七 仮名草子

仮名草子(かなぞうし)とは、江戸時代初頭の約80年間に仮名、もしくは仮名交じり文で著わされた散文文芸の総称だが、明治30年代に水谷不倒(1858-1943)が初めて使用し、下限は天和2年(1682)の井原西鶴『好色一代男』出版の頃までとするのが一般的であるが、教養のある浪人が一時の糊口をしのぐために書いた作品が多い。

その中の傑作は、1612年の『恨の介』(作者不詳)だが、仏教思想の影が、全編にその濃い影を落としており、そのような中世的な残滓にもかかわらず、『恨の介』が先行作品から截然と区別されているのは、物語の背景をはるかな平安の時代に置かず、現代の社会の中に筋を展開させている点である。

 

その影響下に書かれたとみられる小説は『薄雪物語』なのだが、文体や語彙は『平家物語』、特にその大原御幸、及び謡曲からの引き写し、出家した主人公の衛門が名乗る蓮生という法名は、謡曲『敦盛』そのままであり、その他の部分も御伽荘子、あるいは『太平記』や平安朝の文学作品に負うところが大きい。

それにもかかわらず、『薄雪物語』が人気を集めたのは、悲恋遁世の筋の展開と並んで、そこに紹介された艶書の数々が、読者が恋文を書く時の実用模範になりえたからだが、十七世紀をとおして『薄雪物語』は数版を重ね、後に続く近世文学、特に書簡小説に大きい影響を遺すことになった。

 

諸国旅行案内記もまた、そのころには教養の書と考えられており、十七世紀初頭の日本は、久しぶりに平和を迎え、人々の旅行熱は非常な高まりを見せ、特に京都・奈良、鎌倉や東海道には、旅行者が集中し、仮名草子の作者たちも、その時流に投じて旅行案内書を書き、どこに泊まったらいいか、土産物は何が喜ばれるかに始まって、土地土地の歴史や文学ゆかりの地などを、詳しく紹介し始めたのである。

その種の中で、最もよく知られているのは、『竹斎(ちくさい)物語』だろうが、惜しいことに文章が悪乗りしすぎるが、日本文学史上初めて流行作家であると同時に職業作家となった、浅井了の『東海道名所記』になると、道中の土産物や詳細に記録された里程などの方は、時間とともにほとんど価値を失ってしまったのに反して、その物語としての面白さは今日でもまだ保たれている。

 

仮名草子の作者として記憶に値するただ一人の人物は、この分野で健筆をふるった浅井了意で、もっとも有名な作品は『浮世物語』(1661年以降)だが、遊里讃美者として知られるのは藤本箕山(1626-1704)は、彼の大作『色道(しきどう)大鏡』は、愛という感情には一顧だにも与えず遊里を描写し売春を業とする女たちは素人よりはるかに深い性的満足を男に与えると確信していた箕山だが、その彼は愛を語る時、それは肉体の交渉が与える愛と色里を取り巻く雰囲気への鑽仰(さんぎょう)であった。

『色道大鏡』(1678年)十八巻を脱稿するまでに、箕山は二十年余りも費やし、主題はともあれ、それは彼の学識の集大成でもあり、和漢の古典からの引用が随所にちりばめられ、作品に一種の権威を与えるとともに彼の博学を読者に印象付けられ、また遊女の衣装や挙措には精密極まる目が向けられ、遊女がまとう衣装、櫛笄(こうがい)の一つ一つ、また動作の一つ一つは、能舞台に立つ能役者のように、すべて古式にのっとっていなくてはならない。