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藤原広嗣の乱Ⅱ

交戦勢力
朝廷 大宰府
指導者・指揮官
大野東人
紀飯麻呂
佐伯常人
阿倍虫麻呂
藤原広嗣
藤原綱手
多胡古麻呂
戦力
約1万7000人 1万人以上

九月十五日 四畿内と七道諸国に次のように勅した。

この頃、筑紫の地方に無法の臣下があらわれたので軍に命じて討伐させている。仏の有難い助けにより、人民を安泰させたいと願っている。そのため今、国ごとに高さ七尺の観世音菩薩像を一体づつ造るとともに、観世音経十巻を写経するように!

九月二十一日 大将軍・大野朝臣東人らに、次のように勅した。

東人らの奏上によって、遣新羅使の船が長門国に停泊していることを知った。その船に積んであるものは便宜に従って長門国に収蔵し、使節の中に討伐に採用すべき人があれば、将軍はそのものを採用するがよい

九月二十四日 大将軍の大野東人らが次のように言上してきた。

賊徒である豊前国京都(みやこ)郡の鎮長である太宰史生・従八位上小長谷(おはつせ)常人・企救郡板櫃鎮の小長の凡河内田道を撃ち殺しました。ただし大長の三田塩籠は箭を二本を受けたままの中に逃げ隠れました。登美・板櫃・京都の三か所の兵営の兵士千七百禄十七人を捕虜にしました。押収した兵器は十七種ありました。

九月二十五日 大将軍大野東人らは、豊前国の輩たちが、次から次へ官軍に帰順してきたことを言上している。

実はこの東人、神亀元年(724年)3月に海道の蝦夷が反乱を起こしたとき、持節大将軍・藤原宇合のもとで、副将軍格で従軍していたのだ。

さらに天平9年(737年)には、 たらしく以下の遠征軍が派遣され、持節大使に任じられた藤原麻呂に、奥羽通路開通の報告をしている。

九月二十九日 天皇は次のように勅した。

反逆者広嗣は小さい時から凶暴で、成長するに及んで、よく人を偽り陥れるようになった。父の故式部卿(宇合)は常に広嗣を朝廷から覗こうと願っていたが、朕はその願いを許すことができずかばって今に至った。ところが京内で親族をそしったり、折り合いが悪いので、遠くに遷して彼が心を改めることを願っていた。しかし今ほしいままに凶悪な反逆をして、人民を騒がしている。この不忠不幸は天地の道理に違背し、神明に見捨てられ滅亡することは朝夕に迫っている。このことはすでに先に勅符を送って彼の国に知らせてある。

 

しかしまた広嗣の仲間の謀反人が、送使を捕らえて殺し、勅符を行き渡らせないようにしていると聞いている。そのため新たに勅符数十通を諸国にまき散らさせた。この勅を見たものは、よろしく早く承知せよ。もし元から広次人心を同じくして、謀反を起こした人でも、今心を改めて過ちをくい、広嗣を殺して人民の生活を安らかにさせたならば、無位・無官の庶民の場合は、五位以上を賜り、官人の場合は地位に応じてさらに高い冠位を加給しよう。もし自身が殺されたなら、その子孫に賜るであろう。忠臣・技師の者は、速やかにこの勅旨の実行をはかれ、討伐の大軍は引き続いて出発・侵入するであろう。よろしくこの状況をわきまえるべきである。

9月末に東人は長門国へ至ると、佐伯常人・阿倍虫麻呂に先発隊を率いさせて渡海させ板櫃鎮(豊前国企救郡)を攻略しにかかった。

10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃川(北九州市)に至り、河の西側に布陣し、勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6,000人余で川の東側に布陣した。

広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を撃ち防ぎ、常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。

すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめ、 常人らは十度、広嗣を呼び、ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。

 

常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。

常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うと、広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。

この問答を聞いていた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。

これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏し、投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。

その後、板櫃川の会戦に敗れて敗走した広嗣は、船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。

 

ところが耽羅(たんら)嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。

広嗣は「わたしは大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋に戻されてしまった。

04 0665 安倍朝臣蟲麻呂歌一首

04 0665 向座而(むかひゐて)雖見不飽(みれどもあかぬ)吾妹子二(わぎもこに)立離徃六(たちかれゆかむ )田付不知毛(たづきしらずも)

04 0672 安倍朝臣蟲麻呂歌一首

04 0672 倭文手纒(しつたまき)數二毛不有(かずにもあらぬ)壽持(いのちもて)奈何幾許(なにかここだく)吾戀渡(あがこひわたる)

 

しず‐たまき〔しづ‐〕【倭=文手×纏】:[枕]《上代は「しつたまき」》倭文で作った手纏きは玉製などに比べて粗末なところから、「いやしき」「数にもあらぬ」にかかる。

 

06 0980 安倍朝臣蟲麻呂月歌一首

06 0980 雨隠(あまごもり)三笠乃山乎(みかさのやまを)高御香裳(たかみかも)月乃不出来(つきのいでこぬ)夜者更降管(よはふけにつつ)

08 1577 秋野之(あきののの)草花我末乎(をばながうれを)押靡而(おしなべて)来之久毛知久(こしくもしるく)相流君可聞(あへるきみかも)

08 1578 今朝鳴而(けさなきて)行之鴈鳴(ゆきしかりがね)寒可聞(さむみかも)此野乃淺茅(このののあさぢ)色付尓家類(いろづきにける)

08 1578 右二首阿倍朝臣蟲麻呂

06 1029 十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首[十二年(740)庚辰の冬十月、大宰少弐藤原朝臣広嗣の謀反して軍を発せるに依りて、伊勢国に幸しし時に、河口の行宮にして内舎人大伴宿祢家持の作れる歌一首]

06 1029 河口之(かはくちの)野邊尓廬而(のへにいほりて)夜乃歴者(よのふれば)妹之手本師(いもがたもとし)所念鴨(おもほゆるかも)

06 1030 天皇御製歌一首

06 1030 妹尓戀(いもにこひ)吾乃松原(あがのまつばら)見渡者(みわたせば)潮干乃滷尓(しほひのかたに)多頭鳴渡(たづなきわたる)

06 1030 右一首今案 吾松原在三重郡 相去河口行宮遠矣 若疑御在朝明行宮之時所製御歌 傳者誤之歟[右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重郡にあり、河口の行宮を相去ること遠し。けだし朝明の行宮におはしましし時に、製りましし御歌にして、伝ふる者誤れるか]

 

【故地説明】関の宮ともいわれ、この地にあった行宮だが、遺址は小字御城の医王寺付近と伝えられ、天平12(740)年11月聖武天皇は10日間滞在、藤原広嗣逮捕の報告を受けた。 

 

光明皇后以外に、聖武天皇(39)の後宮には4人の夫人が入っていたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。

 

ところが、聖武の寵愛を受けたが入内していない女性に矢代(やしろ)女王がおり、さらに言えば、大伴坂上郎女とも親交があったという。

08 1656 大伴坂上郎女歌一首[大伴坂上郎女の歌一首]

08 1656 酒坏尓(さかづきに)梅花浮(うめのはなうき)念共(おもふどち)飲而後者(のみてののちは)落去登母与之(ちりぬともよし)

08 1657 和歌一首

08 1657 官尓毛(つかさにも)縦賜有(ゆるしたまへり)今夜耳(こよひのみ)将飲酒可毛(のまむさけかも)散許須奈由米(ちりこすなゆめ)

 

『縦』の字には少なくとも、縦(ソウ)・ 縦(ジュウ)・ 縦(ショウ)・ 縦んば(よしんば)・ 縦める(ゆるめる)・ 縦す(ゆるす)・ 縦(ほしいまま)・ 縦つ(はなつ)・ 縦(たて)の9種の読み方が存在する。

こす:〔希望〕…してほしい。…してくれ。

「な 」は【無】で、「散ってほしくない」といって、次にかかっている。

ゆめ 【夢】:夢のようなこと。▽非現実的な、または、はかないこと。

 

08 1657 右酒者官禁制偁 京中閭里不得集宴 但親〃一二飲樂聴許者 縁此和人作此發句焉[右、酒は、官の禁制してはく「京中の閭里(りょり:村里)に、集宴することを得ざれ。ただ、親々一二の飲楽は聴許す」といへり。これによりて和ふる人この発句を作れり

08 1658 藤原后奉 天皇御歌一首[藤(とう)皇后(光明皇后)が聖武天皇に奉った御歌一首]

08 1658 吾背兒与(わがせこと)二有見麻世波(ふたりみませば)幾許香(いくばくか)此零雪之(このふるゆきの)懽有麻思(よろこびうまし)

 

『懽』の字には少なくとも、懽(カン)・ 懽ぶ(よろこぶ)の2種の読み方が存在する。

うま・し 【甘し・旨し・美し】:すばらしい。立派だ。よい。

 

19 4224 朝霧之(あさぎりの)多奈引田為尓(たなびくたゐに)鳴鴈乎(なくかりを)留得哉(とどめえるかな)吾屋戸能波義(わがやどのはぎ)

19 4224 右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳誦云尓 [右の一首の歌は、吉野の宮に幸しし時に、藤原の皇后作りませり。 ただ年月はいまだ審詳ならず。十月五日に、河辺朝臣東人が伝へ誦むとしか云ふ]

 

東人とは、山上憶良の沈痾の時に、藤原真楯の使者として容態を尋ねており、八束・諸兄、そして光明子へとつながったのであろうか? 

しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、10月23日に肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられ、11月1日に綱手と共に肥前松浦郡にて処刑された。

04 0626 八代女王獻 天皇歌一首[八代女王の天皇に献れる歌一首]

 

 04 0626 君尓因(きみにより)言之繁乎(ことのしげきを)古郷之(ふるさとの)明日香乃河尓(あすかのかはに)潔身為尓去(きよみしにゆく)一尾云 龍田超(たつたこえ)三津之濱邊尓(みつのはまへに)潔身四二由久(きよみしにゆく)

10月23日、値嘉嶋(現在の宇久島)に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられ、 11月1日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を、肥前国松浦郡唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。

 

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出て行ったのである。

藤原 広嗣(?-740)は、宇合の長男だが、二男良継(716-777)は、連座して伊豆国へと流罪となり、三男清成は不明(夭折)、四男綱手(?-740)、五男田麻呂(722-783)隠岐国配流、八男百川(732-779)、九男:蔵下麻呂(733 - 775)

19 4257 十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首

19 4257 手束弓(たつかゆみ)手尓取持而(てにとりもちて)朝獵尓(あさがりに)君者立之奴(きみはたたしぬ)多奈久良能野尓(たなくらののに)

19 4257 右一首治部卿船王傳誦之 久邇京都時歌[右の一首は、治部卿船王の伝え誦める、久邇の京都の時の歌なり]未詳作主也[いまだ作主を詳らかにせず]

 

恭仁宮時代の歌としているけれど、明らかに広嗣の乱の手柄を謳ったものであろうが、家持が献上したのではないだろうか?

 

19 4258 明日香河(あすかがは)〃戸乎清美(かはとをきよみ)後居而(おくれゐて)戀者京(こふればみやこ)弥遠曽伎奴(いやとほそきぬ)

 

とほ-そ・く 【遠退く】:遠く離れる。遠ざかる。

 

19 4258 右一首左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦 古京時歌也[右の一首は、左中弁中臣朝臣清麻呂の伝へ誦める、古き京の時の歌なり]

19 4259 十月(かむなづき)之具礼能常可(しぐれのつねか)吾世古河(わがせこが)屋戸乃黄葉(やどのもみちば)可落所見(ちりぬべくみゆ)

19 4259 右一首少納言大伴宿祢家持當時矚梨黄葉作此歌也[右の一首は、少納言大伴宿祢家持、当時梨の黄葉を矚(み)てこの歌を作れり]

十月二十六日 天皇は、大将軍大野朝臣東人らに次のように勅した。

朕は思うところがあって、今月の末よりしばらくの間、関東(伊勢・美濃以東の地)に行こうと思う。行幸に適した時期ではないが、事態が重大でやむを得ないことである。将軍らはこのことを知っても、驚いたり怪しんだりしないようにせよ。

十月二十九日 伊勢国に行幸が行われた。知太政官事兼式部卿・正三位の鈴鹿王と兵部卿兼中衛大将・正四位下の藤原朝臣豊成とを留守居の官に任じた。

 

進士(官吏試験の合格者)・無位の安倍朝臣黒麻呂が十月二十三日丙子(ひのえね)の日に、逆賊の広嗣を肥前国松浦郡値嘉島の長野村で捕らえました。(十一月三日東人言上)

 

これに答えて天皇は次のように詔した。

今、二十九日の奏上を見て、逆賊広嗣が捕らえられたことを知った。広嗣の罪は明白で、疑う余地がないので、法の規定により処断し、終わってから報告するように。