淡海三船と漢風諡号

淡海三船(722-785)は、聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。

また書を書くことを非常に好んだといわれ、奈良時代末期の文人として石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ:729-781)と双璧をなし、二人が「文人の首」と称されたという。

ところが、父(池辺王)が亡くなってからだと思うが、天平年間(729-749)に唐僧・道璿(どうせん:702 - 760)に従って出家し、元開と号し、その修行を10年前後続いた時期があった。

 

道璿は、入唐した僧栄叡・普照の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊那(ぼだいせんな:704-760)やベトナム出身の僧仏哲(ぶってつ:生没年不詳)と来日した人物である。

 

天平勝宝2年(750年)第12次遣唐使の大使に任じられたのが藤原清河(房前の四男)で、副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。

 

ところが突然、修行僧:元開は、天平勝宝3年(751年)、30人ほどの諸王に対して真人姓の賜姓降下が行われた際、勅命により還俗して御船王に戻ったのち、淡海真人の氏姓を与えられて臣籍に降下、淡海三船と名を改められたのである。

  

式部少丞・内豎(ないじゅ:天皇に仕える)を歴任するが、天平勝宝8年(756年)2月2日、左大臣橘諸兄が辞任し、5月2日、太上天皇(聖武)が崩御した、

その10日に、朝廷を誹謗したとして、出雲守・大伴古慈斐と共に衛士府に禁固されるも、間もなく放免(13日)されている。

 

天平宝字4年(760年) 正月21日:山陰道巡察使

天平宝字5年(761年)正月2日、従五位下

          正月16日:駿河守に叙任されるなど、地方官を歴任する。

天平宝字6年(762年) 正月9日:文部少輔

天平宝字8年(764年)8月4日に美作守に任ぜられ再び地方官に転じる。

 

同年9月に発生した恵美押勝の乱の際に、藤原仲麻呂が宇治から近江国へ逃れ各地に使者を派遣して兵馬の調達をしていたところ、造池使としてため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野と共に仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢して活動する。

 

         乱後の9月12日、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等

                 の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。

天平神護2年(766年)2月21日、功田20町を与えられている。

          9月23日:東山道巡察使

神護景雲元年(767年) 3月20日:兵部大輔。

           6月5日:東山道巡察使解任。

           8月29日:大宰少弐

宝亀2年(771年) 7月23日:刑部大輔

時期不詳:大学頭とあり、『漢風諡号』はこの時期に記されたのかもしれないのだが、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(当時は帝に数えられていなかった曽祖父の弘文天皇と、すでに諡号を贈られていた文武天皇を除く)と15代帝に数えられていた神功皇后の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。

 

「文武天皇」の初出は『懐風藻』であり、この諡号にも三船が関与した可能性はあるが、『広辞苑』第7版の「淡海三船」の項には、「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」(ただし弘文天皇と淳仁天皇は除くと考えられる)と記されている。

 

初代神武(じんむ):「じんぶ」と訓と、 この上もなくすぐれた武徳・

第二代綏靖(すいぜい):「すべて安らかに落ち着く」の意で、綏靖四方(『三国志』より)・第三代安寧(あんねい):世の中が穏やかで安定・

第四代懿徳(いとく):りっぱな徳。「父既に此烝民を生し懿徳を賦するを以て」 〔春秋左伝‐

           僖公二四年〕・

第五代孝昭(こうしょう):受け継いだ政治で世がよく治まる。「昭代」・

第六代孝安(こうあん):穏やかな世の中・第七代孝霊(こうれい):引き続き優れた治世<・第八代孝元(こうげん):もとより善良なる為政・

第九代開化(かいか):人間の知識が開け、文化が進歩すること。

 

第2代綏靖天皇から、第9代開化天皇までの8代の天皇を、欠史八代(けっしはちだい)と言うのだが、天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされているのだ。

事績も”らしくない”それらの天皇に、三船は漢風諡号を与えたのにはよほどの苦労があったに違いない。 

第10代崇神(すじん):神のように貴い。別名では御肇國(はつくにしらす)天皇・

第11代垂仁(すいにん):仁政を敷く。「国家のためにつゐえならず、百姓のいたみうれへにな

            らざるをこそ、仁政(ジンセイ)ともいふべきを」 〔孟子‐梁恵王〕・

第12代景行(けいこう):高山景行「高山は仰ぎ 景行は行く」互いに尊重し模範となる政治・第13代成務(せいむ):かいぶつ-せいむ【開物成務】万物を開発してあらゆる事業を完成・

第14代仲哀天皇(ちゅうあい):諡に「仲」を取り持つ字は不吉(門脇禎二)なのだが、三船

               は、仲立ちととらえたのである。・

摂政神功(じんぐう):(しん‐こうと訓めば、(神のように霊妙な功績)だが、卑弥呼・台与の

            時代と考えたように思う・

第15代応神(おうじん):まさに、「母:神功に応えるごとく治世」したのだ・

第16代仁徳(にんとく):(じん‐とく)と訓めば、(他人に対する思いやりの心)であり、別

             に聖帝と呼ばれた・

第17代履中(りちゅう):「倭の五王」中の讃に比定も、三船は、仁徳・履中、履中・反正の

            「中を履む」と伺ったのであろうか?・

第18代反正(はんぜい):ここは、【撥乱反正】(はつらん‐はんせい)「乱れた世の中を治め

            て、正常な世に戻すこと」なのだが、反乱した次兄の住吉仲皇子誅殺

            ぐらいで、在位中の事績は残っていない・

第19代允恭(いんぎょう):「允恭克譲=允恭にして克(よ)く譲る」〔書経・尭典〕とあり、

              政治が行き届いていた。  

第20代安康(あんこう):平和で安らかなこと・

第21代雄略(ゆうりゃく):大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも誹謗された一方で、

             有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)という異名もあ

             り、三船としては、倭王武と照らして、雄略(雄大な計略)とした

             のかもしれない・

第22代清寧(せいねい):世の中がやすらかに治まること・

第23代顕宗(けんぞう):世の中がはっきりしている・

第24代仁賢(にんけん):「仁賢(じん‐けん)を信ぜざれば、則ち國空虚なり」『孟子』

第25代武烈(ぶれつ):「能く文の昭を明らかにし、能く武の烈を定めたるなり」の【武の烈】

第26代継体(けいたい):熟語の「継体持統」・

第27代安閑(あんかん):安閑(ゆったり)、老僧に愧(は)づ(『太白山下早行至横渠鎮書崇寿

            院壁』蘇軾)だが、三船の意図は漢詩とは別にあったに違いない・

第28代宣化(せんか):流れを承けて宣化せしむるなり・

第29代欽明(きんめい):つつしみ深く、理に通ずる。〔書、尭典〕欽明文思安安たり・

第30代敏達(びだつ):仁者はものが利根にして、敏達(びんたつ)なぞ(漢書‐京房伝) 

 第31代用明(ようめい):(天の巡り合わせ)だが、太子の力であろうか、文化が花開いた・

第32代崇峻(すしゅん):(厳しくたっとぶ)なのだが、日本史のなかで、臣下により暗殺され 

            たと正史に明記されている唯一の天皇なのだ・

第33代推古(すいこ):古代の事跡をおしきわめたという、仏法興隆に努めたが、神道の祭祀を

           重んじた・

第34代舒明(じょめい):緩やかに世が開いていくイメージだろうか、最初の遣唐使を送る・

第35代皇極(こうぎょく):政治の根本である、かたよりのない中正の道・

第36代孝徳(こうとく):(孝行をする徳)なのだが、大化の改新の第一段階である乙巳の変

            (いっしのへん)後、政(まつりごと)を為(な)すに徳を以(もっ)てし

            たということであろうか・

第37代斉明(さいめい):(明らかに等しくする<)とは、内憂外患のことであろうか・

第38代天智(てんぢ):認識判断に優れ、大化の改新・

第39代弘文(こうぶん):明治3年(1870年)になって追号された・

第40代天武(てんむ):「天事は武、地事は文、民事は忠信」ということであろう・

第41代持統(じとう):「継体持統」から、三船はここに【持統】をもってきた・

第42代文武(もんむ):天平勝宝3年(751年)の『懐風藻』に見えている・

第43代元明(げんめい):元(はじめ)を照らすだが、平城京に遷都し『古事記』の献上・

第44代元正(げんしょう):(もとに正す)なのだが、独身で即位した初めての女性天皇であ

              り、母から娘への皇位継承であり、まごうことなき女系天皇・ 

慶雲4年6月15日(707年7月18日)、文武天皇が25歳で崩御[すると、残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、初めて皇后を経ないで、皇太妃(元明)が即位した。

晩年は、幼い首皇子の子孫に皇統が安泰して継承されるために手を打ち、和銅6年(713年)11月には、首皇子の異母兄弟である広世王と広世王の兄弟を臣籍降下させ、首皇子が文武天皇の唯一の皇子となる。

そして、和銅7年(714年)正月、娘の氷高内親王に、将来の皇位継承を見越して、食封を1000戸に加増された(内親王は二品で、令制では300戸が相当であった)。

霊亀元年(715年)9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け即位(元正)した。