高野天皇と道鏡
『続日本紀』では、終始「高野天皇(718-770)」と呼ばれているが、第46代孝謙天皇(在位:749年〈天平勝宝元年〉- 758年〈天平宝字2年〉)および第48代称徳天皇(在位:764年〈天平宝字8年〉- 770年〈神護景雲4年〉)である。
孝謙天皇としての治世 は、天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位(31)したが、治世の前期は皇太后(光明皇后48)が後見し、皇后宮職を改組した紫微中台の長官で、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂(43)の勢力が急速に拡大した。
《紫微中台(しびちゅうだい)は、749年に設置された令外官。皇太后の家政機関という体裁をとっていたが、実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関だった》
天平勝宝8年(756年)5月2日に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王(ふなどおう)を皇太子とする遺詔を残した。
しかし翌天平勝宝9年(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊(おおい)王を新たな皇太子とした。
この更迭劇には、孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられているが、 強まる仲麻呂の権勢に、あせった橘奈良麻呂(諸兄の子)や大伴古麻呂(鑑真を乗船)らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。
ところが、密告により計画が露見し、奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。
孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。光明皇太后も、「おまえたち藤原・橘の一族は私の姪(おい)同然の近親者である。故太上天皇はしばしばおまえたちを召して、『朕の亡き後は皇太后に仕えて、お助け申しあげよ』と仰せられた。
また大伴・佐伯の一族ははるか昔から歴代天皇の親衛隊として仕えてきた者どもであり、特に大伴氏は私の実家の姻戚でもある(鎌足の母親が大伴氏であることを示している)。
みな心を同じくして天皇を助けまつろうという心がけがあったならば、このたびのような醜聞は起こらぬはずだった。おまえたちがよからぬことから、このようになるものと思われる。みな明(あか)き清き心で天皇を助け仕えまつらなくてはならない」との宣命を出した。
しかし、仲麻呂の追及は収まらず、奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、関係者は同年(757)6月に粛清(橘奈良麻呂の乱)され、以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。
20 4487 伊射子等毛(いざこども)多波和射奈世曽(たはわざなせそ)天地能(あめつちの)加多米之久尓曽(かためしくにぞ)夜麻登之麻祢波(やまとしまねは )
20 4487 右一首内相藤原朝臣奏之
「たはわざ」は、常軌を逸したこと・愚行・軽率な行為などの意。
かため 【固め】:守り固めること。また、そのもの。守護。支え。
やまと-しまね 【大和島根】:日本国の別名。
【天平宝字元年十一月十八日、内裏にて肆宴(とよあかり:宴会)きこしめす歌】で、この場合、橘奈良麻呂の乱をほのめかしている。
天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇(40)は病気の光明皇太后(701-760)に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、この日、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。
仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられ、仲麻呂は官庁を唐風に改名(官職の唐風改称)したりするなど、さらに権勢を振るうようにもなる。
光明子は、阿倍内親王(孝謙天皇:718生)と嫡男基王(727-728)を出産しており、基王(もといおう)は、生後わずか32日に皇太子に立てられるも、翌年には亡くなっている。
天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王(20)が立太子し、史上唯一の女性皇太子となっていたが、天平17年(744年)に安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなってしまった。 直後に聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王(きぶみおう:長屋王の子)を擁立する動きを見せている。
当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。
おそらく光明子も安倍内親王の立太子を望んではいなかったように思うが、即位した高野天皇(31)は、聖武の崩御(756)の翌年、道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としたのである(高野39)。
ここで光明子は、早い時期に、譲位するように勧めていたであろうが、高野は40歳になっていたのである。
35歳で即位し、結婚経験もなく、独身で即位した初めての女性天皇である太上天皇(元正)のことを、光明子は忘れることができなかった。
「母(元明)から、聖武を預かったのです。それもを皇統嫡流をまもるためです。皇位を預かる後継者としてのわたしは、たとえ好きな人がいても、子どもを産むことは許されなかった。 妃であるあなただからこそ、その役目を担うことができるのです。未婚の女性が天皇になることは、今後あってはならない」
天平宝字4年(760年)1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。
孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの、淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた。
ところが、7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。
弓削道鏡(700 - 772)は、 文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれ、若年の頃に法相宗の高僧・義淵(ぎえん)僧正の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。
若年には、葛木(かつらぎ)山に入って如意輪(にょいりん)法を修して苦行無極と称せられ、文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書に東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したようである。
その後禅行が聞こえて、宮中内道場に入り、禅師となって密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じていたという。
もはや朝廷の中心でなくなった高野(42)は、母を亡くしてからは、何もする気が起こらず、無気力というより、虚脱状態になっていたのである。
あるいは、虚無感に襲われ、さらに更年期障害が、それに輪をかけた状態であったろうと思われる。
760年8月高野は、淳仁天皇とともに小治田宮(おはりだのみや)に移り、天平宝字5年(761年)には、平城宮改修のために、都を一時的に近江国保良宮(ほらのみや:石山持北方)に移したが、ここで病に伏せった高野の看病に当たったのが、弓削氏の僧・道鏡であり、その際、宿曜(すくよう)秘法を修したという。
それ以来、寵幸(ちょうこう)を得ることになり、藤原仲麻呂の乱(764年)、そして宇佐八幡宮神託事件(769年)が起こるのである。
孤独感に苛まれていた高野は、何事も話すことができ、母に代わる人を見つけたというべきかもしれない。
つまり、道鏡によって、かろうじて自分を取り戻すことができたに違いなく、まさに心療医の役を、道鏡は果たしたのである。
天平宝字6年(762年)5月23日(6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったのだが、高野(44)は平城京に入らず法華寺(開基:光明子)にて出家し住居と定め、ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記されたのである。
6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣したことにより、天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)は権勢を失い、道鏡は763年滋訓に代わって少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。
日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇であり、以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。
天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備(695-775)といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。
天平宝字8年(764年)9月11日、藤原仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させ、これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。
仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走したが、9月13日に殺害され、 仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には、左遷(奈良麻呂事件)されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とし、天平神護元年(765年)10月に、称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸し、この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。
またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始したが、一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。
孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよとの藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが、この「大臣」は大連の地位にあった物部守屋を指すと考えられる。
「ところで朕は髪を剃って仏の御袈裟を着ているけれども、国家の政治を行わないでいることができない、仏も経典で仰せられていることは、”国王が王位についておられるときは、菩薩の守るべき浄らかな戒めを受けなさい”と仰せられている。
これによって思うと出家をしても政治を行うことに何ら障害となるものはない。そこでこのようなわけで、天応が出家しておいでになる世には、出家をしている大臣もあってよかろうと思って、自分から願っておられる位ではないけれども、この道鏡禅師に大臣禅師という位をお授けすることを、みな承れと申し告げる」(『続日本紀』廃帝淳仁天皇天平宝字八年)
天平神護元年(765年)に飢饉や和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であったが、同年10月に称徳天皇は、道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸し、この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。
またこの際の行宮(あんぐう)を拡張し、由義宮(ゆげのみや)の建設を開始しているのだが、ほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。
天平神護2年(766年)10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王としたことにより、人臣最高の地位を極めたのである。
道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人(きよひと:道鏡の弟)が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。
一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであり、こうして高野天皇=道鏡の二頭体制が確立され、西隆寺の造営(767)、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進め、神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進み、神社の位階である神階制度も開始されている。
道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。 東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やし、国分寺の復興修造に意を用い、諸大寺にしばしば天皇の行幸を仰いだ。
各地から道鏡におもねり奇跡、祥瑞(しょうずい)の報告、献上が相次いだが自分からも策謀し、彼の徳政を天が嘉(よみ)すると宣伝し、その最大のものが宇佐八幡(うさはちまん)神託事件であり、769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。
この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)(生没年不詳)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)(生没年不詳)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。
天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫)の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認(769)させた。
清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかったが、道鏡は郷里河内弓削に由義宮(ゆげのみや)を建設、西京と号し、河内国を河内職と改め、三度行幸を仰いだ。
神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸し、その翌月の3月なかばに発病、そのまま病臥する事になる。
高野天皇の看病の為に近づけたのは、宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。
確かに称徳天皇(53)は、生涯独身であり、子をなすこともなかったが、由利に語った言葉は、「母は女としてのわたしの不幸を嘆いたが、今、その半生を振り返れば、わたしは十分に生き、充実した人生であった」