第1章 メストレ・フランシスコ師が山口より都に至り、さらに同所から平戸へ帰った次第、および彼がコスメ・デ・トルシス師を伴い、再度山口に赴いた次第
かつて人々は、薩摩にいたとき、司祭たちが公然と肉や魚を食べるのを見て苦情を言った。
平素は食べなかったけれど、“デウスが人間のために創り給うたもの”を食することは差し支えなかったのだ。
宿の人に説明し、周囲の人々に理解させるために、苦行のように少しだけ食べたというが、ザビエルはその汁だけでわずかばかりのコメを食べた。
ザビエル(1506-1552)の滞日期間は2年(1549-1551)で、平戸から山口、山口から都、そして都から山口に戻ってくる。
都は、三好・細川の戦乱(1550)で様相を変えており、将軍足利義輝(1536-1565)は郊外に逃れていたのだ。
そこでザビエルは、今までのところ、日本での最大の君主は、山口の国主第16代大内義隆(1507-1551)であることを看取したのである。
【追伸】
織田信長(1534-1582)の上洛は1568年である。(20200709)
第2章 パウロとベルナベなる二人の著名な仏僧の改宗について、マタコスメ・デ・トルレス師がロレンソ修道士にベルナベを伴わせ比叡山の大学へ派遣した次第
大和の国のはなはだ著名な多武峰(奈良県桜井市)と言う寺院から、二人の僧侶が山口の町へコスメ・デ・トルレス師(1510-1570)を訪ねてきた。
ザビエルの意志を受けて、18年にわたって日本で宣教した彼の「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。
と言うのも、トルレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごしていたのだ。
そして彼ら二人も、説教を聴き、数日にわたって疑問を述べ、質疑応答ののち完全にキリシタン(パウロとベルナベ)になったのである。
当時、日本人修道士ロレンソ(1526-1592)は、既に修道院に受け入れられていたが、名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たしていた。
目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていたが、天文20年(1551年)に山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞き、キリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受けた。
そのロレンソをトルレス師は、当時日本全国で最も主要であり、かつもっとも著名な大学であった比叡山へ派遣することに決意したのだ。
稀有な才能の持ち主であったパウロは、著名な医師でもあり、五畿内並びに比叡山で非常によく知られており、数名の仏僧に充てて書状を認めロレンソ修道士に渡し、ベルナベが同行することになった。(20200713 )
彼らは山口から備後、道中、強盗にも遭い、人望のあるシンスケ殿の世話を受けながら、堺と赴き、そこから多武峰を辿り、桃尾(もものお:奈良県天理市)の異教徒の僧院に立ち寄った。
その人里離れたところには、学識と善行で名声を博している、ひとりの老隠遁者がおり、パウロの書状を渡した。
「あれほど学識ある人が我々の宗教以外に、別の正しい宗教があると書いてよこしたことには驚き入る。わたしは唯一つ禅宗を除いてほかに存在しないことを承知しているのだが・・・」
ソウリンと称するこの隠遁者は、その夜数時間傾聴した後に、「わたしは16歳で道に入り、40年以上もの間、片手で食事の支度をし、もう一方の手では、現生の後で無に帰すると書いてきた。
ところが御身らは、霊魂は不滅で、世界の創造者、人類の救い主が存在すると確信なさる。
わたしが御身から伺うことはいとも新奇であるが、今まで執筆してきたものを全部焼いてしまおうと固く決心した」
しかし、彼が救いを得るための滞在時間はなく、比叡山の允許(いんきょ)と承認を得るためには旅立たねばならなかった。
ところが、話に決着をつけることなく、「山口の国主第17代大内義長(1532?-1557)の信任状を貰い受ける」ことに話を逸らされ、豊後(大分県)に戻ると、山口から追われた司祭もおり、結局山口に派遣されることになり、その信任状を入手してきたのだ。
【追伸】
義長は、大友家からの猶子(ゆうし)であり。キリシタン大名の大友宗麟(1530-1587)は実兄である。(20200720)
第3章 コスメ・デ・トルレス師がガスパル・ヴィレラ師と日本人修道士ロレンソおよびダミアンの三名を、都に入らせるために、比叡山に派遣した次第
1559年、コスメ・デ・トレイル師は、改めて都地方の布教に力を入れようと決心し、ガスパル・ヴィレラ師(1525?-1572)がその任に選ばれた。
と言うのも、彼は有為の人材であり、当時すでにかなりの日本語を話したり、商法書くこともでき、交際においても挙措においても、日本人にはなはだ好まれていたからである。
先にかの地から戻ってきたロレンソ修道士と当時はまだ同宿であったダミアンを伴侶とし、かの地域を調査することだけを目的とし、ミサの道具は携えなかった。
彼らは府内(豊後国)の司祭館に別れを告げた後、その町から半里足らずの沖の浜の港で乗船し、そこから7里隔たった守江(大分県杵築市)と言う港に航し、ここで潮を待っている間にひどい天候となった。
そこで異教徒の乗船たちは、、彼らの間で布施を集め、その地にあった神社の巫女に差し出して、神が自分たちに良い天候を授けてくれるよう祈ってほしいと願うことにした。
ところが、司祭は天地の創造主に仕えるものであり、天候も全人類の生命も、その御方の力のうちにあり、寄進することはできないが、船の水夫たちに馳走するためなら寄付をしようと言った。
一同は激高し、この船で同行させるわけにはいかぬ、陸に置き去りにしようと、繰り返して言ったが、司祭は彼らに向かって、謙虚にその訳を話したのだ。
しかし、十分納得させるに至らなかったけれど、最後には、多くの人たちの意向に反してではあるが、司祭を同行させ、安芸の国に向けて出帆した。(202003)
宮島についた司祭は、二人の同伴者とともに厳島神社の見物に赴いた折、巫女が伴っていた童が「天竺人、天竺人」と叫びだしたりした。
ところがこの国には、フェリペと言う名の、老齢に達したただひとりのキリシタンがおり、ザビエルがかつて山口で洗礼を授けた、最初の人々のひとりなのだ。
そのフェリペが次のような話をしたー国主(大内義隆)が殺され(大寧寺の変1551年)、その町が破戒された後、妻とともにここに移ってきたのであったが、当地にきた幾年かは、悪魔から非常に煩わされ、あの厳島神社も炎上し、山や家屋も崩壊するほどであったが、ロザリオで祈りはじめ、朝になると国内には何らの動乱bの跡も見受けられなかった(厳島の戦い1555年)。
司祭は宮島の港を出帆し、直航して伊予国に赴き、堀江と言う別の港で、逆風のため十日間滞在せねばならなくなり、乗客たちはいよいよ、災いは伴天連のためだと確信するようになった。
危うく、旅の途中で置き去りにされそうであったが、割増の金を支払うことで話がまとまり、一同は伴天連に旅を継続させることにした。
彼らが備後の鞆と言う港に着いたとき、そこでまたしても十日間も滞在して順風を待つことになり、そのたびに嫌がらせを受けるのが常であった。
【追伸】
宮島(安芸国)から直航して伊予国に、そして備後国とは、不思議と言えば不思議な航路である。(20200810)
ところが折よくそこには別の船があり、宿の主人はその船に伴天連を室津(播州)へ連れて行ってもらいたいと願い出たおり、先の船の乗客たちは、ここでもまた妨害しようと努めたが、そこの人々は同意したので、どうしようもなかった。
我らのデウスは、人々がそれまで司祭に対して行ってきた妨害や侮辱や虐待を罰せずには済ませておかず、先の船の人たちは盗賊の手に陥り、逃れるために多額の金がとり払われた。
そのほか、豊後から堺生まれの1人の婦人が帰郷の途次、司祭の乗船に乗り込み、ゼウスのことを理解できれば洗礼を受けたいと申し入れた。
それは室から堺への航海中のことで、前回とは異なり、快適な大きな船でもあり、司祭は教理をが説く機会が十分にあり、彼女は説教を聴き、キリシタン(洗礼名:ウルスラ)になった。
堺を見物していると、たまたま山口出身のキリシタン、パウロ・イエサンと出会い、非常に賢明で識見ある医師で、何かの助けにと建仁寺と言う寺に居る永源庵なる高僧あての書状をもらう。
また堺では、早速新奇を求めて数名の人が説教を聞きたいと申し入れたが、しかし司祭は、比叡山の主な僧侶の1人である西楽院(しらくいん)に宛てた、山口の国主(大内義長)の書状を携えており、自らの使命を実行し、五畿内許可を得たいと考えていた。
【追伸】
瀬戸内の海賊・理解の洗礼・五畿内許可、天下統一前の世相が顕れているというべきだろうか?
(20201001)
第4章 司祭とその伴侶たちが堺から比叡山へ出発した次第
彼らは、堺から3里離れた大坂の町に泊まったが、その町の全権を握っているのは、一向宗徒の頭(顕如:1543-1592)である仏僧で、財産と所領ははなはな莫大であった。
そして、先に数人の一向宗徒が豊後と山口でキリシタンになったので、司祭の同伴者や馬子は、そこで司祭の到着したことが知られてしまい、何か司祭に危害が加えられないかと心配した。
翌朝、彼らは暴風雨を冒してその地を出発し、都から3里隔たった山崎と言う別の地に赴き、ここで乗船して川を遡り、六地蔵(宇治市)と言う地に達し、そこから陸地を辿って日本で非常に著名な数か所、すなわち山科・醍醐・逢坂の関を通り、近江の国の大津と言う大きい町に着き、日本で非常に有名な三井寺なる寺院を訪れた。
豊後からは、司祭・ロレンツ・ダミアンとともに、道中の案内役としてディオゴという1人の日本人が旅をしていたが、彼はシナの島であるサンショアン(ザビエル終焉地)でキリシタンになった人で、結婚しており、比叡山の麓の坂本と言う地に住んでいた。
ディオゴは、一行の旅路の苦労を少しでもねぎらおうとし、また、さっそくにも彼らがその計画を実行できるように自宅に迎え、貧しいながらもできるだけもてなした。
その晩、彼らはみな心を合わせて、自分たちが企てていることは、デウスの名誉と光栄に寄与し、多数の失われた霊魂の救いにもなることゆえ、我らの主なるデウス、これを嘉し給えと祈りを捧げた。
【追伸】
ザビエルは、1551年ひとまず離日してインドに帰り、翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。(20201008)
翌日、司祭はロレンツ修道士に比叡山に派遣したが、他界した心海上人の門弟大泉坊の忠告を受けたところ、その温かい言葉に感銘し、会いに行くともてなしをされ、十二人の僧侶とともに教法を傾聴してもらうことになる。
彼ら一同が否定することをあらかじめ知っていたので、特に霊魂が不滅であることを聡明してっ語ったところ、かくして彼らは聴聞したことを納得し同意し、また修道士から聞かされたことにも賛同し、「聖なる教えだ」と頭を縦に動かしていった。
司祭は、身の安全を確保するために、家老の書状を手に入れるよう勧められそのお言葉に従い近江の湖の対岸に渡り、家老の代官に会い、所望されるがまま、キリシタンの説教を行うもひどく激高され、不首尾に終わる。
そこで、このことを大泉坊に報告をしたところ、大学にいるシキナイを介するようアドバイスされたが、「伴天連は人肉を食うものだと聞いている。・・・ここに滞在して不可能なことを試みるよりは、下(九州)の地方へ赴くがよろしい」と伝えられた。
かくて事態が延引するばかりなので、ガスパル・ヴィレラ師は、コスメ・デ・トルレス師に経過を報告したいと考えたが、同宿のダミアンは、「デウス様を愛するあまり、こうした人生の苦難を負って御身のお供をしてきたのである」とせがまれ行動を共にすることを許す。
「わたしは都に赴き、そこでわれらの主なるデウスの教えを公然と説くことを、何ら躊躇することもなく、無条件で決心している」と決意表明する。(20201015)
第5章 司祭が坂本から都へ出発した次第、並びに彼が被った反抗と苦難について
司祭は坂本から都へ出発し、1559年1月に入洛し、何度か住まいを変え、そのたびに受難にあったが、1560年6月ごろに、四条坊門姥柳町に落ち着く。
説教を聴くためのそこに集まってきた人々は、その教えがいとも風変わりで、いまだかつて聞いたこともない新奇なものであったから、その数は実におびただしく、司祭は義務とする日課祈祷を果たす時間さえほとんど足りない有様であった。
そこで司祭たちが昼食とか夕食を摂るときには、戸を閉め、人々が力づくでその戸を開けることがないように、ひとりの同宿は背中でそれに寄りかかっていなければならなかった。
それらの人々は、伴天連の見世物的な見物・好奇心的な質問、さらには嘲弄や辱めを与えんがために、深夜まで絶え間なく続くのである。
だが司祭は、すべてそうした状況に、沈着で明るい気持ちで応対し、一同が自分から良い感化を受け、みんなから悪く思われないように努めた。
ここにおいて異常な大群衆が殺到してくるようになったのだが、その中の不遜な一連の僧侶たちに、〔草木国土悉皆成仏〕の言葉についての説明を求めると、仏僧たちは何ら応えることもなく、一同は恥じ入り、困惑しながら立ち上がり、他人事もそれについて述べることなく立ち去った。
【追伸】
栄光と劫罰が、徳行や悪行に対して与えられるものとしたら、どうして釈迦は、「万物は絶対に成仏するといわれるのか! 」(20201022)
第6章 司祭が初めて公方様を訪れ、その允許状を得た次第
日本には万事に優る最高の二つの順位があり、第一は内裏であり、400年以上も前から人々は服従しなくなってはいるが、日本の六十六か国すべての国王であり、最高の統治者である。
第二は公方様で、長官もしくは副王のようなもので、日本の帰属は皆、彼を国王の総司令官として大いに畏敬している。
司祭は、この公方様(足利義輝)との手筈を、堺から持参した手紙の宛である、永源庵(建仁寺塔頭)の高僧に依頼した。
日本では、いかなる君侯を訪ねる際にも、必ず贈り物をせねばならないが、幸いなことに、かれは砂時計を一つ所持しており、そのような品は日本では知られていなかったので、注目される品になった。
こうして司祭たちは允許状をもらうことができ、年の初め(1561)、人々は皆公方様を訪ねるのが当国の習わしなので司祭は彼を再び訪問した。
そして公方様の義父にあたり、はなはだ身分の高い貴人の進士美作晴舎(しんじみまさかはるいえ)が司祭の保護者となったのである。
【追伸】
進士美作春舎の娘が、義輝の側室小侍従(こじじゅう)である。(20201009)
第7章 司祭が多数の僧侶や種々の宗派の人々と行った宗論について
全五畿内でもっとも重立った寺院の一つである紫の僧院から、数人の禅宗の僧侶が、公家を装って訪ねてきたが、彼らは司祭たちの説教を聞いただけで、一言も話さなかった。
都の町の仏僧たちは、「もし彼の教法が、民衆の殺到ぶりに応じて広まっていくならば、その時、釈迦や阿弥陀、その他の仏の教えはい一体どうなると思われるか!」と激高し始めていた。
父親が息子について、兄が弟について、また友人や親族相互の間で、「わたしはキリシタンになりました」と、言うのを聞くと、そう言った人はたちまち、まるで呪われた者か憚るべき破門された者のように、仲間から閉め出され、排斥された。
それでもキリシタンになった人は、できる限りデウスの教えが優れていることや完全であることを賞賛し、それまで自分の霊魂が暗闇に取り囲まれていたことに気づいて驚き、従来行っていた偶像崇拝の誤りと愚かさに反駁した。
禅宗の紫の僧院から、もう八十歳に近い老僧が、訪ねてきて、その善良な老人は、聖なる洗礼を受け、彼は正直に、簡素な生活をし、1日のうち、多くの時間をデウスに祈ることに費やしていたが、彼はまた貧しい人々に、多くの施しをしつつ、聖なる生涯を終えた。
この家では、また一人の医師養方軒パウロがキリシタンになり受洗し、イエズス会が日本文典や非常に膨大な辞書を編纂できたのは彼の協力によるところ多大なものがあった。
【追伸】
偶像崇拝は敬神に対する罪なのだが、キリシタン時代の日本への布教活動は、曲折していったかもしれない。(2020105)
第8章 都における山田ショウ左衛門の改宗について
永禄三年(1560)、美濃の国では土岐頼芸(よりあき:1502-1582)殿と言う屋形が統治しており、デウスの教えが都で広まり始めたちょうどその頃、彼は僧侶になっていた二番目の弟を都に遣わした。
その伴侶としてやってきた重臣中ふたりの貴人、そのひとりが山田庄左衛門で、日本の諸宗派にはなはだ精通しておりそれらの一つのなかに心の平安を見出したいと切に望んでいた。
ところが、彼にはどの宗派も、漠然とした闇に一面包まれたように思われたので、光明のないものとして棄て去って神道に移ったが、そこにも求めるものがなく禅宗に帰依した。
その彼がわれらの教会に来ると、ロレンソ修道士は求められるがままに証明しょうとすると遮られ、禅宗の核心・焦点であることについて承りたいと言った。
「デウスは初めも終わりもなく、無限の能力と知恵と善を具備した最高の本質の完全なるものですが、高尚なことを理解するためには順序が必要ですから、わたしはま御身に、下級被造物と可視的物質の創造について説明しましょう」
庄左衛門は、自分の救霊に関して、十一か条の質問を認め、「このわたしの質問を説いてくれれば、わたしはキリシタンになります」と言い、司祭ヴィレラ師はそれに対する返答を引き受け、実際その通りになり、洗礼を受けた庄左衛門は、美濃での布教の先駆的役割を果たしたが、彼の生命は、改宗後3・4年以上は続かなかった(暗殺)。(20201112)
第9章 ガスパル・ヴィレラ師が別の一軒の家屋を借りた次第、並びに都のその家で、彼の身に生じたこと
日本の家屋は、石や漆喰ではできてはいないが、冬には寒さを防ぐ場所なり施設があり、板や粘土の壁のほか、戸や畳、および身体を温めるための炉等があるが、ここではそれらすべてのものが欠けていた。
と言うのも、屋根を通して太陽や月や星が見えたし、家のなかに雨や雪が降ることは街路と大差がなく、壁と言えば、藁束がめぐらされているだけで、戸はなく、床は単なる裸土に過ぎず、しかもすぐ近くには別の公衆便所があって、その臭気は堪えられぬほどであった。
日本で、最高の天文学者のひとりで公家であり、はなはだ高貴な賀茂在昌(あきまさ:1519-1599)が居合わせ、それより先、伴天連から、日蝕・月蝕、およびいくつかの天体の運行に関することを聞き、そのことで彼は伴天連を尊敬するようになり、都でキリシタンになった最初の人々のひとりになった。
マノエル在昌は、仏僧に言ったー「わたしは徽宗の学識並びに権威ある人格に対して尊敬してまいったので、そのようなひどい妄想とか不条理なことを仰せられるのをうかがって移管に存ずる。なぜなら月について、そのようなことを話されるなら子供たちからも笑われるでありましょう。徽宗はたぶん私の顔をご存じありますまいが、都ではおそらく私の名前をお聞き及びに違いないと思います。私は在昌で、天文学を食といたしております。釈迦が述べるような粗野なものではありませぬ」
「殺すなかれ」と言う戒律について司祭は答えた、「我らがここで説く全能のゼウスは、万物を創り給うたときに、直ちに下級の被造物は上級の被造物に隷属し、そして上級の被造物は高尚であるから、その段階に応じて、下級のものによって自らを養い、生命を保つように定められたのである」
さらに「デウスは人間に従う様に諸物を創り給うたが,他方人間には、自ら命ずる戒律を守ることで、デウスに従うことを欲し給い、それゆえ第五誡には、『汝殺すなかれ』と述べられているのである」
仏僧曰く、「デウスが、殺すなかれと命じ給うならば、罪人を処刑することをも禁じるのか」と。
「デウスはさらに大いなる悪事を防ぐために、国家と領国内において、その悪人をば、法律とその犯行の軽重に従って罰するように定めたもうた。さもなければわたしたちは、国家の秩序を保つことができないからだ」
【追伸】
仏僧は司祭の答弁に賛成し、デウスの教えを賞賛し始め、教理の順序に従って、キリシタンになったという。(20201119)
第10章 ガスパル・ヴィレラ師が初めて都の市街から追放された次第
公方様は伴天連に允許状を下付しており、それによって都に居住が許されていたが、当時五畿内で大いなる勢力を持っていた河内国の主人、三好長慶殿からも、もう一通同じ内容の允許状を貰い受けていた。
今村殿は、下総殿や仏僧たちに説得され大和の国にいた間に、都の重立ったキリシタンたちに宛てて一通の書状をを認めた。
公方様は特に松永霜台(弾正:1508-1577)に対し、「デウス」を都に住まわせてはならぬと明白に伝えさせた。予は幾度もそれを阻止できぬものかと尽力したが、公方様が命じられたことだから、この際、請願は不可能事である。
二十人ほどのキリシタンが淀川まで彼に伴い、そこで司祭は、指示された地へ赴くために鳥羽と言うところで乗船するよりほかなかった。
かくてロレンソは、公方様の政庁の重立った貴人のひとりであり、またその式部織であった伊勢守殿を既に知っていたので彼を訪ね、事の次第を報じたところ、「公方様はそういうことを何もご承知でないし、伴天連を追放するよう命じられたこともない」
既に司祭は、八幡に留まること五日になり、ロレンソ修道士がもたらすに違いない返答を待っていたが、彼はなかなかこなかったので、司祭は事態を熟慮した。
ロレンソは都に帰りひとりのキリシタンの家にまだ隠れていた司祭を訪ね、キリシタンたちは彼が到着したことを知ると、彼らの悲しみは喜びと変わり、一同は長い間、両手を挙げて跪き、われらの主なるゼウスが示された恩寵に対して感謝した。(20201210)
第11章 司祭(ヴィレラ)がふたたび公方様を訪れ、そして都から堺の市街へ伝道に赴いた次第
「殿下はすでに二度も伴天連をご引見になったのでございますから、今もし殿が彼と会おうとなさらぬことが異国に聞こえますれば、あちらでは決して良い印象を与えますまい。・・・殿下は、従前のように、回廊においてではなく、殿ご自身のお部屋で引見なさるべきだと存じます」と、伊勢守は何度も繰り返して言ったので、公方様は彼に譲り、伴天連が訪れてきたときには、司祭にふさわしい尊敬を払った。
公方(義輝)様、生存中はずっとそのような態度を続けたが、間もなく殺害(1565年)されたのでごく数年だけのことであった。
司祭は布教がさしあたって何ら進展しないことが判り、都以外としては、日本のヴェネツィア堺の市街(まち)以上に重要な場所はなかろうと思われた。
日比屋了慶は、伴天連が堺に来ることがあれば、拙宅に住まわれるよう説得してほしいと書き送っていたのだ。
戦争が継続している間、司祭(ヴィレラ)は堺にとどまっていたが、三好長慶殿という大身が勝利者としてとどまるに至った時に、その賢明さと善政により、五畿内には平和が蘇り、先に近江に退いていた公方様も都に戻ってきた。
われらの主なるデウスは、来るべき迫害をなお2・3年延期し給い、その間キリシタンたちは信仰において、またわれらの主なるデウスがご好意をもって自分たちに分かち給うた大いなる恩寵を認識することにおいても、いっそう強められた。
【追伸】
ヴィレラが京都をはなれた直後から1年近く山城・和泉で合戦が続き、永禄4年7月(1561年8月)、山城の六角義賢は、三好勢と戦い、義賢勢には畠山高政や根来が加わった。
かくて永禄5年(1562年)3月、和泉久米田の合戦で長慶の弟実休が戦死するも、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。(20201225)
第12章 同じ1562年に都において生じた他の幾つかのことについて
第6月の15日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し行われる。
朝方、その行列は、上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が絹の布で覆われているが、既に古くあがく使用されたものである。
そして舞台の真中には非常に高い1本の柱があり、その車は二階、また三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子どもたちで大勢の少年がいる。
彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技をしたり大声で歌ったりし、その一台一台の後から、自分の職業の印を持った職人たちが進み、槍・弓・矢・長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。
これらの大きな舞台が通過すると、他の、より小さい車が続いていくが、その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。
日本人は、、それらを上手に制作し、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。(20210107)
第13章 ガスパル・ヴィレラ師が都から堺に戻った次第、ならびに同地で生じたこと
学問および降霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書道に長じ、日本の天文学に通じている結城山城守は、松永から幾多の好意を示されていた。
その彼が、「天竺人は、国に害を及ぼす者ゆえ、予が五畿内から追放し、教会も家財も没収しようとしている」と言った。
それに応えてディオゴは、「わたし達キリシタンが拝み奉るデウスは、天地の御主であり、現世において最高の支配を司り給うのみならず、来世においても同様であります」
討論し始めた結城は、伴天連や教会及びデウスの教えに対して憎しみに満ちており、凶暴な獅子のように彼らを滅亡させようと望んでいたのであるが、今や突然打って変わり、「いやはや、御身らが申す通りだから、予はキリシタンになりたいと思う」と繰り返した。
結城殿は、こうしたことを弾正殿霜台に秘しておくのはよくないと思い、霜台のところに赴き、伴天連やその教えについてよく弁護し、巧妙にまず、霜台の好意を獲得した。
しかし彼の悪意は、彼を盲目にしていたので、聖書が“目にて見むも認めざるべし”と述べるような人物であって、種は役立たず不毛の地に落ちることになった。
【追伸】
当時天下の最高統治権を掌握し、専制的支配していたのは松永霜台(久秀)(20210128)
第14章 司祭(ヴィレラ)が奈良に赴き、結城殿、外記殿、および他の高貴な人々に受洗した次第、ならびに河内国飯盛城における73名の貴人の改宗について
司祭(ヴィレラ)は遅滞することなく、さっそく大和国にむかって出発し、結城進斎を訪れたところ、彼はその来訪を大いに喜んだ。
結城殿と外記殿は、聴聞した最高至上の教えに全く満足し、両人は聖なる洗礼を受けるに至った。
沢城主高山厨書殿と言う別の貴人はこれを聞き、自らは霜台の使命を帯びて、ある他の地方へ急ぎ派遣されたにもかかわらず、出発したように見せかけ、奈良市内の一軒の家に二日二晩隠れ留まって、日夜絶えずデウスのことを聴聞した。
彼はそれに異常なばかり感銘し、直ちにそこで聖なる洗礼を受け、ダリオの教名を授かった。
結城山城殿の長男は、奈良で父とともに洗礼を受け、結城アンタン左衛門尉殿と称し、当時天下の最も著名な支配者のひとりであった三好殿に仕えていた。
彼の献身・布教事業における熱意、および司祭たちや教会のあらゆることに対する愛情は並々ならぬものであった。
【追伸】
高山厨書(ずしょ)は、高山右近の父 (20210211)
ロレンソ修道士が飯盛城に到着し、武士たちが彼を見ると、あるものはその容貌を嘲笑し、またある者はその貧しい外見を軽蔑し、さらにある者は、好奇心から彼の話を聞きたがった。
彼は一同に、非常に満足がゆくように答弁し、明白かつ理性的な根拠を示し、デウスの御子による人類の救済について説いていたので、三好殿幕下の73名の貴人たち(三箇頼照・池田教正・三木判大夫等)は、納得してすぐにでもキリシタンになることを決心するに至った。
彼らは福音の教えが真実のものであり、伴天連はそれを広める人であるとの確信を全く深めるに至り、司祭はみなに洗礼を授けた。
結城アンタン左衛門尉殿は、飯盛城に近く、城から四分の一里離れた砂の寺内と言うところに屋敷を持っており、彼はその地で教会を建てた第一人者で、司祭はその教会でミサを読み、キリシタンの武士たちも、デウスのことを話したり聞いたり、また祈祷を学んだりした。
三千名を越える家臣がキリシタンとなった時に、サンチョ(頼照)は司祭たちが寝泊まりできる教会を建て、日本の教会が五畿内地方で有する最も堅固な柱の一つとなり、彼の邸はあたかも修道院のようであった。
サンチョは平素、デウスのことを最も上手に、また最もてきぱきと説き得る人であり、そのことに格別の喜びを感じていたので、彼はその地方において、イエズス会のために最も功績ある一人となった。(20210218)
第15章 沢、余野(よの)、および大和国十市(とち)城における改宗について
奈良で洗礼を受けた高山ダリオ(飛騨守)殿は、五畿内全域におけるもっとも傑出した人々の一人であり正真正銘のキリシタンで、その行いは常にすべての人々に感嘆の念を起こさせたほどであった。
その感激・熱意・信心・敬虔ぶりは、ヨーロッパの古く、はなはだ堅実なキリスト教徒と見間違うばかりであった。
沢城から五里隔たったところに、十市城があり、その城主は石橋殿で、十分教えを受けて後、自らも、妻子や家臣たちも洗礼を受け、彼は死に至るまで常に変わることなく真のキリシタンとして生き抜いた。
日本の国は政治的に変転が多く、後にダリオは摂津の高槻城に移り、石橋殿は霜台(1508-1577)が死んだために、十市城から追われることになった。
そこでダリオは、石橋殿はキリシタンでありいとも高貴な 方であったから、心から彼に同情し、自領に迎え入れ、生涯彼に住居、および20人扶持を給し、既に年老い病弱であった彼を、彼らの主が御許へ召し給うまで続けた。
ダリオには高山(大阪府豊能郡)母がおり、彼女は非常に老齢であったし、彼女をこのような大きな善事に除外したくなかったので、ロレンツ修道士とともに高山に出かけて行き、彼女が男女の召使と一緒に説教を聞くに至らしめ、かくて一同は大いに喜んで聴聞し、洗礼を受けた。(20210225)
第16章 1564年および前年に、都地方で生じた幾つかのことについて
1562年の降誕祭から1563年の四旬節までの間、司祭はキリシタンに福音書の説明をし、かくて彼らは信心と信仰を増していった。
司祭が堺に出発に先立って、全日本で最大の勢力を有する仏僧である比叡山の総量たちは、伴天連を都から追放し、教会並びにキリシタン宗団のすべてを破滅せしめることに決めた。
都の統治は、この頃、次の三人い依存しており、第一は公方様で、内裏に次ぐ全日本の絶対君主で、但し内裏は国家を支配せず、その名称とほどほどの規模の宮廷を持っているだけで、それ以上の領地を有しない。
第二は三好殿で、河内国の国主であり、公方様の家臣であり、第三は松永霜台で、大和国の領主であるとともにまた三好殿の家臣にあたり、知識・賢明さ・統治能力において秀でた人物で法華宗の宗徒である。
司祭(ヴィレラ)は河内の国主である三好殿を訪問し、その際彼にデウスの教えが崇高であり優れていることについて述べたのである。
「確かにこのキリシタン宗門のことは、全てが世には非常に良いものと思われ、予はできる限り、教会とキリシタン宗団を擁護しよう」と国主は述べたのである。
【追伸)
1563年6月16日 宣教師ルイス・フロイスが来日(20210304)
第17章 彼ら(フロイス師とアルメイダ修道士)が豊後から堺へ、さらに同地から都へ旅行した次第
フロイス師とアルメイダ修道士(1525?-1583:日本初の病院を作る)は、豊後から40里離れた伊予の国に寄港し、さらに塩飽、そして赤穂の坂越(さこし)で、堺行きの船を待った。
豊後・伊予堀江(三日間)、堀江滞在(八日間)、堀江・塩飽(六日間)、塩飽・坂越(不明)、坂越滞在(十日間)、坂越・堺(不明)、かくして40日を費やして1565年1月26日に到着した。
堺の高貴にして名望ある一市民、日比谷ディオゴ了慶が歓待し、邸内ではあるが、母屋から離れたところにある、はなはだしく美しく新しい部屋に泊まらせた。
修道士は保養で残り、フロイス一行だけが都へと急ぐが、大坂で大火に見舞われ、堺のキリシタンたちは大いに悲嘆していたが、大坂の宿から無事の報告が届いた。
1564年11月10日に、司祭フロイスは平戸を出発して以来、ついに、1565年2月1日、聖母マリアのお潔めの祝日(2月2日)の前日に都に到着したのである。
フロイスがインドから自分たちを援けに来たことにも増して、一行が大坂で危険から脱出できたことにいっそうの喜悦を示した。(20210311)
第18章 司祭(フロイス)が都に到着した後、そこで生じたこと
メストレ・フランシスコ・ザビエル師の命令によって、日本で異教徒に教理を教えた方法は次の通りであった。
「まず彼らに証明するのは、世界万物の創造主が存在すること、世界には初めがあって永遠のものではないということ、太陽や月は、彼らの神々でなく、またいずれにせよ生物ではないこと、さらに霊魂は肉体から離れた後も永久に生き続けること、理性的な霊魂と感覚的な霊魂との間にはいかなる相違があるか、この相違は彼らが知らぬことであるなどであった。
それらが理解されると、今度は彼らのうちの幾人かが提出する幾多の種々の難題や、彼らが自然現象に関して発する質問に答弁がなされる。
次に彼らに日本の諸宗旨を説き、おのおのに、その人が信じている宗旨のことを話し、彼らがそれまで聴聞したことと比較して、両者の相違をわからせるようにする。
そして明白な根拠をもって彼らの説を反駁し、各宗旨の誤謬を示さねばならず、彼らがそれを理解すると、各人の理解力に応じて、三位一体の玄義・世界の創造・ルシフェルの堕落・アダムの罪について述べる。
それからデウスの御子の現世への御出現に説き及び、その聖なる御苦難・御死去・御復活・御昇天・十字架の玄義の力、そして最後の審判・地獄の懲罰と天国に迎え入れられた人々の幸福のことを説明する」
第19章 都の市街、およびその周辺にあるみるべきものについて
日本建築において他のいかなることより優れている点は、清潔さと秩序であり、それは寺院でも、諸侯及び貴人たちの住宅、庭園・御殿においても見受けられる。
都の市街のほか約右四分の一里のところ、東山すなわち「東の山」と言う山に近い平坦な原に三十三間と言う寺院があり、これは昔、太政入道(平清盛)と言うはなはだ著名な殿によって建てられ、つねにその後継者たちによって改築された。
そこから約半里進むと、東福寺と言うはなはだ高貴で古い僧院があり、そこには見目よき灌木や木立とともに、夏でも非常に涼しい小川がある。
都の近傍に、多数の巡礼が訪れる二つの別の寺院、祇園・清水(きよみず)があるのだが、その一つを八坂神社、他を音羽山清水寺で、この清水は良い水の源泉でもあり、その地からの眺望は素晴らしく、日本中で著名である。
都の市街に入るすぐ手前に700年前に弘法大師と言う悪魔のような僧侶によって建てられた一僧院(東寺)があり、内部には、庭と称せられるはなはだ美しい緑の庭園がある。
その僧院の一隅に、都の誇り、また飾りとして「塔」と呼ばれる円く、非常に高い塔が立っており、五階を有し、周囲には外に差し出された五つの庇屋根があって、偉大な芸術的建築物であった。
【追伸】
三十三間堂:上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。(20210325)
第20章 都へ出発するまでに、堺の市街においてルイス・デ・アルメイダ修道士の身に生じたこと
わたし(ルイス・デ・アルメイダ修道士)は、九州からの途次、ひどい寒さのために力尽きて到着したため、激しい痛みを思い、死ぬかと思うほどでありました。
この頃、宿主である日比屋ディオゴ了珪のモニカという娘が、『わたしは罪深いものでありますために、母の弟である、一向宗の非常に熱心な異教徒である叔父と結婚させるつもりでおられることを承りましたが、いかなることがあっても、父母の決定には同意いたしますまい』と言う。
『あなたはやっと十六歳になったくらいで、あなたが死ぬまで肉体と霊魂の純潔を保たれるならば、あなたはゼウスの御前において、はなはだ大いなる栄光の冠を獲得できましょうが、もし挫折するならば、あなたは永遠に自らの霊魂を失ってしまいます』
『あなたが、あなたの敵に抵抗するのに、多くの強い勇気をご自身にお感じにならないのでしたら、叔父とではないにしても、誰かと結婚なさる方がよいでしょう』
彼女の父は『堺の町のキリシタン宗団はまだごく新しいので、当地には彼女と結婚させることができるようなキリシタンは一人もおりません」
『しかい、娘をあの男と結婚させることが、デウス様の戒律に反することになるのでしたら、わたしは御身がこのことでお命じになることを何でも致しましょう』
【追伸】
主はその後恩寵を垂れ、彼が求めたものを授け給い、その結婚は取りやめとなりました。(20210401)
わたしたちは午後三時大和川に達し、堺から6里離れた飯盛に行くために乗船し、三ケサンチョ(頼照)殿の息子で、十二歳くらいと思われるマンショが、肩に火縄銃を担って来ており、大小刀を帯び、非常に低調で風采も優れ、父の名代を立派に勤めていました。
かくてわたしたちは皮を遡って飯盛城の麓に至り、陽はすでにほとんど沈みかけており、わたしたちは非常に嶮しく難儀な道を半里ほど城まで登って行かねばならぬところでしたが、上陸しますとすでに一丁の駕籠が私を待っていました。
ところで駕籠かきは途中大いに急いだのですが、高い杉や松の繫みで一面掩(おお)われた山中で夜に入りかけてしまいました。
すると、さっそく頂上からわたしたちの方へ燃え盛る松明が運ばれてきましたので、わたしを担いでいた6人の駕籠かきは、途次難渋することが少なくなりました。
わたしたちが目的地に到着したのは、既に夜も更けた頃でしたが、そこでガスパル・ヴィレラ師、並びにかの貴人とその家族らから、わたしたちは非常な喜びと満足をもって迎えられました。
その間ヴィレラ師は、麓にある、長さ二里以上、幅約半里の大きい湖の中の、一つの島にある三ケ殿の教会にミサを捧げようと決心をしましたが、彼はわたしがかつて日本であったことがないほど、生ける信仰を心に抱いたキリシタンであります。(20210408)
第21章 ルイス・デ・アルメイダ修道士が、下に変えるに先立ってかの五畿内のキリシタンを訪れたこと、ならびに彼が同地で見聞したことについて
わたしたちが最初に訪れたのは興福寺と言う名の僧院で、石灰で上塗りした非常に堅固な粘土塀で囲まれ、内部と外部に、礎石のうえに据えられた太い柱があり、その上に幅14ぺーの屋根があります。
入口には、はなはだ見事に作られた美しい石の階段があり、門の両側には手に笏を持った驚くべき大きさの巨人が二体ありますが、各々三頭の像の大きさがあろうと思われ、非常に均斉が取れたものです。
この寺院の柱は実に太く、高く、全て杉材でできており、70本を数えるすべての柱、および非常に大きくて広い家全体に絵が描かれていて、はなはだ目に快いのである。
同寺院の厨房が清潔なことは非常なもので、外面的なことにはなはだ清潔を好むのは、日本人の大いに常とするところなのです。
この興福寺から、わたしたちは別の春日と言う神社へ行き、日本国中で最も収入が多いところの一つで、これら社人と巫女たちは、日本全六十六か国において可能な限り最高に贅沢な生活を営んでいます。
この春日から、わたしたちは同じ森にある、戦の神をまつる八幡と言う名の別の神社に赴き、特に目立つように思われたのは、わたしたちがそれまでに見たなかでも最も豪華な燈籠があったことで、それらは金属製で、全て塗金された多数の装飾や浮彫が施されていました。(20210422)
第22章 ルイス・デ・アルメイダ修道士がさらに見たことについて、および、堺に帰るまでに彼の身に生じたこと
高山ダリオ(右近の父)について語られており、ダリオは日本人としては体の大きい人で、「キリシタンでない者がいかなる奉仕ができるというのか、またその者にはいかなる功績がたてられようか、はたまたデウスを識らず、畏れもしない者など、いかにして信頼できるであろうか!」と申したことに、かくも偉大で強力な信仰心を見出したとしている。
さらに、「わたしは自分が訪ねて行けばいくらか聖火があることが判っている地方に赴くことができるように、この身を三つに裂くことができれば、との強い望みでいっぱいなのです」とアルメイダ修道士たちをも恥じ入らせたほどです。
堺に着くと、わたしたちは最初の宿主であるディオゴ(日比屋了珪)の家に泊まり、豊後への出帆を待つのだが、ここでディオゴの娘が堅く徳を守っていることを聞いていた。
実は都にいるきわめて高位の君侯が、彼女を夫人に懇望して、彼女を彼に嫁がせることを拒むのは不可能に思えました。
しかるに主はご慈悲を垂れ給い、主の召使である彼女の徳操、および父の博識と賢慮により、この娘の願いを照覧し給い、その父が非常に善良なキリシタンで、デウスを畏れる人でもあったので、彼女を熱望したその異教徒の殿が、あたかもいないかのように取り計らい給うたのです。
ところで、この高位の君侯が誰であるのか分からないのだが、これが叔父とモニカの結婚を早めたことかもしれないと思った次第である。(20210429)
第23章 都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の松永霜台の息子が、公方型とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第
都には、内裏に次ぐ日本での最高の顕位である公方様(足利義輝)が住んでいて、枯れには三好殿なる執政がおり、都から十一里隔たった飯盛城に居住、戦争によって数か国を既に征服し、彼はこの頃二十三、四歳(長慶の養子:義継1549-1573)で、百五十名ないし若名ほどのキリシタンの侍たちは彼の家臣であった。
三好殿はまた、松永弾正殿と言う名の別の執政を有し、この人は大和国の殿で、年老い、有力かつ富裕であり、人々から恐れられ、はなはだ残酷な暴君であり、三好殿の家臣であったにもかかわらず、大いなる才略と狡猾さによって天下を支配し諸事は彼が欲するままに行われた。
1565年5月18日、三好三人衆や松永久通(久秀の息子)を伴い、義継は1万近くの手勢を引き連れて上洛したが、京都に緊迫感はなく、義輝も全く三好軍を警戒しておらず、翌19日、突如二条御所が襲撃され、義輝は殺害されたのである。
公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀を手にしまずそれで闘い始めたが、その際彼は数名を傷つけ、他の者たちを殺戮したので、一同は極めて驚嘆した。
その母堂は、公方様を抱き、力を尽くして息子が外へ出ていくのを妨げようとしたが、彼は再度彼女を突き放し、たとえ敵は賤しき者であり、身分において国主たる予にはるか劣るとはいえ、予は密に隠れて死にたくはないと、戦うために走り出た。
ついで彼はいっそう的に接近しようとして長刀を投げ捨て刀を抜き、勝利を目睫(もくしょう)にしている者にも増して勇敢な態度を示した。
だが敵は、幾多の弓、矢、銃、槍を携えてきており、彼ならびにそのわずかの部下たちは、武装に欠け、大小の刀剣を帯びているに過ぎなかったので、敵勢は彼の胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷二つを加え、かくて彼がこれらの傷を負って地面に倒れると、敵はその上に襲い掛かり、各々手当たり次第に斬りつけ、彼を完全に殺害した。(20210507)
公方様の夫人は、正妻ではなかったが、実は懐胎しており、すでに二人の娘を設けてもいて、大いに愛されていたのだが、彼女はこの火災と混乱に乗じ、変装して宮殿から逃れ出ていた。
その彼女は郊外の一寺院に籠っていたが、謀反人たちはさっそく数多くの布告を掲げ、彼女を発見した者には多額の報酬をとらせると約束し、彼女を隠匿した者には負いなる刑罰を科すと脅かしており、三好殿と松永が自分を殺すように命じたことを悟り、紙と墨とを求め、幼かった二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためたが、それはのちに、これを読んだ人々一同を感動せしめ、読み聞かせられた者はだれしも皆涙を流した。
そこから彼らは彼女を籠に乗せて、都から約半里隔たった東山、すなわち知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れていき、四条河原というある川に来た時に、彼女は同行者たちに「あなた方がわたしを殺そうと定めているのはここなのですか」と尋ねた。
彼らはそれを否定し、「安心されよ」といったので、彼女は上記の僧院に導かれると喜び、死出の準備をするのに非常に好都合なことになったからである。
「この度のことは私の名誉にとってひどい仕打ちではありますが、公方様もその宮殿もあのようなみじめな結末となりましたからには、わたし一人この世にとどまることはふさわしくはございません。
さらにまた、わたしが公方様にこうして早々とお供できますことはよき廻り合わせと存じ、何ものにもましてわたしに喜びをもたらし、御頼りできるのは、間もなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます」
【追伸】
お侍従殿と称されたこの奥方は、一撃の失敗に対し「御身はこの勤めを果たすために参られたるに、いかにも無様でござろうず」と言い、第二の一撃において彼女の首は斬り落とされた。(20210510)
第24章 この争闘の間、都の司祭らが遭遇した苦難、およびこの二人の暴君が彼らを殺害するように命じた次第
三位一体の主日に公方様(義輝)、その母堂(慶寿院)、ならびに弟(鹿苑寺周嵩)が殺されて、市中が火炎と混乱で大騒ぎしている間、司祭たちはさっそくキリシタンたちから警告を受けたので、聖堂に引きこもって連禱を唱え、我らの主に、自分たちおよびキリシタン宗団のために執り成し給うよう祈りを捧げた。
ついで司祭はキリシタンらと語り、「…あらゆる観点から熟考した後、わたしたちがデウスの教えを説くために死ぬならば、それはわたしたちにとって大いなる名誉であり、喜びであり、わたしに関する限り、キリシタンも教会も見捨てないばかりか、死が訪れるたびごとに、祭壇の前に跪きながら喜んで死を迎えるでありましょう」
「それに次いで三好殿の家臣であるキリシタンの侍たちにも頼っており、1万2千名の兵士の中で、現下この市(まち)に住んでいるキリシタン兵士は百名にも足りませんが、その頭たちは教会を守るために死のうと堅く決心しているのです」
彼らはさっそきその翌日、一人のキリシタンを通じてできるだけ密かに教会の用具と司祭館の他のいくつかのこまごました品を堺に送り、そして司祭は折を見てそれらを飯盛城へ送ることに決めた。(三好殿の城を託されている主将たちはキリシタン)
かの高貴な結城左衛門尉殿なる武人は天下における最良のキリシタンの一人で、イエズス会のために極めて貢献するところがあり、また大いなる資産の持ち主であったが、彼はつねにしばしば、自分はデウスから長くは生きぬであろうとお告げを受けているから日頃死ぬ準備をしているのだと語っていた。
ところで彼は、ある他人が彼の財産を相続しようとしたことで、その人によって毒殺されるに至り、彼は異教徒たちの間にいたにもかかわらず告白をし、そして同地方の全キリシタンの柱として、生前同様に卓越したキリシタンとして32歳の若さで逝去した。(20210513)
左衛門尉殿はいとも高貴であり、親族関係も広かったので、やむなく彼のために盛大な葬儀と華やかな葬列の儀をいとも公然と執り行わねばならなかった。
すなわち、葬儀について日本人はそのことをきわめて重視しており、彼らが繊細な点までその決りを遵守する一つなのである。
ガスパル・ヴィレラ師は何一つ恐れを知らず、デウスの栄光への熱意に燃える人であったし、左衛門尉殿のキリシタンの葬儀は、初めて盛大に挙行される公式のものであって、どれだけ重要であるかを心得てもいたので、その葬儀の際、緞子の香マントを着用して朱の漆塗りの輿に乗り、大勢のキリシタンが同行した。
彼らはまるで仏僧たちのように頭髪を剃っており、あるものは短白衣をまとい、彼らのうちの幾人かは、仏僧たちが肩から脇下に懸ける袈裟の変わりに教会の祭壇布を懸けていた。
そしていっそう華麗にするために、先頭に十字架を高く掲げ、蝋燭を持った人たちがそれに従い、鈴が鳴らされ、被いのあるミサ典書、聖水器、潅水気、墓所用の別の小さい十字架、祭壇用の救世主の額絵、その前には蝋燭が燃えている燭台、ご受難の玄義が描かれている多数の絹の旗、そのほか多くのそれらに類した品が持ち運ばれた。
それらは秩序らしく一定の間隔で配置され、街路に大行列が展開され、死者は棺で、墓所に収められたが、その上に高価な絹布がかけられ、燃えているおびただしい数の提灯がその前に置かれた。(20210517)