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人麻呂羈旅

03 0249 柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首

03 0249 三津埼(みつのさき )浪矣恐(なみをかしこみ)隠江乃(こもりえの)舟公(ふねはおほやけ)宣奴嶋尓(ぬしまにのべる)

 

みつ【御津・三津】:難波の御津、墨江(住吉)の三津、大伴の御津などとも呼ばれた。官船の出入を尊んでいう。御津の浦。御津の埼。御津の浜。

(ぬしま)沼島:「国生み神話」に出てくるオノゴロ島は沼島だという説がある。

 

03 0250 珠藻苅(たまもかる)敏馬乎過(みぬめをすぎて)夏草之(なつくさの)野嶋之埼尓(のしまのさきに)舟近著奴(ふねちかづきぬ)

一本云 處女乎過而(をとめをすぎて)夏草乃(なつくさの)野嶋我埼尓(のしまがさきに)伊保里為吾等者 (いほりつくらも)

 

敏馬(みぬめ):神戸市東部、灘(なだ)区の西郷(さいごう)川河口付近の古地名。

のじま【野島】=が[=の]崎(さき):兵庫県の淡路島にある野島の岬。和歌の名所。

 

03 0251 粟路之(あはぢゆく)野嶋之前乃(のしまがさきの)濱風尓(はまかぜに)妹之結(いものむすびし)紐吹返(ひもふきかへす)

 

あはぢ【淡路】:〔現代かな遣い〕アワジ《地名》旧国名の一つ。南海道六か国の一つ。

 

03 0252 荒栲(あらたへの)藤江之浦尓(ふぢえのうらに)鈴寸釣(すずきつる)泉郎跡香将見(あまとかみらむ)旅去吾乎(たびゆくわれを)

一本云 白栲乃(しろたへの)藤江能浦尓(ふぢえのうらに)伊射利為流 (いざりする)(あまとかみらむ たびゆくわれを)

 

ふじえ‐の‐うら ふぢえ‥【藤江浦】:兵庫県明石市藤江の海岸。

 

03 0253 稲日野毛(いなびのも)去過勝尓(ゆきすぎかてに)思有者(おもひもし)心戀敷(こころこほしき)可古能嶋所見(かこのしまとみ)一云(かこの)湖見 (うみみゆ)

 

いなび‐の【稲日野】:「印南野 (いなみの) 」に同じ。[歌枕] 兵庫県中南部、旧加古郡一帯の台地。東は明石(あかし)川、西は加古川、北は美嚢(みの)川で境し、南は播磨灘(はりまなだ)を望む、東西20キロメートル、南北10キロメートルの地域であり、畿内(きない)の西の玄関口である。

かこ‐の‐しま【可古の島】:兵庫県の加古川河口付近にあったという島。[歌枕]

か-こ 【水手・水夫】:船乗り。水夫。「か」は「かぢ(楫)」の古形、「こ」は人の意

 

03 0254 留火之(とまるひの)明大門尓(あかしおほとに)入日哉(いりびかな)榜将別(こぎわかれなむ)家當不見(いへまさにみず) 

 

(あかし)明石:今の兵庫県明石市一帯。海岸は「明石の浦」と呼ばれ、古来須磨(すま)と並んで名勝の地として有名。

 

03 0255 天離(あまさかる)夷之長道従(ひなのながちゆ)戀来者(こひくるも)自明門(あかしのとより)倭嶋所見(やまとしまとみ)一本云 家門當見由(いへまさにみゆ)

 

あかし【明石】 の 門(と):明石海峡のこと。

 

03 0256 飼飯海乃(けひのみの)庭好有之(にはよくあらし)苅薦乃(かりこもの)乱出所見(みだれいづとみ)海人釣船(あまのつりぶね)

一本云 武庫乃海能(むこのみの)尓波好有之(にはよくあらし)伊射里為流(いざりする)海部乃釣船(あまのつりぶね)浪上従所見(なみへよりみゆ)

 

けひ【飼飯】:兵庫県南あわじ市松帆慶野付近の古称。古くから景勝地として知られ、五色浜一帯は瀬戸内海国立公園の一部。

武庫の浦:歌枕で、今の兵庫県の西宮市と尼崎市の境を流れる武庫川河口付近の海岸一帯。

 

柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首】は、瀬戸内海を歌ったものであるが、持統天皇が譲位(697年)した時点で宮廷歌人を辞し、人麻呂(37歳頃)は枕詞の旅に出たのかもしれないが、その行先が、近江京であり、大宰府だけだとしたら、『万葉集』のプロジェクトが誰に引き継がれようと、人麻呂の【臨死】まで追いかけなければ、【万葉集Ⅰ期】は終わらないであろう。

03 0264 柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首

03 0264 物乃部能(もののふの)八十氏河乃(やそうぢかはの)阿白木尓(あじろきに)不知代経浪乃(いさよふなみの)去邊白不母(ゆくへしらずも)

 

この歌は、大友皇子(648-672)の挽歌であることに間違いないよう思うが、面識があったかどうかはわからないけれど、人麻呂(660-724)が天武に仕えたのは壬申の乱以後だとおもわれるからだ。

なお連番ではないが、有名な次の一首も「ながなけば いにしへおもゆ」のように一気に当時に戻るのではなく、「ながなくも むかしとおもふ」で、千鳥の風景は今と変わらないけれど当時を偲んでいるようにも思える。

 

03 0266 柿本朝臣人麻呂歌一首

03 0266 淡海乃海(あふみのみ)夕浪千鳥(ゆふなみちどり)汝鳴者(ながなくも)情毛思努尓(

こころもしのに)古所念(むかしとおもふ)

 

おうみ‐の‐うみ〔あふみ‐〕【近江の海/淡海の海】:琵琶湖の古称。おうみのみ。

 

それにしても、この淡海に心を寄せたのは何故であろう、詮に、挽歌【吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌217】は、「近江(おうみ)朝廷につかえ,ゆるされない結婚をしたため罰せられ,吉備国津郡出身の采女が自殺したとされる」伝説少女を何故歌ったのであろう?

因みに吉備は、大和・筑紫・出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)の一角でもあった。

一方天智天皇の時代には、白村江での敗戦(663年)を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れ、防衛網の再構築および強化に着手しており、百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や、瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、吉備など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。

さらに、667年に天智天皇は、都を難波から内陸の近江京(大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成したという経緯があり、その伝説の少女が、そのこととどの様に関係していたのかはわからないが・・・。

 

03 0303 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首

03 0303 名細寸(なぐはしき)稲見乃海之(いなみのうみの)奥津浪(おきつなみ)千重尓隠奴(ちへにかくりぬ)山跡嶋根者(やまとしまねも)

 

『細』の字には少なくとも、細(セイ)・ 細(サイ)・ 細る(ほそる)・ 細い(ほそい)・ 細やか(ささやか)・ 細かい(こまかい)・ 細か(こまか)・ 細しい(くわしい)の8種の読み方が存在する。

『寸』の字には少なくとも、寸(ソン)・ 寸(スン)・ 寸か(わずか)・ 寸(き)の4種の読み方が存在する。

なぐはし:名が美しい。よい名である。名高い。「なくはし」とも。

(いなみの)印南野:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。

 

つまり、大和を後にし、瀬戸内海を航海して大宰府に向かっているのだが、おそらく人麻呂は、軍人でも官人でもないのであるから、むしろ『古事記』『日本書紀』をたどるべく、歴史書『魏志倭人伝』を追いかけていたのかもしれない。

 

03 0304 大王之(おほきみの)遠乃朝庭跡(とほのみかどと)蟻通(ありがよふ)嶋門乎見者(しまとをみるも)神代之所念(かむよしおもふ)

    

『遠』の字には少なくとも、遠(オン)・ 遠(エン)・ 遠い(とおい)・ 遠(おち)の4種の読み方が存在する。

『乃』の字には少なくとも、乃(ノ)・ 乃(ナイ)・ 乃(ダイ)・ 乃(アイ)・ 乃(の)・ 乃(なんじ)・ 乃ち(すなわち)の7種の読み方が存在する。

『朝』の字には少なくとも、朝(チョウ)・ 朝(チュ)・ 朝(あした)・ 朝(あさ)の4種の読み方が存在する。

御門参・朝参(読み)みかどまいり:朝廷に参ること。参朝。参内(さんだい)。

みかど‐おがみ 【御門拝・朝拝】:元日に、天皇が大極殿で群臣たちから年賀を受ける儀式。『庭』の字には少なくとも、庭(テイ)・ 庭(にわ)の2種の読み方が存在するが、「朝庭」は「みかど」と訓む。

とほ-の-みかど 【遠の朝庭】:朝廷の命を受け、都から遠く離れた所で政務をとる役所。

『跡』の字には少なくとも、跡(セキ)・ 跡(シャク)・ 跡(あと)の3種の読み方が存在するが、この万葉仮名【跡】の訓仮名が(と)である。

あり-がよ・ふ 【有り通ふ】:いつも通う。通い続ける。

しま-と 【島門】:島と島との間や島と陸地との間の狭い海峡。

『神』の字には少なくとも、神(ジン)・ 神(シン)・ 神(たましい)・ 神(こう)・ 神(かん)・ 神(かみ)の6種の読み方が存在する。

『代』の字には少なくとも、代(ダイ)・ 代(タイ)・ 代(よ)・ 代(しろ)・ 代わる(かわる)・ 代える(かえる)の6種の読み方が存在する。

『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。

『所』の字には少なくとも、所(ソ)・ 所(ショ)・ 所(ところ)の3種の読み方が存在する。 之(シ)+所(ショ)=(し)

かみ‐よ(神代)し→【神吉】:神事を行ったりするのに吉とされる日。

『念』の字には少なくとも、念(ネン)・ 念(デン)・ 念う(おもう)の3種の読み方が存在する。

 

【大宰府】すなわち、九州の壱岐(いき)・対馬(つしま)をたどったかもしれないが、彼の残された人生はまだ30年近くもあったが、その最後の地としたのが出雲なのである。