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万葉集Ⅰ(1-53)③人麻呂・黒人

1 0029 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌

01 0029 玉手次(たたやどる)畝火之山乃(うねびのやまの)橿原乃(かしはらの)日知之御世従(ひじりのみよそ)或云 自宮(おのずのみやよ) 阿礼座師(あれにざし)神之盡(かみのことごと)樛木乃(つがのきの)弥継嗣尓(いやつぎつぎに)天下(あまくだり)所知食之乎(しょちししを)或云 食来(はべらしきたる) 天尓満(そらにみつ)倭乎置而(やまとをおきて)青丹吉(あおによき)平山乎超(ひらやまをこえ)或云 虚見(うつろにみ)倭乎置(やまとをおきし)青丹吉(あおによき)平山越而(ひらやまこえて) 何方(いずかたに)御念食可(おおもひしかと)或云 所念計米可(おもひかくべし) 天離(あまざかる)夷者雖有(ひなにはあれど)石走(いはばしる)淡海國乃(あふみのくにの)樂浪乃(さざなみの)大津宮尓(おほつのみやに)天下(あまくだり)所知食兼(そちはべかねし)天皇之(すめろきの)神之御言能(かみのみことの)大宮者(おほみやは)此間等雖聞(このまときけど)大殿者(おほとのは)此間等雖云(このまといへど)春草之(はるくさの)茂生有(しげくおいたる)霞立(かすみたつ)春日之霧流(はるひのきるも)或云 霞立(かすみたつ)春日香霧流(はるひかきるる) 夏草香(なつくさか)繁成奴留(しげくなりぬる)百磯城之(ももしきの)大宮處(おほみやどころ)見者悲毛(みればかなしも)或云 見者左夫思母(みればさぶしも)

 

01 0030 反歌

01 0030 樂浪之(ささなみの)思賀乃辛碕(しがのからさき)雖幸有(いふはさくあり)大宮人之(おほみやびとの)船麻知兼津(ふねまちかねつ)

 

01 0031 左散難弥乃(さざなみの)志我能大和太(しがのおほわだ)一云 比良乃(ひらのオホワダ)與杼六友(よどむとも)昔人二(むかしのひとに)亦母相目八毛(えもあはめやも)一云 将會跡母戸八(はたとおもへや)   

柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日)は、「人麿」とも表記される。

後世、山部赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。

一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。

ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。

複数の皇子・皇女(弓削皇子、舎人親王、新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないとも思われる。

近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である。

ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は、持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。

彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されており、その歌風は枕詞、序詞、押韻(おういん)などを駆使して格調高い歌風である。

また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」(万葉集巻13-3254)という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。

長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであり、また短歌では140種あまりの枕詞を使っており、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

《万葉集》成立以前の和歌集として、人麻呂が2巻に編集したものがあり、春秋冬の季節で分類した部分をもつ〈非略体歌部〉と,神天地人の物象で分類した部分をもつ〈略体歌部〉とから成っていたらしい。

表意的な訓字を主として比較的に少ない字数で書かれている〈略体歌〉には,676年(天武5)ころ以後の宮廷の宴席で歌われたと思われる男女の恋歌が多い。

いっぽう助詞などを表音的な漢字で書き加えて比較的に多い字数で書かれている〈非略体歌〉には,680‐701年ころの皇子たちを中心とする季節行事,宴会,出遊などで作られた季節歌,詠物歌,旅の歌が多い。

人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。

人麻呂の名は、上代の史書に見えず、閲歴については万葉集が唯一の確実な資料とされているだけで、 制作年の明らかな最初の歌は持統三年(689)の草壁皇子挽歌(2-167~170)である。

持統四年(690)二月の持統天皇の吉野行幸に従駕し、歌(1-36~39)をなし、翌年九月、川島皇子が薨じ、殯宮のとき泊瀬部皇女に献る歌(2-194,195)がある。

持統六年三月の伊勢行幸に際しては京に留まり、行幸に従駕した「妹(いも)」を恋慕する歌を詠んでいる(1-40~42)。

同年冬には、軽皇子の安騎野遊猟に供奉し、作歌(1-45~49)し、持統十年(696)七月、高市皇子が薨ずると、挽歌(2-199~202)を作るが、これが万葉集最大の雄編である。

持統天皇譲位後の文武四年(700)四月、明日香皇女(天智天皇の皇女。新田部皇女と同母)薨去の際、挽歌(2-196~198)をなすのだが、この歌が制作年の明らかな人麻呂最後の歌である。

ただし翌大宝元年(701)九月、文武天皇の紀伊国行幸の際、有間皇子の結び松を見ての作歌に人麻呂歌集中の歌(2-146)がある。

大宝二年(702)冬には持統上皇の東国行幸がなされ、長意吉麻呂・高市黒人ら歌人が従駕して歌を残しているが、人麻呂がこの行幸に従駕した形跡はない。

万葉集の歌を見る限り、宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年(708)以降、筑紫に下ったり(3-303,304)、讃岐国に下ったり(2-220~222)した後、妻に見取られることなく死を迎えたのが石見国(2-223)だという。

話しは戻すけれど、「この『近江京』の歌がここに挿入したのは誰だろう?」と思ってしまうのだが、明らかに意図があってのことであり、今や『万葉集』は、持統・人麻呂にひき継がれていたように思うけれど、自身を組み込む編集に至ったのではあるまい。

とりあえず、彼の閲歴をたどってみれば、草壁皇子の挽歌になるとおもうのだが、もちろん、いきなりの挽歌では編集に逆らうことにもなろうが、人麻呂の歌なら、それ以前にも数多く読み込まれているはずなのである。

02 0167 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌

02 0167 天地之(あめつちの)初時之(はじめのときの)久堅之(ひさかたの)天河原尓(あまのかはらに)八百萬(やほよろづ)千萬神之(ちよろづかみの)神集(かむつどひ)〃座而(つどひいまして)神分(かむわかれ)〃之時尓(わかれのときに)天照(あまてらす)日女之命(ひるめのみこと)一云 指上(さしのぼる)日女之命(ひるめのみこと) 天乎婆(あめりをば)所知食登(としらしめすと)葦原乃(あしはらの)水穂之國乎(みづほのくにを)天地之(あめつちの)依相之極(よりあひのきは)所知行(としりゆき)神之命等(かみのみことと)天雲之(あまくもの)八重掻別而(やへかきわきて)一云 天雲之(あまくもの)八重雲別而(やへくもわきて) 神下(かむくだり)座奉之(いませまつりし)高照(たかてらす)日之皇子波(ひのみこなるは)飛鳥之(とぶとりの)浄之宮尓(きよみのみやに)神随(しんずいの)太布座而(ふとしきまして)天皇之(すめろきの)敷座國等(しきますくにと)天原(あまのはら)石門乎開(いはとをひらき)神上(かむあがり)〃座奴(あがりいませや)一云 神登(かむのぼり)座尓之可婆(いましこのよは) 吾王(わがきみの)皇子之命乃(みこのみことの)天下(あまくだり)所知食世者(としらしめせば)春花之(はるはなの)貴在等(たふとくあると)望月乃(もちづきの)満波之計武跡(みはしかけたと)天下(あまくだり)一云 食國(はべるくに) 四方之人乃(しはうのひとの)大船之(おほぶねの)思憑而(おもひたのみて)天水(あまつみづ)仰而待尓(あふぎてまつに)何方尓(いずかたに)御念食可(おほもひはべり)由縁母無(ゆえもなく)真弓乃岡尓(まゆみのをかに)宮柱(みやばしら)太布座(ふとしきいまし)御在香乎(みあらかを)高知座而(たかしりまして)明言尓(あくごとに)御言不御問(みことはふごと)日月之(にちげつの)數多成塗(あまたなりぬる) 其故(それゆゑに)皇子之宮人(みこのみやひと)行方不知毛(ゆくへしらずも)一云 刺竹之(さすたけの)皇子宮人(みこのみやひと)歸邊不知尓為(かへりふちにす)   

 

02 0168 反歌二首

02 0168 久堅乃(ひさかたの)天見如久(そらみるごとく)仰見之(あふぎみし)皇子乃御門之(みこのみかどの)荒巻惜毛(すさましをしも)

    

 02 0169 茜刺(あかねさす)日者雖照有(ひはてらせども)烏玉之(うばたまの)夜渡月之(よわたるつきの)隠良久惜毛(かくらくをしも)

 

02 0170 或本歌一首

02 0170 嶋宮(しまのみや)勾乃池之(まがりのいけの)放鳥(はなちどり)人目尓戀而(ひとめにこひて)池尓不潜 (いけにかづかず)

01 0032 高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人

01 0032 古人尓(ふるひとに)和礼有哉(われはありしや)樂浪乃(さざなみの)故京乎(ふるきみやこを)見者悲寸(みればかなしき)

 

01 0033 樂浪乃(さざなみの)國都美神乃(くにつみかみの)浦佐備而(うらさびて)荒有京(あれたるみやこ)見者悲毛(みればかなしも)

人麻呂はまだしも、黒人がここにいるのは、明らかに、【高市古人(黒人)感傷近江舊堵作歌】によるものだが、主君も同じ持統・文武であり、位階についてはわからないが同僚だったかもしれない。

『万葉集』に短歌18首が採録されているが、大宝元年(701年)の持統上皇の吉野宮行幸(万70)、翌大宝2年(702年)の三河国行幸に同行した際の詠歌(万58)を始め、「羈旅の歌八首」(万270~277)など、全て旅中で詠んだ作品である。

その足跡は、大和・山城・摂津・近江の畿内に加え、尾張・三河・越中の諸国にまで及んでいる。

 

彼の歌から、どこまで迫られるかはわからないが、実は巻Ⅲにも「さざ波の歌」があり、題辞は【高市連黒人近江舊都歌一首】である。

 

03 0305 如是故尓(にょぜゆえに)不見跡(あとをみず)云物乎(いわずもがなの)樂浪乃(ささなみの)舊都乎(ふるきみやこを)令見乍本名 (よみつもとのな)

 

「あなたの、【近江舊都歌】は画期的だとおもいますよ」

「人麻呂様にそのように言われると、気恥ずかしい気がします」

「最初に、(にょぜ-がもん )【如是我聞】(経文の冒頭に置かれる語。釈迦(しやか)の死後、弟子の阿難(あなん)が経典を編集するにあたり、それらが師から親しく聞いたものであることを示すために置いた)を言い放つなんて思いつきませんよ」

「でも、誰もそのことを理解してくれません」

「あなたはわたしと違って、近江京のことを知らなかったのですから・・・、それにしても、【不見跡云物乎】は大胆な表現ですね」

「やはり、間に【不】を入れるべきでしょうか?」

「字面が美しくありませんし、できるだけ省くことが歌になります」

「(あとをみず)(いふものかなと)続きそうで・・・」

「【如是故尓】が置き石となって、(あとみえず いわずもがな)となるでしょう」

「ありがとうございます」

「そして五句目の、(よみつもとのな)には、都を知る者にとってなつかしさがこみ上げて来る」

もし許されるなら、この歌は、人麻呂と黒人の共作に近いものがあると思えるのだが、この「万葉集第一巻」には、まだ二人の歌は続くのである。

 

【参考】

不見跡+(不)云

『物』の字には少なくとも、物(モツ)・ 物(モチ)・ 物(ブツ)・ 物(もの)の4種の読み方が存在する。

『乎』の字には少なくとも、乎(ゴ)・ 乎(コ)・ 乎(オ)・ 乎(を)・ 乎(や)・ 乎(かな)・ 乎(か)の7種の読み方が存在する。

「いわずもがな」とは、言わなくても良いことを意味する表現である。

『令』の字には少なくとも、令(レイ)・ 令(リョウ)・ 令い(よい)・ 令(おさ)・ 令(いいつけ)の5種の読み方が存在する。

『見』の字には少なくとも、見(ゲン)・ 見(ケン)・ 見(カン)・ 見る(みる)・ 見せる(みせる)・ 見える(みえる)・ 見える(まみえる)・ 見れる(あらわれる)の8種の読み方が存在する。

よし-み 【好み・誼】:関係。因縁。縁故。ゆかり。

『乍』の字には少なくとも、乍(ジャ)・ 乍(サク)・ 乍(サ)・ 乍ら(ながら)・ 乍ち(たちまち)の5種の読み方が存在するだけだが、 [字訓] として(つくる・たちまち)がある。