宮子と玄昉
天平七年(735)三月十日 天平五年に入唐した遣唐大使で、従四位上の多治比真人広成(?-736)らが、唐国より帰朝し、節刀(せちとう)を返上、二十五日には、遣唐使一行(真備・玄昉ら)が天皇に拝謁(はいえつ)した。
ここに、憶良の【05 0894 好去好来歌】が通じたのかもしれないが、それに応えてではないので場違いかもしれないけれど、広成の漢詩を載せておく。
述懐
少無蛍雪志 少くして螢雪の志なく
長無錦綺工 長じて錦綺の工なし
適逢文酒会 たまたま文酒の会に逢ひて
終恧不才風 ついに不才の風をハづ
謙虚な詩ではあるが、天平9年(737年)兄の中納言・多治比縣守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事・鈴鹿王と大納言・橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇る。
天平八年(736)七月十四日、次のように詔した。
この頃太上天皇(元正帝)は寝食が通常でなく、朕は心配に耐えず、平伏されることを思い願っている。そこで太上天皇のために百人を得度させ、都下の四大寺(大安・薬師・元興・興福)で七日間の行道(読経しながら仏道・仏前などの代わりをめぐる行法)をさせようと思う。また京・畿内および七道の諸国の、人民と僧尼で病気の者には、煎じ薬と食料を給付せよ。高齢で百歳以上の者には籾米四石、九十以上には三石、八十以上には二石、七十以上には一石を与えよ。鰥(かん)・寡・惸(けい)・独・廃疾・篤疾で自活のできない者には所管の官司がその程度を量って増量し恵み与えよ。
太上天皇がいつ回復したのかわからないが、この時、玄昉が何らかの見立てをしたのではないだろうか?
十一月十七日、天皇は次のように詔した。
従三位の葛城王らの上表分を読んで、つぶさにその考えが分かった。王らの主君を思う情は深く、謙譲な心で親を顕彰することを志している。皇族という高い名声を辞退して、母方の橘姓を申請するのは、思い考えるに、願うところは誠に時期を得たものである。一筋に請い願っているので、橘宿祢の姓を授けるから、千年も万年も継ぎ伝えて窮まることにないようにせよ。
06 1009 冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時 御製歌一首[冬十一月(736)に、左大弁葛城王等姓橘の氏を賜ひし時の御製歌一首]
06 1009 橘者(たちばなは)實左倍花左倍(みさへはなさへ)其葉左倍(そのはさへ)枝尓霜雖降(えにしもふれど)益常葉之樹(いやとこはのき)
06 1009 右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇〃后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇〃后御歌各有一首者 其歌遺落未得探求焉 今撿案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢[右は、冬十一月九日に、従三位葛城王と従四位上佐為王等と、皇族の高名を辞して外家の橘の姓を賜はること已に訖りぬ。 時に太上天皇、皇后、共に皇后宮に在して肆宴を為し、即ち橘を賀く歌を御製ひ、并せて御酒を宿祢等に賜へり。 或は云はく「この歌一首は太上天皇の御歌なり。 ただ天皇皇后の御歌各一首あり」といへり。その歌遺落して探り求むることを得ず。 今案内を検るに、「八年十一月九日に葛城王等、橘宿祢の姓を願ひて表を上る。十七日を以ちて、表の乞に依りて、橘宿祢を賜ふ」といへり]
06 1010 橘宿祢奈良麻呂應 詔歌一首
06 1010 奥山之(おくやまの)真木葉淩(まきのはしのぎ)零雪乃(ふるゆきの)零者雖益(ふりはますとも)地尓落目八方(ちにおちめやも)
11 2456 烏玉(ぬばたまの)黒髪山(くろかみやまの)山草(やますげに)小雨零敷(こさめふりしき)益〃所思(しくしくおもゆ)
06 1013 九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集彈正尹門部王家宴歌二首[九年(737)丁丑の春正月に、橘少卿と諸の大夫等との、弾正尹門部王の家に集ひて宴せる歌二首]
06 1013 豫(あらかじめ)公来座武跡(きみがきまさむと)知麻世婆(しらませば)門尓屋戸尓毛(かどにやどにも)珠敷益乎(たましかましを)
06 1013 右一首主人門部王[右の一首は、主人門部王] 後賜姓大原真人氏也〔後に姓大原真人の氏を賜はる〕
06 1014 前日毛(をとつひも)昨日毛今日毛(きのふもけふも)雖見(みつれども)明日左倍見巻(あすさへみまく)欲寸君香聞(ほしききみかも)
『前』の字には少なくとも、前(ゼン)・ 前(セン)・ 前(まえ)・ 前(さき)の4種の読み方が存在し、【前日毛】(さきのひも)の訓みだけど、前日(ぜんじつ)ではなく、 (をと-つ-ひ )【一昨日】:「おととい。いっさくじつ」と訓みは見事である。
06 1014 右一首橘宿祢文成 [右の一首は、橘宿祢文成]即少卿之子也〔即ち少卿(橘佐為)の子なり〕
06 1015 榎井王後追和歌一首 [榎井王の後に追ひて和へたる歌一首]志貴親王之子也〔志貴親王の子なり〕
06 1015 玉敷而(たましきて)待益欲利者(またましよりは)多鷄蘇香仁(たけそかに)来有今夜四(きたるこよひし)樂所念(たのしくおもゆ)
たけそか‐に:語義未詳。不意に、突然の意、または、たまたま、偶然などの意か。
06 1016 春二月諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首[春二月に、諸の大夫等の左少弁巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首]
06 1016 海原之(うなはらの)遠渡乎(とほきわたりを)遊士之(みやびをの)遊乎将見登(みやびをみむと)莫津左比曽来之(なづさひぞこし)
なずさ・う〔なづさふ〕: 水に浮いて漂う。または、水につかる。
06 1016 右一首書白紙懸著屋壁也 題云 蓬莱仙媛所化蘰 為風流秀才之士矣 斯凡客不所望見哉[右の一首は、白き紙に書きて屋の壁に懸着けたり。 題して云はく「蓬莱の仙媛の化れる嚢蘰は、風流秀才の士の為なり。こは凡客の望み見らえぬかも」といへり]
06 1017 夏四月大伴坂上郎女奉拜賀茂神社之時便超相坂山望見近江海而晩頭還来作歌一首[夏四月、大伴坂上郎女の、賀茂神社を拝み奉りし時に、便ち逢坂山を越え、近江の海を望み見て、晩頭に還り来て作れる歌一首]
06 1017 木綿疊(ゆふたたみ)手向乃山乎(たむけのやまを)今日越而(けふこえて)何野邊尓(いづれののへに)廬将為吾等(いほりせむわれ)
天平九年四月藤原朝臣房前が薨じた。七月十三日藤原朝臣麻呂が薨じた。七月二十五日藤原朝臣武智麻呂が薨じた。八月五日藤原朝臣宇合が薨じた。
天平9年(737)8月13日:聖武36歳
朕は天下に君主として臨んでようやく多くの年を経た(即位724)。しかし徳によって人民を導くことはまだ差障りがあって、人民はいまだ安らかに暮らしていない。終夜、眠ることも忘れ、憂い悩んでいるのはこのことである。またこの春以来、災厄の気がしきりに発生し、天下の人民で死亡する者が実に多く、百官の人たちも死亡で書けてしまったものが少なくない。まことに朕の、不徳によってこの災厄が生じたのである。天を仰いで恥じ恐れ、あえて安んじるところもない。そこで人民に免税の優遇措置を取り、生活の安定を得させた。天下の今年の田租、及び人民が多年にわたり背負っている公私の出挙(すいこ)の稲を免除せよ。公出挙の稲は八年以前のもの、私出挙の稲は七年以前を限度として破棄せよ。
8月15日
天下泰平・国土安寧のため、宮中の十五か所において、僧七百人を招き、大般若経・最勝王経を転読させ、四百人を出家させた。畿内四か国・七道の諸国でも五百七十八人を出家させた。
8月22日
聞くところによると諸臣らは稲を諸国に貯蔵し、人民に出挙して利息を求めて交易しているという。無知で愚かな人民は、のちの被害を顧みず安易に惑わされて、食物として乞い受け、農務に用うべきことを忘れ、遂に窮乏に陥り、本籍から逃亡し父子が離散したり、夫婦が生別したりする。人民の困窮はこのためにますますひどくなる。まことにこれは国司が人民を教え導くことに反している結果である。朕はこれを非常に憐れと思う。人民を救済すべき道が、どうしてこのようであってよかろうか?今後はこれらはことごとく禁断し、人民を促してもっぱら生業につかせ、土地の良い条件を生かすようにさせれば、人民は豊かに家々は賑わうであろう。もし違反する者があったら、違勅の罪で糾弾し、そのものは官に没収せよ。国司・郡司の役人については、直ちに現職を解任せよ。
実はこの詔こそ、天平5年ごろに亡くなったであろう、山上憶良が陳情した、万葉の歌であり、かつて侍講として教えを受けた、憶良への真摯な返答のようにも思える。
「八月二十六日 玄昉法師を僧正に任じ、良敏法師を大僧都に任じた」とあり、太上天皇を回復させた玄昉は、宮子も診ていたように思う。
藤原 宮子(? - 754)は、文武天皇の夫人(697)であり、藤原不比等の長女なのだが、異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。
史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもあり、皇后でも皇太后でもなかったが、史上初の太皇太后となった。
大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった。
文武帝や父・不比等ら肉親の死を経て、養老7年(723年)に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、天平9年(737年)にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面したという。
伝承「宮子姫髪長譚」
九海士(くあま)の里に住む夫婦である早鷹と海女の渚は、子宝に恵まれないことから氏神の八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かった。
そこで名前を八幡宮にちなんで「宮」と名づけたが、成長しても宮には髪の毛が生えてこなかったため両親は悲嘆にくれていた。
ある年、九海士の里は不漁に見舞われ、その原因は海底から差す不思議な光であったので、宮の母である渚は、「娘に髪の毛が生えないのは前世の報い」と考え、里の人々を救おうと罪滅ぼしのために自ら海に飛び込んだ。
海中深く潜っていると、光輝くものがあったが、それは黄金色の小さな観音像なので、渚は持ち帰り、大切に祀った。
光の消えた海は大漁続きとなったため、里人たちは渚のことを尊敬したが、彼女は謙虚に祈りを続けた。
ある夜、渚の夢に観音が現れる。夢の中で髪の生えない娘のことを訴えると、にわかに宮の髪が生えはじめた。
年頃になると髪も伸び、宮は「髪長姫」と呼ばれるようになったが、 ある日、宮が黒くて艶のある髪をすいていると、雀が飛んできてその髪を一本くわえ、飛び去った。
その雀は、奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒に巣をつくり、巣から垂れ下がる長く美しい髪を見つけた不比等は、髪の主である宮を探し出し、養女に迎え入れた。
07 1098 木道尓社(きぢにこそ)妹山在云(いもやまありし)玉櫛上(たまくしの)二上山母(ふたがみやまは)妹許曽有来(いもこそありき)
しか‐じか【▽然▽然】:(「云云」とも書く)
梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。
「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年(701)に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。
その宮子が、大宝元年(701年)、首(おびと)皇子を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかったが、天平9年(737年)にやっと平癒し、息子の天皇と36年ぶりに対面したという。
いずれにしても、『続日本紀』によれば、宮子は36年間も「幽憂に沈んだ」のに、玄昉法師が一見しただけでその悩みが一気に解消し、長寿を全うしたことになる。
その理由として、頼富本宏は「在唐経験の長い玄昉は、薬学的・医学的知識も充分に持っていた可能性を指摘しておきたい」と、何らかの投薬を行った可能性を指摘している。
玄昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日〈746年7月15日〉)は、奈良時代の法相宗の僧で、 義淵(643-728)に師事していた。
養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行して入唐、先に新羅船で入唐していた智達・智通らと同じく、智周に法相を学ぶ。
在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。
天平9年(737年)十二月二十七日、皇太夫人(こうたいふじん)の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉法師を引見したとあるが、光明皇后が取り持ったということであろうか?
おそらく宮子は、首皇子出産以来の憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとれなかったが、玄昉の雑密の孔雀王咒経(じゅきょう)の呪法祈祷により、心身が安定したのであろう。
やっとこの日に、天皇もまた皇后宮に行幸し、このことを期して、大倭国(やまとのくに)を改めて大養徳国(やまとのくに)と書くことにしたというのである。
夫人は天皇を出産以来真蛸樽天皇に会ったことがなかった。玄昉法がひとたび看病すや、穏やかで悟りを開かれた境地となった。そうなったときちょうど天皇と相まみえることになったので、国中がこれを慶び祝した。そこで玄昉法師に、絁(あしぎぬ)千匹・真綿千屯・絹糸千絇(く)・麻布千端を施与(せよ)し、また京に仕える中宮職の官人六人に、それぞれに応丁回を授けられた。中宮亮・従五位下の下道朝臣真備に従五位上を、少進・外従五位下の阿部朝臣虫麻呂に従五位下を、外従五位下の文忌寸馬糞に外従五位上を授けた。
この年の春、瘡のある疾病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相次いで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなことは近来このかた未だかつてなったことである。