橘諸兄(天平11年)
08 1622 大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌二首[大伴田村大嬢の妹坂上大嬢に与へたる歌二首]
08 1622 吾屋戸乃(わがやどの)秋之芽子開(あきのはぎさく)夕影尓(ゆふかげに)今毛見師香( いまもみてしか)妹之光儀乎(いもがすがたを)
08 1623 吾屋戸尓(わがやどに)黄變蝦手(もみつかへるて)毎見(みるごとに)妹乎懸管(いもをかけつつ)不戀日者無(こひぬひはなし )
大伴 田村大嬢(おおとも の たむら の おおおとめ)は、万葉集巻四、巻八に、異母妹坂上大嬢に贈った歌のみ九首残り、妹思いであったことがうかがわれる。
08 1592 大伴坂上郎女竹田庄作歌二首[大伴坂上郎女の、竹田の庄にして作れる歌二首]
08 1592 然不有(しかあらず)五百代小田乎(いほしろをだを)苅乱(かりみだり)田廬尓居者(たぶせにをれば)京師所念(みやこしおもふ)
し‐か【▽然/×爾】 :そのように。さように
08 1593 隠口乃(こもりくの)始瀬山者(はつせのやまは)色附奴(いろづきぬ)鍾礼乃雨者(しぐれのあめは)零尓家良思母(ふりにけらしも)
08 1593 右天平十一年己卯秋九月作[右は、天平十一年己卯の秋九月(30日)に作れり]
08 1624 坂上大娘秋稲蘰贈大伴宿祢家持歌一首[坂上大娘の、秋の稲の蘰を大伴宿祢家持に贈れる歌一首]
08 1624 吾之蒔有(わがまける)早田之穂立(わさだのほたち)造有(つくりたる)蘰曽見乍(かづらぞみつつ)師弩波世吾背(しのはせわがせ)
08 1625 大伴宿祢家持報贈歌一首
08 1625 吾妹兒之(わぎもこが)業跡造有(なりとつくれる)秋田(あきのたの)早穂乃蘰(わさほのかづら)雖見不飽可聞(みれどあかぬも)
08 1626 又報脱著身衣贈家持歌一首[また、身に着けたる衣を脱きて、家持に贈れるに報へたる歌一首]
08 1626 秋風之(あきかぜの)寒比日(さむきこのころ)下尓将服(したにきむ)妹之形見跡(いもがかたみと)可都毛思努播武(かつもしのはむ)
08 1626 右三首天平十一年己卯秋九月徃来[右の三首は、天平十一年己卯の秋九月に往来せり]
天平十一年九月一日 日蝕があった(現代の暦では、10月7日のようである)
『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。
このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。
ところで、『日本書紀』の推古36年3月の条に、「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」(三月の丁未の朔、戊申に日、蝕え尽きたること有り)と記録されている。
[「日、蝕え尽きたる」は、当時の都である飛鳥京で皆既食が見られたように思わせるが、実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で、当時の飛鳥京では食分0.93程度の部分食であった。推古天皇は5日後の4月15日(3月7日)に崩御している]
地震もそうだが、全ての変異した事象は、中央政府に奏上されるのだ。
08 1449 大伴田村家毛大嬢與妹坂上大嬢歌一首
08 1449 茅花抜(つばなぬく)淺茅之原乃(あさぢがはらの)都保須美礼(つほすみれ)今盛有( いまさかりなり)吾戀苦波(あがこふらくは)
08 1506 大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首
08 1506 古郷之(ふるさとの)奈良思乃岳能(ならしのをかの)霍公鳥(ほととぎす)言告遣之(ことつげやりし)何如告寸八(いかにつげきや)
08 1662 大伴田村大娘与妹坂上大娘歌一首
08 1662 沫雪之(あわゆきの)可消物乎(けぬべきものを)至今尓(いままでに)流経者(ながらへぬるは )妹尓相曽(いもにあはむぞ)
04 0756 大伴田村家之大嬢贈妹坂上大嬢歌四首
04 0756 外居而(よそにゐて)戀者苦(こふればくるし)吾妹子乎(わぎもこを)次相見六(つぎてあひみむ)事計為与(ことはかりせよ)
04 0757 遠有者(とほくをも)和備而毛有乎(わびてもあらむを)里近(さとちかく)有常聞乍(ありとききつつ)不見之為便奈沙(みぬがすべなさ)
わ・ぶ 【侘ぶ】:つらく思う。せつなく思う。寂しく思う。
04 0758 白雲之(しらくもの)多奈引山之(たなびくやまの)高〃二(たかたかに)吾念妹乎(あがもふいもを)将見因毛我母(みむよしもがも)
04 0759 何(いずくんぞ)時尓加妹乎(ときにかいもを)牟具良布能(むぐらふの)穢屋戸尓(きたなきやどに)入将座(いりいませなむ)
『何』の字には少なくとも、何(カ)・ 何(なん)・ 何(なに)・ 何れ(いずれ)・ 何く(いずく)の5種の読み方が存在する。
04 0759 右田村大嬢坂上大嬢並是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也 卿居田村里号曰田村大嬢 但妹坂上大嬢者母居坂上里 仍曰坂上大嬢 于時姉妹諮問以歌贈答[右は、田村大嬢と坂上大嬢と、並にこれ右大弁大伴宿奈麻呂卿の女なり。卿は田村の里に居み、号を田村大嬢と曰へり。 ただ、妹の坂上大嬢は、母、坂上の里に居む。よりて坂上大嬢と曰へり。時に、姉妹諮問ふに、歌を以ちて贈答せり]
その後ろに興味にひかれる歌があり、ついでに載せておく。
04 0760 大伴坂上郎女従竹田庄贈女子大嬢歌二首[大伴坂上郎女の竹田庄より女子の大嬢に贈れる歌二首]
04 0760 打渡(うちわたす)竹田之原尓(たかたのはらに)鳴鶴之(なくたづの)間無時無(まなくときなし)吾戀良久波(あがこふらくは)
04 0761 早河之(はやかはの)湍尓居鳥之(せにゐるとりの)縁乎奈弥(よしをなみ) 念而有師(おもひてありし)吾兒羽裳憾怜(あこはもうれい)
は-も:…は。▽文中に用いて上の語を取り立てて強める意を表す。
『憾』の字には少なくとも、憾(ドン)・ 憾(タン)・ 憾(ゴン)・ 憾(カン)・ 憾む(うらむ)の5種の読み方が存在する。
『怜』の字には少なくとも、怜(レン)・ 怜(レイ)・ 怜(リョウ)・ 怜い(さとい の4種の読み方が存在する。
08 1624 坂上大娘秋稲蘰贈大伴宿祢家持歌一首[坂上大娘の、秋の稲の蘰を大伴宿祢家持に贈れる歌一首]
08 1624 吾之蒔有(わがまける)早田之穂立(わさだのほたち)造有(つくりたる)蘰曽見乍(かづらぞみかず)師弩波世吾背(しのはせわがせ)
08 1625 大伴宿祢家持報贈歌一首
08 1625 吾妹兒之(わぎもこが)業跡造有(なりとつくれる)秋田(あきのたの)早穂乃蘰(わさほのかづら)雖見不飽可聞(みれどあかぬも)
08 1626 又報脱著身衣贈家持歌一首[また、身に着けたる衣を脱きて、家持に贈れるに報へたる歌一首]
08 1626 秋風之(あきかぜの)寒比日(さむきこのころ)下尓将服(したにきむ)妹之形見跡(いもがかたみと)可都毛思努播武(かつもしのはむ)
08 1626 右三首天平十一年己卯秋九月徃来[右の三首は、天平十一年己卯の秋九月に往来せり]
08 1594 佛前唱歌一首
08 1594 思具礼能雨(しぐれあめ)無間莫零(まなくなふりそ)紅尓(くれなゐに)丹保敝流山之(にほへるやまの)落巻惜毛(ちらまくをしも)
『能』の字には少なくとも、能(ノウ)・ 能(ナイ)・ 能(ドウ)・ 能(ダイ)・ 能(タイ)・ 能(グ)・ 能(キュウ)・ 能くする(よくする)・ 能く(よく)・ 能き(はたらき)・ 能う(あたう)の11種の読み方が存在する。
『雨』の字には少なくとも、雨(ウ)・ 雨(あめ)・ 雨(あま)の3種の読み方が存在する。 能う(あたう)+雨(あめ)=(あめ)
08 1594 右冬十月皇后宮之維摩講 終日供養大唐高麗等種〃音樂 尓乃唱此歌詞 彈琴者市原王 忍坂王 後賜姓大原真人赤麻呂也 歌子者田口朝臣家守 河邊朝臣東人 置始連長谷等十數人也[右は、冬十月の皇后宮の維摩講に、終日大唐・高麗等の種種の音楽を供養し、この歌詞を唱ふ。 弾琴は市原王と、忍坂王と〔後に姓大原真人赤麻呂を賜へるなり〕歌子は田口朝臣家守と、 河辺朝臣東人と、置始連長谷等十数人なり]
08 1595 大伴宿祢像見歌一首
08 1595 秋芽子乃(あきはぎの)枝毛十尾二(えだもとををに)降露乃(おくつゆの)消者雖消(けなばけぬとも)色出目八方(いろいでめやも)
08 1596 大伴宿祢家持到娘子門作歌一首[大伴宿祢家持の娘子の門に到りて作れる歌一首]
08 1596 妹家之(いもがやの)門田乎見跡(かどたをみむと)打出来之(うちでこし)情毛知久(こころもしるく)照月夜鴨(てるつくよかも)
08 1597 大伴宿祢家持秋歌三首
08 1597 秋野尓(あきののに)開流秋芽子(さけるあきはぎ)秋風尓(あきかぜに)靡流上尓(なびけるうへに)秋露置有(あきつゆおけり)
08 1598 棹壮鹿之(さをしかの)朝立野邊乃(あさたつのへの)秋芽子尓(あきはぎに)玉跡見左右(たまとみるまで)置有白露(おけるしらつゆ)
08 1599 狭尾壮鹿乃(さをしかの)胸別尓可毛(むなわけにかも)秋芽子乃(あきはぎの)散過鷄類(ちりすぎにける)盛可毛行流(さかりかもやる)
『行』の字には少なくとも、行(ゴウ)・ 行(コウ)・ 行(ギョウ)・ 行(ガン)・ 行(カン)・ 行(アン)・ 行く(ゆく)・ 行る(やる)・ 行(みち)・ 行う(おこなう)・ 行く(いく)の11種の読み方が存在する。
『流』の字には少なくとも、流(ル)・ 流(リュウ)・ 流れる(ながれる)・ 流す(ながす)の4種の読み方が存在する。
行る(やる)+流(ル)=(やる)
や・る【▽遣る】: そこへ行かせる。さしむける。送り届ける。
08 1599 右天平十五年癸未秋八月見物色作[右は、天平十五年癸未の秋八月に、物色を見て作れり]
十月二十七日 少僧都(しょうそうづ)の行達を大僧都に任じた。
なぜここで、僧階が記されているのかわからないが、大僧正・権大僧正・中僧正・僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都・中僧都・僧都・権中僧都・少僧都、そして 権少僧都・大律師・中律師・律師・権律師とつづくのである。
08 1590 十月(かむなづき)鍾礼尓相有(しぐれにあへる)黄葉乃(もみちばの)吹者将落(ふかばちりなむ)風之随(かぜのまにまに)
08 1590 右一首大伴宿祢池主
08 1591 黄葉乃(もみちばの)過麻久惜美(すぎまくをしみ)思共(おもふどち)遊今夜者(あそぶこよひは)不開毛有奴香(あかずもやるか)
あか‐ず【飽かず/×厭かず】: 飽きないで。いつまでも嫌にならないで。
08 1591 右一首内舎人大伴宿祢家持 以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也[右の一首は、内舎人大伴宿祢家持 以前は冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せる]
十一月三日 平群朝臣広成が朝廷を拝した。
平群 広成(へぐり の ひろなり:?-753)は、遣唐使の判官として唐に渡る(733)が、帰国の途中難船し、はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流した。
かろうじて、長安に送還された広成だったが、唐朝に仕えていた阿倍仲麻呂が帰国の方途を探っていた。
新羅を経由して帰国するのが近道であったが、日本との関係上、この経路は取れなかったけれど、唐と和解した渤海の使節が長安に来るようになり、渤海と日本との関係は良好だったため、渤海経由で広成らが帰国できるよう、仲麻呂は玄宗に上奏し裁可された。
渤海使は2隻の船に分乗し、日本海を南下したが、途中1隻が大波を受けて転覆し、大使の胥要徳ら40余名が溺死したが、別の船に乗船していた広成は副使の将軍・己珎蒙らと共に天平11年(739年)7月に出羽に到着し、6年ぶりに日本への帰国を果たし、副使らとともに10月になって平城京に入ると、11月に拝朝して経緯を報告したのである。
留学生ではなく遣唐使の判官とはいえ、6年もの間他国を渡り歩いた広成は当時の日本では屈指の知識人であり、朝廷から重用されて昇進を重ねた。
20 4454 十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首[十一月二十八日に、左大臣の、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集ひて宴せる歌一首]
20 4454 高山乃(たかやまの)伊波保尓於布流(いはほにおふる)須我乃根能(すがのねの)袮母許呂其呂尓(ねもころごろに)布里於久白雪(ふりおくしらす)
ねもころごろ‐に【▽懇ろごろに】:心がこもっているさま。親身であるさま。
しら‐す【白州/白×洲】: 白い砂の州。
『雪』の字には少なくとも、雪(セツ)・ 雪(ゆき)・ 雪ぐ(そそぐ)・ 雪ぐ(すすぐ)の4種の読み方が存在する。
20 4454 右一首左大臣作だが、安定した諸兄政権を歌に込めているのかもしれない。
06 1028 十一年乙卯 天皇遊獵高圓野之時小獣泄走都里之中 於是適値勇士生而見獲即以此獣獻上御在所副歌一首[十一年已卯、天皇の高円の野に遊猟し給ひし時に、小さき獣都里の中に泄走す。ここに適勇士に値ひて生きながらに獲らえぬ。 即ちこの獣を以て御在所に献上るに副へたる歌一首]獣名俗曰牟射佐妣〔獣の名は、俗にむざさびといふ〕
06 1028 大夫之(ますらをの)高圓山尓(たかまとやまに)迫有者(せめたれば)里尓下来流(さとにおりける)牟射佐毘曽此(むざさびぞこれ)
06 1028 右一首大伴坂上郎女作之也 但未逕奏而小獣死斃 因此獻歌停之[右の一首は、大伴坂上郎女の作なり。ただ、いまだ奏を経ぬに小さき獣死斃れぬ。これに因りて歌を献ることを停む]