豊臣秀吉Ⅱ
第20章 フンシスコ・ガルセスが、暴君(秀吉)に、その意図を思いとどまらせ得るかどうか窺うために、贈り物を携えて大坂に彼を訪れた次第
ガルセス(総司令官代理)は、暴君(秀吉)を訪問したが、彼はひときわ尊大さを加え、(伴天連を迫害中であるが、彼らに対しては)なお好意あるところを示そうとして、その謁見が大坂城外の濠で行なわれることを望み、己を誇示しようとして、最大の威厳を示して一脚の椅子に座を占めた。
「予が欲しているのは全員が立ち去ることだ。一人として日本に留まることは罷りならぬ。定航船に関しては、予に対し何らの侮辱を加えぬ限り、いずこなりとも好みの地に来るがよく、予も尽力するであろう。だが、伴天連が日本にいることは望まぬ。もしも立ち去らぬならば、予は彼らを処刑するであろう」
「いずこであろうと彼らを発見次第殺させるであろうが、ポルトガルの商人たちは日本に来てよいし、日本人が商売のためにインドに赴くことも苦しゅうはない。南蛮(インド)にとって、その宗教はよろしかろうとも、日本ではよくないのだ」
「伴天連らは、異国人であるために、あのようにひどく彼らを責める者がいることも、また、殿下の前で彼らのことを罵詈し、彼らについてもっともらしい悪口を述べる人々がいるのもやむなきことでありましょう」
「だが、殿下、彼らの競争相手が述べていることが、すべて真実ではないこと、それは伴天連たちにとっても大いなる悲しみであり、不安でもあることをご承知いただきたい」と、その場において実に立派に物事に動ぜぬ態度で通訳は語ったので、彼を讃嘆せぬ者はなく、暴君までが驚嘆し、日本のどこの国の者か、いかにしてポルトガル人の言葉を、それほど巧みに覚えたのかと質したほどであった。
暴君関白は、その場で彼らと別れてが、家臣に対し、彼らに城を全部見せるようにと命じ、ついでにフランシスコ・ガルセルには身分が低いものとして、大した価値がない絹衣二着を、そして長崎で世帯を持ち、真実のキリシタンで、教会の誠意ある僕であり友人でもある通訳のアントニオ・デ・アブレウには、絹衣一着を与えられ、彼らは、暴君から以上のような返事を得て帰路についた。(20231115)
第21章 暴君関白が1588年第五月に行った祝典と偉業について
この暴君(秀吉)は、他のすべてに優って、己が権力と偉業を誇示することを望み、また、己が名声が人々の大いなる拍手と賞賛のうちに永久に残ることを願い、戦争、および相次ぐ諸国の動乱によって、五百年近くも、以前から忘れ去られていた日本王家の幾つかの高貴な行事を更新しようと決意した。
それらのひとつは行幸、すなわち国王(天皇)が慰楽としてその宮殿から外出する行事を催すことで、その為に、大勢の君侯、諸国の殿たち、日本中の夥(おびただ)しい数の貴顕が都に集結し、その際、各自はその地位身分に応じ、家臣と共に高価な衣装をまとい、見事な装具の駿馬を率いて、この祝典と盛大な催しに参加するよう、必要な準備を整えよと、一同に厳命した。
豊臣秀吉が関白に任ぜられ、京都に邸宅兼城郭である聚楽第を築いたさいに、正親町上皇と後陽成天皇を招き行ったのが、聚楽第行幸(1588)であるが、先頭にはダマスコ(織の衣服)を着た70名の騎馬の人たち、第二番目に貴人である公家たち、第三番目には、君侯や諸国の肩書がある勇将たち、第四番目には、内裏親族の主だった僧侶たち、第五番目には、内裏の婦人たちが乗る輿が続き、第六番目には巨大な二頭の牛が着飾り、第七番目には、全部黒塗りの車輪がついた凱旋車が進んだ。
内裏を関白の城に迎えるために、一行がこうした盛儀と華麗さを装って目的地の内裏の宮殿についた御、上記と同じように人員が配列し、同じ形式で帰還したが、さらに次の人々が加わり、日本の君侯のように全員唐織をまとった30名の騎乗した年配の公家が行進し、ついで立派なダマスコ織を装い、地面を引きずる長い衣装をまとった公家の一団が徒歩で進んだが、彼らは宮廷の楽団員で、ある者は笛を、他の者はヴィオラのような楽器を、また他の者は内裏の宮殿で用いる、種々の楽器を奏でていた。
この年、佐々陸奥守は、異教徒であったがわれらを援助しようと決心し、イエズス会員とは親しく交わっていたが、関白は過ちもなかったにもかかわらず、彼を殺そうとして、その滞在地、尼崎に兵を派遣し、彼は自らの邸が包囲されたことを知ると、臆病・卑劣は武士の行うところではないと答え、自ら筆を執って多数の知人、妻、娘たちに書状をしたため、ついで身体を清め、盛装し、香を身につけるなど、ある種の儀式を済ませると、跪坐し、自分の短刀で十文字に腹を切り、その場に臥して絶命した。
高山ジュスト右近殿は天下の主だった殿たちから招かれ、無今度の二は、かの地に大勢の知有があり、そっらの人々は、暴君は右近に関してはい以前に津法した時よりも感情が和らいでいると言っていたので、彼は都に向けて出発したが、暴君は彼を引見しようとはせず、彼に、父母妻子ともども加賀の国に赴くように命じ(1588)、同所は都から7.8日も旅せねばならぬ遠隔の地であり、それは彼らにとって新たな追放を意味したのだが、とりわけ彼らを悲しませたのは、相談相手となるべき司祭や修道士もおらず、教会がないことであった。(20231122)
第22章 関白が坂東での戦争に勝利を収め、全日本六十六ヵ国の絶対君主となった次第
かくて身辺を固めた関白は、大軍を擁して北条殿の国に入り、いくつもの地点から戦闘を開始し、北条殿は若干お城を守り抜くことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えたが、関白はこの戦いを命ずるにあたり、贈賄と威力を巧みに使い分けながら、間もなく他のすべての国を支配するに至ったので、彼に抵抗するのは、これら北条殿の城だけとなり、その諸城も徐々に包囲が狭められ猛攻にさらされた。
降伏の申し出を受けた関白は、本件を意のままに裁くことにし、北条氏直殿の父氏政と叔父氏照には切腹を命じ、氏直自身に対しては、剃髪して、紀伊国にある仏僧たちの広大な里である高野の僧院に追放することにし、同所には戦いに敗れた者や追放された者、その他、自らの企てに失敗した不幸な人たちが収容され、氏直は、義父家康の懇願によって生命だけは許されたのであった。
北条殿に対するこの勝利は、翌年には、陸奥と出羽の国衆たちが豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こし、9月1日には、武装蜂起していた「九戸政実」などもあったが、関白の心を驚くべき傲慢さと底知れぬ過信で満たし、恰も今ひとりのルシフェル(悪魔の頭目)が再現したかのようであり、彼は自ら軍勢を率いてシナに渡ることを厳かに宣言し、この遠征のために大規模な準備を開始するように命令を下したのです。
「予は今や日本全国の唯一の君主であり、シナを征服すること以外に予がなすべき仕事としては残されていない。たとえこの事業を遂行中に予が生涯を終えることがわかっていたとしても、予は子の企てを思いとどまりはせぬであろう。なぜなら予は、日本史上誰一人として到達したことがない栄誉と名声を後世に残すことを願うからである。仮にシナを征服し終えないで、途中で倒れることがあろうとも、予の名は常に残り、不滅の栄誉をもって永遠に記念されるであろう」
下の諸国では大いなる変動が生じることが確実となったが、因みに肥後国の半ばはアゴスチイノ(小西行長)が所有し、豊後の国主フランシスコ(大友宗麟)の娘と結婚している(小早川)シモン籐四郎が筑後国のかなりの部分を支配、アゴスチイノの娘婿の対馬の国主(宗義智)は、ひとたびキリシタンとなり、かつキリシタン宗門が平安を取り戻した暁には、その領民をすべてキリシタンに改宗させることであろう。
だが、もしもこれらの領土が取り替えられ、関白殿が司祭たちをかつての状態に戻してくれぬ時には、日本におけるデウスの教会には、未曽有の大いなる迫害と、苦難が待ち構えているかもしれず、日本における国替えに際しては、、直ちにすべてを屈服せしめずにはおかない攻撃なり破壊行為が付きまとうからであるが、例えほかの拷問とか殉教とかがなかったにしても、われら一同が直面しているこうした不幸、貧困、追放などの事態は十分、残虐な迫害に匹敵する。(20231129)
第23章 巡察師(ヴァリニャーノ)がインド副王ドン・ドゥアルテの関白に対する使命を帯びて長崎を出発し、都への旅路に就いた次第
旅の第一日目には大村領を通ることになったが、有馬領と大村領との間に領地を有し、竜造寺隆信の従兄弟で異教徒の領主である諫早殿(竜造寺家晴)が巡察師に対し、自領を通過するように願ってやまなかったので、この領主が城を構えている主要な村へ赴いたところ、領主は説教を聴くことを望み、「関白殿のこの迫害による妨害が終息するならば、重臣ともどもキリシタンになろう」と約束するところがあった。
一行はその翌日、この諫早城から出立し、白に近い入り江から乗船し、肥前国の竜造寺の主要都市である佐賀に向かい、佐賀から一里近いところで鍋島直茂の息子が多数の重臣を率いて一行を出迎え、巡察師を言葉では言い尽くせぬほど尊敬し、佐賀でも一行全員を手厚くもてなし、巡察師は同所に二日間滞在を余儀なくされたが、その間鍋島殿の同じ邸内において彼の名で饗宴が催された。
司祭が佐賀を出発した時には、鍋島殿の息子は、その重臣をすべて伴って一里の間同行し、夜になって鍋島殿の国境につくと小早川隆景の弟で、山口の国主毛利輝元の叔父小早川藤四郎(毛利 秀包:毛利元就の九男で、異母兄である小早川隆景の養子となる)殿が領する筑後国久留米城から一貴人が来訪した。
この藤四郎殿は、豊後の国主フランシスコ(大友宗麟)の娘マセンシアと結婚しており、かの筑後国の三分の一以上の領主で、その貴人は、藤四郎とマセンシアの代理として、ヴァリニャーノ師はに対し、通路から二里ほど迂回することになるがぜひともかの久留米城に立ち寄ってもらいたいと懇請するために来たのであった。
秋月から三日路をたどって到着したのは、毛利壱岐守が支配する小倉城に着き、翌日一行は小倉を出発し、三里の入り江を隔てた対岸にある下関に向かい、既にそこにはメスキータ師が日本の四名の公子(伊東マンショら)およびその同行者全員と共に到着しており、一行は同地に二日間滞在してから乗船し、五日間航海し天候に恵まれて早くも室に着いた。
この室の港は、航海が非常に頻繁な通路にあたっておりアゴスチイノ津の守殿(小西行長)の父、小西ジョウチン立佐に委ねられており、自分に代わってその地を治めているものに宛てて、巡察師(ヴァリニャーノ)が到着したならば、随員も全員と共に、十分歓待するようにと早くも報じていた。(20231206)
第24章 巡察師は室(むろ)における遅滞と逗留より生じた効果と利益について
はなはだ優れて顕著な利益を受けた人々のうち、第一人者と目されるのは、既にデウスが栄光の中へ招きたもうたわれらの善き豊後国主フランシスコ(大友宗麟)の息子である国主大友吉統(よしむね)であった。
彼は侵攻に入ってからまだ日が浅かったために、このたびの迫害当初には、多くの弱さを露呈して、キリシタンに対して暴挙をあえてしたが、とりわけ豊後において、司祭たちが去ってしまった折、説教師の役を務めたとの理由で聖なるジョランともう一人のキリシタンを殉教せしめた。
国主(吉統)は、数々の使者を派遣し約束をした後、ついに当人みずからが巡察師に逢いに来ては、司祭がいたところへ、余りにも深い恭敬と謙譲さを示して入ってきたので、同席していた司祭たちは皆、かつて豊後に居た時の彼が、如何に異なっていたかを、知っていただけに驚愕し、彼はいとも謙遜して、口頭でもって改めて師父に許しを乞い、かねがね請うていた願いをまたも繰り返し、同じことを約束した。
このことは、豊後のキリシタン信徒団が互いに慰め合い、強化されるために極めて大切なことで、けだし大いに教会の威信を賭した本件は、あのような時と場所で行われたのでなければ、容易に落着しえなかったであろうが、かれは伊東ドンマンショに対しても深く感謝し、謝意を述べてやまず、豊後に来るように熱心に依頼し、また、マンショを遣わしてくれるようにと巡察師にも懇願した。
終りに巡察師は、官兵衛の尽力によって増田右衛門と呼ぶ異教徒の殿と親交を得、この人物は、使節のことで関白に進言し、巡察師を関白に紹介する役目を引き受けたが、司祭らが追放されている件で上洛するのなら、使節らに逢いたくないが、伺候するだけなら引見しょうと宣言した。
これに対して巡察師は、全てのキリシタンの領主たちの勧告に基づき、ただ関白を訪れるためであり、司祭たちのことを語るために伺候するのではないと返答し、そこで関白は、その条件のもとに、巡察師に上洛せよと命令した。(20231213)
第25章巡察師ヴァリニャーノが室を出発して大坂に上陸し、そこから都に向かった次第
巡察師は大坂に着き、黒田官兵衛殿の配慮と工作によって、大坂城の奉行が、都から一里の鳥羽迄淀川をさかのぼっていくのに必要な船を一行のために提供をせよとの命令をうけていたようで、その三日間大坂に滞在した。
かつては高山右近殿・三ケサンチョ殿・池田丹後殿、および結城ジョアン殿に属し、四万人以上のキリシタンが住んでいたこれらの領地を今通ってみると、まるで荒れ果て、そこは荒涼とした無人の地を思わせた。
その高槻の地には、シメアン・デ・アルメイダ修道士が葬られた居たが、異教徒たちは、その墓を破壊し、遺骨をあちらこちらにまき散らしたが、善良なジョウチンは、かのトビアスのように、その出来事を意に介さず深い経験の念を以って、入念に再びその遺骨をすべて集め、ひとつの箱に納めて人知れぬところに埋めた。
またそのおなじ大坂で右近は、この俗世を去り、さらに息子を棄てて、教会または、せめても司祭たちがいるどこかに隠遁したいという自らの希望について巡察師と十分相談し、これにつきいとも懸命に子細に語るところがあったので、巡察師も彼の深い信仰と不屈の志とを知って驚いたほどであったが、師はそれに反対の意見であった。
関白はかくて都の所司代と増田仁右衛門殿戸を呼び、一行を鄭重にもてなすよう、また人々の往来のために町が混乱しないよう監視人を置けと命令し、ほどなくその所司代と増田は他の諸将を伴なって、巡察師を訪れ、関白殿が一行の到来を大いに満足されるであろうと述べた。
こうして、支持された四旬節の第一日曜日(三月三日)になると、巡察師は登場するよう召喚され、そこで関白が誇示しえる最大の威厳と豪華さを保って彼を待っており、諸侯ならびに高官らは、各自の冠位、階級、経歴に応じて公家の衣装をまとっていた。(20231220)
第26章 関白殿に(インド副王からの)使命が伝達された次第、ならびに彼が、巡察師とその同件者一同に供した饗宴のこと
1591年3月3日 ( 日 )、総勢 29名、その陣容は、司祭 3名 ( ヴァリニャーノ、メスキータ、ロペス )・通訳の修道士 2名 ( フェルナンデス、ロドリーゲス )・遣欧使節の4名(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)、そしてポルトガル人 13名と小姓7名である。
その全員が、差し向けられてきた 馬に乗り、行列を作って、聚楽第に向かったのであるが、 インド副王からの贈り物としては、甲冑 ・ 太刀 ・ 鉄砲 ・ 油絵の掛布 ・ アラビア馬 ・ 野戦用天幕などが、前もって届けられており、羊皮紙に記された書状だけは手交され、日本文に翻訳された書状が朗読されたました。
宴会が終わり、関白も 普段着に着替え、伊東マンショや 千々石 ( ちぢわ ) ミゲルと歓談し、最後に、遣欧使節だった 4名に、音楽を奏でて 聞かせるように命令し、クラヴォ ( チェンバロ ) ・ アルパ ( ハープ ) ・ ラウデ ( リュート ) ・ ラヴェキーニャ ( ヴァイオリン ) の楽器を演奏し始め、それに 歌を合わせました。
その後、楽器を一つずつ 自らの手にとって、それらについて、四名の日本人公子に 種々 質問し、それらのすべてを きわめて珍しそうに観察し、彼らに種々 話しかけ、“ 汝らが 日本人であることを 大変 うれしく思う” と述べ、関白は、こうして 音楽を聞き、彼らと話をしながら、かなり長時間とどまった。
「インド国王と厚誼を結びたい故、副王へはすこぶる立派な贈り物をすることにした」と述べ、間もなく中庭に、先に贈与された天幕を張るように、またアラビア馬も見たいから曳いてきて誰かポルトガル人がそれに乗るようにと命じた。
関白はその他の諸侯と、その馬の美しさや大きさ、ならびにその速さに驚嘆し、大いに賛美するぐらい、馬はほかのすべての品にも増して彼の気に入った様子であったが、甲冑や刀剣についても好奇心に駆られ無数の質問をした。(20231227)
第27章 関白の宮殿(聚楽亭)とその結構、ならびに日本の建築物がわがヨーロッパのそれに優り、もしくは劣ることについて
関白が手掛けた、構築の幾つかをよりよく知るには、彼が統治権を獲得し、天下の主の座に就いた当初より、堺から三里離れた大坂の地に一つの新しい城と、新たな町を築き、五万ないし六万の人夫を長期にわたって働かせて造営した宮殿と城において、素晴らしく目を見張るほどの構築を成就したのみならずーそれだけでも疑いもなく偉大で見るに値するがー当時彼の支配下にあった日本の諸侯の大部分の人たちに、その城の周囲に彼らの屋敷をつくるように命令した。
彼は日本の領主全員に、自らの城の周囲において、できうる限り立派な屋敷を建てるように命じ、都が一つは上の都(上京)、他は下の都(下京)と称される二地区に分割されており、恰も二つの町の形をとっていたので、彼は城を上の都につくり、そこで日本中で造りうる最も豪華な新都市を営もうと決意し、そのために彼は、従来そこに立っていた家屋をほとんど全部取り壊してしまった。
こうして彼らは、、街路に面した壁を統べて仕上げてしまったが、それらは同時に彼らの屋敷の囲塀でもあり、すこぶる清潔で美しく、その表面に花模様の黄金の瓦で葺いた屋根で掩(おお)われ、いずれの屋敷にも二つの豪壮な門があり、その正面はすこぶる優雅で珍しい構造で、数々の塗金された銅板が張られ、日本の慣習に従って驚くほど見事な出来栄えであった。
このように、それら屋敷の内部に見られるものにはいずれにも黄金が塗られており、その上に、どの屋敷にもあるかの美しい絵画、屋内の天井板、敷き詰めた床などが形成する非常な清潔さ、新鮮さ、優雅さなどを加えると、この世ではこれらの屋敷に見られる以上の清らかさを造り出すことはできまいと思われるほどである。
だが、多くの点において、都の町のこの地域と結構はヨーロッパのわれらの年に比べて劣っており、第一には、城内の武装と家屋の材質、というのは、例え関白の城が、大砲を装備しない日本においては最も鞏固なものであるにしても、われらの城に比べると甚だ脆弱(ぜいじゃく)であり、大砲四門をもってすれば半日ですべてを破壊できるからである。
その第二が威容と建築構造においても、第三に、われらの建築は富貴という点でははなはだ優れており、ヨーロッパの宮殿、教会、修道院は無限の価値があり、第四に、われらの間では、領主や諸侯のみならず、その他の市民も立派な邸宅を有するが、都ではそうでないからで、われらの都市には、いろいろな公共の場所がある。(20240110)
第28章 関白が国王使節を帰らせるよう命ずるに決した次第、およびその時に彼が述べた幾つかのこと、ならびに使節のことから生じた利益について
巡察師から贈られた時計の調律を教わるために、伊藤ドン・マンショとともにロドゥリーゲス修道士を召喚し、無数の質問と共に、今からシナへ遠征に赴くと語り、司祭たちのことにも言及して、日本では仏僧たちは皆、司祭たちに反対しており、そのわけは、司祭たちが仏僧らから喜捨を失わせ、彼らの寺院や住居を破壊したからであると説いた。
最後に彼は、両人を辞去させるにあたり、巡察師に次のように伝えよとて、既にポルトガ定航船は出帆してしまったので、巡察師の滞在は長引くことになるから、次の定航船が来航し、そして出帆するとき迄、どこなりとも望むところで自由に行動しても差し支えなく、都か大坂に留まりたければそうしてもよく、長崎へ戻りたければそれもよく、都合の良いようにするがよい。
関白は当初から、使節がこの追放令解除の問題を話題に持ち出すことは罷りならぬと言っていたので、キリシタンの諸侯は、使節がその話をすれば益するどころか、彼を憤激させる結果になると考えていたので、この問題於ついては一切触れず、関白が自ら気の向くままに決定することに委ねていた。
終りに述べると、巡察師はその頃、既述のキリシタン諸侯の意見に基づいて、しばしば使者をして関白を訪問させたが、関白は時々ジョアン・ロドゥリーゲスと使節の問題で話す間、伴天連たちには少しも罪はなく、伴天連らこそこのたびの副王使節の来訪のことで尽力したのだとしばしば言い、そしてついには使節の随行者のうち十名迄は長崎に残ってよいと言うまでになった。
第二の利点は、キリシタンの間にあまねく喜びと新たな勇気が生じたことであるが、っ関白の怒りが薄らいで副王に贈り物をするからには、新たな回答が得られることが期待され、それは司祭たちに対して不当な待遇をしていないと保証するようなものであって、聖なるゼウスの御摂理の賜であることがいっそうよく理解できたからである。
第三の利点は、都の人々がヨーロッパ人に対して抱いていた悪い評価と謬見が除去されたのみか、むしろ彼らに対する大いなる信用と好ましい評価が得られたことであり、日本人は、多くのポルトガル人が、日本でかつて見られなかったほど華やかで立派な待遇を受けたのを目撃し、彼らのことどもに対して非常な尊敬の念を抱くようになったからである。(20240117)
題29章 関白が贈答品についてジョアン・ロドゥリーゲス修道士と語った諸事、および巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが関白の許へ齎した使命に着き関白が抱いていた妄想を除去した次第
巡察師ヴァリニャーノは、関白の返書の訳文を詠むと、直ちにオルガンティーノ師に手紙を書き送り、「いかなるすべをもってしても、前記の書状が書き改められるよう関白に対して尽力すべきこと、その書簡について関白に提言しうるものがなければ、ジョアン・ロドゥリーゲスがその任にあたり、巡察師は既に殿下が起草するよう命じられたインド副王宛の書簡の内容を承知しており、あのままでは副王に奉呈するわけにはいかぬので苦慮しており、巡察師はいかなることがあろうとも、そのような内容の書簡は携えて行かぬ決意であることを述べさせよ」と。
オルガンティーノ師が、われらイエズス会員に代わって誰か機を見て関白に本件について話してくれるものがないものかと求めていたところ、我らの主なるデウスは、前田玄以法印なる異教徒で、都の所司代である人の心を動かし給ひ、しかも彼は関白から厚く信頼され、正義を愛し、思慮に富み、誠実な人物としてその名を知られていたのだが、使節の任を帯びて上洛した折、当初彼に頼らなかったし、また師父は人を介して彼のもとへ儀礼訪問をさせることを怠らなかったとはいえ、彼は当然払うべき注意を怠ったものとして我らに対して幾許かの偏見を抱いていた。
本件がまさにこの状態にあったころ、某日、関白は黒田官兵衛殿そのほか側近者を前にして談話の折、「かねて作成するように命じておいたインド副王への贈物はもう出来上がったか」、と尋ね、所司代が「既に完了し手渡すばかりになっております」と答えっると、関白は「予はこのたびのインド副王使節がもたらした使命は偽物ではなかろうかと強く疑っている。伴天連どもはそのことで予を欺こうとしているゐるのだ。それゆえインド国王にあのような品を送るべきかどうか迷っている」
所司代は答え、「殿、その真相を知ることはいとも容易でありましょう。ここ都には、使節の通訳にあたった修道士が数人のポルトガル人と一緒にまだ滞在しておりますから、殿が彼らをお呼び出しになって、その点を確かめられては如何でしょうか?さすれば彼らが真実を話すかどうか、直ちにわかることでございましょう」と言うと、ジョアン・ロドゥリーゲス修道士が、一緒に残留していた二名のポルトガル人とともに参上すると、関白の前に通されるに先立って、所司代と他の異教徒の一貴人を通じて、関白の先のような意向が伝えられた。
そして所司代はわれらの事情に好意を寄せ、はなはだ巧みに関白に伝達したので、主たるゼウスの御計らいにより、関白はそれを聞くと直ちに満足の意を示し、もっともなことだ、そうあるべきだったろう、と語り、他の諸侯も、これを聞き、その通りだと言い、なおも修道士は、受理すべき贈物はそれらが殿下からのものであることを、ポルトガル人全員が承知のことゆえ、副王に渡されずに済まされるわけがない。
このような予期しない結果となって、キリシタンの諸侯はみな非常に満足し、関白が先に司祭たちに対して甚だしく憤った内容の書状を書かせながら、それを書き改めさせ、元の書状とは異なって内容を緩和したことや、長崎に使節随員のうち十名が残留するように命じたことが知れると今後は何びともわれらイエズス会員を告訴しなくなることがわかって、また一つの光明が差したように思えたからで、人々はみな主なるデウスの偉大な御摂理に驚嘆した。(20240124)
第30章 関白がインド副王に宛てた書簡、ならびに彼に呈した贈物のこと
関白の書簡には、万人は国王に服従しているとあるが、その国王とは、日本本来の、そして真正の君主である内裏と解せられるが、われらが前にしばしば述べたように、内裏は今は国王の名を有するだけで、何の実力も命令権もなく、関白から与えられる物以上の実質を備えておらず、関白がすべてを指令しているのである。
書簡は日本の習慣通りに巻き込まれ、その袋は金銀の色彩と花模様の農紅色の絹製で、日本では書簡入れだけに用いる箱のようなものに収められたが、その箱は非常に立派で見事な工芸品であるから、ヨーロッパではいずこであれ、それを見たものは精巧な制作(技術)と優秀さに感嘆することは疑いない。
関白は甲冑を二領送り、その装飾ゆえに立派であり、価値も高いが、更に墨色の漆で塗られた櫃も添えられ、その外に長刀一振りを副王に送られ、これは日本人の間で広く用いられるもので所持者が自身の前方に絶えず携えて歩く武器の一種で鉾の柄よりもはるかに長い柄のある大身の刀のように作られている。
日本人が太刀と称している刀剣一振り、われらヨーロッパ人の刀のような柄は点いていないが、もろ手で用いる大きい剣であり、同じく彼らの刀と称する別の普通の剣、同じく彼らが脇差と称する、更に短い短剣の代わりに用いるもの、以上の品は、いずれも長刀と同じような鞘があり、立派に装備されている。
数名の異教徒の重心は、これらの贈答品を見、これほどに優れた投信の長刀や刀をインド副王に贈るのは無駄なことであり、なぜなら先方ではそれを鑑定することも、相応の価値判断をすることもできまいし、ポルトガル人は、刀身よりも刀の装備を重んじ、したがって価値の低い別の韻を追ったも同じで、それでも彼らは古刀の様に高く評価するだろうからと述べた。
しかるに関白は、ポルトガル人が刀剣を鑑定する能力がなくても、予の地位にあるものとして優秀でない品物を副王に贈呈することは不都合であるし、予は日本でいかに効果であるか知られている品をインド国王に送ったという、予についてのよい評判が永久に日本に残ることを望んでいるのであって、価値のない悪い刀剣を異国人に贈ったなどと噂されたくないのだ。(20240131)
第31章 名護屋で行われた事業、薩摩の殿の叛乱、および老関白が高山ジュスト宇右近に対し、自らの前に罷り出る許可を与えた次第
関白は朝鮮国を征服し、そこからシナを占領するための艦隊を整えるために都を離れて下野地方に行くことを決めると、ドン・・プロタジオ(有馬晴信)の兄弟で異教徒である波多殿の領内の名護屋という極めて優れた港に、豪壮な城を築くことを命じた。
この名護屋の城のほかに、対馬の間にある雪の島(壱岐)と称する島にも別の城を築くように命じ、さらに第三の城を朝鮮から十八里離れた対馬に造らせ、これにより、より安全、かつ容易に兵を進めることを期したからである。
ここに特筆すべきことは、都から名古屋に至る間の老関白が通過する地の領主たちが、老関白が決めた旅程に従って、彼のために城に似せた形の宿舎を建築し、それらは最良に、かつ多額を費やして造られ、いずれも金張りの座敷を備え、その周囲には随行者のための多数の大いなる借家が用意されていた。
このような仕事が進み、すべての人がこの征服事業の準備に忙殺されていた間に、次のようなうわさが広く広まったのは、「関白はこの事業を結局成就しないであろう、そして朝鮮へ出陣するに先立って、日本中いたるところで大規模な反乱が引き起こされることであろう」というのであるが、1593年に梅北一揆が起こっただけである。
1592年、老関白は急遽名古屋に出かけることとなり、彼のもとである日、話題が高山ジュスト右近殿のことに及ぶと、右近に逢い快く彼を迎えたいからと言って、彼を召喚するように命じ、かくて右近が老関白の命令で都に赴くと、老関白は下に行くように、そこで引見するだろうと期待させた。
目下のところ、右近に別の領地が与えられるような噂は何もないが、右近殿がこの度復帰したことは、われらならびに彼の友人一同が大いに喜んだことであり、老関白からの謁見が許されるまでは、老関白に見捨てられたものとして絶えず危険にさらされながら生活しており、彼の敵、まts追放人としていつ何時死を命ぜられるかわからない状態にあったからである。(20240207)
第32章 マニラから関白殿の許に来た使節のために、下、特に長崎において、我ら、およびキリシタンの上に降りかかった遅るb機苦難について、また長崎の教会と修道院が破壊された次第
この教会と修道院の破壊は、種々の理由から、近年、しばしば生じた迫害のうちで、我らが今まで堪えてきた再々の精神的損失と悲哀であったが、その第一の理由は、都や大阪、堺、その他多くの血の修道院や教会が、次から次へと破壊された後には、長崎のこの教会こそは、あたかも当下(しも)地方の全キリシタン宗門の頭であり冠の様であった。
第二の理由は、長崎が関白直轄の港であるために、そこにまだ一つの大きく美しい教会が、いくつもの大きい修道院を伴って公然と聳えている間には、領内に司祭や教会を置いている日本の諸侯たちにとっては、ある程度の安心感をもたらしていたというのも、関白は内心では、それが破壊されぬことを望んでおられるという思いである。
第三の理由は、関白がこうした教会の破壊を定航船の司令官や、すべてのポルトガル人の眼前で行ったことにより、日本人のポルトガル人に対する尊敬の念を失わせるに至り、そのほか、ポルトガル人たちが翌年日本に戻ってくるときに、異教徒たちには、彼らを虐待するのに自信と自由を与えるかもしれぬばかりか、関白自身には、伴天連たちをいくら虐めても、ポルトガル人たちがその船で日本への渡航をやめはしないとの考えを抱かせないからであった。
第四の理由は、日本では長崎以外には、弱者や病人の世話をするための設備があるところとてなく、同署には、ポルトガル人がしばしば出入りするほかに、世帯を構えたポルトガル人が居住しているので、我らの体質にかなった薬品や設備を見だすことができたし、なおそのほかに、かの地の修道院は定航船が入ってくる港にあったので、日本の他の地のすべての修道院や司祭館にいる聖職者たちの生計を賄うのに、万事につけ総元締めの役目を果たしてきた。
この出来事から理解できることは、日本での布教に多くの異なった修道会のものが従事する場合に、いかに注意と節制が必要かが、どんなにしばしば強調されてきたことであろうか、その証拠に、多年の経験によって十分忠告できる立場にあるわれらイエズス会の勧告を受け入れようとせず、単身で来し、ことを決めようとし、たとえイエズス会の司祭やキリシタン宗門に対して悪しきを望む意図がなかったにせよ、結果的には、今までの最大の損失をもたらしたのである。
代官の寺沢は長崎に来ると、懸命になって、密かに、あるいは公然と、ポルトガル人に対する苦情を蒐集するのに熱中していたが、結局、種々の情報を得、関白に対して述べられたことが虚偽であり、ポルトガル人はルソンから来た船の妨害など全くしておらぬこと、そうした目的で上記のスペイン人から金銭を奪ったりはしておらず、金銭に関しては、関白が最初に裁いた以外に改めて裁く必要がないことも知れた。(20240214)
第33章 関白が日本帝国の絶対君主になった後に行なったいくつかの偉大にして豪壮なことについて
彼は同じ都の市内の内裏に近いところに、自らの城と宮殿を築かせたが、それらはかつて信長が安土山で造ったものや、数年前に彼が大坂で築いたものよりはるかに豪華であり、規模においても卓越し、諸国の君侯や武将たちに都に邸宅を構えさせたが、各自が建てるそれらの諸建築は、さきに大坂で築いたものより優れたものにせよと命令し、それらは彼の意図にいささかも反することなく、極めて短期間に達成され、彼の命令が微細な点に至るまで、異常な迅速さで実施されたのは、彼らが全力、全精神をもっぱらこのことに集中していたからであるように思われる。
彼はことのほか、自らが称賛され、名声を残すことに熱心で、快楽と歓喜の集まりを意味する聚楽という名の宮殿と城を造営したが、それは絢爛豪華であり、深い濠と石壁で取り囲まれたその建物は、周囲が半里にもおよび、石壁は密接してはいないが、漆喰で接合されており、技術が優れ、壁が厚いために遠方からは石造建築と見誤るほどで、石の多くは稀有の大きさで、遠くからはるばる肩に担いできたものであるが、時には一個の石を運搬するのに3・4千人の人手を必要とし、部屋や広間その他の造作には最良の木材が使用され、その多くは杉の香りを放っていた。
この都で町奉行がわれらイエズス会員の一人に語ったように、当初この町の人口は八千ないし一万ほどであったが、今では戸数三万を超えるといわれ、ますます拡大しつつあり、しかもその数は、町人と職人が住む町だけのことで、内裏とその館に使える貴族である公家たちの諸宮殿や、記述の関白の白と宮殿、そのほかすべての諸国の君侯たちの屋敷が占めている地域を除いての事である。
町には古くから、各地区に諸宗派の僧侶たちの約三倍余りの寺院と僧院があり、すでに関白は以前から彼らの収入の大半を没収していたのであるが、僧侶たちが、重圧と労苦から免除されたと吹聴することがないようにと、街の中心部にあった彼らの寺院・屋敷・僧院をことごとく取り壊し、それらを街の周囲の城壁の近いところで、すべて順序良く、新たに再建するように命令した。
通じた血の談話によれば、第一には、都で戦争が勃発したときに、敵は最初に僧侶やその寺院と僧院に遭遇するように仕向け、第二には。僧侶たちはその門徒らと、居住している市内の街の関係から、あまりにも緊密であり密接しているので、彼はその親密さを不快に思い、僧侶たちの放埒な日常生活は人々に悪影響があるとみなし、関白はそれらを改善しようとして、若干のささやかな試練を彼らに加えたのであった。
信長の時代に勃発した戦乱のため、大仏殿は焼失したが、元来関白は、自らの名声を誇示し記念するのに役立つような大事業を起こす機会を見逃すような性格ではなかったので、同寺院を再建することを決意し、しかも基礎から新たに立て直すことに決めたのだが、奈良においてではなく、都の街の傍ら(南六波羅)に京の大仏、寺院も偶像も僧院の建築物も、形態と規模において最初のもの(奈良の大仏殿)に匹敵するものを造れと命令した。(20240221)
第34章 関白がシナを征服しようと志した次第,並びに甥を後継者とし、自らは関白の顕職を引退し、その称号を彼に与えたこと
彼は姉の子である甥(秀次)に天下を譲り、強大な軍勢を率いてシナに渡り、その地を武力で征服し、この企てに生命を賭し、名誉在り優れたその帰途を試みた日本市場最初の君主として、自らの名を後世に不滅ならしめ、その回想を永遠に留めようと決意し、家臣たちとの打ち解けた談話の間に、すでに日本人の中には、歴史上、名誉・財産・権力・繁栄という点では、一個人が望みうる最高位に達した者が輩出しているので、予は到達した権力や栄華から逸脱したり失墜したりする可能性があるような新たな、遠大な計画は考えていないと漏らしていた。
というのも、彼には、日本人の心が自ずと変わりやすいことも知っていたし、また諸侯は、あるいは戦いにより、あるいは謀反によって、自分がいったん取り決めたことを変えなくては、自国を安全に、かつ自信をもって支配していけないのが判っていたので、諸国の領主を篭絡し服従させた後には、その絶妙な手腕と配慮によって、彼らをシナ征服という企てに駆り立てようと決意したが、日本の諸侯や貴人たちは、もしそのような困難な事業を始めれば、必ずや自らは死に、再び生きて祖国なり両国に戻り得まいと考えて、極度にこの企てを恐れていることを感知した。
かつて日本には、極めて位の高い公方様、頼朝と呼ばれるこの貴人については、彼が残した偉業とその名声によって、後世多くのことが書き著されており、公方とは、日本全土の国王である内裏の総大将(征夷大将軍)という意味で、この公方様に優位と支配を承認していた。
彼に関して語られる著名な行事の一つであるが、彼は自らの偉大さを誇示するために、富士の山と称せられる日本でもっとも有名な高山において、日本の多数の諸侯や武将を従え、ごく盛大に鹿や猪の狩猟を行ったーいわゆる『富士の巻狩り』。
関白はかねてより、天下の政権と関白の称号を秀次にゆだねる考えであったので、その場において甥に対し、その任務の重さ、また広大な支配を司るのに必要な熟慮について多くを語り、諄々(じゅんじゅん)とその理を説き(四つの心がけ)、三つの訓戒をし、整然と続く絢爛豪華な随員を率いて都に向かって出発したが、先頭には、狩猟の獲物である二千五百羽の大鳥が運ばれた。
彼は甥に対して、莫大な譲渡を行いはしたものの、自らは権限、人々から受ける尊敬、支配、所領などにおいて何一つ譲ることも失うこともなく、従来と何ら変わりなく万事において支配を続行し、彼は自らが殪れることがあっても、主だった武将らに、その甥が天下の君として定められていることを認めさせようとして、この策略を用いたのであった。(20240306)
第35章 この企て(シナの征服事業)における日本諸侯の苦難、ならびに老関白がその実行を容易にするために、まず品と隣接する挑戦を武力をもttw征服しようと決意した次第
シナの征服事業に伴う困難は、あまりにも明瞭であり、その危険はいとも切迫したものであり、さらにそのような考えを一同に強めさせたのは、日本中が彼に対して叛旗する危険があることが明らかに看取できることであった。(たとえ、現下のように、人々が絶対的な支配下に置かれるようなことが、かつて日本市場前例がなかったにしても)
しかし、あらゆる君侯や武将たちの、老関白に対する不思議なほどの遠慮と過度の畏怖の念は、全く信じられぬほど、別の方向へ作用して、誰一人として、いかなる場合にも自分からはもちろん、第三者を通じても、あるいは書面をもってしても、彼の意見や決定に対して美人だに反対する勇気や自由を示すものはいなかった。
日本中にシナを征服することが告示されてからは、あるものは船舶を新造し、あるものは遠隔の地でそれを造らせ、他のものは、武器や弾薬を調達し、または遺産や田畑を処分して支度を整えるなど、その熱意・工夫・配慮は、いまだかつて見られrぬことであった。
通常、日本人は大海原の猛威と怒濤に耐ええるような頑丈な大型船を所有せず、建造されたものは、大軍団を輸送するには数が不足していたので、彼らはできうる限り短い航路で輸送することに決めた。
平戸港の北方に対馬と称する島があり、この島には日本人が居住しており、日本からはこの島を経由してのみ朝鮮と貿易が行われており、毎年、この対馬島から三百名ほどの商人が朝鮮の主要な町に出かけて商取引を営んでいた。
老関白はさらに、彼が朝鮮に渡る際に滞在できる二島(壱岐・対馬)にも、同じく自分のための屋敷と宿舎、および食糧用の大貯蔵庫の建築を命じ、これらの島の一つは雪の島と呼ばれ、平戸領に属しているが、他はアゴスチイノの婿の支配する対馬である。(2020313)
第36章 朝鮮国の描写、およびアゴステイノ(小西行長)がその艦隊を率いて先発した次第
朝鮮地方は八か国に分割され、平戸島から北へ八十里隔たり、北緯三十五度付近を最初の海岸として奥に拡がる地域の一つであり、日本の里程で南北二百五十里、東西九十里、あるいはそれ以上の幅を有するが、三、四か国と隣接し、西方ではシナ人と接触し、朝貢(ちょうこう)国として彼らに対し毎年貢納しており、北部および北東部ではタルタール(韃靼)人とオランカイ人の土地に接している。
オランカイ(女真族)人の土地は、日本の北部と大きい入り江を形成し、蝦夷島の情報で北方に向かって伸びている突出(とっしゅつ)した陸地で、オランカイ人は蝦夷とも交易しているが、このオランカイ人が、数年前に、タルタール人、さらにイシモクという北方民族らしい別の一国民と同盟し、これら三民族が朝鮮人を襲ったが、征服することができなかった。
1591年に、朝鮮の国王は、対馬の屋形の懇請と説得により、関白殿の許へ、二百人を随伴した二名の使節を派遣したが、日本人たちは特に何らこの使節団を評価しはしなかったが、老関白は彼らを丁重に扱い、名誉をもってもてなし、その後、新たな死者を朝鮮国王のもとに派遣し、シナを征服することに決めたから帰国を通過させてもらいたいと懇請した。
これに対して朝鮮国王は、当初からシナ国と常に固い絆と友情によって結ばれており、シナ人に対しては、朝貢国の立場にあって、いかなる場合にもそのような不正と裏切りは行うべきではなく、したがって日本軍の通過に同意することはできないと答え、老関白は本件に異常なほどの関心を示していたので、早急に熾烈な戦争を挑み、シナに侵入する端緒を開いた。
老関白殿の命令を受け、肥後半国の領主(小西)アゴステイノ津の守殿は、ただちにこの遠征の準備に着手し、麾下(きか)には、下(九州)地方のすべてのキリシタンの武将たちが配置され、その一人は有馬領主のドン・プロタジオ(晴信)で、彼はすべての高位、名門の人々の中にあって、持ち前の周到さと果敢な行動をもって、戦闘のための各種の武器や弾薬を多量に蒐集し、その点で異彩を放ち他の追随を許さぬものがあった。
続いてドン・バルトロメウ(大村純忠)の息子御村のドン・サンチョ(喜前)、平戸のドン・ゼロニモ(籠手田左衛門安一)、および平戸の異教徒の領主である肥州(松浦肥前守鎮信)に従うその兄弟、天草に領主ドン・ジョアン(天草久種)、大矢野の領主ドン・ジョアン、上津浦の領主、その他、多数の肥後の武将たちがおり、更に志岐の島主(日比屋)ヴィセンテ兵右衛門(了荷)殿や小西の婿対馬の屋形(宗義智)がおり、七百を超える船舶を率いて出陣する。(20240327)
第37章 朝鮮に向けて出発したアルゴステイノが、ついでいくつかの城を攻撃し、大いに苦労して、軍勢をもってそれらを屈服せしめたこと、ならびにそこで彼が獲得した名誉について
アゴスチイノ(小西行長)は、一万五千の戦士を載せた艦隊を率いて対馬を出発し、艦隊はわずか数日で朝鮮に達したが、最初に遭遇した海辺の城塞は釜山浦(ふざんほ)と称され、そこには六百人の兵士がいるだけで、ほかに守備するものと言えば、付近の村落から寄せ集められた庶民に過ぎなかった。
天正二十年(1592)四月十二日、アゴスチイノは直ちに城塞周辺をことごとく焼却し、城塞司令官の許へ使者を派遣し、助命を約束して投稿を勧告したが、再び戦闘が行われ、濠には背丈ほどの水があり、鉄刺が一面に敷設されていたが、日本人たちは板をかけて濠を渡り、城塞に達する道路でも板を使用して多量の刺で足を刺されないようにした。
十四日に、軍勢は他の城塞に向かったが、そこは朝鮮では比類なく立派で優れた城と思われ、この城塞は東莢(トンネ)と言い、最初の釜山浦から内陸へ三里入ったところにあり、朝鮮人らはこの城を最大の防衛陣となし、そこに最大の資力を投入していた。
結局日本人は武力によって侵入に成功し、約二時間にわたって彼我の間に激戦が展開し、双方とも大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。
アゴチイノはそこからさらに軍勢を率いて、他の五つの城塞[梁山(ヤンサン)・密陽(ミリャン)・清道(チョンド)・大邱(テグ)・玄風(げんぷう)?]を占領し、かの地から老関白に宛てて一書をしたため、その名毛で自らの功績、ならびにその地で生じた一切のことを詳報した。
関白はそれらの情報に接し満悦し、「津の守を誹謗する者があれば処罰する。彼の家臣と争う者があれば、何人に罪があるか裁きを待つことなく、その行為自体が厳しく罰せられるであろう。余は彼に、朝鮮国の半分と日本でも多くの国を当てよう」(20240403)
第38章 アゴステイノが朝鮮の都に入るに先立って生じたこと
アゴステイノは聞慶(ムンギョ)と称せられるところを出発し、忠州(チュンジュ)という別の地に向かったが、その付近には水流豊かな河が流れており、アゴステイノが軍勢を率いてその町に来ると、通事(景応舜)が約束のように待っているどころか、国王からの返事に代わり、最後の運命を賭して都から八万の軍勢が彼らめがけて出撃してきた。
「退却は卑怯だ。敵に勇気を与えるばかりか謄躁を意味する。それは明らかに敗北の兆候である。すでにわれらは大きい名誉と威信を賭して朝鮮人から多くの地を奪取しており、国王の都市である都を間もなく獲得しようとしている今になって、贏(か)ち得た者をすべて失うことは許されぬことだ。従来の戦と同様に、勝運は我に与するだろう」
予想に反して日本人が勝利を博したことは、、直ちに同所から二十里隔たった都に伝えられ、国王は頼みにしていた軍隊が潰走したので希望を失い、第五月の初日に婦女子・・親族、重臣を伴って都落ちを決行した。
武装した異様な集団の中にありながら、朝鮮の老幼婦女子たちに対する日本側の安全保障には見るべきものがあり、朝鮮人は何の恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手まねで何か必要なものはないかと訊ねるありさまであった。
天正20年(1592)5月18日付の関白宛秀吉朱印状は、朝鮮を経て明国を制覇したのちの青写真を記したものとして著名であるが、その中で秀吉は、天皇を北京に移し、秀次は中国の関白となるので、そのあとの日本の関白には秀次の弟秀保か秀家のどちらかを据え、日本の天皇は良仁親王か智仁親王、朝鮮の支配は織田秀信もしくは秀家、九州は秀俊(のちの小早川秀秋)に委ねるつもりだ、と述べている。 老(関白)の笈である信関白秀次は、若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深く、そして平素、良識ある賢明な人物と会談することを好み、老関白から多大の妄想と空中の楼閣ともいえる書状を受理したが、殆ど意に介することなく、かねてから賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。(20240410)
第39章 老関白が朝鮮に渡ることが回避された次第、ならびに日本人側の戦闘力が衰微し、悪化して行った次第
予としては用意万端を整えて朝鮮国に渡り、同国を分割し、かの地にいる武将全員に、その偉大な業績を感謝して同地で好意を示し、高禄を与えてそれに報いることを切に望んでいたが、名護屋にいる側近の主だった武将たちは、予が朝鮮を渡ることを見合わせるよう強く要望し、朝鮮海峡の怒濤と荒波に身をさらすことは危険であるから、この時期を避け、七・八カ月先の、明年三月まで延期されたい、その時になれば、湾が平穏となって渡航が容易になろうと、懇情してやまなかった。
とはいえ、不慣れな異国にあって、しかも敵の真っただ中に置かれ、無数の困難と貧苦に囲まれ、とりわけ食糧に窮し、大多数が病に倒れ、夥(おびただ)しい人々が全く放置されたまま息絶えていくように接して心を痛め苦悩していたに違いなく、彼らは不幸な流刑の期限がなお終わらず、さらに品を攻略する企てが確実なのを知って心は重々しく、多くのものは、明らかに命を生命を失い、悲惨を究めて骨身をさらす可能性が甚だ大きいその地において、あてにならない名誉や利益を期待するよりもむしろ死を待ち望んだ。
日本軍には二つの至難な問題が生じることになったが、その一つは、彼らは各々非常に遠隔の異なった地方に配置され、海岸から遠く離れているために、日本から海路輸送されてくる食糧を各地へ補給するのに、大多数のものがその運送にあたる必要があったが、その人では不足していたので、朝鮮の兵士は、自らの地理に通じているのに乗じ、各地で彼らを待ち伏せ、追剝となって襲撃し、思うままに殺戮しては日本兵が輸送する食糧をことごとく略奪した。
日本軍が遭遇した第二の艱難辛苦は、朝鮮軍が、窮余の策として団結し、連合軍を編成し、多数の優秀な船に乗り込んで襲来したことで、それらの船は堅固(けんご)であり、堂々としており、彼らはそれに武器・弾薬・食糧を満載し、海賊となって洋上を彷徨しつつ、日本船を見つけると直ちに襲撃し掠奪し、朝鮮軍は野本郡よりも回線に長じ馴れてもいたので、彼らに多大の損害を加え、この日本軍の災難はいつまでも継続した。
かねて朝鮮人らは日本の船舶を血眼で探していたので、彼らに遭遇すると大声を上げ、喜んで船を率いて日本の艦隊を襲撃し、朝鮮の船舶は堂々として頑丈にできていたので、日本人を威圧し、まず朝鮮人の方から火器による攻撃があったが、これは日本人を散々てこずらせ悩ませたので、日本人はこの厄介な接近戦から免れるために沖合に遠ざかることを得策とした。
一方朝鮮人は、日本人が櫓を用いて船とともに避難できぬようにと、頑丈な鉤がついた鉄鎖を上から投げかけたので日本船は逃げられなくなり、この海戦はかなり長く続行したが、日本軍はすでに意気消沈し、戦況はますます彼らにとって不利になっていき、この遭遇で、虎之介側の一人の指揮者が戦死した。(20240417)
第40章 シナ軍と遭遇したアゴスチイノが野戦を交え、彼らから勝利を博したことについて
(朝鮮発信、グレゴリオ・デ・セスペデス師の書簡)
朝鮮での戦争につきましては、容易に和平が締結されずに時が経過しており、和平交渉にあたっているシナの偉大な指揮官遊撃(沈惟敬:?-1597)が、シナ人たちが望んでいた以上のことを約束したからで、シナにおいて日本の関白と同じ身分を誇ると言われる石星(明代の文官:和平路線)ー彼は今、平安城の城にいますーは、内藤ジョアン殿を長く抑留していましたが、彼が丹波の領主の息子であり、ごく身分も高いことゆえ、日本人側の人質として、つい先だって彼を北京へ護送いたしました。
いっぽう内藤殿はアゴスチイノに宛てた書状の中で、和平が日本側の意向にそって締結されるであろうとの幾ばくかの希望を示し、シナ側は彼を名誉をもって、極めて鄭重に待遇し田と述べており、内藤殿はアゴスチイノの家臣である竹内アンブロジオ吉兵衛が北京から内藤殿に宛ててしたためた書状をも一緒に送り届けてきましたが、その中で、内藤殿が平安城にいることを知ったと述べ、北京においてシナ人は吉兵衛を極めて鄭重に遇しており、日支間に和平が結ばれることを期待すると記しています。
この熊浦城(倭城)は難攻不落を誇り、短期間に実に驚嘆すべき工事が施されており、巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴスチイノ[小西行長のこと] とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っていて、彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。
ここから一里ほど隔たった周囲には、多数の城塞が設けられ、その一つにはアゴステイノの弟ペトロ主殿介殿がおり、ほかの一つには、アゴスチイノの娘マリアを娶っている婿対馬殿ダリオがおり、さらに別の城塞には四国と称する日本の四か国の主だった武将たちが駐屯し、そのほかに薩摩の兵士たちがいますが、彼らは今はアゴスチイノの麾下(きか)に配されています。
(同じグレゴリオ・デ・セスペデス師の第二書簡)
朝鮮の寒気ははなはだ厳しく、とても日本の寒さとは比較になりませんので、わたしは終日、半ば凍えた状態で過ごしており、朝方、ミサを捧げるのにやっと手が動かされる有様ですが、主のおかげで、全く健康を保っており、主が与え給う成果に満足し、あらゆる労苦と歓喜に喜んで耐えています。
飢餓・寒気・疾、その他、日本では想像も及ばないほどの艱難辛苦を忍んでいるこれらキリシタンの窮乏は、あまりにもひどすぎますが、老関白殿は当地へ食糧を輸送してはいますものの、こちらにつく量はごくわずかであり、全軍を養うにはほど遠く、日本からの援軍は途絶えがちで、遅れが目立ち、この二カ月余りというものは、船舶は姿を見せていません。(20240424)
第41章 シナ軍が日本軍と交えた他の戦闘、ならびに種々の出来事について
祖承訓の平壌敗北は明首脳部にとって計算外のことであったが、遊撃と称するシナの他の将軍沈 惟敬(しん いけい)が、アゴスチイノに和平を求め、会見を申し込み、「朝鮮の一部を日本人に与えることによって、老関白と和平友好を結びたい」と言い、老関白の許へ使節を派遣すると約束し、彼はその証拠として人質を日本側に渡すが、「北京まで人を使わして、シナの国王に報告し、指令を仰ぐまでは、本件と本格的に取り組んで希望を実現することができないから、二か月間猶予をいただきたい、その間、両軍は休戦を守ろう」と要請するところがあった。
「(朝鮮は)つねにここ(平壌)で明皇帝の詔書を迎えるから、多くの宮室があり、ここは朝鮮の地であっても、明の境であり、倭軍はここに留まってはならない」と突っぱね、そして行長のいう封貢要求には皇帝の許可を必要とすると言い、さらに朝鮮は「明の堺」=「門庭」であり、そこから倭軍は退去せよと勧告したことに対し、行長は、平壌から退出するが、その代わり大同江以南を倭軍の領域とすることを主張することになり、この沈惟敬と小西行長の会談により、朝鮮・日本・明三国間に朝鮮領土割譲問題が持ち上がった。
翌1593年1月初め、李如松は小西行長のもとに、皇帝は和議を許したので、それにつき斧山院 で会談したいと伝えたので、行長は家臣の竹内吉兵衛らを斧山院に送り込んだが、ここで明側は吉兵衛らに酒をすすめ、酔ったところを明の軍営に拘留し、その夜、数名の倭兵が明の軍営から脱出し、ここで平壌の倭軍は明の大軍の到来を知り、沈惟敬の示した停戦協定が罠であったことを知ったのである。
この時、平壌の倭軍は極度の兵糧不足に陥っており、このあと、李如松は約四万の明・朝鮮の兵をもって平壌城を囲み、激戦の末、小西行長軍は平壌から脱出した(平壌の戦い)が、「平壌囲まる」の知らせは中和・黄海一路にある繋ぎの城に在番していた倭軍にとって衝撃であり、当時、黄海道鳳山 には大友義統(よしむね)が在番しており、その家臣志賀小左衛門は先手として鳳山の北に在番していた。
小左衛門は、平壌から脱出した兵から行長戦死との噂を聞き、これを義統に伝えたところ、これにおびえた義統は鳳山の番城を棄てて逃亡したため、行長らは鳳山にたどり着いたものの、鳳山は空虚となっており、やむなく行長らは黒田長政の在番する黄海道白川まで退却した。
しかし、明軍の追撃がきびしく、行長らは長政とともに小早川隆景・吉川(きっかわ)広家の在番する京畿道開城 (ケソン)へと退却し、さらに隆景らとも合流して、九三(文禄二)年一月半ばソウルへ帰陣したのであるが、平壌の敗北はソウルに在陣する宇喜多秀家・石田三成らの倭軍首脳にも衝撃を与えた。(20240501)
第42章 兵士らがアゴスチイノの平安(平壌)を放棄するよう背ttくしたこと、およびそれに関するほかの出来事について
戦闘が終わると、アゴステイノの指揮官たちは、他の日本軍がいる後方の城塞へ退却するように彼を説得し始め、「兵卒たちは疲労しており、多数は戦死したり負傷し、武器・弾薬は尽き、装具は傷み、城塞の外にあったいくつかの食糧倉庫は焼失した」
「もしシナ軍が予想されるように翌日、再び来襲するようなことがあれば、味方は全滅を免れず、そしてたとえ一、二度の戦闘に堪えたとしても、結局は力尽きて彼らに抗し続けることはできぬであろう」
だが、アゴスチイノは老関白殿を範として、いかなるものであれ、敵に背を向けることは卑怯であり唾棄すべきものとみなし、彼らの勧告に応じなかったが、「全員が戦死してしまえば、シナ軍を勇気づけ、後方の城塞にいる日本軍の指揮を沮喪せしめることになり、老関白にとってははるかに悪い結果になる」
これらの言葉には支局もっともな道理があったので、アゴスチイノは納得し付近の城塞迄退却することを決意し、銅や直ちに、できる限り静粛に、常駐しているときのように火を焚き幟を建てた城塞を後に詩、大いなる
愛情と慰撫をもって病人と負傷者全員を運びながら敵に気づかれることもなく平安を去っていった。
豊後国主(大友吉統)の二度目の使者に接して、ドン・パウロ(志賀親次)はその城塞を放棄したが、彼にはアゴスチイノが死去したというのは事実のように思われたが、不運なことに、彼は退去するのを半時間延期したばかりに、アゴスチイノに城塞でとらえられ、結局、彼と同行する羽目にお陥ったが、それはアゴスチイノに名誉をもたらす結果になった。
それはそれとして、さらに三日間もある聴け、極度の食糧不足に悩まされつつ日夜歩き続け、あたり一面雪に覆われていて、食べる草も見出だすことができず、雪を口にして露命をつなぎ、合流した黒田甲斐守とともに都に向かったが、朝鮮国の寒気はことのほか厳しく、冬季には万物が凍るので滑るのを防ぐために少量の藁、またはそれに類したもの敷き氷上を進んだ。(20240508)
第43章 日本軍が朝鮮の都を放棄したこと、ならびにアゴスチイノが和平と協定文を議するために、二名のシナの使節を伴って名護屋に着いた次第
シナ人たちは、、津根常日本人たちが死者を出すことなく、平穏裡に朝鮮から撤退することを願っていたので、日本人が彼らに対して激しく攻撃に出てきたことに戸惑い、かつ驚愕し、そこで遊撃(沈惟敬)はアゴスチイノの許へいく度か使者を派遣して、「先般の過ちを許してもらいたい」と、まことしやかに願い出、以下のように伝えさせた。
「先に過失を犯したのは、予の責任ではなく、北京から派遣されてきた他の指導者たちであり、彼らは予が貴殿と締結した和平協定に同意することを拒否し、また貴殿の家臣アンブロジオ(竹内吉兵衛)は騙されて捕虜になったが、これも予が提案したわけではなく、予の同僚たちが国王あてに書状をしたため、彼を北京の国王の許へ送り届けるよう取り計らったからである」
「もしアゴスチイノが協定を希望するならば直ちに談合に応ずる用意があると言い、日本軍が平和裡に引き上げるようにアゴスチイノが働きかけるようにと勧告し、なおその理由として、日本人はシナ人よりも勇敢で、武器並びに戦術の点で優れており、個々の面でシナ軍の劣勢は掩うべくもないが、当方には無数の兵士が居り、戦場をわが家のように本国近くに持っているという利点があり、さらに陸軍のほか、日本から朝鮮への道を遮断するために一大艦隊を出勤させるように命ぜられている。
アゴスチイノは、以上のような使者の談話を聞き終ええると、老関白殿が先にこの先生の遂行責任者として任命した四名の主将たちに、その旨を報告したが、そこで彼らは遊撃に対し、われらは老関白に強制され、心ならずも朝鮮にとどまっているが和平を講じたく心から希望していると答え、その理由及び既述の事情を率直に話し、そして和平を成立するためには、この際、老関白の名誉を損ねないようにして、彼に戦争を断念させる方法を見出すことが肝要であり、その方法は次のように遊撃が処置することであろう。
すなわち、最良の方法の一つは、遊撃がまずその陣営から二名の使節を老関白のもとに派遣し、和平を乞い、ついで別の使節がシナ国王の名で渡日し、日支間で行われていた貿易を、従来、対馬・朝鮮間でなされていた貿易をはるかに上回る規模で再開するとかそれに類したことを許可する。
朝鮮を出発したアゴスチイノはシナの使節を伴って名護屋に到着し、老関白殿から絶大な歓迎を受け、政庁の主だった武将たちの前でアゴスチイノが敵から輝かしい勝利を博し、使節を日本に派遣する交渉に際して、優れた叡知と判断を示したことを限りなく自慢し、そして彼に相当な額の銀子を褒美として取らせ従来俸禄に新たな禄を追加した。(20240515)
第44章 老関白が使節に与えた回答、及びその後アゴスチイノが朝鮮軍から得た幸運な勝利、ならびにその他の出来事について
先ごろはシナ軍の実力を耳にし、領土的野心を断念していた老関白であったが、今やこうしてシナの使節が名護屋に来たのに接すると、彼の兵たちが朝鮮の都でシナ軍に包囲され、窮地に陥ったことを忘れてしまい、誰の言にも耳を貸そうとせず、是が非でも朝鮮の一部を自分に引き渡すように要求し、その他の利益をも主張して譲らなかった。
この朝鮮への遠征に際しては、アゴスチイノは常に全力を傾け、勇敢にふるまい、殆ど常に成功し、敵とのあらゆる交戦において幸運に恵まれ、赤い国の要塞(普州城:チンジュソン)を占拠する際にも、到着したのは攻撃が開始されるわずか二日前のことであったが、攻撃当日には真っ先に乗り込み、そこにいた主要人物を討ち取り、その首級を老関白のもとに届けた。
この朝鮮の戦いに関する老関白の意向として感じられることは、朝鮮を占領し、関白職に就任させた自分の甥(秀次)、ならびに彼とともに、日本で己に叛旗を翻す可能性があるものをすべてかの地に送り出すことであった。
ドン・プロタジオ(有馬晴信)の兄にあたる異教徒の波多三河守信時殿は、肥前国にその領土を持っていたが、同領土内の名護屋という港に、老関白殿が宮殿と城と街を造営したが、この波多殿は朝鮮に渡ると、病気であると偽って熊浦から先は進まなかった。
老関白はまた薩摩国内出水の国主(島津又太郎)が病気と偽って無断で朝鮮から帰国したことを知ると、前回にもまして好機を得たことを喜び、彼から封禄(ほうろく)を没収し、同じく寺沢(志摩守)をその封禄の管理人とし、彼の身柄は、わずか八人か十人の家臣を伴わせてアゴスチイノに預けることにした。
日向守と称せられる薩摩の国主(島津久保:1573-1593)は、朝鮮国の唐島(巨済島)で病死(文禄2年)し、伝えられるところによれば、老関白は同国を意のままに支配できる状態にあると言い、そのために朝鮮にいる薩摩の兵士たちは、今では殆どみんな、アゴスチイノの麾下(きか)に配された形になっている。
奥州国主の伊達政宗は、坂東地方最大の武将の一人として、常にその強大さと大勢の部下を従えていることで著名であったが、老関白が栄え、日本国中の絶対君主となった現在では、その哀れな国主は、老関白の政庁にあって不遇を甘受する身となった。
関白は伊達に向かって、「汝が予を裏切ろうとしておることを世は熟知している。よって汝は殺されてしかるべきだ。だが汝は名護屋に赴き、朝鮮に渡り、よく尽くしたゆえ、生命を助けてやることにした。ただし汝を奥州には帰らせず、予の近くに留めておくであろう」と。
【追伸】
島津義久の弔いの和歌
「南」 なく蟲の 聲は霜をも 待やらて あやなく枯るる 草の原かな
「無」 紫の 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行衛なるらん
「阿」 雨はただ 空にしられぬ 習なれや 憂き折々の 袖にかかりて
「弥」 みし夢の 名残はかなき ね覚かな 枕にかねの 聲ばかりして
「陀」 尋ねても 入らまし物を 山寺の ときおく法の 深きこころを
「佛」 筆をみぎに 弓を左に もてあそぶ 人のこころや 名に残らまし(20240522)
第45章 老関白殿が命じた幾つかのことについて、1593年
老関白が名護屋から都に帰った後、大坂の僧侶(真宗大谷派第12代門主:教如)に対抗して、母と妻が老関白に向かって苦情を申し立て、その屋敷と地位と職権を彼の弟(浄土真宗本願寺派第12世宗主:准如)に授与した。
また関白は、大阪城の女たちから運勢占いをし、巻き上げたという陰陽師をたちを召喚し、愛宕へ喜捨を募っていた人々も招集し、豊後の国の住民が少ないと聞くに及び、すべて農民として働かせるべく同国に贈り、今後彼らが占トや魔術を行ってはならぬと命令した。
老関白の宮殿の女たちの間でも多くの不行跡が見られたので、多数の男女と仏僧が死刑に処せられ、火刑や断罪に処せられたものは三十名を超え、また街の中心部から移転せしめた僧院を訪れ、「この僧侶たちは極めて贅沢な生活をしており、それに反して兵士たちは朝鮮に渡って生命を失っているので、予はこれらの僧侶を朝鮮に遣わすであろう」という。
老関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが、さらに都と堺の町人と役人たちの、未婚の娘および未亡人をすべて連行してくるように命じ、そして容姿の美しいものは、ほとんど残らず老関白のもとに連行され、特にこの哀れむべき暴君は、すでに六十の齢を過ぎていた。
そのころ、高山ジュスト右近殿は名護屋にいた間、日本人が湯に入れて飲む草の粉末である茶の湯に専念しており、彼は主だった武将たちを茶席に招待したが、その中には八か国の領主である家康百檻、政庁にいるこれらの武将たちは、彼から招かれることを大いなる好意と受け取っていた。
ジュストは名護屋において窮乏に堪えねばならなかったのも、彼と対立する間柄にあった羽柴筑前(前田利家)が、彼に十分な封禄を支給せず、極めて卑劣な仕打ちを加えたからであったが、それにもかかわらず司祭たちが名護屋に赴くと、彼は接待し、司祭たちの伴侶は皆、彼に頼らざるを得なかった。
老三ケ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、残忍な性格の男とともにいたが、この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で殺そうとしたことがあり、そのため彼は、この男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、剃髪したことがある。
彼は無事に、天草上島の上津浦の港にたどり着き、かねてアゴスチイノに、その港に行くように指示されていたので、同地で立派な家屋、ならびに食糧をその家族、及び家臣らに与え、彼は同所から、アゴスチイノに招かれて朝鮮に渡った。(20240529)