第三章 高山ダリオと都の教会
第一節 澤城におけるイルマン・アルメイダ
1563年から1565年にかけて。五畿内の教会は平穏であり、また、この時期には、首都の内外の戦乱も影を潜め、パアデレ・ヴィレラは、この五年間というもの、非常に困難な生活を送っていて、誹謗され、迫害を受け、あるいは津法され、一度としてヨーロッパの同僚に合うこともなく、したがって許しの秘跡も受けられず意見を語り合う慰めもなかったのである。
だが1564年の末、管区長パアデレ・コスメ・デ・トルレス(?-1570)は、都の教会の重要性を認め、不況者の数を増やしたいというヴィレラの意見を取り上げ、パアデレ・ルイス・フロイスとイルマン・アルメイダを手助けとして、ヴィレラのもとへ送ったのも、五畿内のキリスト教徒たちを訪ね、布教の状態と彼らが置かれている状況について、報告さすためであった。
1564年フロイスとアルメイダは乗船し、幾度か中断された長い旅の末、1565年1月27日、大商業都市であり港町でもある境に上陸し、豪商日比屋了珪の一家に歓待された。
旅の途中で発病していたアルメイダは、了珪の手厚い看病によって回復し、委託された要務を終えたのち、飯盛・三箇縞・都・奈良・十市、そして澤の教会を次々に尋ねた。
アルメイダは、「今まで見た日本人の中で最も長身ダリ、堂々とした体格を有している。勇敢で武術に優れた武将であり人に対しては愛想よく賢明で、日本の諸宗派に精通しているが、キリシタンの法にも、これに劣らず通じている」とダリオを描写している。
また次のような記録を残しているー《主はダリオに対し、恩寵とデウスのことに対する深い理解とを与えたもうた。彼は絶えずデウスの尊厳に対して語り、霊魂の救いに対して不熱心であった部下を叱責するのを私は数回見た》
そして続くのであるー《またダリオ殿が数名の異教徒の武士たちと共にいたとき、彼はデウスと彼らが崇拝している偶像との違いを教えているのも見たが、話が進むにつれてダリオ殿は非常に熱して、「キリシタンでない人間が、何の役に立つであろうか?デウスを知り、かつ畏れないような人間を、どうして信頼できようか?
だからわたしは、キリシタンでない者を人間とは思わない、そんな人間と友達になることも欲しない、これは、彼がほかのいくつかのこととともに言ったことではあるが、半生を異教徒として過ごし、つい最近改宗したばかりであり、しかも改宗後一度しかパアデレの来訪を受けていない彼に、このように堅い信仰があることを知って、驚嘆の念を禁ずることができなかった》
イルマン・アルメイダが滞在している間に、ダリオは隣接する城の城主を訪ね、主君松永久秀に対して叛旗を翻そうとしていたこの城主を、臣下の道に引き戻すためであったが、ダリオのこの試みはかなり大胆なもので、彼の剛勇さを示すものである。
《後に残った我々は、彼の身に不幸なことが起こらないように、夜通しデウスの祈った。主はダリオに恩寵を垂れたまい、すべては彼が望んでいたようになり、ダリオはその城主と和を結び、主君に服従するようにと彼の心に訴えた》と、アルメイダは記録している。
《日曜日にはもっとも身分の高い信徒とその夫人たちが協会に集まり、連祷(れんとう)を歌い終わると挨拶があり、ダリオは彼らを引き留め、食べきれないほどの御馳走を出し、食後には長時間デウスのことを話し合った。
キリシタンになりたいと望むものが何人かいたので、予定よりも長く滞在したのだが、その間中ダリオは、わたしたちの説教をみんなが理解できるようにと、あらかじめ準備をさせたりして、心を砕いていた。
洗礼を願う人々が教理を教わったのち、身分の高い武士九人に洗礼を授けたが、そのうちの一人は若い武士で教理を聴き、洗礼を受けるためにわざわざ十レグアも離れたところから来たのだった。
数人の信徒が、デウスの法について彼に語ったことと、彼が聞き及んだデウスのことが、キリシタンとして死ぬ決意を固めさせたほどの感銘を彼に与え、わたしが澤城に来ていることを知って、急いで澤に来たのであった》
第二節 将軍足利義輝への謀反
五畿内の平和はたいして長く続かず、都の政治状態も紛糾していたが、三好長慶の晩年にはある程度の平静さがみられ、老獪な松永久秀は、五畿内の頭株(あたまかぶ)としてふるまおうとしていたけれど、長慶の生存中はその野心も、それほどあからさまに表面には現さなかった。
1564年に長慶が没すると、松永久秀の野望を阻むものは、将軍義輝だけになり、久秀は彼にとって代わろうと企みを広げ、阿波国には前々から将軍職を要求していた、将軍家の一族足利義榮(よしひで)がいた。
三好長慶の養子三好義継を利用し、義継と久秀の息子義久は一万二千の兵を率い、表向きは将軍の恩恵に感謝するために、都へ向かい、将軍を共演に招待したが、1565年6月17日、約束の期日の二日前の早朝、彼らはその塀を率いて将軍の屋敷を襲撃した。
将軍は百五十ないし二百名の忠臣とともに、豪胆に抵抗を試みたが、優勢な敵の前に敗北し、義輝の義父近衛植家(たねいえ)は婿の前で死を遂げ、植家の息子は、奮戦の後戦死し、義輝の母は謀反人たちの手にかかって殺され、妻はさしあたり逃れたが、後に暗殺された。
将軍の兄弟である鹿苑寺の僧周暠(しゅうこう)は、殺害者の命によって殺されたが、もし第二の弟、奈良一条院の門跡覚慶(足利義昭の法名)は捕縛され、逃亡して難を避けることができなかったら、二人の兄弟と運命を共にするところであった。
彼らは足利義輝の殺害には成功したが、その後松永久秀と三好三人衆の間にも争いが起き、久秀は次第にその勢力を失い、三好三人衆は足利義榮を将軍として都に戻り、この状態は1568年秋まで続いた。
第三節 パアデレ(司祭)の都追放
「主君に対してさえ、あのように非礼な反逆をあえてした者どもです。パアデレ殿にも、どのようなことでもしかねませぬ。ましてや日蓮宗の仏僧どもは、パアデレを殺害し、キリシタン宗門を根絶やしにし、教会を取り壊そうと企んでおりますぞ」と結城山城守は言った。
この後まもなく、結城左衛門尉は毒殺され、教会を没収されようとしたのであるが、これを知った三好義継の、キリシタンの家臣達は、教会を死守しようという構えを見せ、信徒たちはパアデレ・ヴィレラに、「急いで飯盛城の傍の教会にお逃げください」と、切々と訴えた。
フロイスは飯盛の教会で、パアドレ・ヴィレラに逢い、そののち三箇島の教会へ向かい、ほどなく三好義継が飯盛城へ帰り、パアデレが彼の居城の近くにいることは、非常に挑戦的な態度と受け取られる恐れがあるので、八月初旬に堺へ戻った。
ヴィレラが九州に行くことになり、教会の仕事はすべてフロイスが受け継ぐことになり、堺の信徒たちを保護し、三箇島で付近の信徒たちにために秘跡を行ったり、尼崎や大坂に散在する信徒たちを訪問したりした。
パアデレ・フロイスは三好党の有力者である篠原長房のとりなしによって、追放令を取り消してもらおうとし、実際、朝廷の公卿、三好義継、そして最後には三好三人衆の心を動かすように努めたかは、驚くほどであった。
こうしてパアデレ・フロイスの計画が間もなく達成されるだろうと思われたとき、長房と三好三人衆は、信長によって追放されることになり、五畿内の事情は、すっかり変わってしまったのである。
第四節 和田惟政と高山ダリオ
高山ダリオと和田惟政が姻戚関係にあったという説も、取り上げられないではないが、フロイスははっきりと、ふたりを親友であったと述べており、ダリオの親族は皆キリシタンになっているのに、惟政は、たとえ心の中ではキリシタンであったとしても洗礼を受けなかった。
高山ダリオは、自分のキリシタンの信仰で見出した幸福を、親友である惟政と分かち合おうといろいろ努力したのは、当然のことであり、ダリオはキリストの教えについて彼に話し、パアデレの説教を聞くようにと誘った。
惟政は一時間にわたって熱心に耳を傾け、彼はもともと真実を極めたいと心から願っていたから、説教を聞いて深い感銘を受け、後日彼はパアデレ・ヴィレラを訪ね、長い時間親しく歓談したのちに言った。
「パアデレ殿、余は、キリストの教えについてもっと知りたい。今は郷里に戻りまするが、要務の方がつき次第、またお話をお聴きしたい」ー惟政のこの短い訪問は、後日日本の教会にとって、非常に大きなもたらすことになったのである。
五畿内ではその後まもなく戦が起こり、松永久秀はいくつもの城を失い、松永の家臣であるダリオも、当然この戦の巻き添えを食らったけれど、澤城は包囲され、ダリオの軍は勇敢にたたかったが、食料と弾薬の欠乏のために、ついに落城した。
惟政は信長方の陣営におり、逃亡中の義昭を親戚のもとにかくまったりして信長のために尽力し、このことを聞いてダリオは、直ちに惟政の臣下として彼の軍に加わり、1568年の秋、惟政とともに京都に入った。
第五節 パアデレの入京
1569年(永禄12年)の初頭、堺の街に慌ただしい動きが動きが見られ、人々は信長の報復を恐れていたというのも、堺の街は信長の敵である三好一族に肩入れしていたのだから、その恐れはいわれのないものではなかった。
ダリオは、親しい惟政に言ったー「今こそ、パアデレたちに都へ戻っていただきたいと存じます。お力をお貸しいただければ幸甚に存じます」「予もいつかはキリシタンになるつもりだ」と言っていたほどであるから、喜んでダリオの頼みに応じた。
「パアデレ殿を都に帰すように、主君信長公に願おう」と、数日後にはパアデレ・フロイスを都へ連れ帰るようにと、高山ダリオに命じ、ダリオはもちろんすぐに実行に移し、教会はダリオの尽力によって、和田惟政という新しい有力な味方を得たのである。
パアデレ・フロイスは、その日中也にわたって赦しの秘跡を授け、それから、都への旅につき、信徒たちは、町から半レグアの地まで彼を見送り、夕方近く、フロイスは従者と共に富田に着き、そこに一泊した。
天神の馬場(大阪府高槻市)の僧院では、ゑれを都まで護衛するために、、精鋭の一隊を伴って、ダリオが待っており、やがてパアデレ・フロイス到着の報がイルマン・ロレンソから和田惟政に届いた。
惟政は、パアデレを訪ね、「明日信長公に謁見を賜ることになり申した。もちろん予も同行仕る」といったが、結城山城守・池田丹後守・高山飛騨守をはじめとする、主だったキリシタンの武将たち、その他将軍家の武士たち、三好義継などの訪問を受けた。
第六節 信長の庇護を得て
到着後二日目に、フロイスは織田信長に謁見をかなえられが、会うことはなく、和田惟政と佐久間信盛に、「予は、パアデレと話したくなかった。それは、どういう風に彼を扱ったら位かわからなかったためと、もし予が単身パデレとあったら、人々は子もキリシタンになろうとしていると、考えるかもしれぬ。それを恐れたためじゃ」
パアデレ・フロイスが、信長からも将軍(十五代義昭)からも期待していたような待遇を受けなかったので、惟政たちは少なからず失望し、再度フロイスを信長のところへ連れて行ったが、その時信長は将軍邸(二条城)の新築場にいて、信長は親しく彼を迎え、橋板の上で雑談をして雑談をはじめ、フロイスの年齢・故郷・学問や計画、日本の教会に対する希望などに尋ねた。
「パアデレたちは、日本人に霊魂の救いの道を教えることによって、宇宙の創造主にして人類の救い主であるデウスの御位(みくらい)に添い奉らん、と言う望みによって遠国から参ります。その他には何お望みも持っておりません」
この答えは、仏僧たちに痛烈な一撃をあたえるよいきかいとなり、二人の話を盗み聞き使用と、近くに来た仏僧たちを見やり、「あそこにいる欺瞞者どもは、汝らパアデレのごときものではない。坊主どもは人民をたぶらかし、虚言を破棄、詐欺のし放題じゃ」
こうしたいきさつがあったので今度は将軍もめったにないほどの行為を表して、パアデレを迎え、信長と将軍足利義昭からパアデレに、そして教会にも与えられたこの好意ある待遇のことを知って、信徒たちが喜んだのは言うまでもなく、殊に将軍邸の新築現場における橋の上の雑談は、日本教会史上、一転換期としての意義を持っていた。
この出会いによって、信長と宣教師との友情は、時と共にますますその親密度を増し、それまで閉ざされていた福音に対する扉を、全て開くこととなり、日本におけるもっとも強大な人物が、教会の友であり、保護者であることを公言したことによって、あらゆる困難や妨害は取り除かれ、ザビエルの夢は実現していくかと思われた。
1569年5月、信長が都を去るか去らぬかに、パアデレに対して新たな風が起こったというのも、キリシタン宗門を憎悪していた日乗上人がパアデレを再び京都から追放しようとする動きを見せたのであるが、宗論においてもスコラ哲学を学んだパアデレや、能弁なイルマン・ロレンツの敵ではなく、言い負かされた承認は逆上し、いきなり刀を抜いて、イルマンの頭を狙ったが、居合わせた人々に抑えられた。
上人は朝廷内に持っていた彼の力を利用して、パアデレへの新たな追放令を得ることに成功したが、信長や将軍の許可が得られず、実行に移すことができず、日乗上人の憎悪は、今度は惟政に向けられ、イルマン・ロレンツを再度岐阜へ行かせ日常上人の陰謀を、信長に知らせ、信長はすぐにフロイス充てた、好意に満ちたっ書簡を書いたー「予がいつまでも愛顧する故、仏僧など畏れる必要はない」