九 浮世草子
浮世草子は、西鶴の『好色一代男』(1682)に始まり、今日ではほとんど忘れ去られた福隅軒蛙井(あせい)の『諸芸独(ひとり)自慢』(1783)で終わる小説群の総称である。
西鶴の作品は、彼以後の浮世草子文学に影響を残しただけでなく、ある意味においては、その全体を支配したとも言える。
浮世草子作家の中で西鶴の直接後継者と目されていたのは、彼の意向を編集して『西鶴置土産』など三部作を出した北条団水(1663-1711)だが、一時は二代目西鶴を自称し、詩の作品にゆかりの『日本新永代蔵』(1713)を出したり、西鶴の文章をそのまま下敷きにしたものをかいたりしたが、もとは俳諧師だった団水も、散文になると、たとえ西鶴を模倣しているようなときでも、平板で飛躍のないものしか書けなかった。
浮世草子第一期(1683-1703)に属する本や作家の中で最も注目すべきは西沢一風で、彼の家は、1660年には、すでに大坂で浄瑠璃本を出す本屋として知られ、彼の父も浮世草子に筆を染めた本屋作家の先達の一人でもあったが、一風の処女作『新色五巻書』は、1698年五出版され、この表題は、西鶴の傑作『好色五人女』に触発された形跡をとどめながらも、西鶴から離れて独自の新風を起こし、単に古い材料の蒸し返しには終始しないぞという気負いを物語っている。
一風が書いた浮世草子の中でもっともよく知られているのは、『御前義経記』(1700)だが、この作も、西鶴の完全な模倣から一歩踏み出したという点では意味があるものの、内容は義経伝説の焼き直しにすぎない。
英雄や亡霊がこもごも登場する『御前義経記』のような時代物に食指を動かし始め、昔の物語を読むことによって、自分たちの住む現代が古い時代をも浸食、包括するような感じを抱くようにもなったのではなかっただろうか。
『元禄太平記』(1702)は、都の錦(1675-?)の筆になるものだが、『太平記』に基づいたものではなく、その序において「是ぞ太平」と謳った元禄時代の小説やら遊里の情景、学者の消息などを詰め合わせたもので、執筆の真の意図は雑賀喜攻撃と都の錦の自画自賛にあったらしい。初期浮世草子の、出色の作家である雲風子林鴻と夜食時分についても都の錦と同様、伝記の事実は極めて少なく、前者は遅くとも1696年の刊と推定される『好色産毛』一作によって、後者は『好色万金丹』(1694)『座敷話』(1694)『好色敗毒散』(1703)によって知られている。
いずれにしても、二人の筆による短編集は、世相人情の機微を捕らえている点、O・ヘンリーの短編を連想させるものがあり、話の結びの意外な展開やオチも効果的に使われており、夜食時分の『好色敗毒散』は、その代表的な例と言える。
浮世草子の作家として、西鶴を継いだ中でもっとも有名なのは江島其磧(きせき:1666-1735)だが、彼の文筆活動は、1699年に、八文字屋の求めに応じて役者評判記を書いたことに始まり、第一作の『役者口三味線』(1699)が大成功を収めたのだ。
このあと十年間に、其磧は、八文字屋から十一冊もの作品を出したが、少なくとも初めのうちは、其磧の方でも遊里や芝居の話を実名で書くことをためらったらしく、、出版されたものはすべて、彼の名を遠慮し、作者を八文字屋の党首、安藤自笑としている。
『形成禁短気』ー形成には短気が禁物、という意味だが、この表題、他にもさまざまな意味をかけており、例えば「短気」は「談義」をもじったものであるけれど、この原稿を八文字に渡して間もなく、其磧は八文字屋と袂を分かち、自らの本屋、江島屋を開業している。
其磧は、滑稽なアイデアを巧みに活かしたという点で、なかなか面白い作家であるが、、彼の作品は底が浅く、その背後に彼の個性を思わすものが何一つなく、西鶴のものにはその点、自らの解説を点綴(てんてい)していた。
其積と八文字屋は、1718年(享保3年)に和解し、折れて出たのは自笑らしいが、立場的には彼の方が有利であった、というのも、主力作家の其磧を失っても八文字屋には資本力があり、少々の損失に耐える余力があった。
浮世草子の作家として挙げるに値する最後の一人は、末期の八文字屋を背負って立っていた感のある多田南嶺(1698-1750)で、彼の作の多くは、自笑や自笑の後継者の名になっているけれど、約二十五編の浮世草子が南嶺の作とされているのだが、彼にはこのほかに、有職故実など無数の著作がある。
南嶺には自分が書いた浮世草子を突き放したところがあり、他に自分の文学的才能を発揮する場がないからやむなく軽いものに手を染めているのだという皮肉が感じられるということで、それまでの浮世草子の作家たちと表面は似ていても、そこにはやがて現れるディレッタント作家たちの先駆的性格が認められるわけである。
一般に、そのころの社会的批判は、社会的不正に対する正面きっての摘発という形をとらず、作者が社会の問題をまじめに取り扱うことができない自らの菲才を認めるという形をとり、面白おかしい話の中に自己を韜晦するのである。
一世紀に及ぶ浮世草子の末期は、気質物によって占められ、その材料はますます突飛さを追うようになり、1770年には『化物気質』という書さえ出るに至り、上田秋成(1734-1809)も、この時期に属する浮世草子を二編書いている。