藤原広嗣の乱Ⅰ
天平12年(740)六月十五日 次のように勅した。
朕は八方の果てにまで君臨し、万民の主となっている。薄氷を履み、朽ちた手綱で宇馬を御するような心もとなさであるが、人々を覆い育む深い思いで早朝より衣を改め、夜遅く寝ることも忘れて、人が濠に落ちたように苦しんでいることはないかと、切に思うのである。如何にして天の命に応え、人民が休息と平安を楽しみ、天命に適って、国家に安泰の栄をもたらすことができるかを考えている。人々に寛仁の政治を行き渡らせたら、法網にかかって苦しむ人々も、身命を保って長生きできるであろう。また大きな恵みを施せば、窮乏の人々も厳しい徴発を逃れて安らかに暮らせるであろう。
08 1627 大伴宿祢家持攀非時藤花并芽子黄葉二物贈坂上大嬢歌二首[大伴宿祢家持の、時じき藤の花と萩の黄葉との二つの物を攀ぢりて、坂上大嬢に贈れる歌二首]
とき・じ【時じ】: その時節ではない。季節はずれである。
08 1627 吾屋前之(わがやまの)非時藤之(あらじやふぢの)目頬布(めづらしく)今毛見壮鹿(いまもみてしか)妹之咲容乎(いもがゑまひを)
『前』の字には少なくとも、前(ゼン)・ 前(セン)・ 前(まえ)・ 前(さき)の4種の読み方が存在する。
『非』の字には少なくとも、非(ヒ)・ 非い(わるい)・ 非る(そしる)・ 非ず(あらず)の4種の読み方が存在する。
『頬』の字には少なくとも、頬(キョウ)・ 頬(ほお)の2種の読み方が存在するが、古語で「頬」にあたるのは「つら」であり、「つらの皮が厚い」「つら汚し」「横っつら」「つらを貸せ」などのかたちで現代にも引き継がれている。
『布』の字には少なくとも、布(ホ)・ 布(フ)・ 布(ぬの)・ 布く(しく)の4種の読み方が存在する。
咲:[音]ショウ(呉・漢)[訓]さ-く(表内)ざき、さき、わら-う、え-む(表外)
容:[音]ユウ(呉)ヨウ(漢)[訓]い-れる、ゆる-す、ひろ、まさ-に、かた(表外)
えまい〔ゑまひ〕【笑まひ/▽咲まひ】 : ほほえむこと。微笑。
08 1628 吾屋前之(わがやまの)芽子乃下葉者(はぎのしたばは)秋風毛(あきかぜも)未吹者(いまだふかねば)如此曽毛美照(かくぞもみてる)
08 1628 右二首天平十二年庚辰夏六月徃来[右の二首は、天平十二年庚辰の夏六月に往来せり]
そこで大赦が行われ、流人の穂積朝臣老・多治比真人祖人・名負・東人(伊豆国に流罪となった「三宅麻呂」の遺児たち)、そして久米連若女らの五人は、流罪地から召して京都に入らせた。
というのも三宅麻呂は、養老6年(722年)謀反を誣告したとして罪を得て、斬刑に処せられるところを皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の奏請によって減刑されて伊豆国への流罪となったが、配所にて卒去。 謀反を誣告とはただならぬことだが、長屋王と藤原氏の争いに巻き込まれたのかもしれないが、この時大納言には、甥の多治比 池守(たじひ の いけもり)がおり、単純な話ではないように思う。
久米 若女(くめ の わかめ、生年不詳 - 宝亀11年6月24日(780年7月30日))は、藤原宇合と結婚し百川(732-779)を生むが、天平9年(737年)に宇合に先立たれ、天平11年(739年)3月、石上乙麻呂と関係して和姦の罪で下総に流されていた。
08 1458 厚見王贈久米女郎歌一首
08 1458 室戸在(へやにある)櫻花者(さくらのはなは)今毛香聞(いまもかも)松風疾(まつかぜはやみ)地尓落良武(ちにおちるらむ)
『室』の字には少なくとも、室(シツ)・ 室(シチ)・ 室(シ)・ 室(むろ)・ 室(へや)・ 室(つま)・ 室(いえ)の7種の読み方が存在する。
『戸』の字には少なくとも、戸(コ)・ 戸(へ)・ 戸(と)の3種の読み方が存在する。
室(へや)+ 戸(へ)=(へや)
08 1459 久米女郎報贈歌一首
08 1459 世間毛(よのなかも)常尓師不有者(つねしあらずば)室戸尓有(へやにある)櫻花乃(さくらのはなの)不所比日可聞(くらべざるかも)
『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。
『師』の字には少なくとも、師(シ)・ 師(みやこ)・ 師(いくさ)の3種の読み方が存在する。
尓(シ)+師(シ)=(し)
『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。
所:[音] ショ(呉)ソ(漢)[訓]ところ(表内)る、ら-る、ばか-り、ところ-とする(表外) 不(…ず)+所(る)=(ざる)
『日』の字には少なくとも、日(ニチ)・ 日(ニキ)・ 日(ジョク)・ 日(ジツ)・ 日(ひ)・ 日(か)の6種の読み方が存在する。
『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。
日(か)+可(カ)=(か)
『比』の字には少なくとも、比(ビチ)・ 比(ビ)・ 比(ヒツ)・ 比(ヒ)・ 比ぶ(ならぶ)・ 比(たぐい)・ 比(ころ)・ 比べる(くらべる)の8種の読み方が存在する。
久米女郎は、若売のことかと思われ、その贈答は天平5年(733年)ころから13年(741年)ころと推定される。
なおこの厚見王(あつみおう/あつみのおおきみ、生没年不詳)は、知太政官事・舎人親王の子とする系図があり、孝謙朝の天平勝宝6年(754年)太皇太后・藤原宮子の葬儀の御装束司を務めている。
他に万葉集に二首あり、 04 0668 厚見王歌一首
04 0668 朝尓日尓(あさにけに)色付山乃(いろづくやまの)白雲之(しらくもの)可思過(おもひすぐべき)君尓不有國(きみにあらなく)
08 1435 厚見王歌一首
08 1435 河津鳴(かはづなく)甘南備河尓(かむなびかはに)陰所見而(かげとみて)今香開良武(いまかさくらむ)山振乃花(やまぶきのはな)
「開」はカ行四段活用動詞「さく」の連用形で「開(さ)き」と訓む。「開」を「さく」と訓み、「さく」は「花のつぼみがひらく」ことをいうので「ひらく」の「開」の字が充てられたものー義訓。
13 3240 王(おほきみの)命恐(みことかしこみ)雖見不飽(とみあかず)楢山越而(ならやまこえて)真木積(まきをつむ)泉河乃(いづみのかはの)速瀬(はやきせを)竿刺渡(さをさしわたり)千速振(ちはやぶる)氏渡乃(うぢのわたりの)多企都瀬乎(たぎつせを)見乍渡而(みつつわたりて)近江道乃(あふみぢの)相坂山丹(あふさかやまに)手向為(たむけして)吾越徃者(わがこえゆけば)樂浪乃(ささなみの)志我能韓埼(しがのからさき)幸有者(さちあらば)又反見(またかへりみむ)道前(みちのくま)八十阿毎(やそくまごとに)嗟乍(なげきつつ)吾過徃者(わがすぎゆけば)弥遠丹(いやとほに)里離来奴(さとさかりきぬ)弥高二(いやたかに)山文越来奴(やまもこえきぬ)劔刀(つるぎたち)鞘従拔出而(さやゆぬきでて)伊香胡山(いかごやま)如何吾将為(いかにあがせむ)徃邊不知而(ゆくへしらずて)
かしこ【▽畏/▽恐/賢】 :恐れ多いこと。もったいないこと。
『雖』の字には少なくとも、雖(ユイ)・ 雖(スイ)・ 雖(イ)・ 雖も(いえども)の4種の読み方が存在する。
いえ‐どもいへ‥【雖】:万葉の訓では「雖」に「ど」「ども」を当てている。
『見』の字には少なくとも、見(ゲン)・ 見(ケン)・ 見(カン)・ 見る(みる)・ 見せる(みせる)・ 見える(みえる)・ 見える(まみえる)・ 見れる(あらわれる)の8種の読み方が存在する。
とみ-に 【頓に】:〔多く下に打消の語を伴って〕急には。すぐには。
あか‐ず【飽かず/×厭かず】 :飽きないで。いつまでも嫌にならないで。
『飽』の字には少なくとも、飽(ホウ)・ 飽きる(あきる)・ 飽かす(あかす)の3種の読み方が存在する。
13 3241 反歌
13 3241 天地乎(あめつちを)歎乞禱(なげきいのりし)幸有者(さちあれば)又反見(またかへりみむ)思我能韓埼(しがのからさき)
『乞』の字には少なくとも、乞(コツ)・ 乞(コチ)・ 乞(ケ)・ 乞(キツ)・ 乞(キ)・ 乞う(こう)の6種の読み方が存在する。
13 3241 右二首 但此短歌者 或書云穂積朝臣老配於佐渡之時作歌者也[右は二首。ただ、この短歌は、或る書に云はく「穂積朝臣老の佐渡に配さえし時に作れる歌」といへり]
養老6年(722年)に元正天皇を非難し不敬罪を問われ斬刑となるところを、皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の奏上で減刑されて佐渡島への流罪となり失脚したときの歌になる。
六月十九日 天下の諸国に、国ごとに法華経を十部写し、あわせて七重塔を建てさせることにした。
法華経は在家を対象とした聖典であり、法華経は哲学的思想においては単純であり、布教こそが最大の菩薩行となっている。
天平12年(740年)4月に新羅に派遣した遣新羅使が追い返される形で8月下旬に帰国し、憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送ったとあるー広嗣は「天地による災厄は(反藤原勢力の要である)右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するもので、2人を追放すべき」との上奏文を朝廷に送るが、時の権力者である右大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。
真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判する等、その内実は諸兄への批判である事は明白であった。
広嗣が、なぜこうまで諸兄に反発したのわからない、もちろん表面上は玄昉と真備なのであるが、上司にあたる高橋安麻呂の歌がある。
06 1027 橘(たちばなの)本尓道履(もとにみちふむ)八衢尓(やちまたに)物乎曽念(ものをぞおもふ)人尓不所知(ひとにしらえず)
06 1027 右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也 但或本云三方沙弥戀妻苑臣作歌也 然則豊嶋采女當時當所口吟此歌歟[右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿語りて云はく「故豊島采女の作なり」といへり。 ただ或る本に云はく「三方沙弥の、妻の苑臣に恋ひて作れる歌なり」といへり。然らばすなはち、豊島采女は、当時当所にこの歌を口吟へるか]
ところが、この豊島采女 (としまの-うねめ)ついてはよくわかっていないのだが、その前の歌の左注にも、【06 1026 右一首右大臣傳云 故豊嶋采女歌】とある。
06 1026 百磯城乃(ももしきの)大宮人者(おほみやひとは)今日毛鴨(けふもかも)暇无跡(いとまをなみと)里尓不出将有(さとにでざらむ)
な-み 【無み】:なりたち形容詞「なし」の語幹+接尾語「み」
同時に筑前国遠賀(おんが)郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集し、軍縮によって官兵の動員には時間がかかると予測した広嗣は、関門海峡を臨む登美・板櫃(いたびつ:豊前国企救郡)・京都(豊前国京都郡)の三郡鎮に兵を増派した。
また、中央には広嗣の政治路線に同調する中臣名代・大和長岡といった実務官人は少なくなく、挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに成功することに期待したというが、どこにそんな期待が持てたのであろう?
聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出すも、広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手と共に大宰府の手勢や隼人等を加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こしたのだ。
広嗣(?-740)は、藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男なのだが、他の三家(南家・北家・京家)の協力もなく独りよがりの乱でしかないのだ。
武智麻呂(南家)の長男豊成(704-766)は、天平11年(739年) 正月13日:正四位下・天平12年(740年) 正月:兼中衛大将、 二男仲麻呂(706-764)は、天平12年(740年)- 1月13日 正五位下である。
房前(北家)の長男は早世し、二男永手(714-771)は、天平9年(737年) 9月28日:従五位下、三男真楯(初名:八束715-766)は、天平12年(740年) 正月13日:従五位下。
麻呂(京家)の嫡男浜成(724-790)はまだ官位もなく年若かったが、その時の広嗣の官位は、天平9年(737年) 9月28日:従五位下のままであった。
実は、天平4年(732年)、地方軍備体制の整備をおこなうために節度使が置かれると、宇合は西海道節度使に任ぜられ、九州に赴任する。
九州では軍事行動マニュアルとして「式」を整備し、約50年後の宝亀11年(780年)になっても大宰府に対して、宇合の式に基づいて警固をおこなうように勅令が出ており、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されており、それに基づいて広嗣も務めていたのではなかったであろうか?
広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手と共に大宰府の手勢や隼人等を加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こしたのである。
綱手(つなて、?- 740)は、宇合の四男(あるいは五男)だが、無官位であり、まだ二十歳になっていなかっかもしれず、おそらく広嗣のもとで養われて、そのまま反乱軍に加わったのであろう。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅(ひえき)が都にもたらされ、聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じ、4日、朝廷に出仕していた隼人24人に従軍が命じられ、右大臣橘諸兄が勅を宣べ、地位によってそれぞれ位階を授けるとともに、位階に相応した色の服を与え、広嗣討伐に出発させた。