彷徨5年Ⅱ 難波宮前期
06 1040 安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舎人大伴宿祢家持作歌一首[安積親王の、左少弁藤原八束朝臣の家に宴せし日(743)に、内舎人大伴宿祢家持の作れる歌一首]
06 1040 久堅乃(ひさかたの)雨者零敷(あめはふりしけ)念子之(おもふこが)屋戸尓今夜者(やどにこよひは)明而将去(あかしてゆかむ)
この頃、家持は聖武天皇の唯一の皇子である、安積親王に臣従しており、その時の宴の名簿はわからないが、歌は家持だけが記されているが、これは明らかに、安積親王を立太子にする算段ではなかったのではないだろうか?
いつの頃かわからないが、次のような記事が『万葉集』にある。
19 4269 十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首[十一月八日に、左大臣橘朝臣の宅に在して、肆宴せる歌四首]
19 4269 余曽能未尓(よそのみに)見者有之乎(みればありしを)今日見者(けふみては)年尓不忘(としにわすれず)所念可母(おもほえむかも)
19 4269 右一首 太上天皇御歌
19 4270 牟具良波布(むぐらはふ)伊也之伎屋戸母(いやしきやども)大皇之(おほきみの)座牟等知者(まさむとしらば)玉之可麻思乎(たましかましを)
19 4270 右一首左大臣橘卿
19 4271 松影乃(まつかげの)清濱邊尓(きよきはまへに)玉敷者(たましかば)君伎麻佐牟可(きみきまさむか)清濱邊尓(きよきはまへに)
19 4271 右一首右大辨藤原八束朝臣
19 4272 天地尓(あめつちに)足之照而(たらはしてりて)吾大皇(わがおほに)之伎座婆可母(しきませばかも)樂伎小里(たのしきをさと)
たらわ・す〔たらはす〕【足らはす】: 満たす。満足させる。 かも: 感動・詠嘆を表す。…だなあ。…ことよ。
19 4272 右一首少納言大伴宿祢家持 未奏
その中の八束の歌【万4271】に、安積親王への想いがこもっているように思えてならないし、家持の【吾大皇】にも親王のことが窺えるのである。
天平十五年(743)十二月二十四日初めて平城宮にあった武器を運んで恭仁宮に納めた。
二十六日、初めて筑紫に鎮西府を置いた(再開)。
最初に平城宮の大極殿お及び歩廊を壊し、恭仁宮へ遷し替えをしてから四年をかけ、ここにその工事がようやく終わった。それに要した経費は悉く計算できないほど多額であった。その上さらに紫香楽宮を造るのであるから、恭仁宮の造営は停止することになった。
閏正月一日 天皇は詔して百官を朝堂に呼び集めた。そして次のように尋ねられた。「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。この問いに対して、恭仁宮が都合がよいと述べたものは五位以上では二十四人、六位以下では百五十七人であった。難波京が都合がよいと述べたものは五位以上では二十三人、六位以下では百三十人であった。
というのも、聖武天皇は、奈良時代の神亀3年(726年)に藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都としていた。
そして天平16年(744年)に入ると、難波京への再遷都を考えるようになったのだが、 軍配は恭仁宮にあがり、四日には市に行かせたが、市人もみな恭仁宮を都とされることを願っていた。
06 1041 十六年甲申春正月五日諸卿大夫集安倍蟲麻呂朝臣家宴歌一首[十六年(744)甲申の春正月五日に、諸の卿大夫の、安倍虫麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首] 作者不審〔作者審らかならず〕
06 1041 吾屋戸乃(わがやどの)君松樹尓(きみまつのきに)零雪乃(ふるゆきの)行者不去(ゆきにはゆかじ)待西将待(まちにしまたむ)
安倍蟲麻呂については、藤原広嗣の乱(740)の戦功により、聖武朝後半は順調に昇進しており、『万葉集』には5首【万665・672・980・1577・1578】が採録されている。
編集者が家持なら歌人が誰であるかわかっていたと思うが、作者を伏せているのは、安積親王を歌っているからだ。
正月九日 天皇は京職(きょうしき:京内の行政・司法・警察を司る役所)に命じて、恭仁宮に諸寺や人民の家を造らせてた。
06 1042 同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首[同じ月十一日に、活道の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲せる歌二首]
06 1042 一松(ひとつまつ)幾代可歴流(いくよかへぬる)吹風乃(ふくかぜの)聲之清者(おとのきよきは)年深香聞(としふかみかも )
06 1042 右一首市原王作
06 1043 霊剋(たまきはる)壽者不知(いのちはしらず)松之枝(まつがえを)結情者(むすぶこころは)長等曽念(ながらぞおもふ)
06 1043 右一首大伴宿祢家持作
正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。知太政官事(ちだじょうかんじ)・従二位の鈴鹿王(長屋王弟)と民部卿・従四位上の藤原朝臣仲麻呂(武智麻呂二男)を留守官に任じた。
この日、安積親王は脚の病のため、桜井の頓宮(かりみや:河内郡桜井郷)から恭仁宮に還った。
正月十三日 安積親王が薨じた。時に都市は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。安積親王は聖武天皇の皇子であり、母は夫人(ぶにん)・正三位の縣犬養宿禰広刀自で、従五位下・縣犬飼宿禰唐(もろこし)の女(むすめ)である。
19 4273 廿五日新甞會肆宴應 詔歌六首
19 4273 天地与(あめつちと)相左可延牟等(あひさかえむと)大宮乎(おほみやを)都可倍麻都礼婆(つかへまつれば)貴久宇礼之伎(たふとくうれし)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『伎』の字には少なくとも、伎(シ)・ 伎(ギ)・ 伎(キ)・ 伎(わざ)・ 伎(たくみ)の5種の読み方が存在する。
之(シ)+伎(シ)=(し)
19 4273 右一首大納言巨勢朝臣
19 4274 天尓波母(あめにはも)五百都綱波布(いほつつなはふ)万代尓(よろづよに)國所知牟等(くにしらさむと)五百都〃奈波布(いほつつなはふ) 似古歌而未詳〔古歌に似ていまだ詳らかならず〕
19 4275 天地与(あめつちと)久万弖尓(ひさしきまでに)万代尓(よろづよに)都可倍麻都良牟(つかへまつらむ)黒酒白酒乎(くろきしろきを)
19 4275 右一首従三位文室智努真人
19 4276 嶋山尓(しまやまに)照在橘(てれるたちばな)宇受尓左之(うずにさし)仕奉者(つかへまつるは)卿大夫等(まへつきみたち)
19 4276 右一首右大辨藤原八束朝臣
19 4277 袖垂而(そでたれて)伊射吾苑尓(いざわがそのに)鸎乃(うぐひすの)木傳令落(こづたひちらす)梅花見尓(うめのはなみに)
19 4277 右一首大和國守藤原永手朝臣
19 4278 足日木乃(あしひきの)夜麻之多日影(やましたひかげ)可豆良家流(かづらける)宇倍尓也左良尓(うへにやさらに)梅乎之努波牟(うめをしのはむ)
19 4278 右一首少納言大伴宿祢家持
二月になって、俄かにあわただしくなり、クーデターが起こったような感情を抱かせるのは、安積親王の詩であろうか
『続日本紀』には、「正月十三日 安積親王が薨じた。時に都市は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた」とある。
二月一日 少納言・従五位上の茨田(まんだ)王を恭仁宮に遣わして、駅鈴(えきれい)・内外印(天皇御璽と太政官印)を取りに行かせた。また諸司および朝集使らを難波宮に召し集められた。
9 4283 梅花(うめのはな)開有之中尓(さけるがなかに)布敷賣流波(ふふめるは)戀哉許母礼留(こひやこもれる)雪乎待等可(ゆきをまつとか )
19 4283 右一首中務大輔茨田王
二月二日 中納言、従三位の巨勢朝臣奈弖麻呂は、留守官が保管していた駅鈴と内外印をもって難波宮に到着した。知太政官事・従二位の鈴鹿王と木工頭(もくのかみ)従五位下の小田王、兵部卿・従四位上の大伴宿禰牛養(うしかい)、大蔵卿・従四位下の小原真人桜井、大蔵太輔・正五位上の穂積朝臣老の五人を恭仁宮の留守官に任じた。治部太輔・正五位下の紀朝臣清人と左京亮・外従五位下の巨勢朝臣嶋村の二人を平城宮の留守官に任じた。
二月十日 天皇は和泉宮に行幸された。
十二日 天下の馬飼の雑戸(ざっこ:賤民に准ずる手工業者)の人たちを開放して公民とした。そして次のように勅された。
「汝らの今名乗っている姓は人の恥じる姓である。そこで解放して平民の身分と同じにする。ただし、いったん解放された後、汝らの身についた技術を子孫に伝え習わせなかったら、子孫は次第に前の卑しい品位の仕事に従わせようと思う」
また官奴婢六十人を解放して良民とした。
二月十三日 天皇のお車は和泉宮から難波宮へ到着した。
20 4360 陳私拙懐一首[私に拙(つたな)き懐を陳べたる一首]并短歌〔并せて短歌〕
20 4360 天皇乃(すめろきの)等保伎美与尓毛(とほきみよにも)於之弖流(おしてるの)難波乃久尓〃(なにはのくにに)阿米能之多(あめのした)之良志賣之伎等(しらしめしきと)伊麻能乎尓(いまのをに)多要受伊比都〃(たえずいひつつ)可氣麻久毛(かけまくも)安夜尓可之古志(あやにかしこし)可武奈我良(かむながら)和其大王乃(わごおほきみの)宇知奈妣久(うちなびく)春初波(はるのはじめは)夜知久佐尓(やちくさに)波奈佐伎尓保比(はなさきにほひ)夜麻美礼婆(やまみれば)見能等母之久(みのともしくて)可波美礼婆(かはみれば)見乃佐夜氣久(みのさやけくて)母能其等尓(ものごとに)佐可由流等伎登(さかゆるときと)賣之多麻比(めしたまひ)安伎良米多麻比(あきらめたまひ)之伎麻世流(しきませる)難波宮者(なにはのみやは)伎己之乎須(きこしをす)四方乃久尓欲里(よものくにより)多弖麻都流(たてまつる)美都奇能船者(みつきのふねは)保理江欲里(ほりえより)美乎妣伎之都〃(みをびきしつつ)安佐奈藝尓(あさなぎに)可治比伎能保理(かぢひきのぼり)由布之保尓(ゆふしほに)佐乎佐之久太理(さをさしくだり)安治牟良能(あぢむらの)佐和伎〃保比弖(さわききほひて)波麻尓伊泥弖(はまにいで)海原見礼婆(うなはらみれば)之良奈美乃(しらなみの)夜敝乎流我宇倍尓(やりわがうへに)安麻乎夫祢(あまをぶね)波良〃尓宇伎弖(はららにうきて)於保美氣尓(おほみけに)都加倍麻都流等(つかへまつると)乎知許知尓(をちこちに)伊射里都利家理(いざりつりけり)曽伎太久毛(そきだくも)於藝呂奈伎可毛(おぎろなきかも)己伎婆久母(こきばくも)由多氣伎可母(ゆたけきべきも)許己見礼婆(ここみれば)宇倍之神代由(うべしかむよゆ)波自米家良思母 (はじめけらしも )
とも・し【羨し】:慕わしい。心引かれる。
『夜』の字には少なくとも、夜(ヤク)・ 夜(ヤ)・ 夜(エキ)・ 夜(よる)・ 夜(よ)の5種の読み方が存在する。
『弊』の字には少なくとも、弊(ヘツ)・ 弊(ヘイ)・ 弊(ハイ)・ 弊れる(やぶれる)・ 弊れる(つかれる)・ 弊える(ついえる)の6種の読み方が存在する。
『乎』の字には少なくとも、乎(ゴ)・ 乎(コ)・ 乎(オ)・ 乎(を)・ 乎(や)・ 乎(かな)・ 乎(か)の7種の読み方が存在する。 夜(ヤ)+弊れる(やぶれる)+ 乎(や)=(や) 『流』の字には少なくとも、流(ル)・ 流(リュウ)・ 流れる(ながれる)・ 流す(ながす)の4種の読み方が存在する。 尓:[音]ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ
はらら :散り散りになるさま。ばらばら。
20 4361 櫻花(さくらばな)伊麻佐可里奈里(いまさかりなり)難波乃海(なにはのみ)於之弖流宮尓(おしてるみやに)伎許之賣須奈倍 (きこしめすなへ)
20 4362 海原乃(うなはらの)由多氣伎見都〃(ゆたけきみつつ)安之我知流(あしがちる)奈尓波尓等之波(なにはにとしは)倍奴倍久於毛保由 (へぬべくおもゆ)
『毛』の字には少なくとも、毛(モウ)・ 毛(ボウ)・ 毛(ブ)・ 毛(け)の4種の読み方が存在する。
『保』の字には少なくとも、保(ホウ)・ 保(ホ)・ 保んじる(やすんじる)・ 保つ(もつ)・ 保つ(たもつ)の5種の読み方が存在する。
毛(モウ)+保つ(もつ)=(も)
20 4362 右二月十三日兵部少輔大伴宿祢家持[右は、二月十三日、兵部少輔大伴宿祢家持]
二十日 恭仁宮の高御座ならびに大楯を難波宮に運んだ。また使いを遣わして、水路によって兵庫にあった武器を船で運ばせた。
二十一日 恭仁宮の人民で難波宮に移りたいと心から願う者には、自由にこれを許した。
二十二日 天皇は安曇江(大阪市北区野崎町)に行幸して、松林を遊覧された。百済王(こにきし)らが百済楽を演奏した。天皇は詔をして、無位の百済王女天に従四位下を、従五位上の百済王慈敬・孝忠・全福にそれぞれ正五位下を授けた。
二十四日 堪能は三嶋路(大阪府三島郡の地を通る道路)を通って、紫香楽宮に行幸された。太上天皇(元正)及び左大臣橘諸兄は難波宮にとどまった。
二十六日 左大臣が勅を宣べて次のように言った。
今から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえて、京都の人々は意のままに両都の間を往来してかまわない。
三月十一日 石上と榎井の二氏が大楯と槍を難波宮の中外門(中門と外門の間の門)に立てた(皇都の表示)
三月十四日金光明寺(東大寺)の大般若経を運んで、紫香楽宮に到着した。朱雀門にる頃は、雑楽がそれを迎えて演奏され、官人はこれを迎えて拝礼した。大般若経を宮中に導きいれた大安殿に安置し、僧二百人を招いて一日中、経の転読を行った。
三月十五日 難波宮の東西の楼殿(たかどの)に僧三百人を招いて大般若経を読ませた。