長屋王と池辺王
養老四年(720)五月、舎人親王らが『日本書紀』を撰進し、同年八月、不比等が薨去すると舎人親王を知太政官事に任命、翌年(721)には長屋王を右大臣に、藤原房前を内臣に任命する。
神亀元年(724)、元正天皇(680-748)は皇太子首(聖武天皇)に譲位し、以後は太上天皇として聖武天皇の後見的な立場になり、譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ:?-729)は、高市皇子の長男で、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
池辺王(いけべのおおきみ:生没年不詳)は、式部卿・葛野王(669-706)の子でありながら、その事績は明らかでないが、聖武朝の神亀4年(727年)従五位下に直叙され、天平9年(737年)内匠頭に任ぜられた。
正月二十七日、正三位多治比真人池守(?-730)に従二位を、正五位上の高安王(?-743)・正五位下の佐為王(?-737)・無位の船王(生没年不詳)らにそれぞれ従四位下を、無位の池辺王に従五位下を、正五位下の榎井朝臣広国(生没年不詳)に正五位上を、従五位下の平群朝臣豊麻呂(生没年不詳)に従五位上を、正六位上の柿本朝臣建石(?)・安曇宿禰刀(生没年不詳)・錦織連吉美(?)に従五位下を授けた。
21歳以上になって位が授けられたなら、池辺王は、727年当時は21歳であり、その誕生の年は706年になる。
父である葛野王は、慶雲二年(706)十二月七日に亡くなっており、父の顔を知ることもなく、どのように育てられたかもわからないが、やっと冠位を授かり、独り立ちが認められたのであろう。
その第一子が、御船王(722-785:淡海三船)であり、722年に生まれており、今でいうなら、無職で児をもうけたことになるが、その母についてはわからない。
04 0623 池邊王宴誦歌一首
04 0623 松之葉尓(まつのはに)月者由移去(つきはゆつりぬ)黄葉乃(もみちばの)過哉君之(すぐれやきみが)不相夜多焉 (あはぬよぞおほき)
『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。
『相』の字には少なくとも、相(ソウ)・ 相(ジョウ)・ 相(ショウ)・ 相ける(たすける)・ 相(さが)・ 相(あい)の6種の読み方が存在する。
『夜』の字には少なくとも、夜(ヤク)・ 夜(ヤ)・ 夜(エキ)・ 夜(よる)・ 夜(よ)の5種の読み方が存在する。
『多』の字には少なくとも、多(タ)・ 多い(おおい)の2種の読み方が存在する。
『焉』の字には少なくとも、焉(オン)・ 焉(エン)・ 焉(イ)・ 焉(これ)・ 焉に(ここに)・ 焉んぞ(いずくんぞ)の6種の読み方が存在する。
まつのはに つきはなおいく もみじばの すぐるやきみが あはずよのたへ
神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。
長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。
王が自殺した翌日、使者を派遣して長屋王および吉備内親王の屍体を生馬山に葬ったが、 天皇は勅で、「吉備内親王には罪はない。喪葬令の例に準えて送葬せよ。 ただし、喪葬令8に定める鼓吹(鼓と大角・小角など)はやめておけ。 その家令・帳内らは放免する。 長屋王は犯した罪により誅にしたがったのだから、罪人といえども、その葬儀をいやしいものにしてはならない」とおっしゃった。
吉備内親王(きびないしんのう:686-729)は、草壁皇子と元明天皇の次女であり、元正天皇の妹で、文武天皇の姉または妹にあたるが、長屋王の妃であった。
さらに全国の国司に向けて、長屋王の例をあげ、「3人以上が集まって何事かをたくらむのをないようにせよ」と勅を出し、2月12日の長屋王自尽の日にさかのぼって施行せよと命じた。
外従五位下の上毛野朝臣宿奈麻呂ら7人は、長屋王との交流が深かったことを理由に流罪となった。そのほかの90人は放免された。
その翌日、石川石足は長屋王の弟の従四位上の鈴鹿王の宅に派遣され、「長屋王の昆弟(兄弟)・姉妹・子孫と妾らとの縁坐すべきものは、男女を問わずことごとく皆赦免する」と伝えた。
この日、百官は大祓を行い、 さらに、左京・右京の大辟罪(死罪にあたる罪)を赦免し、長屋王のことによって徴発された百姓の雑徭を免除した。
また告発者の漆部君足と中臣宮処東人に外従五位下を授け、封戸30戸、田10町を授け、漆部駒長には従七位下を授けた。
そして、長屋王の弟・姉妹、さらに男女の子供らで生存するものに位禄・季禄・節禄などの禄を給することが認められ、 以上で、『続紀』における事件に関する記述は終了する。
おそらく、池辺王(23)もこの事件に巻き込まれた可能性があり、葛野王の子としての履歴が伝わらない理由かもしれない。
長屋王は、万葉集に五首の歌を残すも、『懐風藻』には三首あり、辞世の句ではないかもしれないが、載せておく。
元日宴應詔(元日の宴に詔に応ず)
年光泛仙篽(年光仙籞に泛び) 月色照上春(月色上春に照る)
玄圃梅已故(玄圃の梅已にふり) 柴庭桃欲新(柴庭の桃新たならんと欲す)
柳絲入歌曲(柳糸歌曲に入り) 蘭香染舞巾(蘭香舞巾を染む)
於焉三元節(ここに三元の節) 共悦望雲仁(共に悦ぶ望雲の仁)
仙篽(せんぎょ):仙人の住むところ、ここでは御所。
月色(げっしょく):正月の風物の輝きで、夜空の月ではない。
上春(じょうしゅん):春の初め
玄圃(げんぽ):崑崙山の庭園で、仙界の庭
已故(すでにふり):すでに色を失い始めた
柴庭(してい):宮中の庭園
柳絲(りゅうし):柳の細い枝
舞巾(ぶきん):舞人がかぶる頭巾
『於』の字には少なくとも、於(ヨ)・ 於(オ)・ 於(ウ)・ 於ける(おける)・ 於いて(おいて)の5種の読み方が存在する。
『焉』の字には少なくとも、焉(オン)・ 焉(エン)・ 焉(イ)・ 焉(これ)・ 焉に(ここに)・ 焉んぞ(いずくんぞ)の6種の読み方が存在する。
於焉は(ここにおいて)となるけれど、【於】は置き字
三元節:年月日の三つの元(はじめ)が揃った正月元旦
望雲仁:尭帝が雲を望むような偉大な徳を示したという故事
「年初のひかりは仙境に輝き、正月は新春に照り輝いている。 天皇の住まう庭の梅はすでに古り、新たに桃が咲き出そうとしている 柳の枝は歌曲に混じり、香草が舞うごとにただよう ここに三元の節 共に望雲の仁を喜ぶ」
於寳宅宴新羅客(宝宅に新羅の客をして宴する)
高旻開遠照(高旻遠照を開き) 遙嶺靄浮煙(遙嶺浮煙靄たり)
有愛金蘭賞(金蘭の賞を愛することあるも) 無疲風月筵(風月の筵に疲れることなし)
桂山餘景下(桂山餘景を下り) 菊浦落霞鮮(菊浦落下鮮やかなり)
莫謂滄波隔(謂うなかれ滄波の隔つると) 長為壮士篇(長く拿さん壮士の篇)
高旻(こうびん):高い秋の空
遙嶺(ようれい):はるかかなたの山並み
『靄』の字には少なくとも、靄(アツ)・ 靄(アチ)・ 靄(アイ)・ 靄(もや)の4種の読み方が存在する。
靄(もや):ぼんやりしている
【浮煙】フエン:空中にうかんだ煙。
『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。
『愛』の字には少なくとも、愛(エ)・ 愛(アイ)・ 愛でる(めでる)・愛(まな)・ 愛しい(かなしい)・ 愛しむ(おしむ)・ 愛い(うい)・ 愛しい(いとしい)の8種の読み方が存在する。
う‐あい【有愛】:物に対する貪(むさぼ)りの心。
金蘭(きんらん):金のごとく固くて断ち切れない友情の比喩
賞(しょう):賛美すること
風月(ふうげつ):秋の澄み切った風や月、友情の比喩
筵(むしろ):宴席
桂山(けいざん):桂の香る山ということだが、仙界の山かもしれない
餘景(よけい):よ-けい 【余慶】(善行の報いとして生じる吉事)かも。
菊浦(きくほ):菊の咲く池辺だろうが、重陽の菊酒の宴だろうか?
落霞(らっか):霞がかっている様子
滄波(そうは):海の波浪
壮士篇(そうしのへん):男同士の友情を讃えている
「高旻は開き遠くまで照らし、遙嶺の靄は浮煙なり
有愛は金蘭の賞なり 風月の席は疲れることなし
桂山の餘景を下り 菊浦の落霞鮮やかなり
滄波の隔たるを言うことなかれ 壮士の篇を長くす」
初春於作宝樓置酒(初春作宝樓に置酒す)
景麗金谷室(景は麗し金谷の室) 年開積草春(年は開く積草の春)
松烟双吐翠(松烟ならびて翠を吐き) 櫻柳分含新(櫻柳分かれて新たなるを含む)
獄高闇雲路(獄は高し闇雲の路) 魚驚乱藻濱(魚は驚く乱藻の浜)
激泉移舞袖(激泉に舞袖うつせば) 流声韵松筠(流声松筠にひびく)
作宝樓(さほろう):長屋王の別荘、平城京北側の佐保の地
金谷室(きんこくのしつ):晋の石崇と言う金持ちの別荘
松烟(しょうえん):松と松にかかる靄
『嶽』の字には少なくとも、嶽(ガク)・ 嶽(たけ)の2種の読み方が存在する。
嶽高(がくたかし):山が高くそびえている
闇雲路(あんうんのみち):薄暗くはるか遠く雲のつつく道
乱藻濱(らんそうのはま):強い波が寄せて藻を揺らしている浜辺
激泉(げきせん):滝が激しく流れ落ちる泉
松筠(しょういん):松の音
「景色は金谷のように麗しく、新年の若草を積む春だ
松には靄がかるも青々とし、桜柳には蕾がついている
山は高くそびえ闇雲の路なり、魚は驚き乱藻の浜となる
飛沫は舞袖に移るも、流声は松の音にひびく」
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。
藤原房前(681年 - 737年4月)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 - 737年8月)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 - 737年7月13日)(藤原京家開祖)
藤原武智麻呂(680年 - 737年7月25日)(藤原南家開祖)
天平9年(737年)12月23日、外従五位下の菅生朝臣古麻呂(?)を神祇大副(じんぎすけ)に任じ、外従五位下の安倍朝臣虫麻呂(?-752)を皇后宮亮に任じ、外従五位下の中臣熊凝(くまこり)朝臣五百嶋(生没年不詳)を皇后宮の員外亮に任じ、従五位下の池辺王を内匠頭に任じ、外従五位上の秦忌寸朝元(生没年不詳)を図書頭に任じ、従五位下の宇治王(生没年不詳)を内藏頭に任じ、外従五位下の高麦太(生没年不詳)を陰陽頭兼陰陽師に任じ、外従五位下小治田朝臣諸人(生没年不詳)を散位頭に任じ、従五位下の神前王(生没年不詳)を治部太輔に任じ、外従五位下の大倭宿禰清国(?)を玄播頭に任じ、外従五位下の土師宿禰三目(?)を諸陵頭に任じ、従五位下の安倍朝臣吾人(?)を主計頭に、従五位下の大伴宿祢兄麻呂を主税頭に任じ、従五位下の石川朝臣牛養(?)を大蔵少輔に任じ、外従五位下の紀朝臣鹿人(ししひと:生没年不詳)を主殿頭に任じ、従四位上の御原王(みはらのおおきみ:?-752)を弾正伊(だんじょうのかみ)に任じ、外従五位下の穂積朝臣老人(おきな:生没年不詳)を左京亮に任じ、従四位下の門部王(?)を右京大夫に任じ、外従五位下の太朝臣国吉(?)を右京亮に任じた。
子虫は長屋王に仕えてその厚遇を受けていたが、神亀6年(729年)に発生した長屋王の変にて、中臣宮処東人からの誣告を受け、長屋王は自殺させられた。
天平10年(738年)子虫が左兵庫少属を務めていた際に、たまたま隣にある右兵庫寮の長官(右兵庫頭)の任にあった中臣宮処東人と政務の合間に囲碁に興じていたが、話題が長屋王に及ぶにあたり、子虫は憤りを発して東人を罵り始め、遂には抜刀して斬殺してしまった。
ここで長屋王の話はこれで終わるのだが、池辺王についてはその後の消息は分からないけれど、一子に、淡海三船(おうみのみふね)がおり、始めは御船王を名乗っていたが、臣籍降下し淡海真人姓となり、「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号」(ただし弘文天皇と淳仁天皇は除くと考えられる)を選定したともいわれ、この『懐風藻』の撰者としても有力であり、そのバトンがつながれたことで、池辺王の不遇の原因を推察したわけである。