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紀郎女幻想

紀 小鹿(き の おしか、生没年未詳)は、紀 女郎(き の いらつめ)ともいい、安貴王(698?-?)の妻であった。

 

その安貴王が、養老2年(718年)2月から3月にかけての元正天皇の美濃国行幸に同行し、伊勢国を通った際の万葉歌がある。

 

03 0306 幸伊勢國之時安貴王作歌一首[伊勢国に幸しし時に、安貴王の作れる歌一首]

03 0306 伊勢海之(いせのみの)奥津白浪(おきつしらなみ)花尓欲得(はなにもが)褁而妹之(つつみていもが)家褁為(いへづとにせむ)

 

終助詞「もが」:「~があればなあ」「~であればなあ」となります。

いえ‐づと〔いへ‐〕【家×苞】:わが家に持ち帰るみやげもの。

 

安貴王の官歴は、『続日本紀』によると、神亀6年(729年) 3月4日:従五位下(直叙)と記されているのが最初である。

 

紀小鹿は、市原王(719?-?)を儲けていたが、安貴王は元正天皇の采女であった因幡(鳥取県)八上采女と通じてしまう。

 

養老年間末(721年-724年頃)に臣下と天皇に貢進された采女との密通により、二人は「不敬之罪」に問われ、因幡八上采女は本郷であった因幡国へ戻された。

安貴王に対する処罰内容は明らかではないが、官位剥奪・自宅謹慎程度と想定されており、伊勢を含む美濃行幸の折は官位があったのであろう。

 

04 0534 安貴王歌一首 并短歌

04 0534 遠嬬(とほづまの)此間不在者(ここしあらねば)玉桙之(たまほこの)道乎多遠見(みちをたどほみ)思空(おもふそら)安莫國(やすけくなくに)嘆虚(なげくそら)不安物乎(ふあんなものを)水空徃(みそらゆく)雲尓毛欲成(くもにもなるよ)高飛(たかくとぶ)鳥尓毛欲成(とりにもなるよ)明日去而(あすゆきて)於妹言問(いもよことどふ)為吾(あがために)妹毛事無(いももことなく)為妹(いもがため)吾毛事無久(われもことなく)今裳見如(いましみし)副而毛欲得(たぐひてもゑよ)[旋頭歌]

 

『此』の字には少なくとも、此(シ)・ 此(これ)・ 此(ここ)・ 此の(この)・ 此く(かく)の5種の読み方が存在する。

『間』の字には少なくとも、間(ゲツ)・ 間(ケン)・ 間(カン)・ 間(カツ)・ 間(ま)・ 間かに(ひそかに)・ 間(はざま)・ 間か(しずか)・ 間う(うかがう)・ 間(あいだ)・ 間(あい)の11種の読み方が存在する。

やすけ-く 【安けく】:心が安らかであること。

なく‐に:。…ないことだなあ。

欲成→欲レ成→(なるよ)

 

04 0535 反歌

04 0535 敷細乃(しきたへの)手枕不纒(たまくらまかず)間置而(まをおきて)年曽経来(としぞへにける)不相念者(あはなくもへば)

 

04 0535 右安貴王娶因幡八上采女 係念極甚愛情尤盛 於時勅断不敬之罪退却本郷焉 于是王意悼怛聊作此歌也[右は安貴王が因幡の八上采女と契りを結び、思慕の念強く、愛する気持が盛んであった。ところが勅命によって不敬罪が定まり采女は故郷へ追放になった。そこで王が悲しみのあまり、この歌を作った]とあるが、元のさやに納まったところを見ると、妹は紀郎女のことではないだろうか? 

神亀6(729)年3月4日、天皇は大極殿に出御して、正四位上の石川朝臣石足・多治比真人県守・藤原朝臣麻呂にそれぞれ従三位を、従四位上の鈴鹿王に正四位上を、従四位上の長田王・従四位下の葛城王(橘諸兄)にそれぞれ正四位下を、従四位下の智努王・三原王にそれぞれ従四位上を、正五位下の桜井王に正五位上を、無位の阿紀王(安貴王)に従五位下を・・・と言うわけで、安貴王は、三世王の蔭位(おんい)により無位から従五位下に叙爵されたんよ。

 

08 1555 安貴王歌一首

08 1555 秋立而(あきたちて)幾日毛不有者(いかもあらねば)此宿流(このやどる)朝開之風者(あさけのかぜは)手本寒母(たもとさむしも)

 

なお、お気づきであろうが、この年の二月には、あの長屋王の変が起こっていたが、無冠になった安貴王が復活した時でもある。

八月五日、天皇が大極殿に出御して、次のように勅した(宣命体)

・・・言葉を改めて仰せられるのには、この大瑞の物は、天におられる神と、地におられる神が、わが政治を共に良いとし、祝福されることによって、現れてきた貴い瑞であるから、治世の年号を改正しょうと思う。

神亀六年を改めて天平元年(729)とし、天下に大赦の令を下し、百官の内の主典(さかん)以上の人々の位階を,一回上げることをはじめとして、一つ二つの慶賀の大命を恵み行うと押せられる天皇のお言葉をみな承れと申し告げる。

市原王は、天平11年(739年)より写経司舎人を務め、天平15年(743年)無位から従五位下に叙せられる。

聖武朝では、写一切経所長官を経て玄蕃頭及び備中守に任ぜられるが、天平18年(746年)以降東大寺盧舎那仏像の造営が本格化すると、金光明寺造仏長官・造東大寺司知事を歴任するなど、大仏造営の監督者を務めた。

聖武朝末の天平感宝元年(749年)、聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に叙せられているんよ。

 

03 0412 市原王歌一首

03 0412 伊奈太吉尓(いなだきに)伎須賣流玉者(きすめるたまは)無二(ふたつなし)此方彼方毛(かにもかくにも)君之随意(きみがしたがひ)

04 0662 市原王歌一首

04 0662 網兒之山(あごのやま)五百重隠有(いほへかくせる)佐堤乃埼(さでのさき)左手蝿師子之(さではへしこが)夢二四所見(いめにしみゆる)

06 0988 市原王宴禱父安貴王歌一首[市原王の、宴に父の安貴王を祷ける歌一首]

06 0988 春草者(はるくさは)後波落易(のちはうつろふ)巖成(いはほなす)常磐尓座(ときはにいませ)貴吾君(たふときあがきみ)

06 1007 市原王悲獨子歌一首[市原王の、独子を悲しびたる歌一首]

06 1007 言不問(こととはぬ)木尚妹與兄(きすらいもとせ)有云乎(ありいふを)直獨子尓(ただひとりごに)有之苦者(あるがくるしし)

 

與:[音]ヨ(呉・漢)[訓]あた-える、あずか-る、くみ-する、ともに 

 

08 1546 市原王七夕歌一首

08 1546 妹許登(いもがりと)吾去道乃(わがゆくみちの)河有者(かはあれば)附目緘結跡(つくめむすぶと)夜更降家類(よぞふけにける)

 

いも‐がり【▽妹▽許】:妻または恋しい女性のいる所へ。

 

08 1551 市原王歌一首

08 1551 待時而(ときまちて)落鍾礼能(おちゆくかりの)雨零收(あめふりし)開朝香(あけむあしたか)山之将黄變(やまのおうへむ )

 

『鍾』の字には少なくとも、鍾(ショウ)・ 鍾(シュ)・ 鍾(さかずき)・ 鍾める(あつめる)の4種の読み方が存在する。

『零』の字には少なくとも、零(レン)・ 零(レイ)・ 零(リョウ)・ 零る(ふる)・ 零れる(こぼれる)・ 零ちる(おちる)・ 零り(あまり)の7種の読み方が存在する。

 

20 4500 宇梅能波奈(うめのはな)香乎加具波之美(かをかぐはしみ)等保家杼母(とほけども)己許呂母之努尓(こころもしのに)伎美乎之曽於毛布(きみこそおもふ)

 

『乎』の字には少なくとも、乎(ゴ)・ 乎(コ)・ 乎(オ)・ 乎(を)・ 乎(や)・ 乎(かな)・ 乎(か)の7種の読み方が存在する。

『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。

乎(コ)+之(これ)=(こ)

20 4500 右一首治部大輔市原王

ところで我々は、すでに市原王のことは、【安積親王】の項で、【06 1042 天平十六年正月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首】で、市原王(万1042)と大伴家持(万1043)のことが紹介されているのを知っているのだ。

04 0776 紀女郎報贈家持歌一首

04 0776 事出之者(ことだしは)誰言尓有鹿(たことにあるか)小山田之(をやまだの)苗代水乃(なはしろみづの)中与杼尓四手(なかよどにして)

 

なか‐よどみ【中淀】: 水の流れが中ほどできわめてゆっくりになること。

 

04 0777 大伴宿祢家持更贈紀女郎歌五首[大伴宿祢家持のまた紀女郎に贈れる歌五首]

04 0777 吾妹子之(わぎもこが)屋戸乃籬乎(やどのまがきを)見尓徃者(みにゆかば)盖従門(けだしかどより)将返却可聞(かへしてむかも)

 

て◦む: 推量を強調して表す。きっと…だろう。…にちがいない。

かも: 感動・詠嘆を表す。…だなあ。…ことよ。

 

04 0778 打妙尓(うつたへに)前垣乃酢堅(まがきのすがた)欲見(みまくほり)将行常云哉(ゆかむといへや)君乎見尓許曽(きみをみにこそ)

04 0779 板盖之(いたふきの)黒木乃屋根者(くろきのやねは)山近之(やまちかし)明日取而(あくるひとりて)持将参来(もちてまゐこむ)

04 0780 黒樹取(くろきとり)草毛苅乍(かやもかりつつ)仕目利(つかへめど)勤和氣登(いそしきわけと)将譽十方不有(ほむともあらず)一云 仕登母(つかふとも

      

いそ・し【▽勤し】: 慎み励んで奉仕するさま。勤勉である。

ほ・む【褒む/▽誉む】:「ほめる」の文語形。

 

04 0781 野干玉能(ぬばたまの)昨夜者令還(きぞはかへしつ)今夜左倍(こよひさへ)吾乎還莫(われをかへすな)路之長手呼(みちのながてを)

 

04 0782 紀女郎褁物贈友歌一首[紀女郎の裹める物を友に贈れる歌一首]女郎名曰小鹿也〔女郎は、名を小鹿といへり]

04 0782 風高(かぜたかく)邊者雖吹(へにはふけども)為妹(いもがため)袖左倍所沾而(そでさへぬれて)苅流玉藻焉(かれるたまもぞ)

この歌に限れば、まるで家の補修を援助しているかのようで、女性を囲ったパトロンのように思えしまう。

08 1452 紀女郎歌一首 名曰小鹿也

08 1452 闇夜有者(やみのよも)宇倍毛不来座(うべもきまさじ)梅花(うめのはな)開月夜尓(さけるつくよに)伊而麻左自常屋(いでまさじとや)

 

うべも/宜も:当然、なるほど、ほんとうに。

 

08 1460 紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首

08 1460 戯奴之為(わけがため)變云和氣(へんいやわらげ)吾手母須麻尓(あがてもすまに)春野尓(はるののに)抜流茅花曽(ぬけるつばなぞ)御食而肥座(めしてこえませ)[旋頭歌?]

 

わけ【戯=奴】 : 一人称の人代名詞。自分を謙遜していう語。わたくしめ。

 

08 1461 晝者咲(ひるはさき)夜者戀宿(よるはこひぬる)合歡木花(ねぶのはな)君耳将見哉(きみのみみめや)和氣佐倍尓見代(わけさへにみよ)

08 1461 右折攀合歡花并茅花贈也[右は、合歓の花と茅花とを折りて攀ぢて贈れるなり]

 

08 1462 大伴家持贈和歌二首

08 1462 吾君尓(あがきみに)戯奴者戀良思(わけはこふらし)給有(たまわるも)茅花乎雖喫(つばなをはめど)弥痩尓夜須(いややせにやす)

 

とうばり〔たうばり〕【▽賜り】:特別の恩顧によって、位階・官職・禄などをいただくこと。また、いただくもの。

 

08 1463 吾妹子之(わぎもこが)形見乃合歡木者(かたみのねぶは)花耳尓(はなのみに)咲而盖(さきてけだしく)實尓不成鴨(みにならじかも)

 

けだし‐く【▽蓋しく】:おそらく。ひょっとして。

08 1648 紀少鹿女郎梅歌一首

08 1648 十二月尓者(しはすには)沫雪零跡(あわゆきふると)不知可毛(しらねかも)梅花開(うめのはなさく)含不有而(ふふめらずして)

08 1649 大伴宿祢家持雪梅歌一首

08 1649 今日零之(けふふりし)雪尓競而(ゆきにきほひて)我屋前之(わがやどの)冬木梅者(ふゆきのうめは)花開二家里(はなさきにけり)

08 1661 紀少鹿女郎歌一首

08 1661 久方乃(ひさかたの)月夜乎清美(つくよをきよみ)梅花(うめのはな)心開而(こころひらけて)吾念有公(あがもへるきみ)

紀郎女は、天平年間(739年 - 749年)ごろから大伴家持とたびたび歌を交わしているのだが、もちろんこれらは不倫ではなく、歌友としてであろうが、安貴王と家持の関係が見えない。

ところが【秋雑】には、二人の歌が並んでいる。

 

08 1554 大伴家持和歌一首

08 1554 皇之(おほきみの)御笠乃山能(みかさのやまの)秋黄葉(もみちばは)今日之鍾礼尓(けふのしぐれに)散香過奈牟(ちりかすぎなむ)

08 1555 安貴王歌一首

08 1555 秋立而(あきたちて)幾日毛不有者(いかもあらずも)此宿流(ここにぬる)朝開之風者(あさけのかぜは)手本寒母(たもとさむしも)

 

果たしてこの二首で、二人の関係を読み取ることができるであろうか?