万葉集Ⅲ 房前復権
藤原 房前(681 - 737)は、能楽『海人』の登場人物としても知られるが、この能によると、房前大臣は亡き母を訪ねて讃岐国、志度の浦を訪れ、そこで聞かされたのが、父不比等と母である海女の物語である。
「今の大臣淡海公(藤原不比等)の妹君が唐の妃になられるにあたって、唐の高宗皇帝から興福寺に三つの宝物が贈られました。そのうちのひとつ『面向不背の珠(釈迦の像が必ず正面にみえる不思議な宝珠)』をこの地で龍宮にとられてしまいました。大臣はその珠を奪い返すため身をやつしてこの地に来られ、海人乙女と契りを結ばれましたが、そのとき生まれたのが房前の大臣です」と。
房前はそれを聞き「われこそ房前大臣である。わが母は志度の浦の海女ときかされてここに来たのだ」と名告ると、海女はさらに、珠を取り返したときのことを語るのである。
大臣(不比等)は傷つき息もたえだえになった海女をみて嘆き悲しむが、海女の「わが乳のあたりを御覧ぜ」との末期の言葉に傷跡をみると面向不背の珠があり、こうして海女は命を落としたが、その子は房前の大臣となったのだ。
房前は母の供養をするのだが、この作品は長屋王とは全く関係ないかもしれないが、長屋王の変に限って言うと、武智麻呂・宇合・麻呂兄弟がたくらみ、それに同調しなかったであろう房前は、その苦悩に苛まれることになる。
『懐風藻』詩番号91 藤原宇合 五言
悲不遇 不遇を悲しむ
賢者悽年暮 賢者 年の暮れるるを悽み
明君冀日新 明君 日に新たなるを冀ふ
周占載逸老 周占 逸老を載せ
殷夢得伊人 殷夢 伊人を得り
摶舉非同翼 摶舉 翼を同にせず
相忘不異鱗 相忘 鱗を異にせず
南冠勞楚奏 南冠 楚奏を勞し
北節倦胡塵 北節 胡塵に倦む
學類東方朔 學は東方朔に類し
年餘朱買臣 年は朱買臣に餘り
二毛雖已富 二毛すでに富めりといへども
萬卷徒然貧 萬卷 徒然として貧し
あたかも、長屋王と房前の心情を吐露したような漢詩が、宇合の『不遇を悲しむ』なのだが、謀反の疑いを受けた長屋王は、吉備内親王と所生の諸王らとともに、自害させられたという。
そのことが尾を引いているのだろうか、この長屋王の変は、謀反の密告を受けると直ちに兵士を引率して長屋王邸を包囲したのが宇合であった。
そして不比等の長男である武智麻呂が、舎人(676-735)・新田部(?-735)両親王、大納言・多治比池守(?-730)らを担ぎ出して長屋王邸に赴かせ、長屋王と妻子を殺害せしめたと言えるであろう。
この詩の作成時期はわからないが、武智麻呂の政権は確立したのだけれど、宇合はそれに対して不満を抱いていたのは確かであろう。
天然痘は735年(天平7年)、大宰府管内である九州北部で発生したと記録されているが、平安時代末期に書かれた歴史書によれば、735年の流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師とされている。
735年8月までに九州北部では天然痘が大流行しており、事態を受けた大宰府は8月23日、管内(九州)の住民に対する当年度の税の一部(調)を免除するよう朝廷に要請し、許可された。
ところが736年2月、聖武天皇は新たに遣新羅使を任命し、4月には阿倍継麻呂(?-737年1月)を団長とする使節団が平城京を出発し、使節団は九州北部を経由して新羅に向かった。
その一行は、道中で天然痘に感染し、随員の雪宅満(?-736)は新羅に到達する前に壱岐で病死したというのだ。
15 3644 佐婆海中忽遭逆風漲浪漂流経宿而後幸得順風到著豊前國下毛郡分間浦[佐婆の海中にして、忽ちに逆風に遭ひ漲浪に漂流せり。経宿せし後に、幸に順風を得て、豊前国の下毛郡の分間の浦に到著す]於是追怛艱難悽惆作歌八首[ここに追ひて艱難を怛み、悽惆みて作れる歌八首]
15 3644 於保伎美能(おほきみの)美許等可之故美(みことかしこみ)於保夫祢能(おほぶねの)由伎能麻尓末尓(ゆきのまにまに)夜杼里須流可母(やどりするかも)
15 3644 右一首雪宅麻呂[右の一首は、雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)]
天平九年(737)正月二十七日、遣新羅使の大判官で従六位上の壬生使主(おみ)宇太麻呂・少判官で正七位上の大蔵忌寸麻呂らが、新羅から帰って入京した。
大使・従五位下の阿部朝臣継麻呂は津島(対馬)に停泊中に卒し、副使で従六位下の大伴宿祢三中は病気に感染して入京することができなかった。
三月三日、次のように詔した。
国ごとに釈迦仏の像一体と脇侍菩薩二体を造り、あわせて大般若経一部(六百巻)を書写せよ。
四月十七日、、参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前が薨じた。大臣待遇の葬送をすることにしたが、その家では固辞して受けなかった。
残された一行が平城京に帰還すると本州にウイルスが持ち込まれ、737年(天平9年)には天然痘が全国的に大流行することとなった。
15 3656 七夕仰觀天漢各陳所思作歌三首[七夕に天漢を仰ぎ観て、各々所思を陳べて作れる歌三首]
15 3656 安伎波疑尓(あきはぎに)〃保敝流和我母(にほへるわがも)奴礼奴等母(ぬれぬとも)伎美我美布祢能(きみがみふねの)都奈之等理弖婆(つなしとりてば)
15 3656 右一首大使(736)
15 3657 等之尓安里弖(としありて)比等欲伊母尓安布(ひこいもにあふ)比故保思母(ひこほしも)和礼尓麻佐里弖(われにまさりて)於毛布良米也母(おもふらめやも)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。
之(シ)+尓(シ)=(し)
『比』の字には少なくとも、比(ビチ)・ 比(ビ)・ 比(ヒツ)・ 比(ヒ)・ 比ぶ(ならぶ)・ 比(たぐい)・ 比(ころ)・ 比べる(くらべる)の8種の読み方が存在する。
『等』の字には少なくとも、等(トウ)・ 等(タイ)・ 等(ら)・ 等しい(ひとしい)・ 等(など)の5種の読み方が存在する。
比(ヒ)+ 等しい(ひとしい)=(ひ)
欲:谷を空虚、欠(けん)は口を開いて欲する意であるとするが、そのような造字の法はないとするも、金文に【谷】を欲の意に用いる。
『谷』の字には少なくとも、谷(ロク)・ 谷(ヨク)・ 谷(コク)・ 谷(や)・ 谷(たに)・ 谷まる(きわまる)の6種の読み方が存在する。
15 3658 由布豆久欲(ゆふづくよ)可氣多知与里安比(きたしよりあひ)安麻能我波(あまのがは)許具布奈妣等乎(こぐふなびとを)見流我等母之佐(みるがともしさ)
可:[音]カ(呉・漢)[訓] ききい-れる、き-く、べ-き、よ-い、ばか-り
『氣』の字には少なくとも、氣(ケ)・ 氣(キ)・ 氣(いき)の3種の読み方が存在する。
可く(きく)+氣(キ)=(き)
天平8年(736年)6月聖武天皇の吉野行幸が行われるが、麻呂の家政機関が官司に代わって調度品の調達や運搬した役夫に対する食糧の支払いなど、行幸の支援業務を行っている。
09 1764 七夕歌一首 并短歌
09 1764 久堅乃(ひさかたの)天漢尓(あまなるかはの)上瀬尓(かみつせに)珠橋渡之(たまはしわたし)下湍尓(しもつせに)船浮居(ふねをうけすゑ)雨零而(あめふらし)風不吹登毛(かぜふかすとも)風吹而(かぜふかし)雨不落等物(あめおとすとも)裳不令濕(もしめらず)不息来益常(やまずきませと)玉橋渡須(たまはしわたす)
てん‐かん【天漢】:あまのがわ。銀河。銀漢。
居:[音]コ(呉)キョ(漢)キ(唐)[訓]い-る(表内)お-る、ぐ、すえ、おき(表外)
『零』の字には少なくとも、零(レン)・ 零(レイ)・ 零(リョウ)・ 零る(ふる)・ 零れる(こぼれる)・ 零ちる(おちる)・ 零り(あまり)の7種の読み方が存在する。
『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに)・ 而も(しかも)・ 而して(しかして)の9種の読み方が存在する。
『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。
『吹』の字には少なくとも、吹(スイ)・ 吹く(ふく)の2種の読み方が存在する。
不(フ)+吹く(ふく)=(ふく)
令:[音]リョウ(呉)レイ(漢)[訓]し-む、よ-い、おさ、いいつけ、のりごと、のりご-つ、たと-い、も-し、うながし(表外)
『濕』の字には少なくとも、濕(トウ)・ 濕(ショウ)・ 濕(シュウ)・ 濕(シツ)・ 濕(ゴウ)・ 濕る(しめる)・ 濕す(しめす)・ 濕す(うるおす)・ 濕い(うるおい)の9種の読み方が存在する。
令(しむ)+ 濕る(しめる)=(しめる)
「天の川には上流も下流もない」と思うのだが、その留めが【玉橋渡須】だとしたら、誰からのバトンになるのだろう?
09 1765 反歌
09 1765 天漢(あまのがは)霧立渡(きりたちわたる)且今日〃〃〃(まさにけふ)吾待君之(あをまつきみゆ)船出為等霜(ふなでするらし)
(「且~、且~」の形で)「~しながら」だが、『且』の字には少なくとも、且(ゾ)・ 且(ソ)・ 且(ショ)・ 且(シャ)・ 且に…す(まさに…す)・ 且く(しばらく)・ 且つ(かつ)の7種の読み方が存在し、(まさにけふ)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『為』の字には少なくとも、為(イ)・ 為る(なる)・ 為す(なす)・ 為る(つくる)・ 為(ため)・ 為る(する)の6種の読み方が存在する。
おそらく、この時の天の川に、長屋王・旅人・憶良たちが、今か今かと待っている姿が浮かんでいたかもしれないが、房前は逡巡していたのである。
09 1765 右件歌或云中衛大将藤原北卿宅作也[右の件の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿(房前)の宅の作なり」といへり]
七夕 藤原房前
帝里初涼至 帝里 初涼に至り
神衿翫早秋 神衿 早秋を翫し
項莚振雅藻 項莚 雅藻を振ひ
金閣啓良遊 金閣 良遊を啓く
鳳駕飛雲路 鳳駕 雲路に飛び
龍車越渓流 龍車 渓流を越ゆ
欲知神仙會 神仙の會を知り欲し
青鳥入項櫻 青鳥 項櫻に入る
『懐風藻』にある房前の漢詩だが、長屋王の時代、どれだけ理想に燃え、夢に満ち足りていたことであろう。
天平9年(737年)4月17日に他の兄弟に先んじて天然痘に倒れた(享年57)とされているが、長屋王殺害を阻止できなかったことに苦しみ抜き、房前は自害したように思える。
それより先、天平9年(737年)正月に麻呂は持節大使に任ぜられ、多賀柵より雄勝村を経由する陸奥から出羽国への直通路開削事業を行うために東北地方に派遣される。
2月に多賀柵に到着すると、同月から4月にかけて東人が遠征を行い、奥羽山脈を横断して男勝村の蝦夷を帰順させ奥羽連絡通路を開通させ、これを受けて麻呂は4月中旬に征討の完了と徴発した兵士の解散を奏上している。
その後、5月末から6月初旬頃に帰京したと考えられるが、帰京後まもなく当時大流行していた天然痘にかかり7月13日に薨去(享年43)。
藤原武智麻呂は、同じく7月25日に当時流行していた天然痘により薨去(享年58)し、宇合は、平城京中を疫病が猖獗(しょうけつ)を極める中、8月5日に薨去した(享年44)。
20 4437 先太上天皇御製霍公鳥歌一首[先の太上天皇の御製せる霍公鳥の歌一首]日本根子高瑞日清足姫天皇也〔日本根子高瑞日清足姫の天皇〕
20 4437 富等登藝須(ほととぎす)奈保毛奈賀那牟(なほもなかなむ)母等都比等(もとつひと)可氣都〃母等奈(かけつつもとな)安乎祢之奈久母(あをねしなくも)
もと‐つ‐ひと【元つ人】:以前から親しくしている人。また、昔、親しくしていた人。
もとな:しきりに、やたらと、わけもなく。
あ【吾】 を 哭(ね)し泣(な)く:私を(声を立てて)泣かす。
この歌は、藤原四兄弟のうちの、房前にささげられたものであり、10月になってから房前は正一位・左大臣を追贈されている。
20 4438 薩妙觀應 詔奉和歌一首[𦵮妙観、詔に応へて和へ奉れる歌一首]
20 4438 保等登藝須(ほととぎす)許〃尓知可久乎(ここにちかくを)伎奈伎弖余(きなきてよ)須疑奈无能知尓(すぎなむのちに)之流志安良米夜母(しるしあるよは)
『良』の字には少なくとも、良(ロウ)・ 良(リョウ)・ 良い(よい)・ 良(やや)の4種の読み方が存在する。
『米』の字には少なくとも、米(メートル)・ 米(メ)・ 米(マイ)・ 米(ベイ)・ 米(よね)・ 米(こめ)の6種の読み方が存在する。
『夜』の字には少なくとも、夜(ヤク)・ 夜(ヤ)・ 夜(エキ)・ 夜(よる)・ 夜(よ)の5種の読み方が存在する。
良い(よい)+米(よね)+ 夜(よ)=(よ)
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王(?-745)を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。
「長屋王の親族は全員赦免する」との勅が宣べられて、連座を免れた鈴鹿王は、変後間もない3月には二階昇進して正四位上に叙せられ、天平3年(731年)には橘諸兄(684-757)と同時に参議に任ぜられて公卿に列し、天平4年(732年)には従三位に叙せられていた。
因みに、この時期に活躍した万葉歌人たちは、大伴旅人(665-731:78首)・山上憶良(660? -733? :78首)・山部赤人(? -736? :50首)・大伴坂上郎(生没年不詳:84首)・高橋虫麻呂(生没年不詳:34首)たちである。
なお房前については、天平9年(737年)4月17日に他の兄弟に先んじて天然痘に倒れ、大臣の形式で葬儀をおこなうこととされたが、房前の家族は固辞したという。
10月になってから房前は正一位・左大臣を追贈され、家族に20年の制限ながら食封2000石が与えられた。
これにより、房前は没後ながら武智麻呂に官位で並ぶが(宇合・麻呂は追贈されていない)、これは聖武天皇や元正上皇の意向による、房前の復権が図られたものと想定されている。
なお、房前の子孫である藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中でもっとも繁栄したという。