20 鎌倉時代の王朝物語

定家少将の作りたるとてあまた侍るめるは、ましてただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどもに侍るなるべし。『松浦の宮』とかやこそ、ひとへに『万葉集』の風情にて、『うつほ』など見る心地して、愚かなる心も及ばぬさまに侍るめれ。『無名草子』

 

藤原定家(1162-1241)は、いくつもの物語を書いたと言われているが、残存するのは未完の『松浦宮物語』だけである。

『無名草子』は1200年頃に書かれており、定家が少将だったのは1189-1202だが、3巻のその構成は緊密でなく、前後の連携も良いとは言えない。

 

すなわち、前半で少将の両親の心情を細やかに描きながら、後半では忘れられ、主人公(遣唐副使)以外の使節の描写も足りない。

また、唐国内の戦乱描写も異常なまでに詳細であり、一説には、現存本は後人の加筆もあるというが、この松浦宮とは、息子の帰りを待つ母が、九州に建てた住まいなのである。

 

鎌倉時代の日本人は、国交は久しく途絶えていても、依然、中国を優れた文化の源として仰ぎ見ていたが同時に、過去の偉大な伝統を受け継ぐのは中国人自身ではなく、自分たちだとも思っていた。

道徳的にも少将は、唐人に勝っており、少将をもてなそうと、皇帝がせっかく美しい舞姫を大勢集めたのに、少将は少しも心動かさず、一人寝をつづけ、日本人にこれほど自制心があったとは、と皇帝は大いに感銘した。(20221205)

唐に着いた彼(弁少将)は、唐の帝の寵愛を得たが、折しも、帝は病臥し、弁を呼び、私の死後、国は乱れる、おまえは太子に従ってくれ、と遺言を残して死ぬと、予言は的中、国は乱れ、弟の燕王が太子の幼弱をいいことに謀反した。

彼は今は無き帝との約束通り、新帝である太子、母后を守り逃げ、蜀山に向かうが、道は遠く、燕王に攻め寄せられたけれど、母后の戦略に従い、神の助けを得て9人の分身とともに敵の将である宇文会を討ち取ることに成功。

 

才色兼備の母后が善政を敷き、世は平和を取り戻したが、帰国とともに母后への恋心が湧き上がり、ある春の夜、梅の香り漂う里で簫を吹く不思議な女性と出会い、夢のような逢瀬を重ねるも、身元不明、神出鬼没の彼女は母后に似ていた。

帰国の日も近づいた或る夜、母后は、あの女性の正体は自分であり、宇文会は阿修羅、私は第二天の天衆、あなたは天童、二人は阿修羅懲戒のため天から下され、人世に生まれたばかりに恋心が起こったと秘密を明かし、形見に鏡を渡した。

 

『松浦宮物語』は、現存する未完の状態で見る限り成功作とは言えないが、少なくとも『源氏物語』に影響されてはおらず、攻撃的なほど男性的な気質の持ち主だった定家には、紫式部の繊細優美が苛立たしかったに違いない。

鎌倉時代の王朝物語の本流から外れた作品であるが、形は確かに平安時代の物語のものであり、その印象は、作中に数多くの歌がちりばめられていることで、一層強まっているが、そこで展開している話自体は違う。(20221212)

鎌倉時代の王朝物語としては『在明の別(ありあけのわかれ)』のほうが典型的と言えるが、これは鎌倉時代というより平安末期の作品かもしれず、資料がほとんどなく、成立時期も作者もよくわからないが、『無名草子』(鎌倉時代初期)には「今の世の物語」とあるので、十二世紀の終わり近くに書かれた。

十三世紀の批評家たちの目に、『在明の別』が高く評価されたらしいことは、その中の和歌が二十一首も『風雅集』(室町時代)にとられていることからもわかるが、この数は『夜の寝覚』(平安時代後期)に次ぐものである。

 

長く子宝に恵まれなかった夫婦が神に祈願し、首尾よく弧を授かるが、生まれたのは男でなく女だったが、娘を息子として育てよという神託があり、それに従うこととなり、物語が始まるのだ。 つまり、神意に基づき、〈男装〉として育てられて右大将となり、左大臣家(父)の跡継ぎ問題も解消(不義で身ごもった左大将の娘を妻にする)し、奇妙な夢を見た帝との契りの後、右大将は死んだこととなり、妹として本来の性に戻り入内するのである。

 

そして第二章へと入るのだが、右大将と対の上(妻)の子が成長して左大臣となっており、生来の色好みとして、満足を求めて歩き回るが、こともあろうに右大将、今は叔母になっている女院にも激しく惹かれているのだ。

男装の右大臣は、『源氏物語』より「とりかへばや物語」を連想させるが、大きな違いがあり、平安中期の物語よりずっと頽廃した社会を描きながら、終始、読者を飽きさせないで、文学作品になりえたと思わせる箇所もある。(20221219)

『在明の別』に見られる社会的頽廃を、いっそうあからさまに語った作品に、『わが身にたどる姫君』があり、当時の王朝物語としては異例の長編で、登場人物は六十人をかぞえ、四十五年ほどにもわたる、年月を扱っている。

擬古(ぎこ)文学の最高傑作とまで呼ばれるようになった(1980年)が、この姫君は決して物語の中心人物とはいえず、出生の秘密にしても、実は関白が皇后に密通してできた子だということが巻一で早々ととわかったしまう。

 

全八巻の中で、最も面白いのは巻六で、現存するどの王朝物語とも異なって、レズビアンを扱った日本最古の文学として知られるが、嵯峨院上皇の娘である前斎宮(さきのさいぐう:巫女)が、伊勢神宮から帰ってきて叔母の家に住み込み、周囲の女性たちと関係を持つストーリーって言うんよ。

まず斎宮と中将の君という女性同士の恋愛があり、さらに新大夫の君、小宰相の君などの女性たちとの性関係もハーレム的に登場し、小宰相の君は裕福な男性と結婚したものの、斎宮のもとにも通い続け、「いとあらまほしき御仲」(理想的な関係)を実現し、新大夫の君も斎宮との恋愛関係を生涯続けて、一生を終えた。

 

『いはでしのぶ物語』は、鎌倉時代の王朝物語の中で屈指の名作と言ってよいが、全八巻のうち最初の二巻しか現存しないが、後世の抜き書き本が残っており、作中に見られる三百二十三首の歌について、それが詠まれた背景を本文の抜粋などを交えながら説明しているので、物語の概要を知ることができる。

成立当時から相当に評判の高かった作品らしく、『風葉集』には三十四首が入集しているが、『いはでしのぶ物語』は、宮廷社会で苦しむ人々を描いていて、苦しみの原因は、性的関係のもつれでも、敵の陰謀でもなく、苦しみこそ、感受性の豊かな人間の常態だというのが作者の思いだったのだろう。

 

鎌倉時代の王朝物語として最後に取り上げる作品が『住吉物語』だが、継母自身は意地悪でも、その二人の娘は継子の姫君と仲が良く、この点で他の継母子物語とは異なるが、継母が夫に対して姫君の信用を失墜させようと謀り、その部屋に「あさましき法師」を送り込もうとする場面は、『落窪物語』を連想させる。

文学的に見た『住吉物語』の面白さは、姫君に恋をした中将が、何とか結婚にこぎつけようと様々に努力する話に集中しているが、初めの求愛は継母に邪魔され、だまされて継母の実の娘と結婚する羽目になったり、老人に姫君を盗ませようし、それを知った姫君は住吉に逃れ、尼になろうかと考えるも、長谷寺に参籠した中将は、姫君が住吉に居ると夢で教えられるのだ。

(20221226)