額田王と斉明天皇
金野乃(あきののの)美草苅葺(みくさかりふき)屋杼礼里之(やどれりし)兎道乃宮子能(うぢのみやこの)借五百磯所念(かりほしおもゆ)【万0007】
題辞には、【明日香川原宮(あすかかわはらのみや)御宇(ぎょ-う)天皇代(すめらみことのよ) 天豊財重(あめとよたからいかし)日足姫天皇(ひたらしひめのすめらみこと)】とある。
というのも、「飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)に出火(655)が起こり、飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)に遷られた時の歌である」
その年の歌だとすると、額田王18歳・十市皇女2歳なのだが、宮廷歌人としての最初の歌なのかもしれないが、 もちろん、譲位して皇位を降りていた十年足らずの間、教養もあったであろう皇極上皇は、女性ばかりのサロンを開き、額田王とも漢詩や倭歌を出し合って、お互い批評していたような和やかさがあったかもしれない。
例えば【金野乃】を(あきののの)と訓ますより、(きんノのの)詠みの方が、いかにも黄金色の美草のイメージに近いように思うのだが・・・。
とは言え、宝皇女(斉明天皇)・額田王が、ああじゃないこうじゃないと、批評しながら作成したものかもしれない。
漢詩は五言・七言かもしれないが、この5・7の調子が和歌になったと思うと、【金野】とか【五百】の表示に、漢詩的イメージがあるとも思える。
かり‐ぶき【仮葺き】 : 間に合わせに屋根を葺くこと。
やど・る 【宿る】:住みかとする。住む。
『兎』の字には少なくとも、兎(ト)・ 兎(ツ)・ 兎(うさぎ)の3種の読み方が存在する。
『道』の字には少なくとも、道(ドウ)・ 道(トウ)・ 道(みち)・ 道う(いう)の4種の読み方が存在する。
【兎道乃宮子能】は(うぢのみやこの)ではなく、(とみのみやこの)である。
『借』の字には少なくとも、借(セキ)・ 借(シャク)・ 借(シャ)・ 借りる(かりる)の4種の読み方が存在する。
『五』の字には少なくとも、五(ゴ)・ 五つ(いつつ)・ 五(いつ)の3種の読み方が存在する。
『百』の字には少なくとも、百(ミャク)・ 百(ヒャク)・ 百(バク)・ 百(ハク)・ 百(もも)の5種の読み方が存在する。
『磯』の字には少なくとも、磯(ゲ)・ 磯(ケ)・ 磯(キ)・ 磯(カイ)・ 磯(いそ)の5種の読み方が存在する。
『所』の字には少なくとも、所(ソ)・ 所(ショ)・ 所(ところ)の3種の読み方が存在する。
『念』の字には少なくとも、念(ネン)・ 念(デン)・ 念う(おもう)の3種の読み方が存在する。
【五百】:五は「い」、百は「ほ」の訓み。
つまり【借五百磯】(かりィほき)で、この(ほ)を引き出すための【五百】であったように思え、まるで万葉仮名のテクニシャンだ。
かり-ほ 【仮庵・仮廬】:「かりいほ」に同じ。 かり-ほ 【刈り穂】:刈り取った稲の穂。
例えば、【刈干】(かりほし)① 刈り取った稲を稲架(はさ)にかけて干すこと。《季・秋》 ② 刈り取った草を、干し草にするために干すこと。《季・夏》
なのだが、「刈穂季」(かりほき)だと思う。
茅葺(かやぶき、萱葺)とは、茅(ススキやチガヤ、ヨシ(アシ)などの総称)を材料(屋根材)にして家屋の屋根を葺くこと。
屋根材により茅葺(かやぶき)は藁葺(わらぶき)や草葺(くさぶき)と区別する場合がある。
しょ‐ねん【所念】:心に思っていること。 おもほ・ゆ
ない【所】は、受身の助字(じょじ)であり、漢文の品詞の一つで、(おもほゆ)かもしれないが、ここでは(おもゆ)と訓む。
因みに、とみ‐くさ【富草】 は、稲の古名であり、美草は富草でもあるんよ。
きんののの みくさかりふき やどれりし とみのみやこの かりほきおもゆ
「まさに黄金に輝いている、美しい色の仮庵だけど、住処にできるなんて、まるで富の都のようで、今まさに栄えある刈穂季だとおもいますわ」
斉明天皇4年(658年・65歳)額田王21歳・十市5歳
5月 - 皇孫の建王が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。
五月、皇孫の建王(たけるのみこ)は八歳で亡くなられた。 今来谷(いまきのたに)のほとりに、殯宮(もがりのみや)を建てて収められた。 天皇は皇孫が美しい心であったため、特に可愛いがられた。 悲しみに堪えられず、慟哭されることが甚だしかった。 群臣(まえつきみ)に詔(みことのり)して、「我が死後は必ず二人を合葬するように」と言われ、歌を詠まれた。
伊磨紀那屢(いまきなる)乎武例我禹杯爾(をむれがうへに)倶謨娜尼母(くもだにも)旨屢倶之多々婆(しるくしたたば)那爾柯那皚柯武(なにかなげかむ) 其一
伊喩之々乎(いゆししを)都那遇舸播杯能(つなぐかはへの)倭柯矩娑能(わかくさの)倭柯倶阿利岐騰(わかくありきと)阿我謨婆儺倶爾(あがもはなくに) 其二
阿須箇我播(あすかがは)瀰儺蟻羅毗都々(みなぎらひつつ)喩矩瀰都能(ゆくみずの)阿比娜謨儺倶母(あひだもなくも)於母保喩屢柯母(おもほゆるかも) 其三
むれ【山/牟礼】《古代朝鮮語から》から、(をむれ)は小山。
しるく【著く】:はっきり見えるさま。
いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ
「今城の地に殯の宮を建てた、そこの小山の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったなら、こうまで嘆くことなどありはしない」
い・ゆ【癒ゆ】:(病気や傷が)なおる。回復する。いえる。
し‐し【嗣子】:家を継ぐべき子。あととり。
いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに
「回復する跡取りの子を、切れることなく続く川辺の 若草の、萌え出たばかりのようにずっととは思わないけど」
みなぎら◦う〔みなぎらふ〕【漲らふ】:水が満ちあふれている。
あひだ-な・し 【間無し】:途切れない。絶え間がない。
あすかがは みなぎらひつつ ゆくみずの あひだもなくも おもほゆるかも
「飛鳥川は、水があふれるように盛り上がりながら、絶え間なく流れてゆくように、いつもいつもあの子のことが思い出される」
中大兄皇子と遠智娘(とおちのいらつめ)の間には三人の子がいたが、長男の建王(たけるのみこ)は生まれつき口をきくことが出来なかった。
大人しく可愛らしい子だったので、斉明天皇はこの孫をことに偏愛したが、八歳の年の夏、死んでしまった。
今城の谷の上に、もがりの宮を建てて棺を収めたけれど、 天皇の悲嘆は甚だしく、群臣たちを前にして、自分の死後は必ず建王と合葬するように命じ、 この時よんだのが上の三首である。
王が死んだ同じ年の冬、天皇は紀の湯に行幸するも、 建王を思い出し、悲しんでは泣き、 声に出してつぎの三つの歌をよみ、「この歌を伝えて、世に忘らしむることなかれ」と命じた。
耶麻古曳底(やまこへて)于瀰倭柁留騰母(うみわたるとも)於母之樓枳(おもしろき)伊麻紀能禹知播(いまきのうちは)倭須羅庾麻旨珥(わすらゆまじに) 其一
瀰儺度能(みなとの)于之裒能矩娜利(うしほのくだり)于那倶娜梨(うなくだり)于之廬母倶例尼(うしろもくれに)飫岐底舸庾舸武(おきてかゆかむ) 其二
于都倶之枳(うつくしき)阿餓倭柯枳古弘(あがわかきこを)飫岐底舸庾舸武(おきてかゆかむ) 其三
おそらく、建王の死の想いに対して、三の上句に感極まっただけなのかもしれないが、下二句が続けられなかった。
額田王にしても、次の句を継げなかったかもしれないが、その時の歌を額田王は残しているのだが、それが難訓歌である。
【幸于紀温泉之時額田王作歌】(658年)
「紀温泉に幸(いでまし)し時、額田王の作れる歌」と訓み、斉明天皇の紀温泉行幸の際、額田王が作った歌であることを伝えるものだ。(額田21・十市5歳)
01 0009 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之(わがせこが)射立為兼(いたたせりけむ)可新何本 (いつかしがもと)
『莫』の字には少なくとも、莫(モ)・ 莫(ミャク)・ 莫(マク)・ 莫(ボ)・ 莫(ベキ)・ 莫(バク)・ 莫(なかれ)・ 莫い(ない)・ 莫しい(さびしい)・ 莫れ(くれ)の10種の読み方が存在する。
『囂』の字には少なくとも、囂(ゴウ)・ 囂(キョウ)・ 囂わしい(わずらわしい)・ 囂しい(やかましい)・ 囂しい(かまびすしい)の5種の読み方が存在する。
『圓』の字には少なくとも、圓(オン)・ 圓(エン)・ 圓(ウン)・ 圓やか(まろやか)・ 圓い(まるい)・ 圓か(まどか)・ 圓か(つぶらか)の7種の読み方が存在する。
『隣』の字には少なくとも、隣(リン)・ 隣(となり)・ 隣る(となる)の3種の読み方が存在する。
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
ま-こ 【真子】:いとしい妻。かわいい子。▽自分の妻や子を親しんでいう語。
莫囂圓隣之:まごおりし「真子がおるんよ」
『大』の字には少なくとも、大(ダイ)・ 大(ダ)・ 大(タイ)・ 大(タ)・ 大きい(おおきい)・ 大いに(おおいに)・ 大(おお)の7種の読み方が存在する。
『相』の字には少なくとも、相(ソウ)・ 相(ジョウ)・ 相(ショウ)・ 相ける(たすける)・ 相(さが)・ 相(あい)の6種の読み方が存在する。
『七』の字には少なくとも、七(シツ)・ 七(シチ)・ 七(なの)・ 七つ(ななつ)・ 七(なな)の5種の読み方が存在する。
『兄』の字には少なくとも、兄(ケイ)・ 兄(キョウ)・ 兄(え)・ 兄(あに)の4種の読み方が存在する。
『爪』の字には少なくとも、爪(ソウ)・ 爪(ショウ)・ 爪(つめ)・ 爪(つま)の4種の読み方が存在する。
『謁』の字には少なくとも、謁(エツ)・ 謁える(まみえる)の2種の読み方が存在する。 『氣』の字には少なくとも、氣(ケ)・ 氣(キ)・ 氣(いき)の3種の読み方が存在する。
そな・ふ【備ふ・具ふ】〔現代かな遣い〕そなう-そのう:食膳(シヨクセ゛ン)や物を調えて神仏や貴人などに差し上げる。
そ・ふ 【添ふ・副ふ】:付け加わる。さらに備わる。増す。
助動詞「き」は、回想(過ぎ去ったことを振り返り、思いをめぐらすこと)の心持をあらわします。
大相七兄爪謁氣:おそなへそえき
いつ‐かし【厳橿】:けがれを避け、清められた神聖な樫(かし)の木。
まごおりし おそなへそへき わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
「子どもがかわいいんでしょうね、あのようにお供えをして、わが背子も一緒に清めているではありませんか」
しかも、11月には有馬皇子絞首刑にされているのだが、天皇には知らされていなっ方であろうが、年を明けた1月3日には大和に戻り、政はすべて皇太子に任せ、ほとんどを額田の母子との時間に費やすことができ、大いに慰められていたように思う。
斉明天皇7年(661年・68歳)額田王24歳・十市8歳
1月6日 - 西に向かって出航。
1月8日 - 大伯海に至る。大田皇女が皇女を産み、大伯皇女と名付ける。
1月14日 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
熟田津尓(にきたつに)船乗世武登(ふなのりせむと)月待者(つきまてば)潮毛可奈比沼(しほもかなひぬ)今者許藝乞菜(いまはこぎでな)【万0008】
これが二首目なのだが、題辞には【後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮】とあり、656年に建てられた、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)のことであるが、左注には憶良の『類聚歌林』からの引用があり、斉明天皇七年(661)正月、伊予国熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊った時の斉明天皇御製とし、百済からの援軍要請に応え、朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作である。
3月25日 - 娜大津(なのおおつ;現,福岡市南区)に着き、磐瀬行宮に居す。
4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
5月9日 - 朝倉橘広庭宮に遷幸。
5月23日 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。
7月24日 - 朝倉宮で崩御。
斉明7年(661)冬十月七日、天皇の亡骸は帰路についた。 皇太子はとあるところで停泊して、天皇をしたい悲しまれて、口ずさんで歌われた。
枳瀰我梅能(きみがめの)姑裒之枳舸羅儞(こほしきからに)婆底々威底(はててヰて)舸矩野姑悲武謀(かくやこひむも)枳瀰我梅弘報梨(きみがめをほり)『日本書紀 斉明紀』
め 【目・眼】:(見る対象である)顔。姿。
【裒】:[音]ホウ
こほ・し 【恋ほし】:慕わしい。恋(こい)しい。懐かしい。
はて 【果て】:喪の終わり。
ほ・る 【惚る・恍る】:(放心して)ぼんやりする。
「あなたのお姿の、恋しいからにはと思っていましたが、今は喪に服しており、このようにお慕い申し上げていると、あなたの姿を思い描いてはぼんやりするばかりです」
ところが、この半年以上もの間、額田母子も宝皇女と行動を共にしていたと思うのに、なぜ斉明天皇の挽歌が作成されていないのだろう?