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沈痾自哀

05 0897 沈痾自哀文 山上憶良作

 

『沈』の字には少なくとも、沈(ドン)・ 沈(チン)・ 沈(タン)・ 沈(ジン)・ 沈(シン)・ 沈める(しずめる)・ 沈む(しずむ)の7種の読み方が存在する。

『痾』の字には少なくとも、痾(ア)・ 痾(やまい)の2種の読み方が存在する。

『自』の字には少なくとも、自(ジ)・ 自(シ)・ 自り(より)・ 自ら(みずから)・ 自ら(おのずから)の5種の読み方が存在する。『哀』の字には少なくとも、哀(アイ)・ 哀しむ(かなしむ)・ 哀しい(かなしい)・ 哀れむ(あわれむ)・ 哀れ(あわれ)の5種の読み方が存在する。

ちん‐あ【沈痾】: いつまでも全快の見込みのない病気

 

05 0897 竊以 朝夕佃食山野者 猶無灾害而得度世 謂常執弓箭不避六齋 所値禽獣不論大小孕及不孕並皆敘食 以此為業者也[ひとりで考えてみると、朝夕に山や野に狩猟して暮らす者ですら、なお殺生の罪を受けることなく生活することが出来き〔常に弓矢を手に持ち六斎日を避けず、目についた禽獣は、大きかろうと小かろうとと、子を孕んでいようと孕んでいなかろうと構わず、ともに皆殺し食べて、それを生業とする者を言う〕 晝夜釣漁河海者 尚有慶福而全経俗 謂漁夫潜女各有所勤 男者手把竹竿能釣波浪之上 女者腰帶鑿篭潜採深潭之底者也昼夜に川や海に魚を釣る者ですら、なお幸せに世を暮らしている。〔漁夫も海女も、それぞれ仕事に励んでいる、男は手に竹竿を取って波の上で魚を釣り、女は腰に鑿や籠つけて深い海の底に潜り貝や海藻を採る者を言う〕 况乎我従胎生迄于今日 自有修善之志 曽無作悪之心 謂聞諸悪莫作諸善奉行之教也[ましてや、私は生まれてから今日に至るまでに、みずから善を行う志を持ち、かつて一度も罪悪を自ら犯したことがない。〔悪行をなさず、善行を尊ぶ教えに従うことを言う〕 所以礼拜三寳 無日不勤 毎日誦経發露懺悔也[そこで、仏、法、僧の三宝を礼拝して、日々勤めに励み、〔日々径文を唱え、罪を告白し悔い改めようとしていることである〕 敬重百神 鮮夜有闕 謂敬拜天地諸神等也[百の神を敬重して、ひと夜として慎まなかった日はない。〔天地の諸神らを敬拝することを言う〕嗟乎媿哉 我犯何罪遭此重疾 謂未知過去所造之罪若是現前所犯之過 無犯罪過何獲此病乎[ああ恥ずかしいことよ、私は何の罪を犯してか、このように重い病を得たのだろう。〔いまだ、過去の所業による罪か、もしくは今目の前に犯しつつある過ちによる罪なのかはわからない。しかし罪を犯すこと無くどうしてこのような病気になるだろう。そう思う気持ちを表す]

 

初沈痾已来 年月稍多 謂経十餘年也[初めて重い病を得てより今日まで、もう年月もひさしい。〔十数年も経っていることを言う〕 是時年七十有四 鬢髪斑白 筋力尫羸 不但年老復加斯病[今年七十四歳にして、頭髪はすでに白く、体力は衰えている。ただに年が老いただけにあらず、この病がある] 諺曰 痛瘡潅塩 短材截端 此之謂也 四支不動 百節皆疼 身體太重 猶負鈞石[諺に曰う、「痛き傷に塩をそそぎ、短き木の端をさらに伐る」というは、まさにこのことなり。手足は動かず、百の節はみな痛み、身体ははなはだ重く、なお鈞石(きんせき)を背負っているかのようだ] 廿四銖為一兩 十六兩爲一斤 卅斤為一鈞 四鈞為一石 合一百廿斤也〔二十四銖(しゅ)を一両として、十六両を一斤とし、三十斤が一鈞、四鈞を一石(じやく)とする。合せて一百二十斤である〕 懸布欲立 如折翼之鳥 倚杖且歩 此跛足之驢[布に寄り懸ってて立とうとすれば、翼折れたる鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすれば、足の萎えた驢馬のようだ] 吾以身已穿俗 心亦累塵 欲知禍之所伏 祟之所隠 龜卜之門 巫祝之室 無不徃問[私は、身はすでに俗世に染み、心もまた俗塵に汚れているので、禍の原因、祟の潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師の門や神意を聞く者の門を叩いて回った] 若實若妄 随其所教 奉幣帛 無不祈禱[彼らの言うことは時として真実であり、時として虚妄であったけれど、とにかくその教えに従い、髪に幣帛を捧げ、祈りをささげつくした] 然而弥有増苦 曽無減差[けれどもいよいよ苦は増し、いっこうに癒えることはなかった] 吾聞 前代多有良醫 救療蒼生病患 至若楡柎扁鵲華他秦和緩葛稚川陶隠居張仲景等 皆是在世良醫無不除愈也[私が聞くことには、「先の代には多くの良き医者がいて、人々の病を治したそうだ。楡柎(ゆふ)、扁鵲(へんじやく)、華他(くわた)、奏の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隠居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちうけい)たちに至っては、皆これ世に居た良き医者で、治せない病気はなかった」と言うそうだ]  

 

扁鵲姓秦字越人 渤海郡人也[扁鵲は、姓は奏、字は越人といい、勃海郡(ぼつかいぐん)の人である] 割胸採心易而置之投以神藥即寤如平也[胸を開いて心臓を取り出し、もう一度置き、神薬を投入すると、患者は目覚めてのち平常の状態に戻った] 華他字元化 沛國譙人也[華他は、字は元化、沛国(はいこく)の焦(せう)の地の人なである] 若有病結積沈重在内者 刳腸取病縫復摩膏四五日差之[病気が積み重なって体内に沈んでいる者がいたなら、腸をさいて病気を取り出し、縫って膏薬を塗った。四五日にして治ったという〕 追望件醫 非敢所及 若逢聖醫神藥者 仰願 割刳五蔵抄探百病 尋達膏肓之隩處 肓鬲也 心下為膏 攻之不可 達之不及 藥不至焉 欲顯二竪之逃匿[これらの名医をいまから望んだとしても、無理であろう、しかしもし聖医や神薬にめぐり逢えるのならば、仰ぎ願うのは、内臓を切り開いて、百の病を探り出し、膏や肓の奥深きところまでたずね当て、〔肓(こう)は横隔膜のことで、心臓の下を膏(こう)という。これは治そうにも治せず、針も届かず、薬も効かない〕 病を起こす二児の逃げ隠れるところを見つけ出したい] 謂晉景公疾秦醫緩視而還者可謂為鬼所敘也〔晋の景公が病気になったことがあった、奏の医者の緩が診察して帰り、景公は鬼のために殺されるだろうと言った。そのことを指す〕 命根既盡 終其天年 尚為哀[寿命がなくなり、その天寿をまっとうするのでさえ、なお哀しいことだ] 聖人賢人者一切含霊誰免此道乎〔聖人も賢者も、すべての生きる物は、誰もこの道を免れることは出来ない〕何况生録未半為鬼枉敘 顏色壮年 為病横困者乎 在世大患 孰甚于此[ましてや、生きるべき年齢の半分にも至らずに、鬼のために不当にも殺され、まだ容姿も盛んな壮年に、病気のために、不当にも苦しめられる者のなんと悲しいことだ。この世にある大患の中で、これより大きな苦しみが他にあるだろうか] 志恠記云 廣平前大守北海徐玄方之女 年十八歳而死 其霊謂馮馬子曰 案我生録當壽八十餘歳 今為妖鬼所枉敘已経四年 此遇馮馬子乃得更活是也〔志恠記にいうことには、「広平県の前の大守、北海の徐玄方(じよげんはう)の娘が、年十八歳にして亡くなりその霊が憑馬子(ひようまし)という男の夢に現れて、『私の生きるべき年齢を見ると、八十余歳のはずです。それが妖しい鬼のために不当に殺されて、すでに四年が経ちました』と言った。結局この憑馬子に逢って、生き返ることが出来た」と言う。これは年若く鬼に苦しめられた例である] 内教云瞻浮州人壽百二十歳 謹案此數非必不得過此 故壽延経云 有比丘名曰難達 臨命終時詣佛請壽 則延十八年 但善為者天地相畢 其壽夭者業報所招 随其脩短而為半也 未盈斯笇而遄死去 故曰未半也[ 仏典に書かれていることには「瞻浮州(せんぷしう)の人の寿命は百二十歳」と言う。謹みて考えてみると、この百二十という数は必ずしもこれをを越えられないわけではない。それゆえ、寿延経(じゆえんきやう)には、「一人の僧がいて、名を難達(なんだつ)といった。命終る時になって、仏を拝みさらなる寿命を願ったところ、十八年生き延びた」と言う。ただ、善いことを行う者は天地とともに生きるもので。その長寿か夭折するかは業の報いのもたらすものであり、その業と報いの長短によって命は半分ともなるのである。いまだその寿命の命数にならずに、速くも死去してしまうのだ。それゆえ、半分にもならないという]任徴君曰 病従口入 故君子節其飲食 由斯言之 人遇疾病不必妖鬼 夫醫方諸家之廣説 飲食禁忌之厚訓 知易行難之鈍情 三者盈目滿耳由来久矣[ 任徴君(にんちようくん)の言うことには、「病気は口から入る。それゆえ、りっぱな人間は飲食を節制する」と言う。これによって言えば、人が病気になるのは、必ずしも妖しき鬼のせいではない。そもそも、多くの医者の優れた説と、飲食を慎めという立派な教えと、知りながらも行ひ難き人間の俗情とのこの三つを、目に見て耳に聞くことすでに久しい] 抱朴子曰 人但不知其當死之日 故不憂耳 若誠知羽翮可得延期者 必将為之 以此而觀 乃知我病盖斯飲食所招而不能自治者乎 抱朴子(はうぼくし)が言うことには、「人はただ、その死ぬ日を知らないから哀しまないだけだ。もしほんとうに羽の生えた仙人になって寿命を伸ばす術を知ったなら、どんなことでも必ずそれをしようと思うだろう」と言った。これらによって見れば、よくわかる、私の病気は必ずや飲食の招いたもので、自分では治す術のないものだ、と] 

 

この『自哀文』は誰宛なのかと思ってしまうのだが、おそらく、長屋王とも親交があった、行基(668-749)その人ではなかろうか?

朝廷は天平3年(731年)には、行基集団の弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量に任せていたのだ。

帛公略説曰 伏思自勵以斯長生 〃可貪也 死可畏也 天地之大徳曰生 故死人不及生鼠[帛公畧説(はくこうりやくせつ)が言うことには、「つつしんで考え自らつとめると、あの長寿を得ることが出来る。生は貪欲に求めるがいい。死は畏れるべきものだ」と言う。天地の間の大徳を生と言う。ゆえに、死んだ人は生きている鼠(ねずみ)にも及ばない] 雖為王侯 一日絶氣 積金如山 誰為富哉 威勢如海 誰為貴哉[王侯といえども一日息の根を絶ったならば、金を積むこと山の如くあったとしても、もはや富裕とはいえない。威勢の海の如くあったとしても、もはや誰も貴いとは思わないだろう] 遊仙窟曰 九泉下人 一錢不直 孔子曰 受之於天 不可變易者形也 受之於命 不可請益者壽也[遊仙窟に言うことには、「黄泉の国にある人には、一銭の値打ちも無い」とい言う。孔子の言うことには、「天から授かって、変えることの出来ないものは形だという。天命によって定められ、求めることの出来ないものは寿命だ」と言う] 見鬼谷先生相人書〔鬼谷(きこく)先生の相人書(さうにんしよ)にこのことは見えている〕 故知生之極貴命之至重 欲言〃窮 何以言之 欲慮〃絶 何由慮之 惟以人無賢愚 世無古今 咸悉嗟歎 歳月競流 晝夜不息[ゆえに、知る、生の極めて貴く、命の至って重いことを。言おうにも言葉が見つからない。何をもってこの気持ちを言い表そう。思いめぐらそうにも思いがつづかない。何によってこの理を考えよう。考えてみれば、人間は賢者愚者の区別なく、昔から今に至るまで、ことごとくに嘆き繰り返してきた。歳月は競うように流れて、昼夜留まることがない] 曽子曰 徃而不反者年也 宣尼臨川之歎亦是矣也〔曽子の言うことには、「往きて帰らないのは年である」と言う。孔子がの川上にあって嘆いたのもまたこれである〕 老疾相催 朝夕侵動 一代懽樂未盡席前 魏文惜時賢詩曰 未盡西苑夜劇作北邙塵也 千年愁苦更継坐後[老いと病とが誘い合うかのように、朝夕に私の身を侵して競っている。 一生の快楽はいまだ眼前に尽し切れないのに、 〔魏の文帝の時賢(じけん)を惜しめる詩に言うことには、「まだ西苑の夜の快楽も尽くさないのに、はやくも北望に葬られて塵となる」と言う〕 千年の愁い苦しみはまた私の背後に迫っている] 古詩云 人生不滿百何懐千年憂矣〔古詩に言うことには、「人生は百年にも満たないのに、どうして千年の憂いを抱いたりなどしよう」言う〕 若夫群生品類 莫不皆以有盡之身並求無窮之命 所以道人方士 自負丹経入於名山而合藥之者 養性怡神以求長生[そもそもが生きとし生けるものは、皆限りある身を持っているにもかかわらず、無限の命を求める。それゆえに、道人や方士は自ら丹薬とその処方を解説した経を背負って、名山に入って薬を調合する者は、体調を整え精神を和らげて、それによって長生を得るのだ] 抱朴子曰 神農云 百病不愈 安得長生[抱朴子が言うところでは、「神農(じんのう)が言うことには『多くの病気が癒えずして、どうして長生きなどできるだろう』と言った」と言う] 帛公又曰 生好物也 死悪物也 若不幸而不得長生者 猶以生涯無病患者為福大哉 今吾為病見悩不得臥坐 向東向西莫知所為 無福至甚惣集于我 人願天従 如有實者 仰願 頓除此病頼得如平 以鼠為喩 豈不愧乎 已見上也[帛公がまた言うところでは、「生は好き物であり、死は悪しき物である」と言う。もし不幸にして長生きが出来ないのならば、生涯病気に患わないことをもって、大きな幸せとするべきであろうか。いま私は病気のために悩まされ、寝起きも思うようにできない。どのようにもする術を知らない。不幸の甚だしきものが、すべて私に集まっている。「人が願えば天も応ずる」と言う。もしこれが事実であれば、仰いで願うのは、すぐにでもこの病気を取り除いて、平生の幸せを得たい。鼠を持って喩えとしたのは、恥ずかしき事であった。〔すでに上に述べたとおりである

憶良(660-733)は、さまざまな古人や賢者の言葉を連ねて生の貴さと死の悲しさを語り、天が願いを叶えてくれるのならば病の無い平生の幸せを得たいとの望みを書いて文章を締めくくっているわけだけど、それが行基(668-749)への遺言であろうか?

因みに行基は、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き、数千人から多い時には1万人を集めて説教し、民衆を惑わしているとされた(『続日本紀』)。

しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断され、朝廷は天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。

行基の思想は福田思想とよばれ、これは善い行為の種子をまいて功徳の収穫を得る田地の意味で、仏教社会福祉の理念を知る語である。

大乗仏教では菩薩(求道者)の智恵と慈悲に基づく利他行が重視されたので、福田思想は仏教徒の社会的実践の基本となったのである。

行基の行った社会事業はまさに、自ら事業に参加することで民衆のために力を尽くす福田そのもので、これにより仏教の功徳を得ることを希求したのであろう。

(堺市文化財課学芸員 近藤康司氏)

憶良が説いているのは、「生老病死」のことであり、生苦(しょうく)・老苦(ろうく)・病苦(びょうく)・死苦(しく)の4つの苦しみについてであり、そのことを行基に迫ったのには、志半ばともいうべき言い切れぬ、胸が張り裂けるような想いがあったからである。

一方の行基の思想は、朝廷に逆らっても民衆のために、土木事業を着実に進めており、それこそ、鮮やかに三福田の思想として根付いたかもしれない。

その三つとは、悲田(ひでん)(本当に困っている人)・恩田(おんでん)(ご恩を受けている人)・敬田(きょうでん)(敬うに値する人)である。

この三福田に当たる人たちに布施をすると、すばらしい結果が返ってくるというのだが、憶良にはもうその力は残っておらず、その苦境を、絶え絶えに漢詩歌を遺したのかもしれない。

沈痾自哀文』は、医術にも造詣の深い憶良にとって、決して不滅永生を嘆いているのでなく、この先々を憂いての『日本挽歌』だったかもしれない。

憶良の死生観は、仏教とは違って、「こ の世に永遠に生 きていたい」 とい う、儒教的なものであったかもしれないが、その願望が信仰に変わるようなことはなかったが、ただ行基が率いる民衆のエネルギーには希望をもって託したかったに違いない。