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長屋王と藤原四兄弟Ⅰ

元正天皇が養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となり、譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐することになる。

辛巳事件(しんしじけん)とは、神亀元年(724年)2月に聖武天皇が生母の藤原宮子に対して勅によって与えられた称号が詔によって撤回された事件である。

藤原宮子は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人で、配偶者の中では最上位であったため、宮子所生の首皇子(後の聖武天皇)が皇太子を経て、神亀元年2月4日(724年3月3日)に皇位を継承することになった。

これにより、宮子は天皇の直系尊属になり、その直後の6日、天皇は勅を出し、生母である宮子を「大夫人(ダイブニン)」と称するよう命じた。

ところが、3月22日になって左大臣長屋王ら議政官(武智麻呂・房前・舎人・新田部・広庭)が、公式令によれば大夫人という称号は存在せず皇太夫人があるのみであること、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になるとして、天皇の判断を仰ぎたいとの上奏を行った。

これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖(オホミオヤ)」とする詔を出して事態を収拾した。

神亀元年(724)二月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙され、同年三月、吉野行幸に従駕し勅を奉じて歌を作るが、奏上には至らなかった。

 

03 0315 暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首[暮春の月に芳野の離宮に幸しし時に、中納言大伴卿の勅を奉りて作れる歌一首] 并短歌 未逕奏上歌〔并せて短歌、いまだ奉上を経ざる歌〕(724年3月)

03 0315 見吉野之(みよしのの)芳野乃宮者(よしののみやは)山可良志(やまはよし)貴有師(たふとくありし)水可良思(みずはよし)清有師(きよくもありし)天地与(あめつちと)長久(ながくひさしく)萬代尓(よろづよに)不改将有(あらたまざらむ)行幸之宮(ぎょうこうのみや)

 

『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。

『良』の字には少なくとも、良(ロウ)・ 良(リョウ)・ 良い(よい)・ 良(やや)の4種の読み方が存在する。

『思』の字には少なくとも、思(シ)・ 思(サイ)・ 思う(おもう)・ 思しい(おぼしい)の4種の読み方が存在する。

可い(よい)+良い(よい)+思(シ)=(よし)

 

03 0316 反歌

03 0316 昔見之(むかしみし)象乃小河乎(きさのをがはを)今見者(いまみるも)弥清(いよいよさやか)成尓来鴨 (なりにくるかも)

 

『弥』の字には少なくとも、弥(ミ)・ 弥(ビ)・ 弥(ゲイ)・ 弥る(わたる)・ 弥(や)・ 弥しい(ひさしい)・ 弥う(つくろう)・ 弥(いよいよ)・ 弥(いや)・ 弥し(あまねし)の10種の読み方が存在する。

『清』の字には少なくとも、清(セイ)・ 清(ジョウ)・ 清(シン)・ 清(ショウ)・ 清む(すむ)・ 清か(さやか)・ 清める(きよめる)・ 清まる(きよまる)・ 清い(きよい)の9種の読み方が存在する。

【藤原武智麻呂(680-737 7月25日)】不比等の長男

養老5年(721年)

正月5日:従三位、中納言。9月:造宮卿。12月8日:御装束事(元明上皇葬儀)

神亀元年(724年) 2月4日:正三位

神亀3年(726年) 日付不詳:兼知造宮司事

神亀5年(728年) 7月:兼播磨守

神亀6年(729年) 3月4日:大納言

 

養老5年(721年)正月に武智麻呂・房前兄弟は揃って従三位に昇進した上で、武智麻呂は参議を経ずに中納言に任官し、一躍藤原氏一族の中心的存在になる。

しかし、「大学頭だった時代に大学制度の設立に尽くすなど、文教行政面での活躍は特筆すべきものがある」としているが、事績については語られておらず、その人物像も伝わってこないのだ。

それだけに、長屋王の変で、おそらく中心的役割をなしたであろうという、黒幕的存在であることだけがクローズアップされてくる。

【藤原房前(681-737 4月)】不比等の次男、『五言七夕』『五言秋日於長王宅宴新羅客』『五言侍宴』漢詩三首

養老5年(721年) 正月5日:従三位(越階)。10月24日:内臣

養老6年(722年) 2月23日:見兼授刀頭

神亀元年(724年) 2月4日:正三位

神亀3年(726年) 日付不詳:授刀長官、兼近江若狭按察使

神亀5年(728年) 7月21日:兼中衛大将

天平元年(729年) 9月28日:兼中務卿

 

彼もまた、事績・人物についてはよくわからないが、能楽作品のひとつに、『海人』(あま)があり、父不比等と母である海女の物語だが、子ども(房前)の身分の保証を確約して犠牲になる話である。

【藤原 宇合(694-737 8月)】不比等の三男『五言暮春曲宴南池』『七言在常陸贈倭判官留在京』『七言秋日於左僕射長王宅宴』『五言悲不遇』『五言遊吉野川』『五言泰西海道節度使之作』

養老2年(718年)10月に遣唐使節一行は九州に帰着し、翌養老3年(719年)正月に復命を果たし、翌年正五位上に進んで、常陸国守に任ぜられ、この時高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説がある。

養老5年(721年) 正月5日:正四位上(越階)

時期不詳:式部卿

神亀元年(724年) 4月7日:持節大将軍

神亀2年(725年) 閏正月22日:従三位、勲二等

神亀3年(726年) 10月26日:知造難波宮事

【藤原麻呂(695-737 7月13日)】不比等の四男『五言暮春於第園池置酒』『五言過神納言墟』Ⅰ・Ⅱ『五言仲秋釈奠』『遊吉野川』漢詩五首

養老元年(717年)9月に美濃介在職中であったが、元正天皇による当耆郡多度山の美泉への行幸があり、同年11月に美泉は大瑞に合うという事で大赦が行われると共に養老と改元されている。

 養老5年(721年) 正月5日:従四位上(越階)。6月26日:左右京大夫

神亀3年(726年) 正月21日:正四位上(越階)。9月27日:装束司(聖武天皇播磨行幸)

神亀6年(729年) 3月4日:従三位

 

唯一その人物評としては、弁舌に恵まれ酒と音楽を愛し、「上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ」と語っていたという。

神亀元年(724年)3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されると、1ヶ月ほどの間に征討軍として藤原宇合を持節大将軍、高橋安麻呂を副将軍に任じ、さらに坂東九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った。

長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤(きゅうじゅつ)策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されていた。

04 0522 京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首[京職、藤原大夫の大伴郎女に贈れる歌三首]卿諱曰麻呂也〔卿、諱を麻呂と曰へり〕(724)

04 0522 嫺嬬等之(をとめらが)珠篋有(たまくしげなる)玉櫛乃(たまくしの)神家武毛(かむさびけむも)妹尓阿波受有者(いもにあはずも)

 

『嫺』の字には少なくとも、嫺(ゲン)・ 嫺(カン)・ 嫺やか(みやびやか)・ 嫺う(ならう)の4種の読み方が存在する。

『嬬』の字には少なくとも、嬬(ヌ)・ 嬬(ニュ)・ 嬬(ドウ)・ 嬬(ジュ)・ 嬬(シュ)・ 嬬い(よわい)・ 嬬(つま)の7種の読み方が存在する。

嫺う(ならう)+嬬(つま)→嫺嬬:(をとめ)熟字訓

たま-くしげ 【玉櫛笥・玉匣】:櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱。

かむ-さび 【神さび】神らしい振る舞い。神々(こうごう)しく振る舞うこと。

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。

有つ(もつ)+者(もの)=(も)

 

04 0523 好渡(よくわたる)人者年母(ひともとしにも)有云乎(うんぬんを)何時間曽毛(いつのまにかも)吾戀尓来(あれこひにける)

 

わた・る 【渡る】:通り過ぎる。 

『云』の字には少なくとも、云(ウン)・ 云う(いう)の2種の読み方が存在する。

うん-ぬん 【云云】:これこれ。しかじか。なんとかかんとか。

有(ウ)+云(ウン)=(うんぬん)

『間』の字には少なくとも、間(ゲツ)・ 間(ケン)・ 間(カン)・ 間(カツ)・ 間(ま)・ 間かに(ひそかに)・ 間(はざま)・ 間か(しずか)・ 間う(うかがう)・ 間(あいだ)・ 間(あい)の11種の読み方が存在する。

『曽』の字には少なくとも、曽(ゾウ)・ 曽(ゾ)・ 曽(ソウ)・ 曽(ソ)・ 曽す(ます)・ 曽ち(すなわち)・ 曽て(かつて)・ 曽なる(かさなる)の8種の読み方が存在する。

間(ま)+曽す(ます)=(ま)

 

04 0524 蒸被(むしぶすま)奈胡也我下丹(なごやがしたに)雖臥(ふせれども)与妹不宿者(よいふすものは)肌之寒霜(はだしさむしも)

 

むし‐ぶすま【蒸し×衾】:蒸すように暖かくて柔らかい夜具。

なご-や 【和や】:やわらかいこと。和やかな状態。

『与』の字には少なくとも、与(ヨ)・ 与する(くみする)・ 与える(あたえる)・ 与る(あずかる)の4種の読み方が存在する。 『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。 『宿』の字には少なくとも、宿(スク)・ 宿(シュク)・ 宿(シュウ)・ 宿る(やどる)・ 宿す(やどす)・ 宿(やど)の6種の読み方が存在する。 『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。  

04 0525 大伴郎女和歌四首[大伴郎女の和へたる歌四首](724)

04 0525 狭穂河乃(さほがはの)小石踐渡(こいしをふむと)夜干玉之(ぬばたまの)黒馬之来夜者(こまがくるよし)年尓母有粳(とにもあらぬか)

 

『踐』の字には少なくとも、踐ゼン・ 踐セン・ 踐むふむの3種の読み方が存在する。

ぬばたま-の 【射干玉の・野干玉の】:「ぬばたま」の実が黒いところから、「黒し」「黒髪」など黒いものにかかり、さらに、「黒」の連想から「髪」「夜(よ)・(よる)」などにかかり、【夜干玉】も熟字訓かも。

『黒』の字には少なくとも、黒(コク)・ 黒い(くろい)・ 黒(くろ)の3種の読み方が存在する。

『馬』の字には少なくとも、馬(モ)・ 馬(メ)・ 馬(マ)・ 馬(ボ)・ 馬(バ)・ 馬(ま)・ 馬(うま)の7種の読み方が存在する。

黒(コク)+ 馬(ま)=(こま) と-に-も-あら-・ず:…というわけでもない。

 

04 0526 千鳥鳴(ちどりなく)佐保乃河瀬之(さほのかはせの)小浪(さざれなみ)止時毛無(やむときもなし)吾戀者(あがこふらくも)

04 0527 将来云毛(こむいふも)不来時有乎(こずときあるを)不来云乎(こじいふを)将来常者不待(こむともまたず)不来云物乎(こずいふものを)

04 0528 千鳥鳴(ちどりなく)佐保乃河門乃(さほのかはとの)瀬乎廣弥(せをひろみ)打橋渡須(うちはしわたす)奈我来跡念者(ながきとおもふ)

 

『念』の字には少なくとも、念(ネン)・ 念(デン)・ 念う(おもう)の3種の読み方が存在する。『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。 念う(おもう)+者(もの)=(おもう)

 

04 0528 右郎女者佐保大納言卿之女也 初嫁一品穂積皇子 被寵無儔而皇子薨之後時 藤原麻呂大夫娉之郎女焉 郎女家於坂上里 仍族氏号曰坂上郎女也 [右、郎女は、佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵びをうくること類ひなかりき。 皇子薨りましし後に、藤原麻呂大夫、この郎女を娉(あと)へり。郎女は、坂上の里に家む。仍りて族氏号けて坂上郎女といへり

 

この「あとふ」という語がどこから出たものか不明であるが、「とふ(誂、トは乙類)」という語があり、誘い求める意から、求婚することをいう。

【大伴坂上郎女:生没年不詳】

16、7歳頃に、穂積皇子に妃として嫁ぐが、霊亀元年(715年)に18、9歳で死別し、この頃、首皇子(聖武天皇)と親交を持ったようである。

その後に藤原麻呂の恋人?となったようだが、養老8年(724年)頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んでいる。 

ところがここに、【又大伴坂上郎女歌一首】と続いており、五首並ぶことになり、この編者の意図は何だろうか?と思う。

04 0529 佐保河乃(さほがはの)涯之官能(きしのつかさの)少歴木莫苅焉(しばなかりそね)在乍毛(ありつつも)張之来者(はるしきたらば)立隠金 (たちかくるがね)

03 0312 式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首[式部卿藤原宇合卿の難波の堵を改め造らしめらえし時に作れる歌一首](726)

03 0312 昔者社(むかしこそ)難波居中跡(なにはゐなかと)所言奚米(いはれけめ)今者京引(いまはみやびき)都備仁鷄里(みやこびにけり)

 

08 1535 藤原宇合卿歌一首(726)

08 1535 我背兒乎(わがせこを)何時曽且今登(いつぞいまかと)待苗尓(まつなへに)於毛也者将見(おもやはみえむ)秋風吹(あきのかぜふく) 

神亀4年(727年)2月:諸司の長官に対して、各官司の主典以上の官人について、勤務状況の良い者と悪い者(最上、次上、中等、下等の4段階)を選び、その名前を奏上することを命じる。 同年3月に報告が行われ、最上・次上と判定された官人に対して絁(あしぎぬ)が与えられ、下等と判定された者は官職を解かれた。

なおこの際、長屋王自身は二位の最上で絁100疋と、次に多い正三位(大伴旅人・藤原武智麻呂ら)の最上である40疋の倍以上が与えられたと見られる。

なお万葉巻一・二の原型は、白鳳期の皇親政治を理想とする長屋王が企画し、王のサロンに集った文人[佐為王(?-737)・紀清人(?-753)ら]が編集したとする説がある。

 

佐為王は、橘諸兄の弟、牟漏女王(房前の室)の兄、母は県犬養橘宿禰三千代であり、養老5年(721年)従五位上に叙せられ、まもなく紀男人・山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられている。

 

紀清人は、和銅七年(714)二月、詔により三宅臣藤麻呂と共に国史撰修を命ぜられ、『日本書紀』編纂の補充人事とおもわれる。

 

優れた学者として重んじられ、養老5年(721年)正月には佐為王とおなじで、退庁後は皇太子・首親王(のちの聖武天皇)の身近に仕えて学芸を教授するよう命じられ、さらに同月元正天皇が学問に優れた者を褒賞した際には、文章に優れるとして山田御方・下毛野虫麻呂らと共に絁・絹糸などを賜与(しよ)されている。

 

17 3923 紀朝臣清人應詔歌一首[紀朝臣清人の、詔に応へたる歌一首

17 3923 天下(あめのした)須泥尓於保比氐(すでにおほひて)布流雪乃(ふるゆきの)比加里乎見礼婆(ひかりをみれば)多敷刀久母安流香(たふとくもあるか)

 

とはいえ、作宝楼(さほろう)に参加していたであろうはずの、二人の漢詩が残されていないのが気になるけれど、それだけ『万葉集』を守り抜いたのかもしれない。 

19 4235 太政大臣藤原家之縣犬養命婦奉 天皇歌一首[太政大臣藤原の家の県犬養命婦の、天皇に奉れる歌一首](727年9月)

 

19 4235 天雲乎(あまくもを)富呂尓布美安太之(とににほあだし)鳴神毛(なるかみも)今日尓益而(けふにまさりて)可之古家米也母(かしこけめやも)     

19 4235 右一首傳誦掾久米朝臣廣縄也[右の一首、伝へ誦めるは掾久米朝臣広縄なり]

 

『富』の字には少なくとも、富(フウ)・ 富(フ)・ 富(とみ)・ 富む(とむ)の4種の読み方が存在する。

呂:[音]ロ(呉)リョ(漢)[訓]せぼね・なが・とも

富(とみ)+呂(とも)=(と)

とに-に 【頓に】:すぐに。にわかに。

『布』の字には少なくとも、布(ホ)・ 布(フ)・ 布(ぬの)・ 布く(しく)の4種の読み方が存在する。

『美』の字には少なくとも、美(ミ)・ 美(ビ)・ 美い(よい)・ 美める(ほめる)・ 美しい(うつくしい)の5種の読み方が存在する。

布(ホ)+美める(ほめる)=(ほ)

ほ 【秀】:ぬきんでていること。秀(ひい)でていること。また、そのもの。

あだ・し:【他し・異し】他のものである。違っている。

神亀4年(727年)閏9月29日に、光明子は待望の嫡男基王を出し、藤原氏の血を引く嫡男の出産を期待されていた光明子はもちろん、聖武の喜びも大きく、同日に生まれた諸国の子に祝いの品が下賜された。