高山右近の生涯
著者:ヨハネス・ラウレス(Johannes Laures、1891年11月21日 - 1959年8月3日)は、ドイツ出身の、日本で活動した歴史学者、経済学者、宣教師である。
1928年に来日し、上智大学経済学部教授となり、経済学を講じたが、のちにキリシタン研究に転じた。
1942年、同大学文学部に史学科が創設されると学科長に就任し、1957年、キリシタン文献目録「吉利支丹文庫」を完成させた。
高山右近(1562-1615)の列福運動にも尽力し、2016年1月22日、およそ四百年も待ちに待ったユスト高山右近の列福決定が発表されました。(列福日 2017年2月7日)
副題「日本初期キリスト教史」監修:溝部脩・現代語訳:やなぎやけいこ(児童文学作家・翻訳家)
「この作業をしながら、なぜ右近の殉教・列福なのかということが、本当によくわかりました」(やなぎやけいこ)
《第一章-第1節:ザビエル》
1547年12月に出会った鹿児島出身の武士ヤジロウ(アンジロー〈音訳 安次郎〉)から日本に来るように勧められる。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願したが、献上の品がなかったためかなわなかった。
《第一章-第2節:パアデレとロレンソ》
1559年(永禄2年)、日本人ロレンソらと京都入りを果たしたパアデレ(ヴィレラ)は、1560年(永禄3年)、苦労の末に将軍足利義輝に謁見、砂時計を献上。
大友義鎮や伊勢貞孝の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。
《第二章-第1節:高山ダリオ》
永禄3年(1560年)、キリスト教宣教師のガスパル・ヴィレラが将軍・足利義輝と三好長慶から布教の允許状を得たが、当初キリシタンの追放を考えた久秀は、その詮議を忠正と清原枝賢(しげたか)に任せた。
忠正ははじめ、訴訟のため久秀のもとを訪れた京都の町人・ディオゴとの宗論を通じてキリスト教に関心を抱き、ヴィレラにより派遣された日本人宣教師のロレンソ了斎に感化されて、清原枝賢、高山友照らと共に受洗した。
《第二章-第2節:洛外の教会》
永禄6年(1563年)、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが堺を訪問することを知った僧たちは領主の松永久秀に宣教師の追放を依頼したが、清原枝賢に議論の相手をさせ、仏教に造詣の深い飛騨守と結城忠正を討論の審査役とした。
1576(77)年8月20日付ルイス・フロイス書簡によれば、飛騨守は高槻の「かつて神の社があった所」に自費で教会を設け、大きな十字架を立てたりとあり、そして「四名の組頭」を定めたという。
《第三章-第1節:澤城のおけるアルメイダ》
アルメイダは、山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会うのだが、彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。 その宣教師たちとの出会いを通して、アルメイダには思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまると、私財を投じて乳児院を建てた。
これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。
さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建て、これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。
《第三章-第2節:将軍義輝への謀反》
傀儡としての将軍を擁立しようとする三好氏にとって、意のままにならない義輝は邪魔な存在であり、またその権威の上昇は脅威でもあった。
三好側は阿波の足利義維(よしつな)と組み、義維の嫡男・義栄(よしひで:義輝の従兄弟)を新将軍にしようと画策した。
《第三章-第3節:パアデレの都追放》
突如二条御所を襲撃し義輝を殺害した永禄の変後、キリスト教宣教師を京都から追放したのが三好義継だが、そのとりなしをしたのが、三好長慶の弟・三好実休の重臣篠原長房である。
この時期の篠原長房は、『フロイス日本史』によると、「彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどであった。
《第三章-第4節:和田惟政と高山ダリオ》
髙山ダリオ飛騨守が 沢城主だった時、ヴィレラ神父たちが、まだ 都にいた時に、信仰をもって間もない 髙山ダリオ飛騨守が、和田惟政を誘って、一緒に 姥柳町(うばやなぎちょう)にあった教会を訪れ、和田惟政は、およそ1時間、異教徒向けの説教を 聴聞し、デウスの教えに対して、非常な敬意を抱くようになり、その後の、キリスト教や 宣教師たちに対する 献身ぶりに つながっていくことになりました。
《第三章-第5節:パアデレの入京》
惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。
フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。
《第三章-第6節:信長の庇護を得て》
なぜ信長は建設現場の大勢の群集の中でフロイスに会ったのかというと、偵察に来た仏教の僧侶たちに対して、オープンな場所で強いメッセージを発するためでした。
信長は群衆に紛れこんでいた僧侶たちを指さして、大声でこう言ったといいますー「そこにいるこの騙(かた)り者どもは、そなたのような輩ではない。彼らは庶民を誑(たぶら)かし、いかさま者、嘘つきで、尊大はなはだしく、思い上がった者どもだ」