哀傷長逝之弟(書持)Ⅱ
17 3957 哀傷長逝之弟歌一首[長逝せる弟を哀傷びたる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕
17 3957 安麻射加流(あまざかる)比奈乎佐米尓等(ひなをさめにと)大王能(おほきみの)麻氣乃麻尓末尓(まけのまにまに)出而許之(いでてこし)和礼乎於久流登(われをおくると)青丹余之(あをによし)奈良夜麻須疑氐(ならやますぎて)泉河(いづみがは)伎欲吉可波良尓(きよきかはらに)馬駐(うまとどめ)和可礼之時尓(わかれしときに)好去而(まさきくて)安礼可敝里許牟(あれかへりこむ)平久(たひらけく)伊波比氐待登(いはひてまてと)可多良比氐(かたらひて)許之比乃伎波美(こしひのきはみ)多麻保許能(たまほこの)道乎多騰保美(みちをたどほみ)山河能(やまかはの)敝奈里氐安礼婆(へなりてあれば)悲之家口(こひしけく)氣奈我枳物能乎(けながきものを)見麻久保里(みまくほり)念間尓(おもふあひだに)多麻豆左能(たまづさの)使乃家礼婆(つかひのければ)宇礼之美登(うれしみと)安我麻知刀敷尓(あがまちとふに)於餘豆礼能(およづれの)多波許登等可毛(たはこととかも)波之伎余思(はしきよし)奈弟乃美許等(なおとのみこと)奈尓之加母(なにしかも)時之波安良牟乎(としはあらむを)波太須酒吉(はだすすき)穂出秋乃(ほいづるあきの)芽子花(はぎのはな)尓保敝流屋戸乎(にほへるやどを)言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭故謂之花薫庭也〔言ふこころは、この人、ひととなり花草花樹を好愛でて、多く寝院の庭に植う。故に花薫へる庭といへり〕
安佐尓波尓(あさにはに)泥多知奈良之(いでたちならし)暮庭尓(ゆふにはに)敷美多比良氣受(ふみたひらげず)佐保能宇知乃(さほのちの)里乎徃過(さとをゆきすぎ)安之比紀乃(あしひきの)山能許奴礼尓(やまのこぬれに)白雲尓(しらくもに)多知多奈妣久等(たちたなびくと)安礼尓都氣都流(あれにつげつる)佐保山火葬故謂之〔佐保山に火葬せり。故に、佐保の内の里を行き過ぎといへり〕
佐保乃宇知乃(さほのちの)佐刀乎由吉須疑(さとをゆきすぎ)
『時』の字には少なくとも、時(ジ)・ 時(シ)・ 時(と)の3種の読み方が存在する。 『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『宇』の字には少なくとも、宇(ウ)・ 宇(のき)・ 宇(いえ)の3種の読み方が存在する。
17 3958 麻佐吉久登(まさきくと)伊比氐之物能乎(いひてしものを)白雲尓(しらくもに)多知多奈妣久登(たちたなびくと)伎氣婆可奈思物(きけばかなしも)
17 3959 可加良牟等(かからむと)可祢弖思理世婆(かねてしりせば)古之能宇美乃(こしのみの)安里蘇乃奈美母(ありそのなみも)見世麻之物能乎(みせましものを)
『能』の字には少なくとも、能(ノウ)・ 能(ナイ)・ 能(ドウ)・ 能(ダイ)・ 能(タイ)・ 能(グ)・ 能(キュウ)・ 能くする(よくする)・ 能く(よく)・ 能き(はたらき)・ 能う(あたう)の11種の読み方が存在する。
『宇』の字には少なくとも、宇(ウ)・ 宇(のき)・ 宇(いえ)の3種の読み方が存在する。 能(ノウ)+宇(のき)=(の)
17 3959 右天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿祢家持遥聞弟喪感傷作之也[右は、九月二十五日に、越中守大伴宿祢家持遥かに弟の喪を聞き、感傷しびて作れり]
17 3960 相歡歌二首[相歓びたる歌二首] 越中守大伴宿祢家持作
17 3960 庭尓敷流(にはにふる)雪波知敝之久(ゆきはちへしく)思加乃未尓(しかのみに)於母比氐伎美乎(おもひてきみを)安我麻多奈久尓(あがまたなくに)
17 3961 白浪乃(しらなみの)余須流伊蘇未乎(よするいそみを)榜船乃(こぐふねの)可治登流間奈久(かぢとるまなく)於母保要之伎美(おもほえしきみ)
17 3961 右以天平十八年八月掾大伴宿祢池主附大帳使赴向京師而同年十一月還到本任 仍設詩酒之宴彈絲飲樂 是日也白雪忽降積地尺餘 此時也復漁夫之船入海浮瀾 爰守大伴宿祢家持寄情二眺聊裁所心[右は、天平十八年八月を以ちて、掾大伴宿祢池主、大帳使に付きて、京師に赴向きて、同じ年十一月に、本任に還り至れり。 よりて詩酒の宴を設け、弾糸飲楽す。この日、白雪忽ちに降りて、地に積むこと尺余なり。 この時に、漁夫の船、海に入り瀾に浮かぶ。ここに守大伴宿祢家持、情を二つ眺めに寄せて、聊かに所心を裁れり]
大伴 書持(おおとも の ふみもち)は、史書などには事績が見られず、官位も不明であるが、万葉集に十二首の歌を残している。
十月六日 天皇・太上天皇(元正)・皇后(光明)が金鐘寺(こんしゅじ:東大寺の前身)に行幸し廬舎那仏(鋳造前の模型)に燃燈(ねんとう)供養を行った。
仏像の前後に燈火一万五千七百余基が置かれ、夜の一更(午後七時から九時)に到るころに数前任の僧侶に脂燭(しそく:松の木を細く割き油を塗って火をともす照明具)を捧げさせ、讃歎して供養し、仏の周囲を三度回らせた。三更(午後十一時から午前一時)に到って天皇らは宮に還幸した。
17 3962 忽沈枉疾殆臨泉路 仍作歌詞以申悲緒一首[忽ちに枉疾に沈み、殆に泉路に臨めり。よりて歌詞を作りて、悲緒を申べたる一首]并短歌<并せて短歌>
17 3962 大王能(おほきみの)麻氣能麻尓〃〃(まけのまにまに)大夫之(ますらをの)情布里於許之(こころふりおこ)安思比奇能(あしひきの)山坂古延弖(やまさかこえて)安麻射加流 (あまざかる)比奈尓久太理伎(ひなにくだりき)伊伎太尓毛(いきだにも)伊麻太夜須米受(いまだやすめず)年月毛(としつきも)伊久良母阿良奴尓(いくらもあらな)宇都世美能(うつせみの)代人奈礼婆(よのひとなれば)宇知奈妣吉(うちなびき)等許尓許伊布之(とこにこいふし)伊多家苦之(いたけくし)日異益(ひにけにまさる)多良知祢乃(たらちねの)波〃能美許等乃(ははのみことの)大船乃(おほぶねの)由久良〃〃〃尓(ゆくらゆくらに)思多呉非尓(したごひに)伊都可聞許武等(いつかもこむと )麻多須良牟(またすらむ)情左夫之苦(こころさぶしく)波之吉与志(はしきよし)都麻能美許登母(つまのみことも)安氣久礼婆(あけくれば)門尓餘里多知(かどによりたち)己呂母泥乎(ころもでを )遠理加敝之都追(をりかへしつつ)由布佐礼婆(ゆふされば)登許宇知波良比(とこうちはらひ)奴婆多麻能(ぬばたまの)黒髪之吉氐(くろかみしきて)伊都之加登(いつしかと)奈氣可須良牟曽(なげかすらむぞ)伊母毛勢母(いももせも)和可伎兒等毛波(わかきこどもは)乎知許知尓(をちこちに)佐和吉奈久良牟(さわきなくらむ)多麻保己能(たまほこの)美知乎多騰保弥(みちをたどほみ)間使毛(まづかひも)夜流余之母奈之(やるよしもなし)於母保之伎(おもほしき)許登都氐夜良受(ことつてやらず)孤布流尓思(こふるにし)情波母要奴(こころはもえぬ)多麻伎波流(たまきはる)伊乃知乎之家騰(いのちをしけど)世牟須辨能(せむすべの)多騰伎乎之良尓(たどきをしらに)加苦思氐也(かくしてや)安良志乎須良尓(あらしをすらに)奈氣枳布勢良武(なげきふせらむ)
『許』の字には少なくとも、許(コ)・ 許(ク)・ 許(キョ)・ 許す(ゆるす)・ 許(もと)・ 許り(ばかり)の6種の読み方が存在する。
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
許(コ)+之(これ)=(こ)
烏滸(おこ)とは、馬鹿げていてあるいは滑稽で人の笑いを買う様な有様を指す。
『奴』の字には少なくとも、奴(ヌ)・ 奴(ド)・ 奴(やつ)・ 奴(やっこ)の4種の読み方が存在するのだが、中国の音韻の研究から「奴」の上古漢音が「な(nag)であったことはほぼ確定しているという。
尓:[音]ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ
奴(な)+尓(なんじ)=(な)
家持と書持の関係はどのようだったかわからないが、家持の亡妾にはすぐに答えており(463)、家持の【霍公鳥・橘・晩蝉(ひぐらし)】の三首(1477~79)に続いては、[大伴書持の歌二首(1480・81)]がある。
[橘朝臣奈良麻呂の集宴を結べる歌十一首]の中には、書持の歌(1587)とともに、もちろん家持の歌(1591)もある。
そして、[追ひて大宰の時の梅花に和へたる新しき歌六首(3901~06)]、さらには遺書というべき[霍公鳥を詠める歌二首(3909・10)]とそれに応える家持の歌[橙橘初めて咲き、霍公鳥飜り嚶(な)く。この時候に対ひて、詎(なん)そ志を暢べざらむ。因りて三首(3911~13)の短歌を作りて、欝結(うっけつ)の緒を散らさまくのみ]を知るのだ。
こうして考えてみると、書持は兄家持を慕い続けていたし、家持は弟のことを労わるお互いの兄弟愛を思い浮かべることができる。
08 1477 大伴家持霍公鳥歌一首
08 1477 宇能花毛(うのはなも)未開者(いまださかねば)霍公鳥(ほととぎす)佐保乃山邊(さほのやまへに)来鳴令響(きなきとよもす)
08 1478 大伴家持橘歌一首
08 1478 吾屋前之(わがやどの)花橘乃(はなたちばなの)何時毛(いつしかも)珠貫倍久(たまにぬくべく)其實成奈武(そのみなりなむ)
08 1479 大伴家持晩蝉歌一首
08 1479 隠耳(こもりのみ)居者欝悒(をればいぶせみ)奈具左武登(なぐさむと)出立聞者(いでたちきけば)来鳴日晩 (きなくひぐらし)
08 1581 橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首[橘朝臣奈良麻呂の集宴を結べる歌十一首]
08 1581 不手折而(たをらずて)落者惜常(ちりなばをしと)我念之(あがもひし)秋黄葉乎(あきのもみちを)挿頭鶴鴨(かざしつるかも)
08 1582 希将見(めづらしき)人尓令見跡(ひとにみせむと)黄葉乎(もみちばを)手折曽我来師(たをりぞあこし)雨零久仁(あめのふらくに)
08 1582 右二首橘朝臣奈良麻呂
08 1583 黄葉乎(もみちばを)令落鍾礼尓(ちらすしぐれに)所沾而来而(ぬれてきて)君之黄葉乎(きみがもみちを)挿頭鶴鴨(かざしつるかも)
08 1583 右一首久米女王
08 1584 希将見跡(めづらしと)吾念君者(あがもふきみは)秋山乃(あきやまの)始黄葉尓(はつもみちばに)似許曽有家礼(にこそありけれ)
08 1584 右一首長忌寸娘
08 1585 平山乃(ならやまの)峯之黄葉(みねのもみちば)取者落(とればちる)鍾礼能雨師(しぐれのあめし)無間零良志(まなくふるらし)
08 1585 右一首内舎人縣犬養宿祢吉男
08 1586 黄葉乎(もみちばを )落巻惜見(ちらまくをしみ)手折来而(たをりきて)今夜挿頭津(こよひかざしつ)何物可将念(なもかおもはむ)
08 1586 右一首縣犬養宿祢
聖武朝の天平10年8月20日(738年10月7日)?、橘奈良麻呂(721-757)の宴に列席し、奈良麻呂が紅葉について詠んだ歌に応えて、久米女王(くめじょおう/くめのおおきみ、生没年不詳)も詠んでいる。
この当時、橘奈良麻呂は17、8歳であり、同世代の皇女であったことが想像されるが、この和歌に続けて長忌寸(ながのいみき)の娘の一首が見え、会する10名のうち、ただ2人の女性であることから、長忌寸娘は女王の侍女であったことが推定されている。
08 1587 足引乃(あしひきの)山之黄葉(やまのもみちば)今夜毛加(こよひもか)浮去良武(うかびゆくらむ)山河之瀬尓(やまがはのせに)
08 1587 右一首大伴宿祢書持
08 1588 平山乎(ならやまを)令丹黄葉(にほはすもみち)手折来而(たをりきて)今夜挿頭都(こよひかざしつ)落者雖落(ちらばちるとも)
08 1588 右一首三手代人名
08 1589 露霜尓(つゆしもに)逢有黄葉乎(あへるもみちを)手折来而(たをりきて)妹挿頭都(いもとかざしつ)後者落十方(のちはちるとも)
08 1589 右一首秦許遍麻呂
08 1590 十月(かむなづき)鍾礼尓相有(しぐれにあへる)黄葉乃(もみちばの)吹者将落(ふかばちりなむ)風之随(かぜのまにまに)
08 1590 右一首大伴宿祢池主
08 1591 黄葉乃(もみちばの)過麻久惜美(すぎまくをしみ)思共(おもふどち)遊今夜者(あそぶこよひは)不開毛有奴香(あけずあらぬか)
08 1591 右一首内舎人大伴宿祢家持 以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也[以前は冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せる]
17 3900 十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首[十年の七月七日の夜に、独り天漢を仰ぎて聊かに懐を述べたる一首]
17 3900 多奈波多之(たなばたし)船乗須良之(ふなのりすらし)麻蘇鏡(まそかがみ)吉欲伎月夜尓(きよきつくよに)雲起和多流(くもたちわたる)
17 3900 右一首大伴宿祢家持作
この後に、[追ひて大宰の時の梅花に和へたる新しき歌六首(3901~06)]があり、 左注に[右は、十二年の十二月九日、大伴宿祢書持の作]と記される。
十月十九日 従四位下の下道朝臣真備に吉備朝臣の氏姓を賜った。
これにより、下道氏が勢力基盤を置いていた備中国下道郡だけでなく、吉備地方(備前国・備中国・備後国)全域を代表する大豪族と認められたとする見方がある。
十二月十日 七道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)の鎮撫使を停止した。 また、京・畿内及び諸国の兵士をもとの制度によってしらべて徴発した。
ちん‐ぶ【鎮×撫】:反乱や暴動などをしずめて、民を安心させること。
ちょう‐はつ【徴発】: 人を強制的に呼び集めること。
天平18年(746年)、藤原仲麻呂は式部卿に転じたが、式部卿は官吏の選叙と考課を握る官職であり、仲麻呂は大幅な人事異動を行って諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成していく予感をさせる。
というのも、叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、従兄妹で皇太子だった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあった。