家持悲傷亡妾
二月二十六日 次のように詔した。
皇后の寝食が不調で、疲労がいよいよ深まっている。朕はその苦しみを見て、深く憐れみ悲しんでいる。そこで天下に大赦を行って、病の苦しみを救いたいと思う。この戌の刻以前に発生した犯罪は、死罪以下八虐など普通の赦しでは許されない者も、すべてこれを赦免せよ。また、廃疾の人々で自活できない者には、その程度を量って物を施し救済する。よって官司の長官自身が親しく自ら慰問し、様子を見て煎じ薬を量り与えよ。僧尼に対しても同様にせよ。
三月二十一日 次のように詔した。
朕は恭しく天の命を受けて、天下に君臨している。朝は未明から衣服を着け、日が暮れるまで食事のことを忘れている。今は従四位上・治部卿の茅野王らの奏上を得たが、それによると、「太宰少弐・従五位下の多治比真人伯(おおじ)らの上申を受けましたが『対馬島の目(さかい)正八位上の養徳馬飼連乙麻呂が得た神馬は、体が青色で、たてがみと尾が白色であります」と言上しています。私たちが慎んで符瑞図をしらべましたところ、『成人が政治をとり、財貨や服装に節度がある時は、神馬が出現する』とあります。また、『王者が人民を大切にして、その徳が丘陵の高さに上る時は、神馬は沢の中から現れる」とあります。これはまさに大瑞に相当するものであります」奏上してきた。
これは祖先の霊のお助けであり、土地の神・五穀の神の賜りものである。不徳の朕がどうしてこのような瑞を一人で受けられようか。天下の人々とともに悦ぶことが、大きな道理にかなうことである。よって両親や祖父母に善く使えるもの、高齢者・鰥・寡・惸・独の人々、及び病気などで自活できない者に、者を与えて救いたい。
天平11年(739年)当時の太政官体制は、知太政官事・鈴鹿王、右大臣・橘諸兄、中納言・多治比広成、参議に大伴道足と藤原豊成の5人体制で、参議の補充が検討されており、従四位下・左大弁の官位にあった乙麻呂は有力な候補であった。
しかし、天平11年(739年)3月28日、故藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪を問われた石上 乙麻呂は、土佐国への流罪に処せられてしまう(若売は下総国に配流)。
06 1019 石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首[石上乙麻呂卿の土左国に配さえし時の歌三首]并短歌〔并せて短歌〕
06 1019 石上(いそのかみ)振乃尊者(ふるのみことは)弱女乃(たわやめの)或尓縁而(まとひによりて)馬自物(うまじもの)縄取附(なはとりつけて)肉自物(ししじもの)弓笶圍而(ゆみやかくみて)王(おほきみの)命恐(みことかしこみ)天離(あまざかる)夷部尓退(ひなへにまかる)古衣(ふるころも)又打山従(まつちのやまゆ)還来奴香聞(かへりこぬかも) 06 1020 王(おほきみの)命恐見(みことかしこみ)刺並(さしならぶ)國尓出座(くににいでます)愛耶(はしけやし)吾背乃公矣(わがせのきみを)繋巻裳(かけまくも)湯〃石恐石(ゆゆしかしこし)住吉乃(すみのえの)荒人神(あらひとかみの)船舳尓(ふなのへに)牛吐賜(うしはきたまひ)付賜将(ふたまはむ)嶋之埼前(しまのさきざき)依賜将(えたまはむ)礒乃埼前(いそのさきざき)荒浪(あらきなみ)風尓不令遇(かぜにあはせず)莫管見(つつみなく)身疾不有(やまひあらせず)急(すむやけく)令變賜根(かへしたまはね)本國部尓(もとつくにへに)
06 1022 父公尓(ちちぎみに)吾者真名子叙(われはまなごぞ)妣刀自尓(ははとじに)吾者愛兒叙(われはまなごぞ)参昇(まゐのぼる)八十氏人乃(やそうぢひとの)手向為(たむけする)恐乃坂尓(かしこのさかに)幣奉(ぬさまつり)吾者叙追(われはぞおへる)遠杵土左道矣(とほきとさぢを)
06 1023 反歌一首
06 1023 大埼乃(おほさきの)神之小濱者(かみのをはまは)雖小(せばけれど)百船純毛(ももふなびとも)過迹云莫國(すぐといはなく)
夏四月三日 次のように詔した。
従四位上の髙安王らの、前年十月の上奏文をよく見て、つぶさにその気持ちを理解した。王らはへりくだった心により、後続の地位を辞退したいと深く思っている。これには懇ろに忠誠の情が見られる。王らの願うところを考えると、その志を無視することはできない。今その請いのままに大原真人の姓を授けることにする。嗣子受け継いで、万代を経ても絶えることなく、孫々とも永く伝えて千年までも不窮とせよ。
08 1504 高安歌一首
08 1504 暇無(いとまなみ)五月乎尚尓(さつきをすらに)吾妹兒我(わぎもこが)花橘乎(はなたちばなを)不見可将過(みずよすごさむ)
『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。
『過』の字には少なくとも、過(カ)・ 過る(よぎる)・ 過(とが)・ 過ごす(すごす)・ 過ぎる(すぎる)・ 過つ(あやまつ)・ 過ち(あやまち)の7種の読み方が存在する。
20 4446 同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首[同じ月(五月)の十一日に、左大臣橘卿の、右大弁丹比国人真人の宅にして宴せる歌三首]
20 4446 和我夜度尓(わがやどに)佐家流奈弖之故(さけるなでしこ)麻比波勢牟(まひはせむ)由米波奈知流奈(ゆめはなちるな)伊也乎知尓左家(いやをちにさけ)
まひ 【幣】:依頼や謝礼のしるしとして神にささげたり、人に贈ったりする物。 いやおち‐に〔いやをち‐〕【▽弥▽復ちに】:いよいよ若返って。何度も初めにかえって。
20 4446 右一首丹比國人真人壽左大臣歌[右の一首は、丹比国人真人の、左大臣を寿く歌なり]
20 4447 麻比之都〃(まひしつつ)伎美我於保世流(きみがおほせる)奈弖之故我(なでしこが)波奈乃未等波無(はなのみとはむ)伎美奈良奈久尓(きみならなくに)
なら‐なくに :…ではないのに。
20 4447 右一首左大臣和歌
20 4448 安治佐為能(あぢさゐの)夜敝佐久其等久(やへさくごとく)夜都与尓乎(やつよにを)伊麻世和我勢故(いませわがせこ)美都〃思努波牟(みつつしのはむ)
20 4448 右一首左大臣寄味狭藍花詠也
20 4449 十八日左大臣宴於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首[十八日に、左大臣の、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅にして宴せる歌三首]
20 4449 奈弖之故我(なでしこが)波奈等里母知弖(はなとりもちて)宇都良〃〃〃(そらうつろ)美麻久能富之伎(みまくのほしき)吉美尓母安流加母(きみにもあるか)
とり‐もち【取(り)持(ち)】 : 両者の間に立って仲を取り持つこと。
『空』の字には少なくとも、空(コウ)・ 空(クウ)・ 空(ク)・ 空しい(むなしい)・ 空(そら)・ 空く(すく)・ 空(から)・ 空(うろ)・ 空ろ(うつろ)・ 空ける(うつける)・ 空(あな)・ 空ける(あける)・ 空く(あく)の13種の読み方が存在する。
良:[音]ロウ(呉)リョウ(漢)ラ(慣)[訓]よ-い(表内)い-い、まこと-に、やや(表外)
宇都良〃〃〃→空ら空ろ→そらうつろ
そら【空/▽虚】:心の状態。心持ち。心地。
うつろ【▽空ろ/▽虚ろ】:むなしいこと。また、そのさま。
20 4449 右一首治部卿船王[右の一首は、治部卿船王]
20 4450 和我勢故我(わがせこが)夜度能奈弖之故(やどのなでしこ)知良米也母(ちらめやも)伊夜波都波奈尓(いやはつはなに)佐伎波麻須等母(さきはますとも)
20 4451 宇流波之美(うるはしみ)安我毛布伎美波(あがもふきみは)奈弖之故我(なでしこが)波奈尓奈蘇倍弖(はなになそへて)美礼杼安可奴香母(みれどあかぬか)
20 4451 右二首兵部少輔大伴宿祢家持追作 [右の二首は、兵部少輔大伴宿祢家持、追ひて作れり]
03 0462 十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首[十一年己卯。夏六月に、大伴宿祢家持の亡りし妾を悲傷びて作れる歌一首]
03 0462 従今者(いまよりは)秋風寒(あきかぜさむく)将吹焉(ふきなむを)如何獨(いかにかひとり)長夜乎将宿(ながきよをねむ)
03 0463 弟大伴宿祢書持即和歌一首
03 0463 長夜乎(ながきよを)獨哉将宿跡(ひとりかねむと)君之云者(きみいふも)過去人之(すぎにしひとの)所念久尓(おもほゆらくに)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『云』の字には少なくとも、云(ウン)・ 云う(いう)の2種の読み方が存在する。
之く(ゆく)+云う(いう)=(ゆう)
03 0464 又家持見砌上瞿麦花作歌一首[また、家持の砌の上の瞿麦の花を見て作れる歌一首]
03 0464 秋去者(あきさらば)見乍思跡(みつつしのへと)妹之殖之(いもしょくし)屋前乃石竹(やどのなでしこ)開家流香聞(さきにけるかも)
『殖』の字には少なくとも、殖(ジキ)・ 殖(ジ)・ 殖(ショク)・ 殖(シ)・ 殖やす(ふやす)・ 殖える(ふえる)の6種の読み方が存在する。
03 0465 移朔而後悲嘆秋風家持作歌一首[月移りて後に秋風を悲しび嘆きて家持の作れる歌一首]
03 0465 虚蝉之(うつせみの)代者無常跡(よはつねなしと)知物乎(しるものを)秋風寒(あきかぜさむみ)思努妣都流可聞(しのひつるかも)
03 0466 又家持作歌一首 并短歌
03 0466 吾屋前尓(わがやどに)花曽咲有(はなぞさきたる)其乎見杼(そをみれど)情毛不行(こころもゆかず)愛八師(はしきやし)妹之有世婆(いもがありせば)水鴨成(みかもなす)二人雙居(ふたりならびゐ)手折而毛(たをりても)令見麻思物乎(みせましものを)打蝉乃(うつせみの)借有身在者(かれるみなれば)露霜乃(つゆしもの)消去之如久(けぬるがごとく)足日木乃(あしひきの)山道乎指而(やまぢをさして)入日成(いりひなす)隠去可婆(かくりにしかば)曽許念尓(そこもふに)胸己所痛(むねこそいたき)言毛不得(いひもえず)名付毛不知(なづけもしらず)跡無(あともなき)世間尓有者(よのあひだにも)将為須辨毛奈思(せむすべもなし)
03 0467 反歌
03 0467 時者霜(ときはしも)何時毛将有乎(いつもあらむを)情哀(かなしくも)伊去吾妹可(いゆくわぎもか)若子乎置而(みどりこおきて)
03 0468 出行(いでてゆく)道知末世波(みちしらませば)豫(あらかじめ)妹乎将留(いもをとどめむ)塞毛置末思乎(せきもちましを)
03 0469 妹之見師(いもがみし)屋前尓花咲(やどにはなさき)時者経去(ときはへぬ)吾泣涙(わがなくなみた)未干尓(いまだひなくに)
03 0470 悲緒未息更作歌五首[悲緒いまだ息まず、また作れる歌五首]
03 0470 如是耳(かくのみに)有家留物乎(ありけるものを)妹毛吾毛(いももあも)如千歳(ちとせのごとく)憑有来(たのみたりけり)
03 0471 離家(いへざかり)伊麻須吾妹乎(いますわぎもを)停不得(とどめかね) 山隠都礼(やまがくしつれ)情神毛奈思(こころどもなし)
03 0472 世間之(せけんゆく)常如此耳跡(つねかくのみと)可都知跡(かつしれど)痛情者(いたきこころは)不忍都毛(しのびかねつも)
03 0473 佐保山尓(さほやまに)多奈引霞(たなびくかすみ)毎見(みるごとに)妹乎思出(いもをおもひで)不泣日者無(なかぬひはなし)
03 0474 昔許曽(むかしこそ)外尓毛見之加(よそにもみしか)吾妹子之(わぎもこが)奥槨常念者(おくひつきおも)波之吉佐寳山(はしきさほやま)
『槨』の字には少なくとも、槨(カク)・ 槨(ひつぎ)・ 槨(うわひつぎ)の3種の読み方が存在する。
常:[音]ジョウ(呉) ショウ(漢)[訓]つね、とこ(表内)なみ、きだ、のぶ、ひ、ひた、とき(表外)
槨(ひつぎ)+常(きだ)=(ひつぎ)
『念』の字には少なくとも、念(ネン)・ 念(デン)・ 念う(おもう)の3種の読み方が存在する。
『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。
念う(おもう)+ 者(もの)=(おも)
家持の亡妾とはいったい誰なのか、必ず歌のやり取りがあったと思われるので、それを推測できないのであろうか?
下記は、家持の娘子・童女への贈答歌であるが、ひそかに亡妾は大嬢の妹大伴坂上二嬢(おおとも の さかのうえ の おといらつめ)だと思っおり、歌が残されているとしたら、これらの歌だろう。
04 0691 大伴宿祢家持贈娘子歌二首
04 0691 百礒城之(ももしきの)大宮人者(おほみやひとは)雖多有(おおあれど)情尓乗而(こころにのりて)所念妹(おもほゆるいも)
04 0692 得羽重無(うはへなき)妹二毛有鴨(いもにもあるか)如此許(かくばかり)人情乎(ひとのこころを)令盡念者(つくさくもへば)
0700 大伴宿祢家持到娘子之門作歌一首
04 0700 如此為而哉(かくしてや)猶八将退(なほやまからむ)不近(ちかからず)道之間乎(みちのあひだを)煩参来而(なづみまゐきて)
04 0705 大伴宿祢家持贈童女歌一首
04 0705 葉根蘰(はねかづら)今為妹乎(いまするいもを)夢見而(いめにみて)情内二【こころのうちに)戀渡鴨(こひわたるかも)
04 0706 童女来報歌一首
04 0706 葉根蘰(はねかづら)今為妹者(いまするいもは)無四呼(なかりしを)何妹其(いづれのいもぞ)幾許戀多類(ここだこひたる)
04 0783 大伴宿祢家持贈娘子歌三首
04 0783 前年之(をととしの)先年従(さきつとしより)至今年(ことしまで)戀跡奈何毛(こふれどなぞも)妹尓相難(いもにあひなむ)
04 0784 打乍二波(うつつには)更毛不得言(さらにもいへず)夢谷(いめにだにめだに)妹之手本乎(いもがたもとを)纒宿常思見者(まきぬとしみば)
04 0785 吾屋戸之(わがやどの)草上白久(くさのへしろく)置露乃(おくつゆの)壽母不有惜(みもをしからず)妹尓不相有者(いもにあはずも)
七月十四日 次のように詔した。
今はまさに秋の初めで、稲は盛んに茂っている。この後も風や雨が順調で、小久保津賀成熟するようでありたいと願っている。よろしく天下の諸寺に、五穀成熟経の転読と悔過(罪を座bb廨して許しを乞う儀式)を七日七夜行わせよ。
08 1619 大伴家持至姑坂上郎女竹田庄作歌一首[大伴家持の、姑坂上郎女の竹田の庄に至りて作れる歌一首]
08 1619 玉桙乃(たまほこの)道者雖遠(みちはとほけど)愛哉師(はしきやし)妹乎相見尓(いもをあひみに)出而曽吾来之(でてぞわれきし)
08 1620 大伴坂上郎女和歌一首
08 1620 荒玉之(あらたまの)月立左右二(つきたつまでに)来不益者(きまさねば)夢西見乍(いめにしみつつ)思曽吾勢思(おもひぞあせし)
08 1620 右二首天平十一年己卯秋八月作[右の二首は、天平十一年己卯の秋八月に作れり]
08 1621 巫部麻蘇娘子( かんなぎべの-まそのおとめ)歌一首
08 1621 吾屋前之(わがやどの)芽子花咲有(はぎはなさくも)見来益(みにきませ)今二日許 (いまふつかもと)有者将落(あるもおちなむ)
巫部氏は祭祀氏族の一つで、姓ははじめ連、のち宿禰となったが、神に仕え、音楽や舞で神の心を和らげる役割を負ったことからの氏名かと言われる。
マソは麻のことで、特に神祭の際用いられた麻を言うのだが、名からすると、神子(みこ)だったのかもしれない。 他に同じ巻に一首と、巻四の二首を載せておく。
八月十六日 太政官はのような処分を出した。
(当時の右大臣は橘諸兄だが、太政官は鈴鹿王である)
式部省に出仕して任官を待っている蔭子(おんし)・蔭孫や位子は、年齢の上下に関わらずすべて大学に入学させて、ひたすらに学問に励ませよ。
蔭子・蔭孫:蔭位 (おんい) を受ける資格をもった三位以上の貴族の孫。
おん‐い〔‐ヰ〕【×蔭位】:《父祖のお蔭 (かげ) で賜る位の意》
い‐し〔ヰ‐〕【位子】:21歳でまだ官職のない者は、試験をして大舎人 (おおとねり) ・兵衛 (ひょうえ) などに任じられた。
ところで、家持には、【04 0714 大伴宿祢家持贈娘子歌七首】があり、その娘子らは次の4人だと思うが、この中に妾がいるかもしれない。
粟田女娘子2(万707・708)・豊前國娘子大宅女(万709)・安都扉娘子(万710)・丹波大女娘子3(万7110・712・713)たちである。