三 談林俳諧
西山宗因(1605-82)は、15歳頃から肥後国八代城代加藤正方の側近として仕え、正方の影響で連歌を知り京都へ遊学し、里村昌琢に師事して本格的に連歌を学んだが、そこで初めて松江重頼に出会い、二人の交友は終生続くことになるが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となるも、1647年(正保4年)、大坂天満宮連歌所の宗匠となり、その一方で、同門の松江重頼の影響で俳諧を始めたのである。
俳諧に対する宗因の関心は、貞門の影響をさほど出るものではなく、後の談林風に比べると、どことなくぎこちなさが感じられるが、その間も、彼が広く旅行したこともあって、宗因の名は諸国に知られるようになり、やがて連歌宗匠の地位を息子に譲って、出家をする決心をし、1673年には有名な俳諧撰集『西翁十百韻』が出版されたが、まだ貞門の影響を色濃くとどめてはいたけれど、その刊行によって宗因の名は確立した。
井原西鶴(1642-1693)が宗因の門弟になったのは十四歳か十五歳の時だが、『西翁十百韻』が編まれた同じ年に、西鶴は友人とともに「生玉万句」を出版し、ここには200人以上の俳家による句が治められているが、それらに共通の特色は、伝統に真っ向から挑戦したことで、以後その作の奇矯奔放のゆえに「阿蘭陀流」と呼ばれるようになる。
西鶴のものすごい連吟の才は、驚嘆すべき規模のものであり、1675年には千句をおよそ1時間に百句の割で吟じ、1677年の大矢数では、その記録を一昼夜千六百句迄のばし、さらに1680年には二人の競争者の挑戦を受けて立ち、生玉社頭で1日4千句の矢数俳諧を興行、1684年の住吉大社社頭の大矢数では、ついに一昼夜二万三千吾百句という空前の事業を成し遂げた。
西鶴は、談林俳諧の統帥者としての僧院に深い敬意をhらっていたが、宗因の方は俳諧の伝統に対して、西鶴よりはるかに慎重な態度で臨んでいて、宗因が初めて俳諧に新風を起こしたのは、『蚊柱』(1675)においてであった。
談林風俳諧の最盛期は、1675年から85年までの、高々十年くらいのものにすぎないけれど、間もなく一門は、過度の放縦、卑俗へと走りつつ空中分解を遂げてしまうが、芭蕉はのちに、「上に宗因なくむば、我々の俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」と言う。