、その回復を願って、宮廷で延命法を行い、その修法(ずほう)に来たのが「有明の月」である。
「有明の月」とはしばらく疎遠になっているが、院が急用で中座した機会をとらえ、二条に積もる思いを語り始め、院が思いがけず早く戻ってきて、障子の向こうで聴いているのも知らず、二条に口説き続けるのだが、院は怒らず、それどころか、「有明の月」の愛を受け入れて、一年の妄執から解き放ってやるように言う。
『とはずがたり』の構成は、一見、三百年前の平安女流日記に似てはいるが、型通りの装飾的表現は一瞬だけのことで、たちまち驚くほど赤裸々な告白が始まり、それを語る二条の率直さにあり、後深草院に凌辱された後も、歌を詠んでいるが、その歌以上に印象的なのは、それに添えられている作者の思いである。
『竹むきが記』(1329-49)は、全二巻のうち上巻で描かれているのは、日野名子(作者)と西園寺公宗(夫)の恋であるが、いわば南北朝の動乱の時期であり、これを最後に二世紀もの間女性の日記が途絶え、その事実は、これ以後に、更に恐ろしい時代がやってきたことを物語っていよう。(20230123)