好去好来
天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて、憶良が帰京するが、天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦し、また児等を思ふ歌」【万897】を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」【万978】を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
05 0892 貧窮問答歌一首[貧窮問答の歌一首]并短歌〔并せて短歌〕
05 0892 風雜(かぜまじり)雨布流欲乃(あめふるよるの)雨雜(あめまじり)雪布流欲波(ゆきふるよるは)為部母奈久(すべもなく)寒之安礼婆(さむくしあれば)堅塩乎(かたしほを )取都豆之呂比(とりつづしろひ)糟湯酒(かすゆざけ)宇知須〃呂比弖(うちすすろひて)之叵夫可比(しはぶかひ)鼻毘之毘之尓(はなびしびしに)志可登阿良農(ことありぬ)比宜可伎撫而(ひげかきなでて)安礼乎於伎弖(あれおきて)人者安良自等(ひとはあらじと)富己呂倍騰(ほころへど)寒之安礼婆(さむくしあれば)麻被(あさぶすま)引可賀布利(ひきかがふりぬ)布可多衣(ぬのかたぎ)安里能許等其等(ありのことごと)伎曽倍騰毛(きそへども)寒夜須良乎(さむきよすらを)和礼欲利母(われよりも)貧人乃(まづしきひとの)父母波(ちちははは)飢寒良牟(うゑさむからむ)妻子等波(めこどもは)乞〃泣良牟(ここになくらむ)此時者(このときは)伊可尓之都〃可(いかにしつつか)汝代者和多流(ながよはわたる)
『志』の字には少なくとも、志(シ)・ 志す(しるす)・ 志(こころざし)・ 志す(こころざす)の4種の読み方が存在する。
『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。
志(こころざし)+可(コク)=(こ)
『乎』の字には少なくとも、乎(ゴ)・ 乎(コ)・ 乎(オ)・ 乎(を)・ 乎(や)・ 乎(かな)・ 乎(か)の7種の読み方が存在する。
『於』の字には少なくとも、於(ヨ)・ 於(オ)・ 於(ウ)・ 於ける(おける)・ 於いて(おいて)の5種の読み方が存在する。
乎(オ)+ 於(オ)=(お)
衣:[音]エ(呉)イ(漢)[訓]ころも(表内)きぬ、ぎ(表外)
天地者(あめつちは)比呂之等伊倍杼(ひろしといへど)安我多米波(あがためは)狭也奈里奴流(さくやなりぬる)日月波(にちげつは)安可之等伊倍騰(あかしといへど)安我多米波(あがためは)照哉多麻波奴(てりやたまはぬ)人皆可(ひとみなか)吾耳也之可流(あのみやしかる)和久良婆尓(わくらばに)比等〃波安流乎(ひととはあるを)比等奈美尓(ひとなみに)安礼母作乎(あれもなれるを)綿毛奈伎(わたもなき)布可多衣乃(ぬのかたきぬの)美留乃其等(みるのごと)和〃氣佐我礼流(わわけさがれる)可〃布能尾(かかふのみ)肩尓打懸(かたにうちかけ)布勢伊保能(ふせいほの)麻宜伊保乃内尓(まげいほのみに)直土尓(ひたつちに)藁解敷而(わらときしきて)父母波(ちちははは)枕乃可多尓(まくらのかたに)妻子等母波(めこどもは)足乃方尓(あしなるほうに)圍居而(かくみゐて)憂吟(うれいにうめく)可麻度柔播(かまどには)火氣布伎多弖受(ほけふきたてず)許之伎尓波(こしきには)久毛能須可伎弖(くものすかきて)飯炊(いひかしく)事毛和須礼提(こともわすれて)奴延鳥乃(ぬえとりの)能杼与比居尓(のどよひをるに)伊等乃伎提(いとのきて)短物乎(みじかきものを)端伎流等(はしきると)云之如(いへるがごとく)楚取(しもととる)五十戸良我許恵波(さとりがこゑは)寝屋度麻俤(ねやどまで)来立呼比奴(きたちよばひぬ)可久婆可里(かくばかり)須部奈伎物能可(すべなきものか)世間乃道(よのなかのみち)
まげ-いほ 【曲げ庵】:ゆがんで倒れそうな小屋。
尓:[音]ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ
『乃』の字には少なくとも、乃(ノ)・ 乃(ナイ)・ 乃(ダイ)・ 乃(アイ)・ 乃(の)・ 乃(なんじ)・ 乃ち(すなわち)の7種の読み方が存在する。
『圍』の字には少なくとも、圍(イ)・ 圍む(かこむ)・ 圍う(かこう)の3種の読み方が存在する。
『吟』の字には少なくとも、吟(ゴン)・ 吟(コン)・ 吟(ギン)・ 吟(キン)・ 吟く(うめく)・ 吟う(うたう)の6種の読み方が存在する。
しもと【×葼/×楉/細=枝】:長く伸びた若い小枝。
五十戸(さと、ごじっこ)は、7世紀中頃から後半の日本にあった地方統治の組織
05 0893 世間乎(よのなかを)宇之等夜佐之等(うしとやさしと)於母倍杼母(おもへども)飛立可祢都(とびたちかねつ)鳥尓之安良祢婆(とりにしあらねば )
05 0893 山上憶良頓首謹上[山上憶良頓首謹みて上る]
とん‐しゅ【頓首】は、「手紙文の末尾に書き添えて、相手に対する敬意を表す語」であり、その相手は、藤原房前である。
『貧窮問答歌』の意味については近年までは貧者が更にそれよりも貧しい窮者にその窮乏を問うものであるというのが定説であったが、現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説が有力視されている。
とはいえ、この『貧窮問答』は、おそらく長屋王も描き、房前とともに、皇親政治が中心であったかもしれないが、理想とする政治は、公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るということであり、そのことは旅人も広庭も、元正太上天皇も承知していることであった。
律令体制下の公民の貧窮ぶりと里長による苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌で、長歌とその反歌である短歌それぞれ一首ずつより成る。
成立年は憶良が筑前守に在任していた天平3年(731年)から国司の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年(733年)頃にかけてとされる。
題である『貧窮問答歌』の意味については近年までは貧者が更にそれよりも貧しい窮者にその窮乏を問うものであるというのが定説であったが、現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説が有力視されている。
古く土屋文明が、オリジナルなリアリズム詩ではなく陶淵明など漢詩の模倣、換骨奪胎であると指摘、これに対して漢文学者からの反論などがある。
05 0894 好去好来歌一首[好去好来の歌一首]反歌二首
05 0894 神代欲理(かむよより)云傳久良久(いひつてくらく)虚見通(そらみつの)倭國者(やまとのくには)皇神能(すめかみの)伊都久志吉國(いつくしきくに)言霊能(ことだまの)佐吉播布國等(さきはふくにと)加多利継(かたりつぎ)伊比都賀比計理(いひつがひけり)今世能(いまのよの )人母許等期等(ひともことごと)目前尓(めのまへに)見在知在(みたりしりたり)人佐播尓(ひとさはに)満弖播阿礼等母(みちてはあらも)高光(たかひかる)日御朝庭(ひのおんみかど)神奈我良(かむながら)愛能盛尓(めでのさかりに)天下(あめのした)奏多麻比志(まをしたまひし)家子等(いへのこと)撰多麻比天(えらひたまひて)勅旨(ちょくしなる)反云 大命(おほみこと)戴持弖(いただきもちて)唐能(もろこしの)遠境尓(とほきさかひに)都加播佐礼(つかはされ)麻加利伊麻勢(まかりいませし)宇奈原能(うなはらの)邊尓母奥尓母(へにもおきにも)神豆麻利(かむづまり)宇志播吉伊麻須(うしはきいます)諸能(もろもろの)大御神等(おほみかみたち)船舳尓(ふなのへに)反云 布奈能閇尓(ふなのへに)道引麻遠志(みちびきまをし)天地能(あめつちの)大御神等(おほみかみたち)倭(やまとなる)大國霊(おほくにみたま)久堅能(ひさかたの)阿麻能見虚喩(あまのみそらゆ)阿麻賀氣利(あまがけり)見渡多麻比(みわたしたまひ)事畢(ことをはり)還日者(かへらむひには)又更(またさらに)大御神等(おほみかみたち)船舳尓(ふなのへに)御手打掛弖(みてうちかけて)墨縄遠(すみなはを)播倍多留期等久(はへたるごとく)阿遅可遠志(あぢかをし)智可能岫欲利(ちかのさきより)大伴(おほともの)御津濱備尓(みつのはまびに)多太泊尓(ただはてに)美船播将泊(みふねははてむ)都〃美無久(つつみなく)佐伎久伊麻志弖(さきくいまして)速歸坐勢(はやかへりませ)
『礼』の字には少なくとも、礼(レイ)・ 礼(リ)・ 礼(ライ)・ 礼(のり)・ 礼う(うやまう)の5種の読み方が存在する。
『等』の字には少なくとも、等(トウ)・ 等(タイ)・ 等(ら)・ 等しい(ひとしい)・ 等(など)の5種の読み方が存在する。
05 0895 反歌
05 0895 大伴(おほともの)御津松原(みつのまつばら)可吉掃弖(かきはきて)和礼立待(われたちまたむ)速歸坐勢 (はやかへりませ)
05 0896 難波津尓(なにはつに)美船泊農等(みふねはてぬと)吉許延許婆(きこえこば)紐解佐氣弖(ひもときさけて)多知婆志利勢武 (たちばしりせむ )
05 0896 天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良 謹上 大唐大使卿記室[天平五年(733)三月一日、良の宅に対面して、献ることは三日なり。山上憶良謹みて上る 大唐大使卿記室]
天平5年(733年)第10次唐遣使の大使として派遣される多治比広成に無事の帰国を祈って、山上憶良が「好去好来」の歌を送っています。
好去とは「さようなら」、好来とは「御無事で帰還を」の意味 大和への帰還をこの大和神社の大國魂の神にご加護を祈りました。
唐遣使の大使として派遣に際し、幸いをもたらすという「言霊(ことだま)」に餞(はなむけ)の祈りを託さずにはいられなかったのかもしれません。
4月に難波津から唐に向けて出発した広成は、この時、栄叡・普照も留学僧として派遣されており、この二人の僧こそ、鑑真に来日を決意させたのである。
天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着したおりには、吉備真備(39)・玄昉も帰国するが、憶良(633死去)はもはやそれらのことを知ることはなかった。
しかし、長屋王が贈った、一千枚の袈裟については知っており、その縁に刺繍された一枚には、『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』とあり、「国は異なるが天は同じ。袈裟を僧侶に寄進し縁を結ぼう」という意味なのだが、その一つが鑑真の手元にも届いていた。
というのもその袈裟は、717年の第9次遣唐使に託されてたもので、遣唐押使(おうし)として渡唐を果たしたのが、多治比 縣守(たじひ の あがたもり)で、広成の兄であり、副使には宇合がおり、そのほかに同行したのが、阿倍仲麻呂・真備・玄昉・井真成たちであった。
鑑真和上はその偈に感動し、困難で危険な前途を恐れずに日本に渡って仏法を広め、中日の友好交流の種を蒔いたというわけである。
それらのことを見通していたわけではなかろうが、憶良の『好去好来』は、まさにこのことを願っていたかのように思う。
天平5年(733年)、唐遣使の大使として派遣される多治比広成に無事の帰国を祈って、山上憶良が「好去好来」の歌を送っているのだが、好去とは「さようなら」、好来とは「御無事で帰還を」の意味だ。
多治比広成は前回押使の縣守の弟。4隻の船で難波津を4月に発ち奄美(奄美大島)を経由して、往路は4隻無時で蘇州に到着し、734年4月に唐朝に拝謁した。
その広成の漢詩が『懐風藻』にあり、三種のうちの一首だけ載せておくが、その創作年はわからない。
述懐 多治比広成
少無蛍雪志 少(わか)くても蛍雪の志なく
長無錦綺工 長(た)けても錦綺の工(たく)みなし
適逢文酒會 適(たまたま)に文酒の會に合う
終恧不才風 終に恧(は)じ不才の風なり
恧:[音]ジク、 ニク、 ジョク、 ニョク[訓]はじる
ただ、天平9年(737年)兄の中納言・多治比縣守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事・鈴鹿王と大納言・橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇るとあり、天平11年(739年)4月7日薨去している。
唐生まれの、同行した判官秦朝元(はたのあさもと)は、父親(弁正)と玄宗皇帝との縁から皇帝の覚えが良く賞賜を与えられ、留学生大伴古麻呂は帰国にあたって、唐人の陳延昌に託された大乗仏典を日本にもたらす。
帰路、734年10月に同時に出航するも各船遭難し、第1船の多治比広成は11月に種子島に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。羽栗吉麻呂・翼・翔親子も帰国)、3月に節刀を返上した。
ここにある、羽栗 吉麻呂(はぐり の よしまろ)は、養老元年(717年)の第9次遣唐使で留学生・阿倍仲麻呂の傔人(従者)として渡唐し、翌養老2年(718年)遣唐使節の帰国に同行せず、仲麻呂と共に唐に留まったが、その後、唐人女性と結婚し、唐で翼・翔の二子を儲け、天平5年(733年)多治比広成が来唐したおり、阿倍仲麻呂はそのまま唐に留まっていたが、吉麻呂は息子らと共に帰国の途につき、天平6年(734年)無事帰国を果たした。
それにしても、山上憶良の漢詩が、『懐風藻』にないのは何故かと疑ってしまうが、その才能は五言や七言では治まらない漢詩文だったに違いない。
霊亀2年(716年) 4月27日:伯耆守、神亀3年(726年)頃:筑前守と続き、長屋王との接触についてはわからないが、養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられており、神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向するまで、長屋王との接触はあったろうと思われるが、文学サロン作宝楼には記録がない。
長屋王のことについては、政治的なかかわりを避けていたのかもしれないが、神亀5年(728年)頃:大宰帥の旅人から、サロンのことなどを具体的に耳にすることにより、長屋王・房前の政権に期待を抱くようになっていったのかもしれない。