臺1章 神学校(セミナリオ)が高槻に移り、羽柴が大坂で教会を建てるための敷地を与えた次第
織田信長が亡くなった(1582年)後、日本の大部分は動揺し、安土のセミナリオ自体も、オルガンチノ神父以下約30名いた生徒全員の大脱出という出来事で幕を閉じた。
相談を受けた右近は、セミナリオ(神学校)を安土から高槻に移すなど布教を続け、ジュスト右近殿の領内での改宗は日々に増して多人数の受洗がしばしば行われている。
信長の没後、その家臣で羽柴筑前殿と称するものが天下の政治をつかさどることになったが、彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品にかけていた。
秀吉には、高貴さと武勲において己に優る二人の競争相手がおり、まず越前国の主君である柴田勝家殿と一戦を交えて彼を滅ぼした(1583年)。
第二の敵は信長の息子三七殿(信孝)だが、頼みの綱である柴田勝家を失った信孝は、やむなく開城することになったが、信雄の命令によって自害(1583年)させられた。こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立し、表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を差配することになった。
羽柴が剥奪した二カ国(河内と摂津)では、差し当たっては領国と収入を召し上げるのが目的で、キリシタン宗団に対して直接害を及ぼすことを意図していなかったが、その目的を意のままに推敲するためには、その地に当初からいた有力者たちを追放する必要があった。
彼らのうちの首領格の幾人かはキリシタンであり、それら諸国の宗団は、彼らが五畿内で有する最大にして最古、またもっとも組織化されたもので、なかんずく河内の国では、三箇頼照殿・結城ジョアン殿・池田丹後教正殿・伊地智文太夫殿なる四名の有力者の許に置かれていた。
信長を己より劣れる者たらしめようと決意し、その傍若無人にして傲慢なことのあらわれとして、天正11年(1583年)、信長が六年間包囲した大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築いたのだが、建築の華麗さと壮大さにおいては安土山の城郭と宮殿を凌駕した。
幾人かのキリシタンが秀吉の許で極めて重要な役に従うこととなり、、右近殿はしばしば戦場で挙用したが、自身の護衛にあたらせるため側近にとどめることを欲し、都の古参のキリシタンである小西ジョウチン(立佐)をばきわめて要職である、堺の町の代官に任じ、その地の莫大な収入の管理にあたらせた。
オルガンティーノ師は、9月に大坂に羽柴(秀吉)殿を訪れて、地所の下付を願い、河内国にある(岡山の)教会を同所に再建する許可を求めたが、それに対する高山右近殿の配慮と努力には並々ならぬものがあった。
秀吉が示した好意と歓待ぶりは驚くべきほどで、「伴天連らが遠国からはるばると教えを説くために渡来した辛酸労苦は非常なものだ。伴天連の望みを叶え、極上の敷地を進ぜよう。申し出た教会についても、何人の妨げも受けず、随意に建築することを許可しよう」(20230524)
第2章 大坂でキリシタンになった数名の貴人、および羽柴筑前殿のキリシタンに対する幾つかの恩恵について
羽柴筑前殿は天下の君となるや、大坂において、先に織田信長が、安土山に気付いた城より、万事において優れた城、ならびに城下町を構築することを決意し、かく決心すると、それを直ちに実行に移した。
1583年の主のご降誕の祝日に、大坂の教会で初ミサが捧げられ諸国から参集した、男女のキリシタンの数は異常なばかりであり、これら全信徒にあまねく見受けられた熱意と篤信さは、司祭たちをしていたく感動せしめるものがあった。
かつて大坂の街が、日本中で極悪の宗派のひとつである一向宗の本山であったように、今や主なるデウスは、この街をキリストの福音の伝播のため、それに全くふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである。
羽柴秀吉は、、デウスのことに反対せぬのみか、その態度から、それを仏僧らの宗教よりも真実のものと認めているようで、彼はそれゆえキリシタンを信頼し、側近の重臣たちの息子らがキリシタンになるに接して喜んでいた。
ロレンソ修道士は古参であり、五畿内のすべての諸侯に知られており、それらの人たちと自由闊達に語らい、羽柴も多年にわたって彼を知っていて、過日、彼と長時間談話に耽った折、冗談半分に修道士に対し、「もし伴天連らが予に多くの女を侍らすことを許可するなら、予はキリシタンになるであろう。その点だけが夜にはデウスの教えが困難なものに思えるのだが」と言った。
すると修道士は同様からかい半分に応え、「殿下、わたしが許して進ぜましょう。キリシタンにおなり遊ばすがよい。なぜなら殿だけが(キリシタンの教えを守らず)地獄に行かれることになりましても、殿がキリシタンになられることによって、大勢の人がキリシタンとなり救われるからでございます」と言った。(20230531)
第3章 羽柴秀吉が三河国主(徳川家康)に対して戦争、ならびに根来衆と雑賀の暴動
天正12年(1584年)3月6日織田信雄は、秀吉に内通したとして、信雄に仕える三名の家老(岡田重孝・浅井長時・津川義冬)を長島城へ呼び出し誅殺し、これにより秀吉と断交した信雄は、同盟を結んでいた家康に出陣を要請したのである。
3月9日頃、秀吉は信雄を攻撃するため大坂城を出陣、伊勢へ向かい、3月13日、大垣城の池田恒興が秀吉につき、手薄になっていた織田領の犬山城を攻撃、(犬山城主の中川定成は秀吉に備えて伊勢 峯城に移っていた)占領する。
3月13日、徳川軍(20,000)が清須城に到着し、信雄・家康陣営は長宗我部元親、佐々成政、雑賀・根来衆、北条氏政と連携することを決め、3月15日、家康が清須城から小牧山城へ移動する。
3月15日頃、秀吉軍が伊勢へ侵攻、滝川一益・蒲生氏郷・浅野長吉(長政)が信雄領の諸城を攻撃しており、「各地から軍隊が即座に集結したので伊勢国に着く頃にはすでに7万の兵を率いていた」【1584年フロイス書簡(要約)】
3月16日、東美濃の森長可(池田恒興の娘婿、森蘭丸の兄)が秀吉方につき、美濃金山城から兵3,000で出陣し、羽黒八幡林に陣を構えるも、森長可の動きを察知した徳川軍(酒井忠次、榊原康政、松平家忠、奥平信昌)兵5,000が出陣、17日未明に八幡林で交戦となり、森長可は300名が討ち取られ敗走する。
3月18日、家康は小牧山城を改修し、秀吉軍に備え周囲に砦を築き、家康と織田信雄が紀伊の根来衆へ挙兵を要請し、家康の激に応じた紀伊の根来衆と雑賀衆の兵15,000が大坂を攻撃するため侵攻し、「大坂にいた人々は、この有り様では市は全滅してしまうと思えたので、家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した」【フロイス日本史】
海軍の総司令官小西アゴスチイノ(行長)は、上記の敵が出撃したとの報せに接すると、、直ちに約七十隻の船を率い海路から堺を望見しつつ来援し、敵が通過する和泉国の海岸を攻撃して、そこでも多数の敵を討ち取ることができた。
この勝利のために、間もなく大坂は平和安寧に復し、われらの主なるデウスは、このようにして当時、摂津国・河内・堺・大坂、さらに都のキリシタン宗団を救い給うたのであり、もしもデウスが限りない憐れみを垂れ給わなければ、敵の手中に陥っていた。(20230607)
第4章 大坂城と新市街の建設について
羽柴筑前殿は、戦争においても平和の際にも、その成すことはことごとく成就し、日本人の談によれば、その偉大さ、ならびに領土の広大さは、前任者信長を凌駕していたが、ここに新しい都市、宮殿および城郭を築くことにした。
その城郭は、厳密に言えば五つの天守からなり、最も主要な城(本丸)には秀吉が住み、八層からなるが、最上層には外から取り囲む廻廊があり、また塀・城壁・堡塁、それらの入り口・門・鉄を張った窓門など、それぞれの門は高々と聳え、武将や家臣たちの住居でもあった。
これらの建物はすべて木材が用いられ、壁は市中の間に幾本もの太い竹を仕組み、その上に粘土をかぶせ、更に白く漆喰を塗り、それは内側からも外側からも施されるので、外見からは恰もヨーロッパの建物のようであり、われらの目に何らの違和感も覚えさせない。
その趣向、構造、不思議なほどの清潔さ、はたまた内部の装飾、調和などにおいては、われらの設計とはあまりにもかけ離れ、かつ稀有なもので、これらの建築はわれらの者に比べ、はるかに少ない費用でもって、大いなる威厳を醸し出しているのである。
羽柴筑前殿は血統から見れば大して高貴な出ではなく、家系からも、およそ天下の支配なり統治権を掌握して、日本の君主になりえる身には程遠いものがあったので、今やこうした高位に昇り、幸運の座に就き、そして日本の歴史上未曽有の、著名にして傑出した王候武将と言われている信長の、後継者となるに及び、可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾けた。
大坂は日本一の国際都市、また貿易都市である境に隣接し、諸船は大坂のもろもろの家屋近くに到着できたし、都へ通じる道筋にもあたり、何よりも大坂付近には淀川があり、都に赴くにはその河を航行せねばならなかったが、夥(おびただ)しい群衆が往来したので、通行はこの上なく困難であり、乗船は人々をさばき切れなかったし、各人は一定の船賃を支払うのを余儀なくされ、貧乏人にとって淀川を渡航することは容易なことではなかった。(20230614)
第5章 羽柴筑前殿が根来衆と呼ばれる仏僧ら、および雑賀の仏僧らに対し行った戦争について
堺の付近を和泉の国と称するが、その彼方には、国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国なる別の一国が続いているが、そこには一種の宗教が四つ五つあり、その各々が大いなる共和的存在で、昔から同国では常にその信仰が盛んにおこなわれており、いかなる戦争によってもこの侵攻を滅ぼすことができなかったのみか、益々大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。
これらの宗団のひとつを高野といい、三千ないし四千の僧侶を擁しており、その宗祖は弘法大師で、彼は七百年前、そこに生きたままで埋葬されることを命じ、同宗派は真言宗と称し、頂上に大いなる平地と自分たちの憩いの場を持つ高山にあり、毎年大勢の参詣者や巡礼が訪れるが、いかなる女性もそこに登ることが許されないし、また女性に関連した物品ももたらすことができない。
同国にある第二の宗団は粉河と呼ばれるが、前者に比すると人員なる規模においてはるかに劣るので割愛するが、第三番目の宗派ないし宗団はやはり一部の仏僧が構成するものであり根来衆と称し、、彼らは当初高野の仏僧らと同一の宗団に属していたが、、後に分離して独自の宗派を形成するに至った。
これらの仏僧たちは、、日本の他のすべての宗派とは全く異なった注目すべき点を有しており、すなわち彼らの本務は不断に軍事訓練に勤しむことであり、宗団の規則は毎日一本の矢をつくることを命じ、多く作ったものほど功徳を積んだものとみなされ、彼らは絹の着物を着用して世俗の兵士のようにふるまい、富裕であり収入が多いので立派な金飾りの両党を指して歩行した。
この紀伊国の第四番目の宗団の人々がいる地方は雑賀と称せられ、その住民たちはヨーロッパ風に言えば、いわば富裕な農民たちではるが、彼らは海陸両面での軍事訓練においては、根来衆にいささかも劣らなかったし、常に戦場で勇敢な働きぶりを示してきたので、日本で彼らは勇猛にして好戦的であるという名声を博していた。
彼らは僧籍を有せず、全て一向宗の信徒であり、かつて大坂の街および城の君主であった石山本願寺の仏僧顕如を最高の主君に仰いでいて、要衝雑賀においても難攻不落の観があり、すなわち二方面は海に囲まれ、他の一方面には水量豊かな紀の川が流れ、第四の方面には嶮しく高い山岳が聳えており、しかもそこには一か所しか入り口がなかった。(20230621)
第6章 羽柴が勝利を博してこの戦争を終結にするにあたって採った方法、ならびに太田城なる雑賀の主城を摂取したことについて
残った城は、最も重要なオンダナシロ(太田城)と称するもののみとなったが、この城は一つの市の如きもので、雑賀の財宝は悉くここに集め、根来ならびに雑賀の重立った諸将等もここにおり、軍需品・兵士及び糧食は、非常に多量で、日本の常食である米のみでも20万俵を超える。
而してこの城ははなはだ強固で、四方に十分の備えがあったので、突撃によって攻め入れることは困難とされ、よって、羽柴筑前殿は、甚だ高く、かつ厚い土壁をもってこれを囲み、彼等が防禦と頼んだ水多き大河をその中に引き、これによって敵を溺死せしめんと決した。
この戦況の間、羽柴の軍勢は堤の外の起伏にとんだ高台に布陣しており、羽柴が海の総司令官(小西行長)アゴスティノに対し、何艘かの船を率いて、堤の中に侵入し城兵と戦うように命令した。
アゴスティノは、多くの十字架を掲げた船舶を率いて、、敵の城に向かって進軍し、城の土居近くに達したが、船からは土居が見えず、城中の者が己が身を守ろうとしてはなった火、鉄砲・矢・石、その他の火器の一斉攻撃を上方から浴びることになった。
もはや兵士たちは疲労したので、羽柴は戦闘を中止して引き揚げるようにと命令したが、城内の敵軍は、この長時間にわたる戦闘によって、小西勢以上に疲労困憊し、茫然自失の態に陥ったばかりか、水は既に自分たちが設けた土居を乗り越えて侵入していたので泳いで逃げようと、徐々に身支度を始めるものが続出した。
そして小西の艦隊が退いたのは、陣容を立て直したうえで、直ちに一層の大攻撃を仕掛けてくるためではないかと恐れをなし、別の条件を出して羽柴に憐れみを求めようと、首謀者の首級を引き渡す代わりに怒りを鎮め、それで償いが果たされたものとみなし、爾余の全員の生命を助けてもらいたいと願い出た。(20230626)
第7章 本年、大坂でキリシタンになった数名の貴人について
近江の国には、安土山の町が築かれていたことからあまり隔たらぬ地に、日野の蒲生氏郷殿と称し、彼は高山ジュスト右近殿と不思議なばかり親しみ、その人柄や天性の素質に敬意を表してはいたが、右近が常にデウスのことを口にし、高貴な若侍たちをキリシタンにしょうと説得してやまぬことを快く思わなくなり、彼を避けて歩くようになった。
氏郷はまだ若く放縦な生活を送っていたから、彼らのキリシタンの教えには、何らの親しみを抱いては居なかったのであるが、高山ジュスト右近殿は、氏郷を極めて重視し、その改宗を絶えずデウスに祈る一方、このいとも重要人物である若者が改宗することは教会の将来に大いなる成果をもたらすことになるので、司祭たちにも、ミサ聖祭を通じ、同じように祈ることを願った。
戦乱が継続する世の中において、ことに常に変転極まりない生活を強いられる日本の事情を思えば、日本で改宗した武将たちがヨーロッパの武将たちのように、いつまでも信仰に留まりえると判断しがたいことは事実であるが、彼らは必ずや信仰に留まるであろうと、主の御憐れみに期待することができるのである。
日野の蒲生殿は受洗後は、友人や政庁の身分の高い若侍の対して、われらのキリシタンの教えを聞くよう説得してやまず、彼みずから同輩の若者たちに説教し、全ての家臣たちにもそれを聴聞するように熱心に勧告し、かくて彼ら家臣たちは教義をよく理解したうえでキリシタンとなるに至った。
これら受洗したもののうちには、関白の顧問を務めるひとりの貴人がおり、彼の心を最初に動かしたのは海の総司令官小西行長アゴスティノであり、次いで飛騨蒲生氏郷殿と高山右近ジュストが彼を受洗へ導いたのだが、この貴人は小寺シメアン官兵衛殿と称した。
キリシタンになった今ひとりの人物に播磨の国三木城主がおり、彼も亦同国にキリシタン信仰が入るための戸口となり、また高槻から二里の茨木城では、多くの身分のある武士たちがキリシタンに改宗しつつある。(20230705)
第8章 関白の権力、ならびに彼が大坂城で行なったことについて
この人物(関白秀吉)が極めて陰鬱で、下賤な家から身を起こし、わづかの歳月のうちに突如日本人最高の名誉と栄位を獲得したことは、途方もない異常時にほかならず、日本人全てを大いに驚愕せずにはおかなかった。
彼は極度に恐れられ、人々に文字通り臣従されてはいるが、それは暴力と弾圧によるのであり、彼は己に服している日本の君侯らを、その出身地や領国から移動せしめ、自ら欲する諸国は横領し、そのほか、諸侯の意に反することであったが、その所領を互いに交換せしめた。
彼はその大坂の街を一か年半の短い期間内に造営せしめ、その間、街は一里半の長さにまで拡大して、同所には食料品、商品、建築資材、その他住民の必需品が集合するように緻密な配慮がなされたために、街にはあらゆる物品が豊富にそろえられていた。
彼が大坂城の周囲に築かせた濠の工事は、副管区長(ガスパル・コエリュ)師が五畿内を訪れた時より二カ月以上も前から行われていたが、滞在三カ月もの全期間中もなお続けられ、それには四万人を超える人々が絶え間なく従事した。
この工事において万人が最も不思議に思い驚嘆と畏怖の念を描いたのは、かくも夥(おびただ)しい大量の石材をどこから集めてくることができようかということであったが、高山右近殿が陸地を一里更に海路を三里も運ばしめた石のごときは、輸送に千人の人手を要し、大坂の全住民を驚嘆せしめたのであった。
われらは時々、信用できる人たちに、、いったい何隻ぐらいの船が毎日大坂の河に入っていけるかと訊ねてみたら、ほとんどすべての人たちは、千隻を越えて余りあることを認め、係の役人が毎日岸に出向き、何隻が外から入ってくるかを記帳しているが故、その数字に誤りがないと言っており、それらはすべて厳格のもとに行われていた。(20230712)
第9章 副管区長が大坂に関白が訪れた時の歓待と恩恵について
関白はことは、以下のように語った「予も伴天連が一つのことを専心しているように、既に最高の地位に達し、日本全国を帰服せしめた上は、もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし、そのほか何物も欲しくない」
「ただ余の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみで、日本国内を無事案音に統治したく、それを実現した上は、この日本国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予みずからは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい」
「それゆえその準備として、大軍を渡海させるために、目下二千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめており、なお予としては、伴天連らに対して、十分に艤装した二隻の大型ナウ(ポルトガル船)を斡旋してもらいたいと願うほか、援助を求めるつもりはない」
「それらポルトガル船は、無償でもらう考えは毛頭なく、代価は言うまでもなく、それらの船に必要なものは一切支払うし、提供されるポルトガルの航海士たちは練達の人々であるべきで、彼らには俸禄お及び銀をtらせるであろう」
「また万一予がこの事業の間に死ぬことがあろうとも、予は何ら悔いるところはないであろうし、先に述べたように、予は後世に名を残し、日本の統治者にして古来未だかつて企て及ばなかったことをあえてせんと欲するのみであるからだ」
「もしこの計画が成功し、シナ人が予に屈し、服従を表明するに至るも、予はシナ人を支配する以外には彼らに何も求めず、予自身はシナに移住せず、彼らの領土を奪うつもりはなく、その地のいたるところにキリシタンの教会を建てさせる」(20230719)
第10章 関白のはなはだ重要な特許状が作成された次第、ならびにさらに五畿内でしょうじたことにちて
天正14年(1586) ガスパール・コエリュ師は、地区責任者として畿内の巡察を行い、大阪城で秀吉に謁見(3月16日)し、特許状を獲得(5月14日)することができ、日本での布教の正式な許可を得た。
「伴天連らが日本中、いずこの地にも居住することに関しては、予は是を許可し、彼らの住院に兵士たちを宿泊させる義務、ならびに仏僧らの寺院に課せられているあらゆる義務から彼らは免除される特権を付与する。彼らがその教えを説くにあたり、乱暴狼藉あるまじきこと」
関白夫人は、この時までまだ伴天連たちと会話を交えたことも逢ったこともなく、未知の間柄であったが、二名の高貴な夫人をコエリョの許に遣わし幾つかの果物を届けさせ、伴天連は異国の人であり、そのような人から頼まれたことを初めて成し遂げることができて満足に思うとともに、今後も伴天連たちのために尽力を惜しまぬと伝えさせた。
その数日後、関白は豊後の国主(大友宗麟)不安シスコを招くためにゐに黄金の茶室の飾りつけを命じ、関白から司祭のところへ黄金の茶室を見せるから来城せよとの使いに、行長の父小西ジョウチン立佐が先導しわれらに観覧せしめたが、それえらの道具が完美で、室が清潔で光沢あることは必見に価した。
司祭は大坂で関白訪問の人を果たし終えると都に向かい、既に幾日も前から司祭の来網を待ち望んでいたキリシタンたちは、洛外の相当隔たったところまで出向いて彼を迎え、彼らは男女も子供もみんな晴れ着をまとい、その習慣に従って、贈り物として食料品をそこへ齎していた。
司祭たちは大坂に帰ると、折から祝日の祭典を催すときにあたっていたので、キリシタンらの信仰心を鼓舞するために同地で盛大なミサを行うことを命じ、この催しには、近江・都・河内・摂津・堺、およびその他の諸国から多数のキリシタンが参加した。(20230726)
第11章 堺において(日比屋)ディアゴ了珪の兄弟ガスパル・ジョインが殺され、次いでこれに
より関白殿が不法にも了珪の婿ルカス宗札を磔刑にした次第
堺の最初のキリシタンは日比屋ディオゴ了珪であったが、彼はまだ異教徒であったにもかかわらずガスパル・デ・ヴィレラ師を自宅に宿らせたし、同地にまだ協会がなかった間には、幾年にもわたってわれらは彼の家に宿り、そこでミサをささげ、キリシタンたちに秘蹟を授けた、
なお明石は今、高山右近殿の所領となり、彼は主だった家臣に受洗させ、新たなキリシタン宗団は順調に歩み始めていたが、オルガンティーノ師はその明石から戻ってくると発熱と風邪で病人になり、養生のために境に赴いた。
当時まだキリシタンになって間もないルカス宗札は、弟のリョウカンもキリシタンにしたいと考え、おしえを聴かせようと彼をわたし(フロイス)の家に連れてきたことがあり、説話が我らの救霊の玄義のことに及ぶと、彼はまだ十七歳の若者であったが、突然目を白く向き、「髪の毛が逆立ちの句が震える。悪魔が俺を苦しめているのが目のあたりに見えるのだ。これではキリシタンにはなれない」と言いながら立ちあがったー「一人は召され、他の人は残されるであろう」(マテオ、二十四ノ四〇)との聖書の言葉が、この二人に成就する事件が起こる。
ガスパルが客人たちを招き、皆が大いに満足した後、彼が立ち上がって部屋から送り出そうとしたときに、ルカスの弟で異教徒のリョウカンが戸口の傍に居り、年齢順に出ましょうと述べ、兄のルカスがまず出、そのあとガスパルの隣家の道察が続き、三番目にガスパルの兄弟トウアンが出ようとすると、リョウカンは素早くたち、胸に隠しもっていた短刀で、その場でトウアンを刺し殺し、更に背後にいたガスパルを殺害し、彼は先手を打ち、同じ短刀で自分の喉を切り、先の二人と同じ場所に斃れて絶命した。
かれこれ二カ月ほど前に、関白殿は堺の代官に二名の人物を任命し、その一人は8小西)ジョウチン立佐であり、もう一人は石田佐吉殿と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしないジョウチンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
石田佐吉殿はこの事件を知るや否や、本件は同僚の小西立佐にとっては不都合なことであり、キリシタンたちにしてみれば忌むべきことであったので、関白殿に忠誠ぶりを示そうと考え、死者の親族をとらえ、もっぱら家財没収であり、正義というようなことを彼らはほとんど意に介していなかった。(20230809)
無実のルカスを訊問する機会を得た彼らは、罪深くも彼を殺し、彼が所持していた、立派な茶の湯の道具を思いのままに没収し、得ようと考え、ルカスの身辺はますます悪化の一途をたどり、すなわち彼の徳操・善良・親切・篤信さなどがすべて善人に知れ渡り、愛されれば愛されるほど、邪悪な連中には嫌われ、嫉妬されていたのである。
かくて最高の暴君(関白)は、彼を水責めの刑に処することを命じたが、これは彼の徳を伊一層大いに試練することとなり、その方法は特殊なもので、水を口に注ぎ込み、当人を瀕死の常態に陥れるのであったが、このキリストの騎士(ルカス)は、そのあらゆる苦痛を負いなる勇気と忍耐を以って堪え抜き、事実知らなかったことについては何ら口外しなかった。
了珪は、二人の兄弟を失ったほか、娘婿のルカスはとらえられ、人々から尊敬されていた有徳の娘は、四人の孫ともども、すでに死刑の宣告を受けていたが、更に彼自身もその家族も安全ではなく、その胸中の苦しみは言語に絶するばかりであった。
この頃の大坂の教会は、慌ただしく出入りし、往来する大群衆で、まるでローマの巡礼地、あるいは制木曜日のようであったが、同所は公共の場所であったから、友人や親せきは疑いをかけられることも少なく、より安全に集合して、事件について語り合い、種々の方策が講じられた。
その時、警備にあたっていた騎馬の役人たちは、、下役と獄吏に対し、ルカス(宗札)を槍で殺すように命じ、彼らは先ず二度ルカスののどを突き、槍先はその首を貫き、彼は突き刺さるほどに、ほとんど絶え間なくイエズス、マリアの御名を呼び続けた。
ルカスの処刑尾の午後、ルカスの妻である了珪の娘(モニカの妹:サビナ)とその子どもたちは了珪に引き渡され、これは関白夫人および宇喜多八郎殿の乳母が、彼らのために執拗なまでに尽力することがあったからである。(20230816)
第12章 都地方に生じた幾つかのことについて
聴くところによれば、関白は大阪城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室として抱えており、それ以外に第一夫人北政所がおり、彼女は極めて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性を抱えているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている。
都地方の布教長オルガンティーノ師は、建物のハリに用いるために、遠隔の地から五本の大木を境に運搬するように命じていたが、それらは極めて良材で、堺に建てられることになっている教会に必要な素材であったところ、それらの大木が城内に置かれると、大工たちは直ちにそれを削り始めた。
関白がその工事を眺めていた折、夫人はわざわざ近づいていったー「上様、昨日あそこへ齎された大木は異国の伴天連らの所有物でございます。彼らは満足に食物をとらないで、節約しながら自分たちの教会を建てようとしているのです」
関白はやや不機嫌そうに答えたー「予は本事業のためには、予の兄弟(秀長)や甥(秀次)をはじめ政庁のあらゆる貴人たちからも材木を徴収しているのだ。伴天連たちから、五本くらい挑発したとて差支えあるまい」
関白夫人は再び答えて云ったー「上様の弟君、甥御、およびこの政庁の貴人たちは、いずれもみな日本人であり、殿の家臣です。そして殿のお与えになりえる俸禄なり領地によって身を立てております。しかし彼ら伴天連たちは、わたしはまだ逢ったこともなく存じはしませんが、外国人であることはわかっておりますし、彼らは殿の御家臣ではありませぬ」
関白は、彼女の言の道理にいたく説得され、彼女には何も答えず、直ちに工事の監督を呼ばせ、大坂から三里離れた堺のわれらの修道院にその大木を返還するように言いつけ、こうしてまたしても先と同じく、喚声と騒音のうちに七百名近いが大木を運びかえり、彼らは堺の街に入って再びわっらの修道院に大木を置くに至ったのである。(20230823)
第13章 薩摩国に対抗し、関白が下の地方に向かい出発したことについて
大坂にいたわれらの司祭たちは、関白の出陣を目撃したが、それは日本に自らの偉大さを誇示せんとするものであり、豪華そのものであったが、司祭たちは異教徒に混じりキリシタンの将兵が十字架で飾られた正装で行進する有様に接して大いに慰められ、あるものは十字架を兜に、あるいは旗につけ、また他の者はそれを衣装に描いていた。
大坂城にいた数名のキリシタンの婦人が報せに来たところによると、関白夫人は自ら思いついて、関白が出発するに先立ち、彼に依頼するところは、伴天連たちは外国人であるから、下の各地にある教会や伴天連らが、兵士や軍勢に煩わされることが全くないようにしていただきたいと。
ジュスト右近殿は、自分が先発して出陣することになったので、あらかじめ自領明石には父親のダリオを名代として留めておいたので、関白はその地に到着して、きわめて盛大に歓待され、この行軍に際してダリオがいとも周到に配慮し、多大の費用を惜しまなかったことにつき彼を大いに讃えた。
同地にはヴェネツィア出身のジョゼ・フォルナレート師が、そこのキリシタン宗団とともにたが、同司祭は関白がわれらの教会のところを通過するので街路に出て彼を迎えたところ、関白はいつからここに居るのか、自分と一緒に下の地へ行かぬかと質問したが、関白は後で伴天連がその言葉を本気で受け止めるかもしれないことがわかると、そこにとどまっておれと伝えさせた。
大坂の僧(顕如)に対し、九州への軍勢に参加するよう準備を命じ、次いでいささかもその名に反することなく実行せしめ、後刻、その仏僧を下関にとどめ、同じく内裏に次ぐくらいで、日本の本来の真の君主である公方様(足利義昭)は、先に信長の時代から備後の国に流されていたが、関白は自分の不在中に当地で何等か予期せぬことがなしはせぬかと安じ、自分と共に戦場に赴かせたが、信長の息子の御本所(信雄)を伴わなかったがその代わり彼の最精鋭の兵士二千名を参戦させた。
副官区長(コエリョ)師は、関白がこれら西国の地に至るとの報告に接し、また自ら万端準備を整えてはいたものの、幾人かのキリシタンから、ともかく関白が下関を通過するときにはその地にいるように注意を受けていたので、直ちにきわめてよく武装された一隻のフスタ船に乗って長崎を出発したが、既に長崎から四十里以上ところに来た時に、われらは途中の港に関白の艦隊司令官小西弥九郎アゴスティノ(行長)の一船を見つけたが、庇護の国へ向かうように連絡されていた。
第14章 副管区長が、肥後八代に赴き、そこで関白を訪問したこと、およびさらに生じたことについて
我らは八代と呼ばれる地に向かったが、そこは薩摩の島津氏が、肥後国で有していた町のうち最も主要なところであり、その地がいかに美しく、清らかで、また優雅で豊穣であるかは容易に説明できるものでなく、事実敵たちは慰楽のためにこの地を選び、そこに領内の他のいずこよりも多くの家屋を建てたのであった。
またそこには長崎その他の地の多くのキリシタンがおり、彼らの一人一人が関白が五畿内で明らかにわれらに対して好意的にふるまったことの真相を見極めようと望んでいたが、関白が我らを優遇することは、異教徒たちにとっては大いなる恥辱であり、彼らキリシタンには喜悦であって、日本人を大いに左右する問題であった。
日本全国を平定し、秩序立てた上は、大量の船舶を建造せしめ、二十万から三十万の軍勢を率いてシナに渡り、その国を征服する決意であるが、ポルトガル人はこれを喜ぶや否やと付け加え、その問いに対する答えを聴くと関白は無上に満悦した様子を示した。
関白の前で、司祭たちが成功を収めたことを伝え聞いた肥前国、および薩摩国境の殿たちは笈に驚嘆し、一方司祭が、自ら伝達を引き受けることになった、先の吉報を携えて楼門に近づくに接し、男女・僧俗を問わず虜囚の人々の喜悦と満足は一通り出なかった。
関白は自らの陣中の者に対しても恐怖心を抱いていたというのも、彼らは大いなる飢餓と苦難に陥っていたから、絶望のあまり、暴動ないし謀叛を起こすことが案ぜられ、もしも薩摩の国主が、あと五日間、関白の許に赴くのを遅らせていたならば、関白は軍勢を撤退させ、自らは馬を馳せて帰ったであろうし、彼の面目は丸つぶれとなり、その名は信用を失墜したであろう。
だがそうしたことを知らず、薩摩の国主(義久)と伊集院殿(忠棟)と呼ばれる主席家老は関白に降伏し、そしてただそのことが実行されただけで関白は表向きには成功にすこぶる満足そうにしつつ、直ちに全軍を従えて博多への道を引き返していったが、これは彼の知恵細工によるものであり、彼が当時陥っていた内心の弱さや、危険は外からは知られぬことであった。
第15章 副管区長が博多に赴いたこと、およびそこで彼が関白殿を訪問した次第
関白は博多に到着すると、関白に取り次いでくれることになっているキリシタン武将たちから通告を受けたので、直ちに仲間とフスタ船で姪浜から博多に赴き、フスタ船では朝から晩まで絶えず出入りする来客の応対に忙殺されたが、それらのある人々は、関白の軍勢に属するキリシタンの兵士たちであり、他は異教徒たちであった。
関白は己が名声を高めようとして、過ぐる戦争のために徹底的に破壊され、雑草に掩われたのはらと化している筑前国博多の町を再建させることを決意し、彼は博多から半里隔たった箱崎と呼ばれるところに陣屋を構えていたが、七月十九日日曜日に、博多の古くからの住民に対し、地所と街路の区割りを行うことに決めた。
関白がそのために奥の船を率いて会場に出たところ、コエリュ師はそのようなことを何ら知ることがなく、ちょうど時を同じくして、関白が乗船した浜辺に到着したのだが、そのフスタ船を見つけた関白は、急ぎ舟を漕がせ、みるみるうちに司祭らがいるフスタ船に乗り込んできた。
フスタ船が浜辺に就くと、前面には、新たな博多の町に住むことになる約千名の人たちが勢ぞろいしており、彼らは二種の贈物、すなわち一つは銀棒(複数)を載せた大きい盆、他は米から作られた日本酒の小樽約五十、そのうえ鳥、魚その他の食品を携えてきていた。
関白はフスタ船から降りる際に、自分の帽子をとってくれるように命じ、それはタフェータ性で、あまり上等の品ではなく、われらの国で用いるじょうごのような形をしていたが、コエリュ師は、そこに居合わせたキリシタンの幾人かの勧告により、まさにこう機械化と思われたので、関白に、金色のひもがつき、ダマスコ織で黄色のビロードの新しい帽子を贈呈した。
関白殿の甥にあたり、丹波国の領主で丹波少将殿(豊臣秀勝)と称せられる十九歳の若者が、家臣たちの中に紛れてフスタ船を見物に来たが、副管長は後刻、その若者が何者であるかを知ると、ルイス・フロイス師を代理として彼を訪問させ、彼は自らの陣屋にいたが、長時間にわたって(フロイス師)とデウスのことやヨーロッパの諸国について話し合った。(20230913)
第16章 関白(秀吉)殿が、、司祭・教会、ならびにキリシタン宗門に対して迫害を始めた次第
使途サンティアゴの祝日の前日、既述のように、ポルトガル船の総司令官が、立派な贈り物を携えて関白を訪問し、その同じ七月二十四日、関白は何御予告もなく、キリシタン宗団の最大の支柱から攻撃を開始したのだ。
即ち同夜、彼は突如として高山右近殿の追放(1587)を命じ右近殿はその時に至るまで、彼の武将として、世㎜状にあっては多大の経費を以って抱えている千名近い家臣を率い、常に第一線に立ち、絶えず生命を賭して彼に奉仕してきた。
「予は既に以前から、キリシタン宗団を五畿内から遠ざけ、かつ伴天連たちをその地からついほうしょうと欲していたが、そのようにしたところで、この下の九カ国には、まだなお多数の伴天連や教会やキリシタンが残っていることだから、今日まで延引してきたけれど、この下の地方でその悪魔の宗派を破壊すれば五畿内にある同宗派のすべてを破滅させることは容易である」
関白が激高して次の三件を伴天連に告げるように命じた、「①一地方を以って他地方の者をいとも熱烈に先導するようなことはしない、②汝らは何故馬や牛を食べるのか、それは道理に反することだ、、③予は商用のため渡来した者たちが日本人を購入し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている」
師父(コエリョ)は、「①日本人ほど自由な国民は居ないのであり、キリシタンの信仰に導くために、誰一人として強制する物もなく、手もかからず、道理と真理が用いられたにすぎない。②牛を食べることは確かであるが、これは世界で最も古い習慣だからで、そこでは国家に何ら損失を及ぼすことも、農業に害を与えることもなくこの慣習が保たれている、③われら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬ」
「もし天下の君が、キリシタンの意向に従って伴天連たちがその高尚な知恵の法を以って振舞うのを良しとするならば、彼らは日本の法を破ることになり、それは甚だ不正なことであるから、予は伴天連が日本にとどまってはならぬと定め、よって今日より二十日以内に、彼らは身辺を処理し、自国に帰るべきであり、もしこの期間中に彼らに対して害を加えるものがあれば、罰せられるであろう」『天下の主の定め』
第17章 関白が(鷹山)ジュスト右近殿を津法したこと、および、彼が信仰と徳操について英雄的な規範を示したこと
「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においても広まっているがそれは右近が彼らを臆していることに基づくことを承知している。余はそれを不快に思う畦ならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、難字の武将としての身分としての身分に留まりたければ、直ちにキリシタンたることを断念せよ」
キリストの勇敢な司令官であり岸である右近殿は臆することなく次のように答えたー「わたしが殿を侮辱した覚えは全くなくたかつっきの家来や明石の家臣たちをキリシタンにしたのはわたしの手柄である。キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界が与えられようとも致さぬし、自分の霊魂の救済と引き換えることはしない。よってわたしの身柄、封禄・領地については、十二夫が気に召すように取り計らわれたい」と、当時、彼の封禄は、年七万米俵であり、すなわち、三万五千石を意味しているようである。
右近殿が、このたびの追放を大して悲しがりもせず、むしろそのことに慰めなり、喜びをすら感じたのは、既に幾年も前からこの日のために準備をしており、デウスの教えにいささかでも背くよりは、むしろいかなる危険をも甘受し、現実の剤を喪失するをあえてし、死をも賭する固い決意を抱いていたからである。
知らせを受け取ったダリオは、「ですが今回の事件は、ジュストがキリシタンであることを堅持したために生じたと聞いている以上、わたしにとり、それは大いなる喜びであり慰めでもあります。わたしはつねづね、こうした素晴らしい出来事に際会することを深く望み、その為に心の準備をしてまいったのです」
ジュスト右近殿に関して阿、彼は特に信長の時代に、信仰を貫くため、例え僅かなりとも汚点を残すまいとして、長男と妹を人質に出し、高槻の城、収入・父母・兄弟・親族、そのほかモテるものすべてを失う道を選んだことがある。
彼の徳行が稀有なることが、万人の知るところでありわれらの主デウスが、(来世において)彼に一層の栄光を以って報いんがために異教徒たちからの恥辱と、その悪辣な宗派を挫くために、こうした方法によって右近に試練を与えたもうたとしても、何ら驚くには値しないのである。(20230927)
第18章 暴君が教会・司祭たち、およびキリシタン宗門に対して命じたことについて
予は二十日という期限を示し、その間に伴天連たちはすべて日本から退去せよと命じたが、未だ季節風は吹かず、乗船して退去する船もないことを今知るに至ったので汝らが載る定航船がシナに向かって出港するまで、期限を延長することにする。
かの博多の地から、平戸の殿(松浦隆信)は、ドン・ジェロニモ(籠手田安一)に宛てて、一通の書状をしたためたが、当方に来られる際には伝らの乗船には十字の旗を掲げぬ方がよく、貴殿の家臣たちはロザリオや聖遺物を首に掛けぬ方がよい。
われらの同僚である司祭たちは急遽、教会内を片付け、祭壇の飾り板を取り外し、夜分に、デキる限りの注意を払いながら、より重要な家財と修道院に置いてあった教会の祭具を、シナからの定航船が越冬していた平戸に贈ろうとして二艘の舟に積み込んだ。
コエリョ師はまた、長崎のキリシタンに対して、娘や若い婦人、親族の美貌の女たちを人目の付くところへ出さぬよう、いかなることがあろうとも、彼ら(関白の家臣)が教会にいる間は、彼女らを教会へ行かせぬようにと注意した。
官兵衛は思慮ある人物であったので、司祭宛の返書の中で次のように述べたー「拙者はたびの悪魔的な動揺と変化を、この上なく憂慮いるが、われらの主がかく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずであり、尊師が諸氏に宛てた数々の書状は、果たして目下良い結果を生むかどうかわからぬから、それらをかかる武将たちに手交するのは時期尚早と考え謁者の手元に保管する」
「もし尊師が望まれるように、贈与によってことが成功するようであるなら、拙者は喜んで所持するすべての封禄と家財を捧げ、なおその上、腰に帯びている太刀も加えるであろうが、デウスは、かかる極悪人(関白秀吉)を罰さずにはおかれぬのが常であるから、拙者が思うには、彼はこれ以上長くは生きえないであろうし、本日以降、シナ雪の定航船が出港するまでに、何等か事態によき変化が生じることを期待する」(20231004)
第19章 暴君が博多から大阪へ帰った後に生じたことについて
司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である奉行前田玄以を訪問させたところ、事情を聴いた彼は激高し、母親の言葉を無視し、自らの身分も省みず、司祭からの使者に対し、「大坂で関白を殺したい。よって、このこぶしに手抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」と言った。
同様のことを関白の甥の孫七郎殿(秀次)も、「関白殿は自分に何ら相談もせず通知もすることがなく伴天連たちを立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、関白に何か言いたかったに違いないが、おそらく逡巡し、あるいは自分たちのために仲介してくれるものがいなかったのであろう」と。
この若者(孫七郎殿)は伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主で、とくに禁欲を保ち、野心家ではなく、日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、数日前にも、一家臣が他に対して、日本ではそれまで未だ見聞したことがないようなことを冒したので、その男を殺させた。
「わたしは殿下に、伴天連・伊留満・同宿、そしてセミナリオの少年たち、修道院の若者たちを含めると、日本の教会には五百名以上の者がいるから、本年、その全員が一隻の船で、日本から去っていくことはできない。それゆえ、彼らは来年度の舟が来るまで、乗船できなかったものが、どこでもよいからご指示の場所に滞在することを希望している」(暴君の側近)
ところが、「暴君は態度を一変して、顔に激しい怒りをあらわし、誰がそのような伝言を齎したのか、乗り切れぬなら、一人ずつ斬って海に投ずるがよい」述べたが、アゴスティノ(小西行長)の所領小豆島に潜伏しているオルガンティーノ師は下に入る司祭や修道士に宛ててゐ一通の書状をしたためた。
オルガンティーノ神父は、今後の自分のやるべき事を四つ上げており、「一つは敵を注意深く見守る事、二つ目は罪を悔い改める事、三つ目は後続者に良い模範を示す事、四つ目に都のキリシタンを守り抜く」と言った事なのだが、最後に迫害から多くのお恵みが神から与えられることを祈っている。(20231011)