26 文学としての能・狂言

 

謡曲は、今日に残る日本最古の戯曲であるが、それ自体は、古い歌や物語の断片を寄せ集めたに過ぎないとされ、個々の作品が評判になることはあっても、それは舞台で演じられ成功した結果であり、劇作家の人間理解の深さや、中に含まれる詩歌のすばらしさが認められたからではなかった。

歌舞を重視し、謡曲にはいわばオペラの歌詞程度の重要性しか認めないという態度は、能以前のあまり文学的ではない劇ー台詞がないか、あっても舞台上の演技を支える小道具的な意味しか持たない劇ーの伝統から受け継がれたものであり、そのような劇では、脚本は役者の演技を引き出すための手段にすぎず、語り手にとっての話の素材ほどの意味しかなかった。

 

記録に残る日本最古の芸能は「伎楽」であり、呉で学んだ百済の味摩之(美馬市)が、612年に日本に伝えたと『日本書紀』に記されており、今日では新年の獅子舞に、名残をとどめるにすぎないが、七・八世紀につくられた伎楽面がニ百二十点以上現存しており、この芸能がいかにバラエティに富み、人気があったかをうかがわせる。

中国の偉大な文化を取り入れ、それを同化することに熱心だった奈良朝廷は伎楽を保護し、若者にその修得を奨励し、752年には、東大寺大仏開眼供養で六十人の伎楽師が枚を奉納するという、伎楽史上最も華々しい時を迎えるが、その後、伎楽は衰退する一方で、半世紀後になると、伎楽師の資格を持つものはわずか二人にすぎなくなっていた。

 

舞楽は既に成熟した芸能として日本に入ってきたが、外来芸術としての特徴が忠実に保たれた結果、繰り返し演じられはするものの、それ以上の発展は遂げられず、結局儀式芸能として生き残るだけであり、能が舞台芸術として初めて姿を現す十二世紀末までには、宮廷や神社の儀式の一部に定着していた。

舞楽と前後して中国からはいってきた卑俗な芸能に、「散楽」があり、軽業・曲芸・手品・傀儡(くぐつ)などを内容とし、散楽の曲芸の絵が現存しており、そこでは二人の男が踊りながら顎に竿を立て、その二本の竿の間に張った綱の上を高下駄をはいた少女が玉を操りながらわたっている。

 

能の形成に最も強く影響した民俗芸能と言えば、田楽(でんがく)であるが、楽と躍りなどから成り、「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。

猿楽に影響を与えた芸能に、もう一つ延年(えんねん)があり、貴族たちが節会(せちえ)のあとで行った遊宴の際の芸能や僧侶(そうりょ)たちが法会のあとで行った遊宴の際の芸能をいうが、芸能によって心を和やかにし、寿福を祈り、災(わざわ)いを除くという。(20230703) 

今日「能」と呼ばれている舞台芸術が草創期にどのような形態のものだったかほとんどわかっていないが、学者の研究も、最初の偉大な能楽師観阿弥(1333-84)と、その現実主義的な作品までさかのぼるのがせいぜいのところであり、奈良に結崎座をつくり、他の大和猿楽三座と共に春日社の神事能を務めながら座勢を伸ばしていった。

観阿弥の作品は、素朴ながら劇的な『自然居士』から、傑作『卒塔婆小町』まで、少数でも多彩であり、その作品を論評する研究者は、劇中に見られる対立や狂気の場面など、とりわけ劇的な諸要素に注目して、超俗的な世阿弥の作品と対比させることが多いが、観阿弥の典型的作品といわれるものには、過去の文学への暗示や言及がほとんどない。

 

『自然居士』は、観阿弥の作と考えられているが、世阿弥が手を入れたと考えられる証拠があり、世阿弥はいくつもの能楽論を書き、その中で父観阿弥の芸術のあらゆる側面にー役者・劇作家・作曲家としての観阿弥にー限りない尊敬を表しているが、同時に、新しい観客の好みに合わせて、古い作品を書き直すことが必要だとも言っている。

自然居士』は明らかに世阿弥以前の時代に属する作品ながら、既に能らしい特徴を多く備えており、登場人物は劇中での名前ではなくで呼ばれ、例えば主たる人物を「シテ」というが、この作品では自然居士がシテであるが、能の地謡にはギリシャ劇のコーラスのように特定の役がなく、舞っているシテの代弁をすることが多い。

 

『自然居士』は歌舞の名手の自然居士が少女を救う物語であり、そこで重視されているのは、謡でも舞台の雰囲気でもなく、話の筋立てであり、現実主義的なのだが、『卒塔婆小町』は間違いなく観阿弥の作品であるとされ、小町と僧の機知にとんだやり取りは、一転して、小町が若く美しかった日々へと移っていく。

『卒塔婆小町』は「現在能」であるが、小町ははるか以前の時代に生きた人間で、その小町を登場させる作品を「現在能」と呼ぶのはおかしいようだが、これは「夢幻能」に対する概念であって、シテとワキガどちらも現実の人間であるが、一方世阿弥の作品に多い「夢幻能」では、現実の人間であるワキが、遠い過去の何者かー実は亡霊ーに出会う。(20230710)

世阿弥の生涯で今日に知られる最も古い出来事は、1375年、世阿弥12歳の時、総軍足利義満が京都の今熊野神社で能を見物し、当時18歳であった義満は、初めてのうを見て、観阿弥の技と世阿弥の美しさにすっかり魅せられた。

「乞食」とまで呼ばれた猿楽師が、義満の庇護のもとで経済的安定を得て、教育その他、都住まいの利点を享受できるようになり、また、高尚な表現を理解できる観客に恵まれて、想像力の赴くままに能をつくれるようになった。

 

世阿弥の能は、能の主流ではなかったと言われ、世阿弥の作風を受け継いだ作者には、唯一、娘婿の金春禅竹(1405-70?)がいるだけで、世阿弥以後のほとんどの能作者は、むしろ初期の観阿弥に連なる作品を書いた。

世阿弥の芸術を語るとき、よく「幽玄」という言葉が使われ、世阿弥自身もこの言葉を用いているが、その意味するところは様々で、時には言葉遣いや外見の「優雅さ」だったり、別の時には「深遠さ」だったりする。

 

世阿弥は、その能楽論で「序破急」の原則を強調しているが、序破急とは、能の構成と上演の原則であり、能の各部分のテンポと長さを定める指針と言えるが、まず「序」は導入部であり、「破」は展開部であり、そのあとに一段だけの「急」が来て、きゅそくな終結となる。

能の番組編成にも同様の考え方が適用され、一日五番を演じる「五番立」の場合、「脇能」と呼ばれる初番目物は、神霊や社寺縁起を扱い、「序」の緩やかなテンポ、二番・三番・四番目物は「破」に相当する部分で、「急」にあたる五番目物は鬼畜物が多く、最も激しい動きを伴う。

 

世阿弥の特徴が最もよく現れている作品は、二番目物で、、武士の亡霊を登場させ死後に修羅道で苦しんでいる様子を語らせるところから、「修羅物」と呼ばれ、武士の話が序破急の流れの中で、神能(脇能)と女能(三番目物)の間に配されているのは奇異に見えるかもしれない。

能の形式面でも、世阿弥は今日に言う「複式夢幻能」の創始者であり、その貢献は大きく、世阿弥の修羅物は、一曲を除いてすべてこの形式で、その代表作が「敦盛」だが、複式夢幻能は現在と過去という二つの時間層から構成されていて、現実主義的な一場だけより複雑な表現できる。(20230717)

世阿弥の修羅物の素材としては、『平家物語』が最も重要であり、能楽論『三道』は、能の基本三役のひとつに武将をあげ、「仮令(けりょう)、源平の名称の人体の本説ならば、ことにことに平家のままに書くべし」と言っている。

『八島』は珍しく勝者を扱っているが、この作品でも勝者義経が歓喜の情を全く表さないところは原典と違い、世阿弥の描き出す義経は、修羅地獄に落ち、生前の殺戮行為を繰り返し再現するよう運命づけられた苦悶する英雄である。

 

三番目物は「鬘物」とも呼ばれる女能で、シテはおんなであるが、能では「熊野(ゆや)に松風米の飯」と言われるほど、『松風』と『熊野』の人気が高く、この二曲は二つながら鬘物であり、修羅物と比べると複式夢幻能の鬘物は少ない。

おおそらく、確実に世阿弥作と言える鬘物が『井筒』一作しかないことも関係があるだろうが、鬘物の中には、シテが「狂気」にとりつかれ、その瞬間、自分が恋人と錯覚する話が合って、化身や霊体を登場させる夢幻能と同様の複雑さを見せることがある。

 

鬘物の中で最も美しい物語は『松風』であるが、伊ppん的に観阿弥作とされているが、世阿弥による改作があったという条件が付くのだが、筋立ては第二義的であって、素晴らしい詞章と勝風の舞を導き出すための枠組みに過ぎない。

幽玄の美は三番目物に現われやすいとされ、幽玄と言えばまず世阿弥を浮かべるが、世阿弥の後継者として湧現を目指した能作者に金春禅竹(1405-1470)がおり、『雨月(うげつ)』『楊貴妃』『芭蕉』(すべて三番目物)などの能をつくった。(20230724) 

四番目物は、「狂女物」と「現在物」の二種類に分かれるが、気の違った人間を扱った作品は驚くほど多く、人々の関心が高かったことをうかがわせるが、おそらく、死者の世界と連絡できると信じ羅rていたからであろう、

狂女物はさらに二種類に分類でき、一つは実際にー(たとえ一時的ではあっても)ー狂った女を扱った作品であり、もう一つは狂ってるというより、取りつかれた様に一つのことを思い詰めている女を扱った能である。

 

狂女物の魅力は、その人間臭さにあるだろうが、能楽師は「芝居がかる」ことを極力さけようとし、その結果、能の「隅田川」には、歌舞伎ほどの見かけの「人間臭さ」がないけれど、母親に寄せる観客の共感は近代劇での反応にかなり近い。

「曽我物」題材にした宮増の能は、当時世阿弥の作品以上に人気があったようであるが、地謡(じうたい)と乱拍子の舞で成功したのは、四番目物としては最も観客を興奮させる観世信光(1435-1516)の『道成寺』である。

 

五番目物は、番組の最後に演じられるという意味で「切能」(きりのう)と呼ばれ、鬼の類を主人公とし、信光は人気の高い五番目物をいくつか書いており、その一つが『船弁慶』で、劇的緊張が誰の目にも明らかなのである。

『山姥』も、五番目物としては有名で前場に登場する女からは山姥の正体など全くうかがえないがそれが後場になると恐ろしい本性をあらわし、後場の仕舞は、五番立の先行四番の「急」の段を受けて、番組全体で最高の盛り上がりを見せる。

 

観世信光は、美しい『遊行柳』を含む幾つかの幽玄のうを書いており、金春禅竹の孫禅鳳にも「初雪」という幽玄能があるが、当時の作能の大勢は、大きな劇的緊張を作り出すのに向かっていてそのために多人数の役者を使ったり、華々しい効果を取り入れたりした。

能は十六世紀を通じて作られ続け、二十世紀になってからも数曲つくられた居るが、能の最盛期は十五世紀にあったことは間違いないけれど、能の人気は以前にもまして高いというのも、謡曲研究や能楽史を志す学者も絶えることがなく、謡曲の文学的重要性に注目する人も出てきた。(20230731)

「狂言」という名前は、唐の詩人白居易の「狂言綺語」という表現からきており、道理に合わない言葉や、綺麗に飾り立てた言葉を言うが、白居易自身は世俗の文学をこう呼んで、、仏教的真理の前では否定されるべきものとしたが、日本人は必ずしもそう考えなかった。

狂言そのものは、舞台芸能としてではなく、今日の落語のような語りの演芸としてはじまったのかもしれないけれど、狂言師らしきものの記事が文献に初見されるのは1350年のことで、「をかし法師」の名前が見える。

 

狂言師はもともと能の一役を演じていて、後になって独立した狂言も演じられるようになったのか、それとも逆なのかは、未解決の問題ではあるが、十五世紀以降、能と狂言という二つの芸術は密接に関連しあって発達した。

1642年に大蔵弥右衛門虎明(1597-1662)という狂言師が約二百四十篇の狂言を書き留め、これが今日伝わる最も古い狂言本となっており、初めての狂言理論も書き遺しているが、それ以前にも十六世紀末の成立とみられる梗概本が出ている。

 

能の言葉と狂言の言葉のちがいは、上演時に強調されるが、能楽師が面をかぶるときは、当然、面に邪魔されて発音の明瞭さが損なわれているが、面をつけていないときでさえ、その話声や謡声はくぐもっていて、内容を良く知らない客や、台本を目の前に置いていない客には、聞き取って理解することは極めて葛かしい。

書記の狂言には、、直前に演じられた悲劇(能)のパロディーがかなりあったと思われ、十八世紀イタリアの舞台に似た状況だったとも想像されるが、今日ではほとんど上演されないけれど、それでも明らかに、『善知鳥(うとう)』のもじりと思われる『餌差十王』があるのだが、今日の狂言レパートリーを見渡した時、パロディーとしての狂言は目立つ存在ではない。(20230807)

西洋の喜劇にあって、日本の狂言にはほとんど見られない笑いの一要素に、「おかしな外国人」があるが、その外国人を登場させる数少ない狂言のひとつに『唐相撲』があるのだけれど、この狂言の面白さは、唐人に扮する役者の、奇想天外な装束にもあるが、どちらかと言えば、唐人の発する、人間の言葉とも思えない、奇妙な音にあるだろう。

『末広がり』では、傘を「末広」(扇)と称して売りつける「すっぱ」(詐欺師)と、それに騙される太郎冠者のやり取りを演じられるのだが、言いくるめられた太郎患者が帰ろうとすると、「主の機嫌が悪い時に謡うとよい」といって或る唄を教えるのだが、持ち帰った傘を見るや激怒した主人に、教わった唄をうたうと、たちまち機嫌を直し、太郎冠者と共に舞う。

 

『末広がり』は「脇狂言」であり、ハッピーエンドのめでたい曲であるが、能の演目のなかで最も荘重な寿ぎの舞である「脇能」に対応し、狂言の演目はふつう十一種類(他:大名物・小名物・婿物・女物・鬼物・山伏物・出家物・座頭物・集狂言・習物)に分類されるが、このような分類は必ずしも狂言の内容を正しくあらわしていない。

狂言の笑いは時に哀愁を帯びるものだが、とりわけ『月見座頭』では、座頭(シテ)が月を見ていると、男が通りかかり意気投合し、古歌を吟じ舞をまって酒宴を楽しみやがて別れるが、男は突然引き返し、作り声をして別人を装い、座頭を突き倒して幕に入り、1人残された座頭は、今の男は最前の人とは違い情けもない奴だと述懐し、大きくくしゃみして終曲となる。

 

狂言は、十六・七世紀の日本社会をっ垣間見させてくれるが、そのユーモアは、実際に上演を観るのに比べると読んだだけではわかりにくいかもしれないが、それでも、大きな時間と距離を越えて、現代の読者からも笑いを引き出す力を備えている。

江戸時代に家元制度を取っていた流派には、大藏流・和泉流・鷺流(さぎりゅう)の3派があったが、このうち現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである。(20230814)