一 古事記
鬼氏が、重要な文学作品としている日本最古の書物『古事記』は、和銅5年(712年)に太安万侶(不明-723)が編纂し、元明天皇(661-721)に献上された。
上・中・下の3巻からなり、天地開闢 (日本神話)から推古天皇(554-628)までの記事を記述している。
日本文化史に占める地位は極めて大きく、十八世紀以降には神道の聖典として扱われていたし、文化の黎明期における日本人の信仰をうかがい知るにはこれが最良の資料であるとも言っている。
しかし、ここで一人の重要な人物:稗田阿礼(生没年不詳)のことを忘れてはならないのだが、記の序文以外に一行も見当たらないのだ。
それも、「目に度れば、口に誦み、耳に拂るれば心に勒す」と、天武天皇(?-686)に見込まれているにもかかわらず。
ただその序文にあるのは、年齢が28歳であり、「帝皇の日繼及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき」とあるのだが、事業中半で天皇が崩御され、編纂されなかったのだ。(20200709)
「日本の神話と伝説の宝庫として、『古事記』の重要性は計り知れない」と鬼氏は言い、国粋的理想に染まらなかった学者も、歴史的価値はもちろん、芸術的価値に高い評価を与えていると書いている。
しかし、構成に難があるというのはまさにその通りなのだが、稗田阿礼が口実したものを、急ぎ太安万侶が筆録したことによるのかもしれない。
イザナギ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)に、最初に生まれた子はヒルコ(水蛭子)であったが、正しい儀式で行うと次々と生まれオオヤシマ(淡路・四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡・本州)になったのだ。
そしてイザナミの死は、黄泉の国、すなわちオルフェウスの冥府と同じ道をたどるのだが、それらの出来事が『帝紀と旧辞』にあり、阿礼が理解して誦した漢字の音を、太安万侶が倭語の漢字に変えていったのである。
天武天皇が抱いた違和感とはこのことであり、本居宣長のやんと言葉で書かれているという前提も、鬼氏の認めているところでもあるが、常套的な漢語表現があることも指摘している。
だからこそ、『記紀』に壱字の違いも見逃してはならないのだが、国生みではまだ、アイヌの国はできていなかった。(20200716)
『古事記』に登場する最初の英雄は、スサノオノミコトで、イザナギが海の支配を命じるが断り、母が住む地下の国に行きたいと答えるのだ。
追放されたスサノオは、姉のアマテラスに別れを告げに行って、来意を疑われ、子生みの争いとなり、勝ち誇ったスサノオは暴虐『古事記』に登場する最初の英雄は、スサノオノミコトで、イザナギが海の支配を命じるが断り、母が住む地下の国に行きたいと答えるのだ。
追放されたスサノオは、姉のアマテラスに別れを告げに行って、来意を疑われ、子生みの争いとなり、勝ち誇ったスサノオは暴虐無道にふるまうのだ。
高天原から追放されたスサノオは、人間の世界に降りて、出雲の人々を苦しめていた八岐大蛇を退治し、出雲の神になったのであるが、外様にしてはスサノオを主祭神にしている神社はやたらおおいのだ。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を
そしてオオクニノヌシの時代に変わるのだが、八十神たちをことごとく滅ぼし、日本国を創り上げたと思ったら、アマテラスから国譲りを迫られる。
出雲で祀られることを条件に要求を呑むのだが、このスサノオーオオクニヌシには、現代においてもただならぬものを感じてはいても、ニニギノミコトのエピソードにより、神代から人代に入り、ヤマトタケルに近づくことになる。(20200723)
出雲の神の反逆が静まったのち、アマテラスは息子でなく孫のニニギに、天の浮橋から降りて葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるよう命じ、王位の印として三種の神器(勾玉・鏡・剣)を与える。
そこで降りたったのが、高千穂山の頂上なのだが、ニニギはなんと、先住者の美しい乙女を見かけ妻とし、ともに嫁がせようとした器量の良くない姉を断ったため、父親は怒り、ニニギとその子孫は死ななければならないと呪うのだ。
是を以て今に至るまで天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長からざるなり
このニニギの曽孫が神武天皇であり、九州から大和へ支配権を拡大していく様子が語られる。
その神武天皇は、八咫烏や尻尾を持つ人間などに助けられ、強力な土蜘蛛たちを征伐しながら、東征を果たし、137歳まで生きたとされるが、子孫についてはあまり語られず、話はいきなり第10代崇神天皇に及ぶ。
そして、第2の英雄ヤマトタケルが登場するのだが、ヤマトタケルが伝説的なら、その父親の第12代景行天皇も等しく伝説的な人物だとし、三島由紀夫は、思慮分別のある人間的な父と、人間的約束ごとを超越した「神的」なヤマトタケルの対比をいっている。
天皇との約束事を守らない兄を殺したヤマトタケルは、宮廷から遠ざけられ、武勇伝が始まるのだが、実はクマソ退治の折、“ヤマトタケル”の名が初めて与えられたのである。
クマソ・出雲を平定したヤマトタケルは、休む暇も与えられず、東方を平定に遠征を命じられたおり、伊勢神宮に立ち寄って叔母のヤマトヒメに慰められ、草薙の剣と危急の時の袋を授けられた。
東征を続け、行く先々で邪神を平定するのだが、牛ほどの大きさのある白猪(山の神)との遭遇で、嵐に襲われたヤマトタケルは、病を得て死ぬことになり、白鳥伝説が始まるのである。
【追伸】
なぜここで、ヤマトタケルが死なねばならなかったのであろうかと思うとき、この東方のタケシは、景行の兄である、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)のように思えるのだ。
(20200730)
第14代仲哀天皇の治世になると、、『古事記』はずいぶん歴史に近づいてくるが、超自然的な出来事が占める割合は依然として大きい。
つまり、神功皇后の事績なのだが、ヤマトタケルの子が英雄にならず、その皇后が日本を背負うヒロインになったのである。
そして第15代応神天皇に治世には、新羅から渡来人の移住があり、百済からは王仁が遣わされ、日本の文字文化が始まるのだ。
『古事記』も下巻になると、第16代仁徳天皇が儒教的為政者として描かれており、第26代継体天皇を経て、第33代推古天皇で完結する。
ところが、第24代仁賢天皇から推古までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述で具体的な著述が少ないのだが、それじゃなぜ、稗田阿礼と安麻呂は、第23代顕宗天皇で完了しなかったのであろう?
それも、推古天皇と言えば、あの聖徳太子の時代をも一行も加えず駆け足ですぎるとなると、曽我王朝に彩られていたのではないかと勘繰りたくなるのだ。 (20200806)