万葉集Ⅲ 不比等と万葉歌人
『日本書紀』に不比等(659-720)の名前が出るのは、持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で、持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。
また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂(681-689)に参加していたとする説もあるが、 文武天皇元年(697年)には、持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂(701制定)において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。
また、阿閇皇女(元明天皇)付き女官で、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇の即位(697年8月1日)直後には、娘の藤原宮子が天皇の夫人(697年8月20日)となったのである。
長屋王は、大宝選任令の蔭位(おんい)年齢規定によると、天武天皇13年(684年)誕生説が有力であったが、『懐風藻』の記事にある享年54歳に基づき、ここでは天武天皇5年(676年)とする。
父は天武天皇の長男の高市皇子(696年薨御)、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であれば、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
妻は吉備内親王(686?-729:元正天皇の同母妹)、妾(しょう)には藤原不比等(659-720)の娘の藤原長娥子(ながこ:生没年不詳)らがいた。
県犬養 三千代(あがたのいぬかい の みちよ:665?- 733)は、美努王に嫁ぎ、第一子葛城王を出生(684)にしているが、軽皇子(後の文武天皇)は683年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。
時期は不詳であるが美努王とは離別し(694?)、藤原不比等の後妻となり(697?)、安宿媛(701-760)を生んでいたが、 持統天皇10年(696)の高市皇子の死去に伴い、不比等は政権中枢に参画し、文武天皇元年(697)8月には不比等の娘の宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。
こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閇皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられているが、ひょっとしたら三千代もプロジェクト『万葉集』に携わっていたかもしれない。
03 0268 長屋王故郷歌一首
03 0268 吾背子我(わがせこは)古家乃里之(ふるへのさとの)明日香庭(あすかには)乳鳥鳴成(ちどりなくなり)嬬待不得而(つままちゑずに)
03 0268 右今案 従明日香遷藤原宮(694)之後作此歌歟
この後に、【03 0269 阿倍女郎屋部坂歌一首】として続くのだが、この阿倍女郎は、吉備内親王だと思っている。
たしかに、郎女には中臣東人との贈答歌があるのだが、それはよくある別人だと思う思うのだが、一艘のこと、阿閇郎女とすればわかりやすかったかもしれない。
03 0269 人不見者(ひとみずも)我袖用手(わがそでもちて)将隠乎(かくさむを)所焼乍可将有(しつつあらむか)不服而来来(きずにききけり)
なお、夜部村の場所は、『日本後紀』の「大宮に向へる野倍の坂」を参考にすると、「大宮」とは坂の存在から藤原宮と推定され、その近郊ということになる。
遊吉野(其一) 藤原史(695)
飛文山水地 文を飛ばす山水の地
命爵薜蘿中 爵(さかずき)を命ず薜蘿の中
漆姫控鶴擧 漆姫(しつき)鶴を控(ひ)きて擧(あ)がり
柘媛接莫通 柘媛(しゃえん)が接して通ずること莫し
煙光巖上翠 煙光巖の上に翠(みどり)にして
日影浪前紅 日影(にちえい)浪の前に紅なり
飜知玄圃近 飜(ひるがえ)りて玄圃(げんぽ)の近きを知り
對翫入松風 對(むか)いて松に入る風を翫(もてあそ)ぶ
遊吉野(其二) 藤原史(695)
夏身夏色古 夏身(かしん)夏色古り
秌津秋氣新 秌津(しゅうしん)秋氣新た
昔者同汾后 昔者(むかしも)汾后(ふんこう)に同じく
今之見吉賓 今之(いまの)吉賓(きっぴん)を見る
霊仙駕鶴去 霊仙鶴(たず)を駕して去り
星客乗査逡 星客(せいきゃく)査(いかだ)に乗りて逡(めぐ)る
渚性臨流水 渚性(しょせい)流水に臨み
素心開静仁 素心静仁(せいじん)に開く
五言 春日侍宴應詔 藤原史(698)
淑氣光天下 淑氣天下に光り
薫風扇海濱 薫風海濱に扇ぐ
春日歡春鳥 春日春を歡ぶ鳥
蘭生折蘭人 蘭生の蘭を折る人
塩梅道尚故 塩梅の道は尚故(もと)なり
文酒事猶新 文酒の事は猶新たなり
隱逸去幽藪 隱逸幽藪(ゆうそう)を去り
沒賢陪紫宸 沒賢(ぼっけん)紫宸に陪す
七夕 藤原史(697年7月?不比等38・長屋王21)
雲衣雨観夕 雲衣(うんい) 爾観(りょうかん)の夕 両観夕:牽牛と織女の逢う七夕
月鏡一逢秋 月鏡 一逢(いっぽう)の秋 一逢:年に一度逢うこと
機下非曾故 機下は曾故に非ず 曾故:普段
援息是威猷 援息は是れ威猷(いゆう) 援息:休息 威猷:心待ち
鳳蓋随風転 鳳蓋 風に随ひて転じ 鳳蓋:織女の乗物
鵠影逐波浮 鵠影(じゃくえい)波を逐ひて浮かぶ 鵠影:鵲の橋
面前開短樂 面前に短樂を開くも 短樂:今夜限りの音楽
別後悲長愁 別後 長愁を悲しむ 長愁 :長き愁い
大宝元年(701)二月の吉野行幸の際には、文武天皇18(683-707)と共に歌(万75)を詠んでおり、長屋王25歳の頃になる。
01 0074 大行天皇幸于吉野宮時歌
01 0074 見吉野乃(みよしのの)山下風之(やましたかぜの)寒久尓(さむきひに)為當也今夜毛(いまやこよひも)我獨宿牟(あがひとりすむ)
01 0074 右一首或云 天皇御製歌
01 0075 宇治間山(うぢまやま)朝風寒之(あさかぜさむし)旅尓師手(たびにして)衣應借(ころもかるべき)妹毛有勿久尓(いもあらなくに)
01 0075 右一首長屋王
この年に、首皇子(701-756:聖武天皇)が誕生(9月)するのだが、697年に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた当時(文武14・長屋21)、氷高(680-748:元正天皇)皇女は17歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響していたと思われるが、この時長王が妹としたのは吉備内(14?)であろうか?
次に登場する、春日倉首(かすがのくらのおびと)は、当初は出家し、僧名を弁基または弁紀と称していたが、大宝元年(701)三月、朝廷の命により還俗させられ、老の名を賜わり、追大壱の位を受ける。
和銅七年(714)正月、従五位下に昇叙され、のち常陸介に任ぜられたが、その年の10月3日には、常陸守として、従四位下の石川 難波麻呂が赴任し、養老3年(719年)7月には藤原宇合(694-737)がなっている。
主君は文武・元明となっており、おそらく、『常陸国(茨城県)風土記』の編者の一人として、活躍したものと思われる。
『懐風藻』には五言詩一首『述懐』を載せており、万葉集には八首(「春日歌」「春日蔵歌」を老の作とした場合)あり、生没年は不明なのだが、「年五十二」(卒年)とある。
03 0298 弁基歌一首(700)
03 0298 亦打山(まつちやま)暮越行而(くれごえいきて)廬前乃(いほさきの)角太河原尓(すだのかはらに)獨可毛将宿(ひとりかもねむ )
03 0298 右或云 弁基者春日蔵首老之法師名也
01 0056 或本歌
01 0056 河上乃(かはかみの)列〃椿(つらつらつばき)都良〃〃尓(つらつらに)雖見安可受(みれどもあかず)巨勢能春野者(こせのはるのも)
01 0056 右一首春日蔵首老(701)
03 0286 春日蔵首老即和歌一首
03 0286 宜奈倍(よしなべて)吾背乃君之(わがせのきみの)負来尓之(たのみきし)此勢能山乎(このせのやまを)妹者不喚(いももさけばず)
01 0062 三野連(661-728)入唐時春日蔵首老作歌(702) 名闕
01 0062 在根良(よきねあり)對馬乃渡(つしまのわたり)〃中尓(わたなかに)幣取向而(ぬさとりむけて)早還許年(はやかへりこね)
3 0282 春日蔵首老歌一首
03 0282 角障経(かくさはふ)石村毛不過(いむらもすぎず)泊瀬山(はつせやま)何時毛将超(いつもこえなむ)夜者深去通都(よもふけゆきつ)
03 0284 春日蔵首老歌一首(714)
03 0284 焼津邊(やいつへに)吾去鹿齒(わがゆきしかば)駿河奈流(するがなる)阿倍乃市道尓(あべのいちぢに)相之兒等羽裳(あひしこらはも)
09 1717 春日歌一首
09 1717 三川之(みつかはの)淵瀬物不落(ふちせもおちず)左提刺尓(さでさすに)衣手潮(ころもでにしお)干兒波無尓(もとめるこはなし)
ふち-せ 【淵瀬】:淵と瀬。川の深い所と浅い所。
さ-で 【叉手・小網】:魚をすくい取る網。さであみ。
ころも-で 【衣手】:袖(そで)。
『干』の字には少なくとも、干(ガン)・ 干(カン)・ 干める(もとめる)・ 干す(ほす)・ 干る(ひる)・ 干(たて)・ 干わる(かかわる)・ 干す(おかす)の8種の読み方が存在する。
『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。
09 1719 春日蔵歌一首
09 1719 照月遠(てるつきを)雲莫隠(くもなかくしそ)嶋陰尓(しまかげに)吾船将極(わがふねはてむ)留不知毛(とまりしらずも)
09 1719 右一首或本云 小辨作也 或記姓氏無記名字 或偁名号不偁姓氏 然依古記便以次載 凡如此類下皆放焉[右の一首は、或る本に云はく「小辨(せうべん)の作なり」といへり。或は姓氏(うぢ)を記して名字(な)を記すことなく、或は名号(な)を称えて姓氏(うぢ)を称えず。然れども古記(こき)に依りて、便(すなは)ち次(ついで)を以ちて載す。凡てかくの如き類(たぐひ)は、下(しも)皆これに放(なら)へ]
ここで、もうひとり紹介しておきたいのが、山前王(やまくまおう/生年不詳 - 723)であるが、慶雲2年(705年)6月に父の知太政官事・忍壁皇子が没すると、同年12月に山前王は二世王の蔭位により従四位下に直叙される。
『懐風藻』に漢詩作品1首が採録「侍宴」(天皇を讃えている)されているが、『万葉集』に、兄弟の石田王が没した際に詠んだ挽歌1首(一説では柿本人麻呂作)と、紀皇女が没した際に石田王に代わって詠んだ挽歌2首の、合わせて3首の和歌作品が採録されているが、この石田王は仮名だとしたら、「誰だ?」ということなのだ。
03 0424 或本反歌二首
03 0424 隠口乃(こもりくの)泊瀬越女我(はつせをとめが)手二纒在(てにまける)玉者乱而(たまはみだれて)有不言八方(いはざらめやも)
ざら‐め‐やも:(打消の助動詞「ず」の補助活用の未然形「ざら」に、推量の助動詞「む」の已然形「め」、反語を表わす助詞「やも」の付いたもの) …しないであろうか。きっと…する。
03 0425 河風(かはかぜの)寒長谷乎(さむきはつせを)歎乍(なげきつつ)公之阿流久尓(きみがあるくに)似人母逢耶(ひとにもあふや)
03 0425 右二首者或云紀皇女薨後山前王代石田王作之也[「或云、紀皇女薨後、山前王、石田王に代りて作れり」(710?)
五言 元日応詔 藤原史(710)
正朝観万国 正朝万国を観
元日臨兆民 元日兆民に臨む
有政敷玄造 有政玄造を敷き
撫機御紫宸 撫機紫宸に御す
年花已非故 年花已に故(もと)にあらず
淑気亦惟新 淑気亦惟れ新た
鮮雲秀五彩 鮮雲五彩に秀で
麗景耀三春 麗景三春に耀(かがや)く
済々周行士 済々たる周行(しゅうこう)の士
穆々我朝人 穆々(ぼくぼく)たる我が朝(ちょう)の人
威徳遊天澤 威徳ありて天澤(てんたく)に遊ぶ
飲和惟聖塵 飲和して聖塵を惟(おも)う
五言 初春侍宴 大伴旅人(710)
寛政情既遠 寛政の情は既に遠く
迪古道惟新 迪古(てきこ)の道は惟れ新た
穆々四門客 穆々たる四門の客
済々三徳人 済々たる三徳の人
梅雪乱残岸 梅雪残岸に乱れ
烟霞接早春 烟霞早春に接す
共遊聖主澤 共に遊ぶ聖主の澤
同賀撃壌仁 同じく賀す撃壌の仁
03 0315 暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首 并短歌 未逕奏上歌[暮春の月に芳野の離宮に幸しし時に、中納言大伴卿の勅を奉りて作れる歌一首〔并せて短歌、いまだ奉上を経ざる歌〕](714)
03 0315 見吉野之(みよしのの)芳野乃宮者(よしののみやは)山可良志(やまからし)貴有師(たふとくあるも)水可良思(みずからし)清有師(さやけくあるも)天地与(あめつちと)長久(ながくひさしく)萬代尓(よろづよに)不改将有(かはらずあらむ)行幸之宮(ぎょうこうのみや)
やま-から 【山柄】:山の品格。山の素性。一説に「山のゆえに」の意とも。
師:[音]シ(呉・ 漢)ズ(宋)[訓]のり・もろ・のし(表外)
03 0316 反歌
03 0316 昔見之(むかしみし)象乃小河乎(きさのをがはを)今見者(いまみるも)弥清(いよいよきよく)成尓来鴨(なりにけるかも)
『弥』の字には少なくとも、弥(ミ)・ 弥(ビ)・ 弥()ゲイ)・ 弥る(わたる)・ 弥(や)・ 弥しい(ひさしい)・ 弥う(つくろう)・ 弥(いよいよ・ 弥(いや)・ 弥し(あまねし)の10種の読み方が存在する。
この時不比等55・長屋王38・旅人49歳であり、この翌年の霊亀元年(715)9月2日、皇太子である首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け即位したのが、元正天皇である。
「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レン(女偏に「戀」)にして、華夏載せ佇り(慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい)」と記されている。
不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改め、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。
とはいえ、不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられることになる。
03 0423 同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首
03 0423 角障経(つのさはふ)石村之道乎(いはれのみちを)朝不離(あささらず)将歸人乃(ゆきけむひとの)念乍(おもひつつ)通計萬口波(かよひけまくは)霍公鳥(ほととぎす)鳴五月者(なくさつきには)菖蒲(あやめぐさ)花橘乎(はなたちばなを)玉尓貫(たまにぬき)一云 貫交(ぬきまじへ)蘰尓将為登(かづらにせむと)九月能(ながつきの)四具礼能時者(しぐれのときは)黄葉乎(もみちばを)折挿頭跡(をりかざさむと)延葛乃(はふくずの)弥遠永(いやとほながく)一云 田葛根乃(くずのねの)弥遠長尓(いやとほながに)萬世尓(よろづよに)不絶等念而(たへずとねんじ)一云 大舟之(おほぶねの)念憑而(おもひたのみて)将通(かよひけむ)君乎婆明日従(きみをばあすゆ)一云 君乎従明日者(きみをあすゆは)外尓可聞見牟(よそにかもみむ)
つのさはふ:「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などにかかる。語義・かかる理由未詳。
地名はイワレで「伊波礼」、「石村」、「石寸」とも表記した。
この山前王(やまくまおう/やまくまのおおきみ、生年不詳 - 723年1月20日)は、忍壁皇子の子であり、天武天皇の孫になり、養老7年(723年) 12月20日:卒去(散位従四位下)となる。
この歌の後記に、【03 0423 右一首或云柿本朝臣人麻呂作】とあるが、 この石田王への挽歌は、藤原史へだと思っている。