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彷徨5年Ⅰ 恭仁宮後期

天平十三年(741)三月二十四日 聖武天皇は次のように詔した。

朕は徳のうすい身であるのに、忝くも責任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広めておらず、寝ても覚めても慚じることが多い。しかし昔の明君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく幸いがもたらされた。どういう政治指導を行えば、そのような統治が出来るのであろうか。 

そこで経文を考えてみると、金光明最勝王経には、「もし国内にこの経を講義して聞かせたり、読経・暗誦したりして、恭しく慎んで供養し、この経を流布させる王があれば、われら四天王は常にやて来て擁護し、一切の災いや障害は皆消滅させるし、憂愁や疾病もまた除去し癒すであろう。願いも心のままであるし、いつも喜びが生ずるであろう」と述べてある。

朕はまた別に、金泥で金光明最勝王経を手本に倣って写し、七重塔ごとにそれぞれ一部を置かせる、神聖な仏の法が盛んになって、天地と共に長く伝わり、四天王の擁護の恵みが、使者にも生者にも行き届かせ、常に充分であることを願うためである。

そもそも、七重塔を建造する寺は、国の華ともいうべきで、必ず好い場所を選んで本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて悪臭が及ぶのはよくないし、人家から遠くては、参集の人々疲れさせるので好ましくない。国司らは各々国分寺を厳かに飾るように努め、併せて清浄を保つようにせよ。まじかに書店(四天王)を感嘆させ、、諸天がその地に臨んで擁護されることをこい願うものである。

17 3909 詠霍公鳥歌二首

17 3909 多知婆奈波(たちばなは)常花尓毛歟(とこはなにもが)保登等藝須(ほととぎす)周無等来鳴者(すむときなかば)伎可奴日奈家牟(きかぬひなけむ)

17 3910 珠尓奴久(たまにぬく)安布知乎宅尓(あふちをいへに)宇恵多良婆(うゑたらば)夜麻霍公鳥(やまほととぎす)可礼受許武可聞(かれずこむかも)

17 3910 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持[右は、四月二日に、大伴宿祢書持、奈良の宅より兄家持に贈れり]

17 3911 橙橘初咲霍公鳥翻嚶 對此時候詎不暢志 因作三首短歌 以散欝結之緒耳[橙橘(とうきつ)初めて咲き、霍公鳥飜り嚶く。この時候に対ひて、そ志を暢べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、欝結の緒を散らさまくのみ]

17 3911 安之比奇能(あしひきの)山邊尓乎礼婆(やまへにをれば)保登等藝須(ほととぎす) 木際多知久吉(このまたちくき)奈可奴日波奈之(なかぬひはなし)

17 3912 保登等藝須(ほととぎす)奈尓乃情曽(なにのこころぞ)多知花乃(たちばなの)多麻奴久月之(たまぬくつきし)来鳴登餘牟流(きなきとよむる)

17 3913 保登等藝須(ほととぎす)安不知能枝尓(あふちのえだに)由吉底居者(ゆきてゐば)花波知良牟奈(はなはちらむな)珠登見流麻泥(たまとみるまで)

17 3913 右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持[右は、四月三日に、内舎人大伴宿祢家持、久邇の京より弟書持に報へ送れり]

7月10日 太上天皇が恭仁の新宮に移られ、天皇は河(木津)のほとりにお出迎えになり、13日群臣に恭仁の新宮で宴会させたとあるが、元正がどこへ行幸されての還りなのか記されていない。

3月15日には「勝手に平城京にとどまってはいけない」と詔されており、平城京でないとしたら、3月19日難波宮で怪異を鎮祭させたとあり、太上天皇の住まいが完成するまで、難波宮にいたかもしれない。

天平13年(741年)8月9日:木工頭に任じられた、文室 浄三(ふんや の きよみ、初名は智努王)は、9月に巨勢奈氐麻呂と共に恭仁京の造宮卿に任じられ、同月には民部卿・藤原仲麻呂と共に恭仁京の人民に宅地を分け与えている。

19 4275 天地与(あめつちと)久万弖尓(ひさしきまでに )万代尓(よろづよに)都可倍麻都良牟(つかへまつらむ)黒酒白酒乎(くろきしろきを)

19 4275 右一首従三位文室智努真人

8月28日 平城京の東西二市を恭仁宮に遷し、9月8日「都を新たに遷したので全国に大赦を行う」と勅し、9月12日に左京右京が定められ、30日天皇は宇治と山科に行幸され、五位以上の者は皆天皇の乗り物に付き従った。

 

奈良(平城宮)の留守官の兵部卿・正四位下の藤原朝臣豊成を召して恭仁宮の留守官としており、聖武朝後半の橘諸兄政権下で、豊成は藤原氏の代表として遇されるとともに、諸兄から信任を受けて政権のなかで有力な存在となっていたと見られるが、この先も、聖武天皇は頻繁に行幸を行っており、豊成は都合四度に亘って平城京の留守司を務め、聖武天皇の信頼も厚かったのだが、政治臭のしない、安全パイであったのかもしれない。

11月21日 右大臣の橘宿祢諸兄が「個々の朝廷はどのような名称で万代に伝えましょうか」と奏上し、天皇は詔して「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)と名付けよう」と言われた。

天平14年(742)春正月一日全ての官人が朝賀した。五日太宰府を廃止。七日恭仁宮の北の苑に行幸。十日武官に酒食を賜った。

正月十六日 天皇は大安殿に出御し臣下たちと宴会された。

主演が盛り上がったとき五節の田舞に行なわれる田植えなどの農事の舞を奏した。それが終わってさらに少年・童女に踏歌をさせた。

また天下の有位の人々と、諸官司の史生に宴を賜った。ここで六位以下の人たちが琴を演奏して、次のように歌った。

 

新しき年のはじめに かくしこそ つかえまつらめ 万代までも

天平14年(742)12月16日地震があったが、29日天皇は紫香楽宮に行幸し、知太政官事鈴鹿王・左代弁巨勢奈弖麻呂・右代弁紀飯麻呂・民部卿藤原仲麻呂ら四人を、それぞれ恭仁宮の留守官に任じた。

天平15年(743年)5月5日には、皇太子阿倍内親王(孝謙天皇)が元正上皇の御前で五節舞を披露している。

 

右大臣橘諸兄は、詔をうけて、太上天皇に次のように奏上した(宣命体:天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書)。

天皇(聖武)のお言葉ですが、わたし(諸兄)が取り次いで申し上げます。口に申すのも恐れ多い飛鳥浄御原宮で大八(おおや)洲国(しまぐに)をお治めになった聖の天皇(すめらみこと:天武)が、天下をお治めになり平定成されてお思いになるには、上の者と下の者との間を整え和らげて、動揺なく安静ならしめるには、礼と樂の二つを並べてこそ、平穏に永く続くであろうと、神としてお思いになり、この舞をおはじめになり、お造りになったとお聞きになって、天地(あめつち)と共に絶えることなく、次から次へと受け継がれていくところのものとして、皇太子であるこの王に習わせ、わが皇(おおきみ)天皇(元正太上天皇)の御前で、舞を御覧に入れることを奏上します。

 

れい‐がく【礼楽】:社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽は、中国で、古くから儒家によって尊重されていいる。

これに対して、太上天皇より次のような返詔があった(宣命体)。

 

現御神(あきつみかみ)として大八洲国をお治めになる、わが子の天皇(聖武:元正の甥)が口に申すのも御畏れ多い帝(天武)がお始めになり、お造りになられた宝(五節の舞)を国の宝として、この王(内親王)に演じ奉らせていらっしゃるので、天下に立てられ行われている国法は、絶えることはないと、この舞を見聞きして喜んでおります」と仰せになるお言葉を奏上いたします。

また今日行なわれた五節の舞を、太上天皇がご覧になると、単に舞の遊びと言うだけでなく、天下の人々に君臣・親子の道理をお教えになり、お導きになるということであるとお思いになります。これをもってお教えになりお導きになる通りに、天下の人々が承り、忘れず失わずあるように、おしるしとして一人、二人の人をおほめくださるようにと思います」と仰せられるお言葉を奏上いたします。

そこで太上天皇のお詠みになった歌は次のようであった。

 

そらにみつ 大和の国は 神からし 尊くあらし この舞見れば

天津神 御孫(みま)の尊の 取り持ちて この豊御酒(とよみき)を いま献(たてまつ)る

 

やすみしし わが王は 平らけく 長くいまして 豊神酒献(まつ)る  『続日本紀』

08 1597 大伴宿祢家持秋歌三首

08 1597 秋野尓(あきののに)開流秋芽子(さけるあきはぎ)秋風尓(あきかぜに)靡流上尓(なびけるうへに)秋露置有(あきつゆおくも)

08 1598 棹壮鹿之(さをしかの)朝立野邊乃(あさたつのへの)秋芽子尓(あきはぎに )玉跡見左右(たまとみるまで)置有白露(おくもしらつゆ)

08 1599 狭尾壮鹿乃(さをしかの)胸別尓可毛(むなわけにかも)秋芽子乃(あきはぎの)散過鷄類(ちりすぎにける)盛可毛行流(さかりもいける)

 

むな‐わけ【胸分け】: 胸で草木などを押し分けること。むねわけ。

『盛』の字には少なくとも、盛(セイ)・ 盛(ジョウ)・ 盛る(もる)・ 盛ん(さかん)・ 盛る(さかる)の5種の読み方が存在する。

『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。

盛る(さかる)+可(カ)=(さかり)

 

08 1599 右天平十五年癸未秋八月見物色作[右は、天平十五年癸未の秋八月に、物色を見て作れり]

+08 1602 大伴宿祢家持鹿鳴歌二首

08 1602 山妣姑乃(やまびこの)相響左右(あひとよむまで)妻戀尓(つまごひに)鹿鳴山邊尓(かなくやまへに)獨耳為手(ひとりのみして)

08 1603 頃者之(このころの)朝開尓聞者(あさけにきけば)足日木箆(あしひきの)山呼令響(やまよびひびけ)狭尾壮鹿鳴哭(さをしかのなく)

 

けい‐しゃ【▽頃者】 の解説 このごろ。近ごろ。頃日。

 

08 1603 右二首天平十五年癸未八月十六日作[右の二首は、天平十五年癸未の八月十六日に作れり]

06 1037 十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久邇京作歌一首[十五年癸未の秋八月十六日に、内舎人大伴宿祢家持の、久邇の京を讃めて作れる歌一首]

06 1037 今造(いまつくる)久邇乃王都者(くにのみやこは)山河之(やまかはの)清見者(さやけきみれば)宇倍所知良之(うべしらすらし)

 

うべ【▽宜/▽諾】:[副]《平安時代以降は「むべ」と表記されることが多い》肯定する気持ちを表す。なるほど。いかにも。むべ。

天平15年(743)冬10月15日 天皇は次のように詔された。

朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎ、その志は広く人民を救うことにあり、努めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりと情け深い恩恵を受けているけれども、天下のもの一切が全て仏の報恩に浴しているとは言えない。そこで本当に三宝の意向と霊力に頼って、天地共に安泰になり、萬代までの幸せを願う事業を行って、生きとし生けるものことごとく栄えんことを望むものである。

 

ここに天平15年、天を12年で一周する木星が癸未(みずのとひつじ)に宿る10月15日をもって菩薩の対岸を発して、廬舎那仏の金銅像一体をお造りすることとする。国中の同を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙に広め、これを朕の智識としよう。そして最後には朕も衆生もみな同じように仏の功徳を蒙り、ともに仏道の悟りを開く境地に至ろう。

 

天下の富を所持するものは朕である。天下の権勢を所持する者も朕である。この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことはなりやすいが、その願いを成就することは難しい。ただいたずらに人々に苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。したがって、この事業に参加するものは心からなる至誠をもって、それぞれが大きな福を招くように毎日三度廬舎那仏を拝し、自らがその思いをもって、それぞれ廬舎那仏造営に従うようにせよ。

 

もしさらに一枝の草や一握りの土のようなわずかなものでもささげて、この造仏の仕事に協力したいと願うものがあれば、欲するままにこれを許そう。国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵しみだしたり、無理に物質を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ、(これを「廬舎那仏造営の詔」と呼ぶ)

天平15年(743)十月十九日 天皇は紫香楽宮に行幸された。廬舎那仏の像をお造りするために、初めて甲賀寺の寺地を開いた。行基法師はここで弟子たちを率いて広く民衆に参加を勧誘した。

 

十一月二日 天皇は恭仁宮に還られたとあるが、紫香楽宮行幸事件は、天平14年8月「朕は近江国紫香楽村に行幸しようと思う」から発(27日)して、9月4日帰還、二回目は12月29日行幸して翌年正月2日、そして天平15年夏4月・10月と続いたのだ。

確かに、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には盧舎那仏像の造立の詔を出しているのだが・・・。

それはおそらく、皇后である光明子の影響を受けたと思われるのだが、その政治的関与についてはわからないけれど、天平12年(740)に聖武と光明子が河内国知識寺に行幸し、盧舎那仏を見たことがきっかけであることは間違いない。

   述懐     越智廣江

文藻我所難    文藻はわが難みする所

荘老我所好    荘老はわが好む所

行年己過半    行年已に半ばを過ぎぬ

今夏為何労    今更に何の為にか労らむ

 

越智廣江:養老5年(721年)元正天皇の詔により、憶良と同じように、佐為王・紀男人・日下部老・山田三方らと共に、退朝後に教育係として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍することを命じられている。 

 

しかも、矢集(やつめ)虫麻呂・塩屋古麻呂(広嗣の乱に連座、配流)・楢原東人らと共に神亀年間(724年 - 729年)の宿儒とされ、高行異才の例として広江について智判事と『令集解(りょうのしゅうげ)』に記されている。

つまり、儒教は五教または五徳(仁・義・礼・智・信)の徳性を拡充することにより、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の関係を維持することを教えている。

養老5年(721年)には、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、憶良・佐為王(諸兄の弟)・紀男人らがいて、君主の心得は、儒家思想であったはずである。

この落ち着きのない聖武を、なぜ、左大臣橘諸兄はお諫めできず、「わが子」と呼んだ太上天皇も咎めることがなかったのであろうか?

 あるいは、元興寺の僧の短歌と、越智廣江の漢詩が、聖武天皇を語っているとしたら、まさに儒教と仏教が相寄り添うことを了承したのであろうか? 

06 1018 十年戊寅元興寺之僧自嘆歌一首[十年(738)戊寅に、元興寺の僧のみづから嘆ける歌一首]

06 1018 白珠者(しらたまは)人尓不所知(ひとにしらえず)不知友縦(しらずともよし)雖不知(しらずとも)吾之知有者(われししれらば)不知友任意(しらずともよし)

06 1018 右一首或云 元興寺之僧獨覺多智 未有顯聞 衆諸狎侮 因此僧作此歌自嘆身才也[右の一首は、或は云はく「元興寺の僧の、独り覚りて智多けれども、顕聞(きか)れず、衆諸のひと狎侮(あなど)りき。 これによりて、僧この歌を作りて、みづから身の才を嘆く」といへり]

 

とはいえ、聖武天皇の中では、儒教の礼楽と仏教の慈悲が程よくまじりあい、本来の仁の政治から唯識の色即是空に身をゆだねたのかもしれない。