笠郎女幻想
天平十七年(745)九月十九日、天皇は依然として不予(病気)であるので、平城・恭仁両京の留守居に「宮中を固く守れ」と勅し、孫王(二世の王)たちをすべて難波宮に参集させた。難波宮から使者を遣わして、平城京の鈴(駅鈴)と印(内印・外印、すなわち天皇御璽と太政官印)を取り寄せた。
二十五日、天皇が平城京に還行することになり、二十六日に到着。
03 0395 笠女郎贈大伴宿祢家持歌三首[笠女郎の大伴宿祢家持に贈れる歌一首(天平四・五年)]
03 0395 託馬野尓(たくまのに)生流紫(おふるむらさき)衣染(きぬにしめ)未服而(いまだきずして)色尓出来(いろにでにけり)
03 0396 陸奥之(みちのくの)真野乃草原(まののかやはら)雖遠(とほけども)面影為而(おもかげにして)所見云物乎(みゆうものかな)
『云』の字には少なくとも、云(ウン)・ 云う(いう)の2種の読み方が存在する。
『乎』の字には少なくとも、乎(ゴ)・ 乎(コ)・ 乎(オ)・ 乎(を)・ 乎(や)・ 乎(かな)・ 乎(か)の7種の読み方が存在する。
03 0397 奥山之おくやまの)磐本菅乎(いはもとすげを)根深目手(ねふかめて)結之情(むすびしこころ)忘不得裳(わすれえざるも)
笠郎女(かさのいらつめ)には、譬喩歌3首、相聞歌24首、春および秋の相聞各1首があり、上記の歌は、その譬喩歌3首である。
ひゆ‐か【×譬喩歌】:心情を表に出さず、隠喩 (いんゆ) 的に詠んだ歌で、多くは恋愛感情を詠むというのだが・・・。
十一月二日 玄昉法師を派遣して筑紫の観世音寺の造営にあたらせた。(配流)十七日 僧玄昉に与えられていた封戸(ふこ)と財物を没収した。
『元亨釈書』には玄昉が「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。
宮子との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえ、また『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを藤原広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。
もちろん、いずれも後世の公式ではない史料であり、信用する必然性は乏しいが、同様に権勢を揮ったために妬まれ、早くから破戒僧という話が流布していた道鏡と混同された形跡もみられる。
玄昉の栄達が妬まれたこと、さらには彼の没落と死去がこれらの話を作り出したのだが、この急な展開は、さもあらんとも思えるのだ。
04 0587 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首
04 0587 吾形見(わがかたみ)〃管之努波世(みつつしのはせ)荒珠(あらたまの)年之緒長(としのをながく)吾毛将思(われもしのはむ)
04 0588 白鳥能(しらとりの)飛羽山松之(とばやままつの)待乍曽(まちつつぞ)吾戀度(あがこひわたる)此月比乎(このつきごろを)
04 0589 衣手乎(ころもでを)打廻乃里尓(うちみのさとに)有吾乎(あるわれを)不知曽人者(しらにぞひとは)待跡不来家留(まてどこずける)
04 0590 荒玉(あらたまの)年之経去者(としのへぬれば)今師波登(いましはと)勤与吾背子(ゆめよわがせこ)吾名告為莫(わがなのらすな)
04 0591 吾念乎(あがもひを)人尓令知哉(ひとにしるれか)玉匣(たまくしげ)開阿氣津跡(ひらきあけつと)夢西所見(いめにしみゆる)
04 0592 闇夜尓(やみのよに)鳴奈流鶴之(なくなるたづの)外耳(よそのみに) 聞乍可将有(ききつかあらむ)相跡羽奈之尓(あふとはなしに)
04 0593 君尓戀(きみにこひ)痛毛為便無見(いたもすべなみ)楢山之(ならやまの)小松下尓(こまつがもとに)立嘆鴨(たちなげくかも)
04 0594 吾屋戸之(わがやどの)暮陰草乃(ゆふかげくさの)白露之(しらつゆの)消蟹本名(けぬがにもとな)所念鴨(おもほゆるかも)
04 0595 吾命之(わがみこの)将全牟限(またけむかぎり)忘目八(わすれめや)弥日異者(いやひにけには)念益十方(おもひますとも)
04 0596 八百日徃(やほかゆく)濱之沙毛(はまのまなごも)吾戀二(あがこひに)豈不益歟(あにまさらじか)奥嶋守(おきつしまもり)
04 0597 宇都蝉之(うつせみの)人目乎繁見(ひとめをおほみ)石走(いはばしの)間近君尓(まちかききみに)戀度可聞(こひわたるかも)
04 0598 戀尓毛曽(こひにもぞ)人者死為(ひとはしにする)水無瀬河(みなせがは)下従吾痩(したゆあれやす)月日異(つきにひにけに)
04 0599 朝霧之(あさぎりの)欝相見之(おほにあひみし)人故尓(ひとゆゑに)命可死(いのちしぬべく)戀渡鴨(こひわたるかも)
04 0600 伊勢海之(いせのみの)礒毛動尓(いそもとどろに)因流浪(よするなみ)恐人尓(かしこきひとに)戀渡鴨(こひわたるかも)
04 0601 従情毛(こころゆも)吾者不念寸(あはおもはずき)山河毛(やまかはも)隔莫國(へだたらなくに)如是戀常羽(かくこひむとは)
04 0602 暮去者(ゆふされば)物念益(ものもひまさる)見之人乃(みしひとの)言問為形(こととふすがた)面景為而(おもかげにして)
04 0603 念西(おもふにし)死為物尓(しにするものに)有麻世波(あらませば)千遍曽吾者(ちたびぞわれは)死變益(しにかへらまし)
04 0604 劔大刀(つるぎたち)身尓取副常(みにとりそふと)夢見津(いめにみつ)何如之恠曽毛(なにのさがぞも)君尓相為(きみにあふため)
04 0605 天地之(あめつちの)神理(かみのことわり)無者社(なくはこそ)吾念君尓(あがもふきみに)不相死為目(あはずしにせめ)
04 0606 吾毛念(われおもふ)人毛莫忘(ひともなわすれ)多奈和丹(おほなわに)浦吹風之(うらふくかぜの)止時無有(やむときもなし)
04 0607 皆人乎(みなひとを)宿与殿金者(ねよとのかねは)打礼杼(うつなれど)君乎之念者(きみをしもへば)寐不勝鴨(いねかてぬかも)
04 0608 不相念(あひもはぬ)人乎思者(ひとをおもふは)大寺之(おほてらの)餓鬼之後尓(がきのしりへに)額衝如(ぬかつくごとし)
04 0609 従情毛(こころゆも)我者不念寸(われはもはずき)又更(またさらに)吾故郷尓(わがふるさとに)将還来者(かへりこむとは)
04 0610 近有者(ちかきもの)雖不見在乎(みねどありしを)弥遠(いやとほく)君之伊座者(きみがいまさば)有不勝自(ありかつましじ)
04 0610 右二首相別後更来贈[右の二首は、相別れし後に更来来贈れり]
24首とも聞けば、笠郎女がストーカーのように思ってしまうが、この後に、[大伴宿祢家持の和へたる歌二首(万611・12)]が続き、山口女王(やまぐちのおおきみ 生没年未詳)の5首が続く。
04 0613 山口女王贈大伴宿祢家持歌五首[山口女王の大伴宿祢家持に贈れる歌五首(天平四・五年頃)]
04 0613 物念跡(ものもふと)人尓不所見常(ひとにみえじと)奈麻強尓(なましひに)常念弊利(つねにおもへり)在曽金津流(ありぞかねつる)
なまじ【×憖】:いいかげん。なまじっか。
04 0614 不相念(あはずもふ)人乎也本名(ひとをやもとな)白細之(しろたへの)袖漬左右二(そでひつまでに)哭耳四泣裳(ねのみしなくも)
もと‐な: わけもなく。みだりに。
04 0615 吾背子者(わがせこは)不相念跡裳(あはずもひとも)敷細乃(しきたへの)君之枕者(きみがまくらは)夢所見乞(いめにみえこそ)
04 0616 劔大刀(つるぎたち)名惜雲(なのをしけくも)吾者無(われはなし)君尓不相而(きみにあはずて)年之経去礼者(としのへぬれば)
04 0617 従蘆邊(あしべより)満来塩乃(みちくるしほの)弥益荷(いやましに)念歟君之(おもへかきみが)忘金鶴(わすれかねつる)
そして、大神女郎(おおみわのいらつめ、生没年不詳)1首が続いているのだが、大神氏は大物主神(大三輪神)の子大田田根子を始祖とし、大神神社(奈良県桜井市三輪)の祭祀を司っているとしたら、この山口女王の5首にも大きな意味があるのかもしれない。
04 0618 大神女郎贈大伴宿祢家持歌一首[大神女郎の大伴宿祢家持に贈れる歌一首(天平四・五年頃)]
04 0618 狭夜中尓(さよなかに)友喚千鳥(ともよぶちどり)物念跡(ものもふと)和備居時二(わびをるときに)鳴乍本名(なきつつもとな)
十二月十五日 恭仁宮の兵庫に保管しておいた兵器を平城京に運んだ。
17 3922 天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 中宮西院 供奉掃雪 於是降詔 大臣參議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴 勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 左大臣橘宿祢應詔歌一首[十八年(746)の正月に、白雪多に降りて、地に積むこと数寸なりき。 時に、左大臣橘卿、大納言藤原豊成朝臣と諸王臣等とを率て、太上天皇の御在所[中宮の西院]に参入りて、掃雪に供へ奉りき。 ここに詔を降して、大臣参議と諸王とは、すなはち酒を賜ひて肆宴したまふ。 勅して曰はく「汝諸王卿等、聊かにこの雪を賦して各々その歌を奏せ」とのりたまふ。 左大臣橘宿祢應詔歌一首]
17 3922 布流由吉乃(ふるゆきの)之路髪麻泥尓(しろかみまでに)大皇尓(おほきみに)都可倍麻都礼婆(つかへまつれば)貴久母安流香(たかくもあるか)
17 3923 紀朝臣清人應詔歌一首
17 3923 天下(あめのした)須泥尓於保比氐(すでにおほひて)布流雪乃(ふるゆきの)比加里乎見礼婆(ひかりをみれば)多敷刀久母安流香(とおくもあるか)
『多』の字には少なくとも、多(タ)・ 多い(おおい)の2種の読み方が存在する。 『敷』の字には少なくとも、敷(フ)・ 敷く(しく)の2種の読み方が存在する。 多(タ)+敷(フ)=(タフ)→(と)
17 3924 紀朝臣男梶應詔歌一首
17 3924 山乃可比(やまのかひ)曽許登母見延受(そこともみえず)乎登都日毛(をとつひも)昨日毛今日毛(きのふもけふも)由吉能布礼〃婆(ゆきのふれれば)
17 3925 葛井連諸會應詔歌一首
17 3925 新(あらたしき)年乃婆自米尓(としのはじめに)豊乃登之(とよのとし)思流須登奈良思(しるすとならし)雪能敷礼流波(ゆきのふれるは)
17 3926 大伴宿祢家持應詔歌一首
17 3926 大宮能(おほみやの)宇知尓毛刀尓毛(うちにもとにも)比賀流麻泥(ひかるまで)零流白雪(ふれるしらゆき)見礼杼安可奴香聞(みれどあかなき )
『奴』の字には少なくとも、奴ヌ・ 奴ド・ 奴やつ・ 奴やっこの4種の読み方が存在する。 しかし、倭と奴の発音は、藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社)によると、 倭 - 上古音 uar 中古音 ua 近古音 uo 現代音 uə 奴 - 上古音 nag 中古音 no(ndo) 近古音 nu 現代音 nuとあり、万葉仮名は、奴国(なこく、なのくに)が通じていたのではないだろか?
『香』の字には少なくとも、香(コウ)・ 香(キョウ)・ 香しい(かんばしい)・ 香る(かおる)・ 香り(かおり)・ 香(か)の6種の読み方が存在する。
『聞』の字には少なくとも、聞(モン)・ 聞(ブン)・ 聞こえる(きこえる)・ 聞く(きく)の4種の読み方が存在する。
香(キョウ)+聞く(きく)=(き)
17 3926 藤原豊成朝臣 巨勢奈弖麻呂朝臣 大伴牛養宿祢 藤原仲麻呂朝臣 三原王 智奴王 船王 邑知王 小田王 林王 穂積朝臣老 小田朝臣諸人 小野朝臣綱手 高橋朝臣國足 太朝臣徳太理 高丘連河内 秦忌寸朝元 楢原造東人 右件王卿等 應詔作歌依次奏之 登時不記其歌漏失 但秦忌寸朝元者左大臣橘卿謔云 靡堪賦歌以麝贖之因此黙已也[右の件の王卿等、詔に応へて歌を作り、次に依りて奏しき。登時その歌を記さずして漏失せり。 ただ秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔れて云はく「歌を賦するに堪へずは麝(じゃこう)を以ちて贖へ」といへり。これに因りて黙已をりき]
04 0675 中臣女郎贈大伴宿祢家持歌五首[中臣女郎の大伴宿祢家持に贈れる歌五首]
04 0675 娘子部四(をみなへし)咲澤二生流(さきさはにふる)花勝見(はなかつみ)都毛不知(かつてもしらぬ)戀裳摺可聞(こひもするかも)
04 0676 海底(わたのそこ)奥乎深目手(おきをふかめて)吾念有(あがもへる)君二波将相(きみにはあはむ)年者経十方(としはへぬとも)
04 0677 春日山(かすがやま)朝居雲乃(あさゐるくもの)欝(おほほしく)不知人尓毛(しらぬひとにも)戀物香聞(こふるものかも)
04 0678 直相而(ただあひて)見而者耳社(みてばのみこそ)霊剋(たまきはる)命向(いのちにむかふ)吾戀止眼(あがこひやまめ)
04 0679 不欲常云者(ふよとふも)将強哉吾背(しひるやわがせ)菅根之(すがのねの)念乱而(おもひみだれて)戀管母将有(こふかもあらむ)
ふ‐よ【不予】: 心中おもしろくなく思うこと。不快。
ここでも、中臣女郎(なかとみのいらつめ 生没年未詳)が5首載せているが、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した中臣氏であれば、歌の内容はともあれ、神事を奉ったのかもしれない。
三月七日 天皇は次のように勅した。
朕は天下に君主として臨み、万民のことに心を痛めてきたが、いまだ太平の世を実現できず、自分の特が足りないのではないかと次第に恥じる気持ちになっていたが、祥瑞が顕れる。
天平18年(746年) 3月10日:家持は宮内少輔を授与されたが、三月十五日 天皇は次のように勅をだされた。
三宝(仏教)を交流させることは国家の繁栄のもとであり、万民をいつくしみ育てるのは、昔の天子の残された優れた手本である。これによって皇室の基礎は長く固まり、天皇の子孫はとこしえにこれを継承し、天下は安寧に、人民に利益を蒙らせるため、仁王般若経を講説させる 。
六月十八日 その玄昉が死んだ。玄昉は俗性を阿刀氏といい、霊亀二年に入唐して学問にはげんだ。
唐の天子(玄宗)は玄昉を尊んで、三品(ぽん)に准じてむらさきの今朝を着用させた。天平七年、遣唐大使の多治比真人広成に随って帰国した。帰国に際して仏教の軽天及びその注釈書五千余巻と各所の仏像をもたらした。日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで層状に任じ、内道場(宮廷内で仏を礼拝修行するところ)に自由に出入りさせた。これよりのち、天皇の派手な寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行いに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに到って左遷された場所で死んだのである。世間では、藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。
広嗣の霊に殺されたかどうかはわからないけれど、寵愛されていた玄昉が、左遷されたのには、聖武の身内(光明皇后・阿倍内親王)に対し、不敬罪にあたるようなことが起こったのかもしれない。