春日翫鶯梅(春日鶯梅をはやす)
聊乗休暇景(いささか、休暇の景に乗り) 入苑望青陽(苑に入り、青陽を望む)
素梅開素靨(素梅素靨をひらき) 嬌鶯弄嬌声(嬌鶯嬌声を弄す)
對此開懐抱(これに対して懐抱を開き) 優是暢愁情(優にこれ愁情をのばす)
不知老将至(老いのまさに至らんとするを知らず)但事酌春觴(ただし春觴を酌むを事とす)
葛野王
持統天皇10年(696年)に、皇族の筆頭であった太政大臣・高市皇子が薨去した後、持統天皇は皇族・公卿・官人を宮中に召して、皇太子の擁立について議論させた。
しかし、群臣はそれぞれ自分に都合の良い意見を言い合い、議論が紛糾した時、葛野王(かどののおう:669-706)は前に進み出て直系による皇位継承を主張した(藤原不比等が入れ知恵したのだとする意見もある)。
「日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元であり、どの皇子が最も皇太子に相応しいかとの天意を議論しても、その天意を推し測れる者などいない。
血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自然に定まるもの、これ以上誰も余計なことを言うべきではない」
ただし、実際には古来から兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて天武天皇の皇子である弓削皇子(23)が葛野王(27)に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したため、弓削皇子は何も言えなかった。
『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月、数ある天武天皇の皇子達は退けられ、草壁皇子の子で持統天皇(645-703)の孫でもある軽皇子(文武天皇:683-707)が皇太子に定められた。
その意見により国家の基本が定まったとして、葛野王(28)は持統天皇から称賛されたといい、祖母である額田王(60)にとっても喜ばしいことであったに違いない。
葛野王は、淡海帝(天智)の孫で、大友皇子の長男であり、母は浄御原帝(天武)の長女の十市内親王である。
器範宏邈(きりょうこうぼう)にして、風鑒秀遠(ふうかんしゅうえん)なり《器量が広く、風采がすぐれている》
才能は棟木(とうぼく)と称すべく、家柄は皇室の血筋を兼ねており、若い時から学問を好み、ひろく経書や史書に及んでいる。
すこぶる文を綴ることを好み、さらには絵画を良くし、浄御原帝の嫡孫で浄大肆(じょうだいし)を授かり、治部卿を拝したとある。
文武天皇(683-707)元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統(645-703)から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。
当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役につき、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。
その文武3年(699年)、母や兄長皇子(?-715)に先立って、弓削皇子は薨(こうきょ)した(享年27)が、ここに人麻呂は、弓削皇子へ5首も献歌しており、その交流の深さが偲ばれる。
09 1701 獻弓削皇子歌三首
『獻』の字には少なくとも、獻(サ)・ 獻(コン)・ 獻(ケン)・ 獻(ギ)・ 獻(キ)・ 獻る(まつる)・ 獻る(たてまつる)・ 獻げる(ささげる)の8種の読み方が存在する。
けん【献〔獻〕】:[音]ケン(漢)・コン(呉) [訓]たてまつる・ささげる
1 上位者や神仏に物をさしあげる。2 客に酒をすすめる。
09 1701 佐宵中等(さよなかと)夜者深去良斯(よはふけぬらし)鴈音(かりがねの)所聞空(きこゆるそらゆ)月渡見(つきわたるみゆ)
09 1702 妹當(いもがあたり)茂苅音(しげきかりがね)夕霧(ゆふぎりに)来鳴而過去(きなきてすぎぬ)及乏(すべなきまでに)
『及』の字には少なくとも、及(キュウ)・ 及ぼす(およぼす)・ 及ぶ(およぶ)・ 及び(および)の4種の読み方が存在する。
およ・ぶ 【及ぶ】:届く。達する。
『乏』の字には少なくとも、乏(ボウ)・ 乏(ホウ)・ 乏しい(とぼしい)の3種の読み方が存在する。
とぼし・い【乏しい】:十分でない。足りない。
いもうとと しげきかりがね ゆふぎりに きなきてすぎぬ およんでとぼし
『万葉集』には、弓削皇子の歌が8首収録されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多であり、異母姉妹の紀皇女を思って作った歌が4首あるのだ。
09 1703 雲隠(くもがくり)鴈鳴時(かりなくときは)秋山(あきやまの)黄葉片待(もみちかたまつ)時者雖過(ときはすぐれど)
くも‐がく・る【雲隠る】は、「雲の中に隠れる」であろうが、「 貴人の死ぬことをたとえていう語」でもあり、挽歌と言える一首かもしれない。
かた-ま・つ 【片待つ】:ひたすら待つ。
しかし、わたしが注視するのは 、【万1709 】の【獻弓削皇子歌一首】であり、後記に、【右柿本朝臣人麻呂之歌集所出】とあるのだ。
09 1709 御食向(みけむかふ)南淵山之(みなふちやまの)巖者(いはほには)落波太列可(ふりしはだれか)削遺有(きえのこりたる)
『御』の字には少なくとも、御(ゴ)・ 御(ゲ)・ 御(ギョ)・ 御(ガ)・ 御(み)・ 御(おん)・ 御める(おさめる)・ 御(お)の8種の読み方が存在する。
『食』の字には少なくとも、食(ジキ)・ 食(ジ)・ 食(ショク)・ 食(シ)・ 食(イ)・ 食む(はむ)・ 食べる(たべる)・ 食らう(くらう)・ 食う(くう)の9種の読み方が存在する。
【南淵山】は、昔は、神の住む山として「神奈備山(かんなびやま)」と呼ばれていたという説もあるぐらい、飛鳥王朝にとって神聖な山であったらしい。
おしむかふ みなふちやまの いはほには おりるはたれか さえのこりたる
そして【万1773】にも、【 獻弓削皇子歌一首】とあり、この歌だけでは場違いの期もするのだが事情を探ることができれば、とは言ってもイメージしか追いかける事しかできないけれど・・・。
09 1773 神南備(かむなびの)神依板尓(かむよりいたに)為杉乃(するすぎの)念母不過(おもひもすぎず)戀之茂尓(こひのしげきに)
かむ-なび 【神奈備】:神が天から降りて来てよりつく場所。
か・む 【醸む】:酒を造る。醸造する。かもす。
こひ 【恋】は、恋愛感情というより、「逢いたい、見たい」などと切実に心が引かれる気持ちを表し、悩み・苦しみ・悲しみなどの感情を伴うことが多く、弓削皇子の吉野の歌以来の、額田による献歌だと思う。
というのも、額田と親交のあった弓削にしてみれば、【三輪山の歌】(万17・18)も話題になっていたとも考えられ、特に杉は、多くの歌集にも詠われているが、「三輪の神杉」として神聖視されており、その時の話題が尾も出されたことであろう。
かむなびの かむよりいたに するすぎの おもひもすぎず こひのしげきに
大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布したことにおいて、初めて日本の国号が定められたとされている。
遣唐使の粟田真人に初めて節刀を与えて唐との国交正常化を目指して日本の国号変更(「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)を通告するも、記録の不備あるいは政治的事情からか後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。
持統天皇は行幸(天皇が移動すること)を43回しているが、そのうち31回が吉野宮なのだがその最後は、持統11年4月7日で、その日に帰途につき、大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した(享年58)。
持統10年(702)には、3回(2・4・6月)行幸しており、「二月三日、吉野宮にお出でになり、十三日にお帰りになった」とあれば、この期間が、、葛野王が抱いた漢詩の一首かもしれない。
遊龍門山(龍門山に遊ぶ)
命駕遊山水(駕を命じて山水に遊ぶ) 長忘冠冕情(長く忘れる冠冕の情)
安得王喬道(いずくんぞ、王喬の道をゑ)控鶴入蓬瀛(たづを控えて蓬瀛に入らん)
龍門山:吉野にある山
駕:のりもの
冠冕情(かんべんのじょう):冠をつけて威儀を正しているような気持ち
王喬(王子喬):中国の仙人、鶴に乗って仙界に去ったという。
蓬瀛(ほうえい):中国で神山とされた蓬莱(ほうらい)と瀛州(えいじゅう)。
「車駕を用意して、山水にに遊ぶと、しばし公務のことも忘れ、どうすれば王喬のようになれるのか、こうして鶴を持っていたら、蓬瀛に行けるかもしれない」
持統上皇は、大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御(享年58)し、1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬されたが、天皇の火葬はこれが最初であった。
03 0428 土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首
03 0428 隠口能(こもりくの)泊瀬山之(はつせのやまの)山際尓(やまのまに)伊佐夜歴雲者(いさよふくもは)妹鴨有牟(いもにかもあらむ)
こもりく-の 【隠り口の】は、「四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の『初(=泊)瀬』にかかる」という。
初瀬:今の奈良県桜井市初瀬(はせ)町。
土形娘子 (ひじかたの-おとめ)は、土形氏の女性とも,遠江(とおとうみ)(静岡県)城飼(きこう)郡土形出身の采女(うねめ)ともいわれるが、死後大和(やまと)(奈良県)の泊瀬(はつせ)の山で火葬にされたと言い、その死をいたむ柿本人麻呂の歌1首が「万葉集」巻3にみえているが、両者の関係は不明であり、この歌は、もはや見(まみ)えることもない、持統天皇への挽歌ではなかったかと密かに思っている。
こもりくの はつせのやまの やまのまに いさよふくもは いもかもあらむ
長皇子(ながのみこ:?-715)は、弓削皇子の同母兄だが、ここにも人麻呂が歌を献上しており、それを記す。
03 0239 長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
03 0239 八隅知之(やすみしし)吾大王(わごおほきみ)高光(たかひかる)吾日乃皇子乃(わがひのみこの)馬並而(うまなめて)三獵立流(みかりたたせる)弱薦乎(わかこもを)獵路乃小野尓(かりぢのをのに)十六社者(ししこそは)伊波比拜目(いはひをろがめ)鶉己曽(うづらこそ)伊波比廻礼(いはひもとほれ)四時自物(ししじもの)伊波比拜(いはひをろがみ)鶉成(うづらなす)伊波比毛等保理(いはひもとほり)恐等(かしこみと)仕奉而(つかへまつりて)久堅乃(ひさかたの)天見如久(あめみるごとく)真十鏡(まそかがみ)仰而雖見(あふぎてみれど)春草之(はるくさの)益目頬四寸(いやめづらしき)吾於富吉美可聞(わごおほきみかも)
おほ-きみ 【大君】:①天皇の尊敬語②親王・内親王・王・王女の尊敬語=長皇子
ひ-の-みこ 【日の御子】:天皇、また、皇太子の尊敬語=文武天皇
やすみしし わごおほきみは たかひかる わがひのみこの うまなめて みかりたたせる わかこもを かりぢのをのに ししこそは いはひをろがめ うづらこそ いはひもとほれ ししじもの いはひをろがみ うづらなす いはひもとほり かしこみと つかへまつりて ひさかたの あめみるごとく まそかがみ あふぎてみれど はるくさの いやめづらしき わおほぎみかも
03 0240 反歌一首
03 0240 久堅乃(ひさかたの)天歸月乎(あまゆくつきを)網尓刺(あみにさし)我大王者(わごおほきみは)盖尓為有(きぬがさにせり)
03 0241 或本反歌一首
03 0241 皇者(おほきみは)神尓之坐者(かみにしませば)真木乃立(まきのたつ)荒山中尓(あらやまなかに)海成可聞(うみをなすかも)
春日翫鶯梅(春日鶯梅をはやす)
聊乗休暇景(いささか、休暇の景に乗り) 入苑望青陽(苑に入り、青陽を望む)
素梅開素靨(素梅素靨をひらき) 嬌鶯弄嬌声(嬌鶯嬌声を弄す)
對此開懐抱(これに対して懐抱を開き) 優是暢愁情(優にこれ愁情をのばす)
不知老将至(老いのまさに至らんとするを知らず)但事酌春觴(ただし春觴を酌むを事とす)
翫(はや)す:賞美し楽しむこと
青陽(せいよう):春の太陽
素梅(そばい):白梅
素靨(そよう):えくぼ
弄(ろう)す:思うが儘に操る
愁情(しゅうじょう):鬱憤した心
春觴(しゅんしょう):春の盃
「少しばかりの休暇を利用して、庭園に入り春の太陽を浴びると、梅もほころび、鶯の声を聴かせてくれ、解放されたような気分で、うっぷんを晴らしてくれ、体の衰えも忘れて、今はただ、酒を飲むばかりだ」とあり、慶雲二年(705年)春正月十五日、文官・武官の役人たちを朝堂に集めて宴会を賜ったといい、その情景かもしれない。
決して老いの境地ではないと思うのだが、十二月二十日 正四位上の葛野王が卒(しゅっ)した(享年37)と『続日本紀』に記されている。