『日本文学の歴史6』古代・中世篇6

平安時代に日記文学が生まれて以来、主流はいつも宮廷女性であったが、その伝統も1350年頃の『竹むきが記』で終わり、日記文学の特色だった主観性も同時にうしなわれた。

 室町時代の日記としては、僧侶や武士の書いたものが最も印象深いが、公卿も日記を残し、中には歴史的に興味深い内容を含んだものもあるが,ほとんどは非文学的な漢文で書かれている。

 

 

平安時代と鎌倉時代には、男性が和文日記を書く時でさえ、女性による内省的日記という、確立しモデルに従うのが普通だったが、室町時代になると、日記作者が文学的表現に無関心になったのでは決してないが、心の奥底を吐露するようなことはほとんど見られない。

 

せいぜい、戦火に焼かれた寺院の跡を眺め、かつて古歌に歌われたその土地や名前にむかしの栄光を思い合わせて、日記に悲しみをにじませる程度であり、しかも室町時代は、惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が、文化の担い手になってくる時代でもある。

 そうした庶民の間では、短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞(こうわかあい)などの庶民芸能が流行し、さらに食文化では、味噌・豆腐など、日本料理の基本要素が出揃い、室町時代の商工業発達によって普及した。 

室町時代の日記とその他の散文

いせだいじんぐうさんけいき【伊勢太神宮参詣記】は、伊勢神道の大成者である外宮祠官度会家行との問答を記し、紀行文としてのみならず、伊勢神道の思想書としても重要。

「小島のくちずさみ」(二条 良基)は、都から小島までの紀行文だが、とにかく、ドライかつ格調の高い文章であり、読みながら背筋を正したくなる。

 

「藤河の記」(一条 兼良)は、作品の中身自体は大したことがないし、収められている和歌も平凡かもしれないが、ただ、中世の紀行文というのは、内容そのものよりも、歌枕を巡るという行為そのものに味わいがあるのかもしれない。

そこに登場したのが、宗祇(そうぎ、応永28年〈1421〉 - 文亀2年〈1502〉)なのかもしれないが、旅の足跡を記したものを紀行文と名称するようになったのは、江戸時代の初め頃からである。

 

 それまでは、紀行文も月日を追って出来事を綴つづった日記の一種と認識していたようで、室町時代の紀行文である宗祇の『筑紫道記(みちのき)』や宗碩(そうせき)の『佐野のわたり』でも、その末尾に自己の作品を「この旅の日記」と呼んでいる。

『御伽草子』は、鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式であるが、広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれるんよ。

文学としての能・狂言

現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった、日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。

散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していったもようである。

 

そもそも、『風姿花伝』第四によれば、能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが、「申楽」のはじまりと伝えられている。

現在、能楽と称されている芸能の起源について、正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に伝わった、日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。

 

狂言(きょうげん)は、猿楽から発展した日本の伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇だが、能が舞踊的要素が強く、抽象的・象徴的表現が目立ち、悲劇的な内容の音楽劇であるのに対し、狂言は、物まね・道化的な要素を持ち、失敗談を中心としたシナリオおよび、様式をふまえた写実的、ときには戯画的な人物表現を通じて、普遍的な人間性の本質や弱さをえぐり出すことで笑いをもたらす。

「狂言」とは、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する語であるが、この語は主に小説や詩などを批評する際に用いられたものだが、さらに一般名詞として、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して「狂言」と言うようになり、さらに南北朝時代には、「狂言」は猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用され定着した。

五山文学

五山文学(ござんぶんがく)は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学であるが、室町時代に入ると、鎌倉五山や京都五山(京五山)では、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、四六文を用いた法語や漢詩を作る才が重視されたことも関係して、五山文学が栄えることとなった。

代表的な詩文集に、義堂周信の『空華集』、絶海中津の『蕉堅稿』などがあり、また、漢文学の盛行に伴って、木版出版も起こり、とりわけ、14世紀後半、京都の天龍寺雲居庵や、臨川寺で、春屋妙葩らが盛んに出版活動を展開し、これらの木版印刷を五山版と呼び、日本に伝わった宋版や元版を覆刻したものや、古様を伝えるものも多く、資料価値が非常に高い。

 

瑞渓周鳳(1392-1473)は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の僧で、8代将軍足利義政に重用され、文筆の才により室町幕府の外交文書の作成にあたり、外交史書の『善隣国宝記』を編集し、足利義満の明との朝貢形式の外交を非難している。

横川景三(おうせん けいさん、1429- 1493)は、室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)で、後期五山文学の代表的人物であり、室町幕府8代将軍足利義政の側近、外交・文芸顧問である。

室町時代のフィクションー御伽草子

それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝え、テーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる。

古くからのお伽話によるものも多いが、たとえば『猫の草子』のように成立が17世紀初頭と見られるものもあり、また、『平家物語』に類似の話が見られる『横笛草子』のように他のテキストとの間に共通する話もあるのだが、『道成寺縁起』のように古典芸能の素材になったり『一寸法師』のように一般的な昔話として現代まで伝えられるものもある。

 

『一寸法師』や『ものぐさ太郎』、『福富太郎』などは、主人公が自らの才覚一つで立身出世を遂げ、当時の下克上の世相を反映する作品といえ、物語の設定に着目すると、時代は現在から神代の昔に至るまで様々であったのに対し、舞台は特定の場所が設定されている事がしばしば見受けられる。

特に清水寺は、現存するお伽草紙作品のうち約1割に当たる40編に登場し、中世の人々の神仏に対する信仰や、縁起譚・霊験譚への関心の高さが窺え、一方で、鳥獣魚虫や草木、器物など人間とは類を異とするものが主人公になることも多く、「異類物語」と呼ばれ、その中には百鬼夜行絵巻のような、妖怪を描いた作品も含まれているのだ。(Wikipedia『御伽草子』より)

十六世紀後半

桃山文化または安土桃山文化は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められ、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とし、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。

庶民のなかからあらわれた連歌師で、当代一流といわれたのが里村紹巴であるが、俳諧連歌をすすめた紹巴は、天正10年の本能寺の変直前、明智光秀がひらいた愛宕百韻に参加したことでも知られる。

紹巴の門人には秀吉の右筆となった松永貞徳がおり、また、織田信長や豊臣秀吉と親しく交際し、その保護を受けて布教したルイス・フロイスは、編年体の『フロイス日本史』を著している。