11.近松門左衛門
1680年ごろには、歌舞伎も浄瑠璃も、すでにかなりの程度に活気もあり、洗練もされた演劇になっていたが、脚本の方は少なくとも現存しているものから見る限りでは、これと言った良質の作品がなく、多くはごく幼稚な内容に終始していた。
歌舞伎も人形浄瑠璃も、、その特色を最大限に発揮し、前者は人気俳優の個人芸を存分に見せることによって観客を引き付け、後者は人形の特性を炉用してからくりの多い、あるいは荒唐無稽な武勇譚を上演して客の喝さいを浴びていた。
そのような劇団の状況も近松門左衛門の出現で完全に一変したのだが、近松は、歌舞伎と浄瑠璃の二分にまたがる掲出した作家だったが、今日ではもっぱら浄瑠璃のほうだけで記憶されており、彼の浄瑠璃が第一級のものであることについては言をまたないが、歌舞伎脚本も不完全ながら残っており、また当時の近松が第一級の歌舞伎作者であった事実も知られている。
父信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住んだが、山岡元隣著の『宝蔵』(寛文11年〈1671年〉刊行)には、両親等とともに近松の句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められており、これが近松にとっては文学へのデビューにあたるが当時の彼は元隣について俳諧や古典の勉学に励んでいたらしい。
そのころの近松は、一方では公卿に仕えていたが、あるいはこれが彼を浄瑠璃に近づける機縁になったのかもしれないが、当時、浄瑠璃の関係者たちは、その身分の低さにもかかわらず、公卿社会の庇護を受けており、正親町公通(おおぎまちきんみち:1653-1733)などは宇治加賀掾のため、自ら浄瑠璃脚本を書いて与えたほどで、一説によると、近松は。公道と加賀掾の間の使い走りをしていた内に、この有名な太夫に覚えられ、以後の生涯を決定するに至ったという。
とはいえ、公道のように単なる慰みに浄瑠璃を書くのと、世間から賤業視されている職業の中に飛び込むのとを同日に断ずることはできないのは言うまでもないが、公卿を祖先とする武士の家の二男に生まれた近松にとって、和歌か俳諧で生きていくのが関の山であり、そんな立場にいた彼は、加賀掾に接触しているうちに、おそらく浄瑠璃が高度の教養人にとっても恥ずかしくない職業であることを悟るに至ったのであろう。
正確にいつ近松が劇作家としての第一歩を踏み出したかは、難しい問題であるが、1683年に加賀掾のため書いた『世継曽我』が第一作とされているが、学者によっては、それに先行する歌舞伎、浄瑠璃併せて十五篇の作者不明の脚本をも近松作とみる人もいる。
今日から見ると、大げさな動きが多く、風刺喜劇にさえ似た『世継曽我』に、なぜそんなに人気が集まったか不思議なほどだが、おそらくその秘密は近松の斬新な筋の設定だと思われ、彼以前に曽我兄弟に取材した浄瑠璃作者は、殆ど『曽我物語』の内容から出ることはなかった。
『世継曽我』においては、話が始まったときには、すでに十郎はすでに死んでしまっており、五郎の方も、源頼朝が、、しぶしぶ打首を命ずるという序幕だけに登場し、忽ち姿を消してしまい、二人に変わって主役を演じるのは、兄弟の家来の鬼王と団三郎である。
普通の『曽我物語』系の話では、五郎と十郎が本懐を遂げ、続いて兄弟が討死したり着られたりして話は終わるが、近松は、その話が終わったところへ、完全に虚構の口実端をくっつけたのである。
第二になると筋はもっと意外な展開を見せ、曾我兄弟の恋人であった大磯の虎と化粧坂の少将が遊女として登場、三段目は兄弟の霊を弔いに行く虎と少将の道行き、道行は「さりとても恋は曲者、みんな人の迷いの淵」という句で始まり、ところどころやがて後年の近松の傑作に登場する道行の美しさを予感させる表現が、ちりばめられている。
第四では、狙う敵(重宗・荒四郎)を追いながら、鬼王・団三郎が鎌倉へやってきて、どちらが先に仇を討つかで争いになったりするが、石の下敷きになって重宗が死に、荒三郎はひっとらえられ鎌倉へ、第五では鎌倉、頼朝の御前で、敵討ちの一部始終を聞いた頼朝は、佑若(すけわか:十郎と虎の児)に改めて曽我の所領を与え、千秋万々歳を讃えながら終わる。
『世継曽我』い続く重要な作品は竹本義太夫のために書かれた『出世景清』(1686)だが、先達の加賀掾と人気を争うに至った浄瑠璃の名手で、この作品は『世継曽我』よりもなお実験的な色合いが濃く、それだけに野心作でもある。
全段を通じて、陰惨な調子が色濃くにじみ出ており、人形を使って初めて表現可能な景清の超人的な膂力(りょりょく)など、観客が手を打ったに相違ない場面もなくはないが、それはこの狂言を貫く暗い部分に気圧されている
登場人物の中で最も注目すべきは、景清の子を二人までも生んだ清水坂の遊君、阿古屋だが、景清が熱田の大宮司の娘、小野の姫と宗厳を挙げたのを知った阿古屋は、嫉妬のあまり我を忘れ、景清の隠れ家を密告してしまい、すぐに後悔するが、もはや手遅れで、やがて景清は捕らえられ、、彼の剛力を恐れる六波羅方によって大木を二重三重に組んだ詰牢の中に入れて町にさらされる。
二人の息子を連れて老の前に立った阿古屋は、景清の許しを乞うが、景清は赦さず、二人の幼い子をも「ことは思はぬ」」と宣言され、懐剣を抜いて二人の子を刺殺した後でわが胸を刺して死ぬのだが、大切りでは景清は首をはねられているが、頼朝が獄門にかけられた彼の首を見ると、それが観音の首に変わっており、普段から清水の観世音に深く帰依していた景清の信心が報われ、本物の景清は生きていたのである。
芸術的な観点から見ると、『出世景清』は、成功作とは言い難いが、観音の慈悲によっ奇跡が起こるのは、『阿弥陀胸割』その他の古浄瑠璃によくあるテーマであるし、頼朝との和解も、舞台をめでたくにぎやかにおさめようとするあまり、史実を完全に無視してしまっている。
その後のどんな近松にも匹敵できないものあるとすれば、それは阿古屋という女性の中に盛られた崇高な悲劇性であるが、人間でなければ備え得ないものであり、どれほど人間らしく操りの功を尽くしても、人形によってはついに表現することができない矛盾であり、複雑さである。
近松の歌舞伎作品の中でも傑作の筆頭に属する、『傾城壬生大念仏』は、御家物の中に当時の民衆の日常性を巧みに織り込んだ芝居であるが、壬生寺の地蔵菩薩の御開帳を踏まえたもので、当時多用された筋の展開を守りながらも、非常に込み入った構成を持っている。
『傾城壬生大念仏』が成功したのは、筋の構築の巧みさでも、台詞の美しさでもなく、登場人物の性格も、取り立てて深いものではないが、役者たちに、様々な場面において、その芸風を最大限に発揮させた技巧の妙によるものであった。
『傾城壬生大念仏』は、歌舞伎役者にとっては申し分ないものだったようだが、現存の脚本からは、ほとんど文学的な価値を読み取ることができないというのも、脚本自体、絵入り本の形で全体をつづめたものが残っているにすぎず、一部は梗概だけになっている。
藤十郎の引退などによって浄瑠璃に復帰した近松は、1703年、義太夫のために書いた「曽根崎心中」は、大変な大当たりをとり、大成功は、興行上の危機に陥っていた竹本座の経営を立て直しタばかりでなく、浄瑠璃の世界に「心中物」という一ジャンルを開くに至った。
十七世紀の終わりごろから、情死はすでに社会の異常な関心を集める事件になりつつあったが、「心中」という言葉が恋人同士の相対死(あいたいじに)を指す様になっていて、こうした風潮は、間もなく舞台上に際物の芝居として再現された。
1683年にはすでにシンジュウが芝居に組まれていたことを示す記録があり、1700年には、この種の狂言は、この種の狂言は、もうかなりの頻度で上演されていたが、ただ歌舞伎よりは保守的であった人形浄瑠璃は、ややおくれをとるところがあった。
大阪内本町の醬油屋手代の徳兵衛が、北ノ新地の遊女、お初と曽根崎の森で心中を遂げ評判になったのは、1703年の陰暦四月のいことで、たまたま大阪にいた近松は、事件を聞き、その浄瑠璃化を思い立ち、さっそく筆を得一気に書き上げ、事件のほぼ三週間後には、『曽根崎心中』は初演にまでこぎつけた。
筋書きは単純であるが、「生きて仲をさかれるよりはと、彼はお初と手を取り合って死出の旅へと向かう」この浄瑠璃は、たちまちにして大入り大評判をとり、『今昔操年代記』(1727)によると、「町中よろこび、入ほどにけるほどに、木戸も芝居もゑ、いとういとう・・・少しの間によほどの金を儲け』たという。
『曽根崎心中』(1703)の大評判は、世上の事件を安易に題材にしてきたそれまでの世話物の概念を、一挙に改めることにもなったが、近松は、ただ単に社会的な事件を劇化したばかりでなく、それを文学としての傑作にまで高めることに成功したのだった。
時代物狂言に対するときの観客は、空想の赴くままに、非現実的な筋の運びを観るのをよろこび、もし史実に忠実で、実説そのままの再現であれば、何の感興もわかなかったことであろうが、世話物狂言の観客は、科白の一つ一つがもっともらしく演じられることを要求した。
時代物の荒唐無稽な展開は、日常生活の倦怠に縛られている観客の想像力を、刺激するがゆえに歓迎されたが、人々が世話物を測る尺度は、全然異質のものであり、どれほど写実的であるかということが判断の基準になったが、事実を求めたのでなく事実らしさを要求したのだ。
劇作家としての近松の天才は、一人の手代と一人の遊女の心中という哀切な事件の中に、悲劇の素材を発見しえたのであるが、もし市中の事件を劇中に再現しただけであったならば、お初と徳兵衛という市井のどこにでも見られる人物を、悲劇の主人公まで高めることができなかった。
近松が描いた徳兵衛は弱虫で、心は優しくても、九平次ごとき男をやすやすと信じてしまうお人よしの若者に過ぎなかったが、それにもかかわらず、近松が筆を執って書いた詩に助けられて、徳兵衛は偉大な英雄になることができた。
そうした弱点すべてをもってしても、なお、一人の遊女を心の底から愛し、その愛のためにはわが身のためになるはずの嫁取り話を断るばかりか、あえて死を選ぶ徳兵衛を、その愛の強さゆえに称えるのも、まさに一個の弱虫を、悲劇的な英雄へと高めるからである。
『曽根崎心中』の最も劇的な瞬間は、縁の下に隠れた徳兵衛に、お初が「此の上は徳様も死なねばならぬ品なるが、死ぬる覚悟が聞きたい」と、独り言になぞらえて訊く場であるが、徳兵衛は、お初の足首を抱いてわが喉笛を撫でる。
「この世の名残、余も名残、死に行く身をばたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなり」の道行きは、我々の心の奥底からの共感のみならず、尊敬をさえ呼び覚まさずにはをかないのである。
心中したものが来世には極楽黄土で結ばれるというのは、最終的には阿弥陀による衆生済度への信仰だったが、『曽根崎心中』が書かれたころには、心中の流行を支える確固たる信念にまでなっていた。
弥陀の浄土における救済を結語としているのを見て、あるいはこの狂言を中世道徳への逆行と解釈する人がいるかもしれないが、劇全体を散りまく状況は、当時の観客にとっては完全に現代的であった。
『曽根崎心中』の価値は、その興行的な成功や、或は模倣作が多く書かれたことによってはかられるべきでなく、実に世話物という新しい演劇分野を開拓した作品であり、日本の劇文学史上で、脳に続いて現れた重要な文学ジャンルであった。
近松の作家生活においても、心中物の浄瑠璃は、非常に重要な地位を占め、この種の者の中で最後の作品は、彼の死の三年まえに書かれているが、近松の登場人物は、多くの場合、お初や徳兵衛を下敷きにしている。
近松の一番の傑作『心中天の網島』の主人公、紙屋治兵衛もやはり徳兵衛のタイプだが、この作は彼をめぐって二人の女性が登場する点で『曽根崎心中』とはことなっており、おさんは貞淑な妻、小春は彼と惚れあう遊女、治兵衛は同時に二人を愛し、どちらをも失うこともできない立場に置かれる。
小春は、お初と同じく、遊女ながらも治兵衛に純粋な愛を捧げており、ただ、お産に済まないという義理だけが、心に見ない愛想づかしを彼女に岩瀬、おさんも、夫の心を小春から取り戻したいと願っていたが、もしそうすれば小春が死ぬと知った瞬間に、おさんは小春への義理に動かされ、夫を進めて小春を身請けさせようとする。
死に場所に決めた網島へ向かう小春治兵衛の道中は、ここでも『曽根崎心中』と同様、流れるような道行の名分で語られ、悲劇を終結へ、そして恋する二人を死へと導いてゆき、いざあみじめ着いてからも、二人の心を占めるのは、お産のことである。
『心中天の網島』にも、悪役の太兵衛はいるのだが、悲劇は彼のためにおこるのでなく、太兵衛は侮辱を受け、観客の失笑のうちに退場してしまい、この作の悲劇性は、小春・治兵衛、そしておさんの三者それぞれの基本的な善意の中に根差しているのである。
『心中天の網島』を通じて流れる相手への義理立てと愛情の絡み合いは、近松に「義理と人情の作家」と言う与える因になったが、徳川時代の道徳を代表したこの二つの心情、およびその葛藤によって自己の欲望と社会への責任の両極に分断される人間の苦悩は、近松の世話物狂言にとっては、中心的なテーマであった。
小春への治兵衛の愛は、おさんへの彼の義理と葛藤を演じるが、その義理は、治兵衛の中から発するもので、社会によって押し付けられたものではなく、同様に治兵衛へのおさんへの愛は、小春への彼女の義理と絡み合い、小春が自殺すると思いいたった瞬間から、彼女は夫に小春を受けだしてほしいと懇願するのだ。
近松劇の面白さは、何よりも彼の手による町人生活の活写にあり、町人が財を成したり、或は銭を失ったりする行為は、西鶴によって巧みに描写されているが、西鶴の目はそうした浮沈の中に基本的には滑稽を感じ取っていたのであって、町人たちの心のもっと深いところに動く心情には、ほとんど触れることがなかった。
主人公を演ずる町人たちは、時代物に登場する武士たちのように、父の仇を討ったり、主君の子を救うためにわが子を犠牲にしたり忠と孝の板挟みになって苦悶するといった崇高な悲劇を演じはしないが、同時に愛した女性とともに死ぬという、彼らだけに許された特権と絡み合った悲劇なのである。
近松の時代物作品の中で、真の意味で文学的価値を備えているのは『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)(1715)だが、これはまた彼の手になるもののうちでもっとも野心的な策であり、強硬的にも最大の成功を収めた浄瑠璃であった。
『国性爺合戦』前編のプロットは、非常に錯綜し、荒唐無稽な展開も老いの出、人形浄瑠璃特有の約束を知らない人々には、子供じみた話と誤解されるかもしれないが、明の亡命者と日本人の母の間に生まれた主人公が、海を渡って韃靼を倒し、明朝の王位を回復するのが大筋である。
『国姓爺合戦』が、人形よりははるかに感情の機微を表現しうる歌舞伎役者によって演じられる場合にも、俳優たちはむしろ人形風の類型的演技をして見せ、笑う時には必ず豪傑笑い、主人公の発言は勇壮な啖呵になりがちである。
『国姓爺合戦』で、最大限に追及された人形の可能性は、その後の近松の作品の上にも同じ手法の痕跡を残さずにはおかなかったが、竹本義太夫の死後(1714)は特に大きな発言力を持っていた武田出雲も、こうした「国姓爺合戦」以後の近松作品にあずかって力あったとされている。
近松の人形浄瑠璃は、幸いにも彼の言説という形をとって保存され、友人の儒者穂積以貫が近松の没後1738年刊の『難波土産』の中に収録しているのであるが、近松の念頭には、常に人形のために書いているのだという意識があった。
近松は、人形浄瑠璃の技術を完全に会得していたため、観客たちは彼の作品から十分な満足を得ることができたが、われわれは、もし近松が人形劇以外の演劇分野を与えられていたなら、より以上に臣下を発揮したのではないかと想像せずにはいられない時がある。
浄瑠璃を稽古する人のためと、文学として鑑賞したい人々のために、近松の作品は、彼の生前からすでに本として刊行されており、作者の近松もまた、興行と文学の二面を考え、文章に推敲を重ね、彼の文章の内で最も美しい部分は、会話ではなく太夫が情景を描写する地であった。
近松の人気は、彼の同時代人である才覚や芭蕉ほど高いものではなく、西鶴のあの愉快なユーモアもなければ、詞章も、美しいには違いないが、芭蕉の詩の境地に到達することはまれであり、そもそも彼の浄瑠璃そのものが、今日ではめったに原作通りの形で上演されることがないのだ。